2015年3月18日水曜日

再生核研究所声明218(2015.3.19)興味、関心、感動;人間とは

再生核研究所声明218(2015.3.19)興味、関心、感動;人間とは
(2015.3.14:13時頃、歩けることの不思議さを感じながら、春先の 昼食後の散歩の折り、自然に湧いた考えである。)
考えの中心が 次の声明にあるので、まず要点を引用する:
再生核研究所声明 76(2012.2.16)  教育における心得 ― 教育原理:
(前略)
まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。
いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。
次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。
あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義や自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。
もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。
個性を生かす、個人の能力を活かす、個人の全人的な成長を図ること; 良き社会人を育成し、文化の継承を図る、これらは教育の基本的な要素、教育原理であると考えられる。
軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。
特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。
この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。(以下略)
人間は 多くは本能原理で、生物面では共通にできているが、純粋に趣味、関心、興味、好みなどに於いては 驚くべき多様性を有し、それは社会の多様性、人間世界の広さと深さの原理である。問題は、喜びを感じる、感動することが、人によって相当に違いがあり、それが価値観の相違となって現れてくると言う事である。1日 本当に自由な日が与えられたとき、どのように過ごしたいかは、人それぞれである。価値判断もそれぞれである。そのような感性、人生観や世界観がどのように構成されるかは、人間とは愛するところのものである ともみなせるから、上記声明76のように極めて興味深く、大事な基本的な問題ではないだろうか。
人間には、共感、共鳴したい本能があるから、共通の感動を覚えたり、共通の価値観を持つ者が群がり、ある社会を構成するだろう。これは人間社会に無数に存在する、社会の細胞のようなものになる。俳句会やお花教室、談話会や教室、塾 等々。
8歳で巨大素数の構造に興味がある、6歳で無限に興味があるなど、どうしてそのような興味を抱いたかは、大いに興味がある。一般に、早く、あるいは長く関与したり、学習していると愛情が深まり、興味が深まり、 どんどん能力が進み、感性も発展して、志や夢、感動の元となるは 世に広く見られる。
このように考えて来ると、個人でも、集団でも、人間と数学は同じようなところがあることに気づく。 数学は、膨大に広がっているが、興味を持たれる部分がどんどん発展して、研究者は専門や分野の中に 人生を掛けていくことになる。個人でも、ある集団でもそうである。応用される分野では 要請される課題の研究になるが、純粋数学の場合には本質的に興味によって方向が定まると言える。そこで、なぜ、興味を抱くか、どうしてそのような数学に興味を抱くか、それは、人間とは 何者かと問うことである。何をするように人間は 作られているのだろうか。生存の問題を超えた、高いレヴェルの段階における問題を提起している。人間存在の原理; 存在、智、愛、すなわち、存在することは、 知ることであり、また、何かを求めることである。 存在することを求めるは 当然理解できるが、 しかし、それらを超えて、人間は何を求めているのだろうか。真、善、美、聖と表現されることを求めるは 古来から、知られてきているが、その背後に、感動することを求めるは、当然であるが ― 人間が好きなことをして、好きなことを求めるは当然であるから – 人間は何に感動するかと問うている。すなわち、人間は、何をするように作られているか。それが、個人の生命、もともとのものと環境によって定められていることは 確かである。
数学にいろいろな公理系が有って、いろいろな数学が有るように 人や民族にはいろいろな文化背景を持っていて、感動するもの、仕方、価値観などでも相当な違いが存在する。それらの間の関係と評価、交流などは基本的な問題があるが、人間には、新規なもの、珍しいもの、に興味と関心をもつ本能があるのは確かであるが、最終的な評価はどのようになるであろうか。
この声明は 論旨が不明瞭であるが、基本的な興味深い、未知の世界に注意を喚起させたものとして、未完の声明としたい.
人間は、何をするように作られているかの問題について、相当に良い解答を得ていることに気づく:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
関係話題について、下記の声明も参照:
再生核研究所声明 112(2013.3.14) 公理系からの脱却、論理的思考、逆思考によって、視野を高め、広めよ ― 平成暗黒時代を このまま終わらせて 良いものか
再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
再生核研究所声明175(2014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像
再生核研究所声明198(2015.1.14)計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
以 上

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