2015年10月1日木曜日

絶対の正義こそ悪なのでは? 正義が二つあるから、争いや戦争がおきるのではないだろうか? 「自分達こそ、絶対に正しい」とか「自分達こそ、正義だ」と、言ってるヤツこそ、 本当は悪になりうる存在ではないのだろうか?

絶対の正義こそ悪なのでは?
正義が二つあるから、争いや戦争がおきるのではないだろうか?
「自分達こそ、絶対に正しい」とか「自分達こそ、正義だ」と、言ってるヤツこそ、
本当は悪になりうる存在ではないのだろうか?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11150903151

それは適切では、いろいろな立場で正義はあり得て、それらが対立するのでは。
正義には立場で、いろいろあると考えたい。 
相手の立場を知るは 基本では。 初めでは?

再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間

公理系、公準とは数学の述語で 数学を展開する最も基礎をなす、仮定系のことである。
数学ではそれらを基礎に論理的に、厳格に数学が展開されると考えられている。すなわち、数学の基礎である。 2千年以前に考えられた、ユークリッドの平行線の公理、すなわち、 任意の直線に対して、直線外の一点を通ってその直線と交わらない直線がただ一つ(平行線)存在する が有名である。約2千年経って、そうではない幾何学(非ユークリッド幾何学)が現れて、平行線が存在しない幾何学と、無数の平行線が存在する2つの型の幾何学が現れて、現在それらの幾何学も日常の研究で どんどん使われている。
公理系が異なる数学では、世界が違っているので、一応は別数学、別世界と考えられる。そこで、違いは論じられても、相互の直接的な関係は、ほとんど考えられていないと言える。別公理系では、議論できない。
人間が交流できたり、議論できるのは共通の前提、基礎が存在するから、それらの基礎の上にできるということである。 確かに人間は 動物として存在する基礎として、動物の本能や、基本的な基礎が広範に共通するものとして存在している。 これらは、確認するまでもない。 それらは もちろん、本能に基づく面は 共通の基礎として、人間社会の公理系のように基礎になるだろう。衣、食、住を整え、良い市民社会に住みたい、まともな生活を送りたいなどは 誰でも願う共通の基礎と言えるだろう。
本声明の意図は、より上位の、いろいろな判断の基礎をなす、前提となる基礎について言及することである。我々は、何を基礎に物事の判断を行うであろうか?
我々は、その様な基礎を、生い立ちにおける教育、文化、習慣、伝統、あるいは影響を受けた、共感、共鳴する思想、などに見出すことができるだろう。 それは、テレビや新聞、環境の影響を強く受けていると考えられる。すなわち、環境の影響である。
我々が交流をどんどん深めていくと、結局、人生観、世界観、宗教観まで行き着き、最後には、それらの点における相違を認める場面に至るは多い。 そこで、相違をしっかりと認識することになる。時として、見解の相違であるとして、議論や討論、交流を打ち切る場合は 世に多い。議論や討論はそのような形相を帯びる事が多い。
ところが、他方、人間界には 好みや感情がもろに出てくる場合も世に多い。8歳で巨大素数の構造が好きだとか、6歳で、無限に興味がある。 冬山が好きで、危険を顧みず、雪の中でテントを張って過ごしてくる。サーフィン、岩登り、冒険など、世にはいろいろな興味に、関心に強い情念を抱くは多い。これらの個性と多様性には議論の余地が無くて、好きだから仕方がないと表現できるかも知れない。
上記で、人間の基礎をなす 知と情の背景を考察した。 いずれも基礎が異なれば、理解や共感、共鳴は 難しいということを述べている。
そこで、本声明の要点は、人間関係でお互いの基礎、数学で言う公理系に当たる部分について 相手と自分の基礎を確認して、さらにそれらの公理系のようなものまでも その是非を慎重に検討して行く必要性に思いを至らしめることである。
我々の前提は、大丈夫だろうか。適切であろうか。我々の基礎は適切であろうか。疑い、他の立場は有り得ないであろうか? 基礎の基礎を省察していきたい。それこそが, 真智への愛と言える。
公理系は、変わる可能性があり、いろいろな世界が有り得る。いろいろな公理系を超えて、我々はより自由になり、広い大きな世界を観ることができる。
これは、民族や国家には固有の基礎があり、違えば、違う基礎が有る。人種、性別でも基礎が相当に違い、宗教によっても、学歴や能力、貧富の差や、地域でも基礎について相当な違いが有る。 それらの違い超えて、しっかり背景を捉えて、行こうということを述べている。
さらに言えば、予断、独断、偏見、思い込み、決めつけ、習慣、慣習、それらも時として、省察が必要である。
この声明の背景には 最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の発見がある。 長い間確立されていた定説の変更、新発見である。

以 上


再生核研究所声明239(2015.6.23)自由な立場の人の意見、発想の尊重を

もちろん人は自分が大事で、個人はまわりの環境に気を使うものである。環境とは所属する組織や職場、交流関係やまわりの地域である。よく在るとは 環境と個人が上手い状態に調和していることであるから、個人の存在は極めて、環境の影響を強く受けるものである。このことは 自由というものが 実はそう簡単ではなく、実際は意見表明や 行動も環境の影響を強く受けているという事実である。多くの場合、その人の背景、環境を、考えれば、意見表明がどうしてそのようなものであるかを、推し量れるだろう。
意見表明と言えば、政策の表明が 社会に大きな影響を与えるという意味で重要である。大事な方針になればなるほど、政治家個人の意見は 党の方針や政策の基本に縛られるのは当然であり、党の方針が定めれば、多くは相当に個人の意見は表明できない立場になってしまう。最高権力者の決定は 殆どは各級機関の決定による形式的な裁可の形をとらざるを 得ない。組織として、社会として当然である。
ここで述べたい主旨は、人は環境の影響を強く受けていて、個人の意見の表明は難しく、多くの意見がどのように環境の影響を受けているか、背景に思いを巡らすことが大事だということである。
このことは、個人の自由な意見表明が難しく、縛られており、多くの真実、あるべき意見、考えが各級の組織に縛られていて、必ずしも適切な在り様が 顕にならず、おかしな世相を形作る危険性があるということである。少数政党政治で政党政治が進めば、意見や考え方は限られ、縛られ、多くの意見が活かされず、多く人々の意思を反映できず、支持政党なし、政治に無関心な層を増大させるのではないだろうか。この辺の在り様が民主主義の難しさの本質的な点ではないだろうか。
上記で、組織の意見は組織の利益を反映させるものであるから、世に在るべき在り様があるとすれば、それを公正に判断できる者は、内容の利害に直接関与しないいわば、自由な立場の意見を重視するのが大事ではないだろうか。世に多くの評価委員や審査委員を、直接決定結果の利害に関与するような立場の者から除くは 相当に当たり前の常識ではないだろうか。しかしながら、社会では、その辺の常識が崩れていることは 実は多いのではないだろうか。特に政治的な社会では顕著ではないだろうか。重要な人事で 人事権を有している者が自己の立場を有利にする立場で行なうは 相当に普遍的である本質的な面もある。学術界でも、芸術界、スポーツ界、いろいろなサークルでも自分たちの仲間の利益を自然に考えてしまうのは、高度化、細分化、孤立化の傾向の結果として自然なものである。そこで、そのような影響を受けない、第3者的な自由な立場の意見などの参照は大事ではないだろうか。公の立場や公正な立場を考えて行なうのは 場合によるが相当に無理な要求ではないだろうか。 そこで, 仲間や自分たちの利害を考えて判断する弊害が出る。声明の題名の主旨は、自由人の意見の尊重で 内容によって、公正な立場を取れる人の意見の尊重、人の活用を考えるということである。
ここで自由人の意味について、素人の意見という視点も大事ではないだろうか。専門馬鹿という表現が有るように 専門家は 狭い専門的な世界に入り込み、孤立化し、視野の狭い、独善的で、おかしな判断になる面もあるので、いわば素人の意見を参考にするのは良いことではないだろうか。素人とは、自由人であるとも言える。 ― いわゆる裁判員制度は、制度の善し悪しは問題としても、基本精神としては そのような大事な発想から出ていると考えられる。
日本のマスコミの信頼がゆらぎ、言論界の人の意見が おかしいのではないだろうか という、疑念の空気は相当に強いと言える。それらは、何か見えない圧力が利いていて、自由な意見では 既にないのではないか、という疑念に満ちた世相の増大ではないだろうか。多くが利益や圧力で動いているのではないかという 疑念を感じさせられる世相ではないだろうか。 マスコミや言論界が多様な意見を紹介して、適切な判断ができるように絶えず、努力するのは当たり前であるが、多様な意見を 自由な立場の意見か、特定の利害に縛られた意見かを良く、見極めて対処するのが大事ではないだろうか。
少し、複雑な内容になったが、この声明の主旨は表現されているのではないだろうか。

以上 

再生核研究所声明 139 (2013.10.22): 
正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める

(2013.10.10.16:35 休んでいるとき、構想を練る。これは声明に関心を擁く人からの 要望による。)

まず、用語を確認して置こう:
正義(せいぎ、希: δικαιοσύνη、羅: jūstitia、英: justice、仏: justice、独: Gerechtigkeit)とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。東洋のそれについては義のページを参照。
定義[編集]
正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義、才能主義、身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9より)
また、

義 
 「己の威儀なり。我+羊の会意」 ・・・ 「羊+我声」 と改めたほうがよい。
 「羊」 を含むのは、祥・善 に羊を含むのと同じく、ヒツジを神に捧げるギセイに常用した習慣に基づく。
 もともと宜 と同じく神への供物が くっきりとかどばって美しく揃っていること。
 <書経、文侯之命> の「父義和」の鄭注に、「義とは匹(そろう)なり」とあるのは、なお原義に近い。
 <礼記、中庸> に「義とは宜なり」とある。また<礼記、祭義> に「義とはこれに宜(よろ)しきなり」ともある。
 転じてすべてかどあるさまを義・儀 という。娥(美しい女) とも同系。※ 『漢字語源辞典』(学燈社) p.592。

また、
ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、

甲骨文字「義」


金文「義」
「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。
 このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。
 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。
http://kanji-roots.blogspot.jp/2010/05/blog-post_26.htmlより
また、
「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。【『一日一書』石川九楊(二玄社、2002年)】

上記のように “正義” は 実に曖昧な言葉であることが分る。 義の語源から、戦闘を大義名分にするときに掲げる言語で、重い意味を有する言語ではないだろうか。そこで、正義の意味をきちんとさせたい。 きちんとした解釈を与えたい。
まず、世の道徳や、法や慣習が確立している範囲ならば、正義は 次の 公正の原則 で定められるのではないだろうか:
再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは:
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。(公正の原則)

1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。

ところが、合戦や戦争では いわゆる約束ごと、ルールを越えて 行われるので、世の一切の法やルール、慣習を越えている。それで、その戦いを正当化する言語、正義は、極めて難しい言語であると言える。ルールは何も無く、ただ戦争の勝利者が正義を定められる と考えるべきである。これは既に 定着している 勝てば官軍 の諺に表現される。合戦には 不意打ち、だまし討ち、陰謀などは常識であり、侵略どころか、虐殺、皆殺しなども世界史には存在する。第二次世界大戦でも 戦闘力のない 敗戦真近かの国に 非戦闘員、民間人の大量虐殺を始めから意図した原爆投下などが 存在するが、戦争だから仕方がないと 世界では受け止められている。 非戦闘員は 巻添えにはしない などの慣習や道義など、一切のルールは 機能していないのが 世界史である。 ― (いわゆる戦時における 慰安婦問題などが 問題にされているが、原爆投下などの 大きな非道に目をつぶって、そのような問題を論じているのは、誠におかしいのでは?(再生核研究所声明 101 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識))。
そこで、勝てば官軍 の現実を受け止め、勝利者が正義を定める としたい。戦争、合戦は 無条件の戦いであり、生きるか死ぬかの 究極の選択と考える。これは生物界に厳然と存在する、食うか食われるかの戦いであり、究極の局面である。(そのような戦争は したくはない。戦争は ゲームのようなものではない、兵士は 権力者の消耗品ではないと言うことである。)。大和朝廷の平定、アレキサンダー大王の遠征、南アメリカへの侵略、北米の支配などなども いろいろ批判されるべき点が有っても、いわば自然法に基づいた 強い者が正義を定める を述べている。
その原理は、今でも同じで、戦いには法は無く、総合的な力が世界を動かしている現実がある。イラク進攻を見れば、歴然であり、法も無く、国連安保理事会も 未だに機能していない。若いアメリカ合衆国は 力の信仰、自由競争による自然法的発想が、もっとも強い国であるように見える。
これで、正義 は 確定し、正確に定義された。
それで、戦争に 正義を掲げるのは、この意味で意味を失うことになる。― もちろん、対立する双方が大義を掲げるのは、当然である。―
世界史は 勝利者によって書かれ、作られて来たと言えるが、その勝利者は、その時代における総合戦による勝利者であって、単に軍事だけで世界が動いたのではないと言える。植民地支配をしたり、侵略して来たのは、勝者として、それだけの力を有していたと、評価できる面が有ることを 認めざるを得ない。自然の生物界の現実が そうであると考えられる。自己防衛は あらゆる生物に与えられた、本能であり、当然の義務、基本的な義務であると考えられる。国防の戦略や災害に対する対策が無い国などは、国家の基本を疎かにしていると批判されるだろう。
再生核研究所は それでは 軍備拡張で富国強兵を考えているのかと言えば、逆である。現在の世界の状況を総合的に理解して、世界史を進化させて、和によって、夜明け前の暗い時代を 終わらせ、明るい時代を築こうと いろいろ世界の平和の問題についても 具体的に 提案を行っている:

再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について
再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に
再生核研究所声明 25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて
再生核研究所声明 53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に
再生核研究所声明 111: 日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな

また、戦いに勝利しても、永い歴史のうちでは、文化力で敗北して、結局は 事実上、逆に支配されてしまったような現象は 世に多いのではないのだろうか。幾ら戦争だからと言っても 何をやっても良いでは、戦争には、戦いには勝てず、人間存在の原理や文化、慣習の尊重などは、官軍になるためには 時代に受け入れられる、それなりの大義名分が必要ではないだろうか、全体的な評価は、世界史が 判断するだろう(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
これからの戦争では 完全な勝利を得るものは無く、共倒れの可能性が高いのではないだろうか。大きな本格的な戦争に至れば、人類絶滅の可能性が高いのではないだろうか(再生核研究所声明 137: 世界の危機と 権力者の選出)。

以 上

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。
正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。
芥川龍之介「侏儒の言葉」より








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