2015年10月19日月曜日

西山さんと椛島さん、藤川さんがへびつかい座に新星を発見

西山さんと椛島さん、藤川さんがへびつかい座に新星を発見

福岡県の西山浩一さんと佐賀県の椛島冨士夫さんの新天体捜索チームが10月11日、へびつかい座に約12等級の新星を発見した。西山さん椛島さんの新天体発見は通算100個目。香川県の藤川繁久さんも同じ天体を発見している。

【2015年10月16日 VSOLJニュース/CBAT/CBET】

著者:前原裕之さん(国立天文台)

先月末にはいて座に、今月上旬にはわし座に相次いで新星が発見されましたが、今度はへびつかい座に新星が発見されました。新星を最初に発見したのは福岡県久留米市の西山浩一さんと佐賀県みやき町の椛島冨士夫さんのチームで、香川県観音寺市の藤川繁久さんもほぼ同時刻にこの新星を独立に発見しました。

西山さんと椛島さんは10月11.4129日(世界時、以下同様、日本時間11日19時ごろ)に焦点距離105mmのレンズとCCDカメラを用いて撮影した画像から11.8等の新天体を発見し、その直後に口径50cmの望遠鏡でもこの天体を確認しました。また、藤川さんは11.415日に撮影した画像からこの天体を発見しました。西山さんと椛島さんの確認観測によると、この天体の位置は以下のとおりです。

赤経 17h34m47.75s
赤緯 -24°09′04.2″ (2000年分点)
へびつかい座の新星
へびつかい座の新星の確認画像(撮影:清田さん)

この天体は西山さん・椛島さんのチームや藤川さんの発見よりもわずかに前の11.394日に、群馬県の小嶋正さんによって撮影された画像にも12等で写っていたことが報告されました。西山さん椛島さんのチームが10月7日に撮影した画像には写っておらず、発見前の数日の間に明るくなってきたと考えられます。発見の報告を受けて千葉県の清田誠一郎さんや宮城県の遊佐徹さんらによって確認観測が行われ、12等ほどの明るさの赤い色をした天体であることがわかりました。

11.99日にウェスリアン大学のチーム、12.421日に岡山県の藤井貢さんによって分光観測が行われ、"P Cyg"プロファイルを持つHαおよび中性酸素の輝線が見られることがわかりました。また、ナトリウムの強い吸収線が見られることや、連続光成分が長波長側ほど強く赤い色をしていることもわかりました。これらの特徴からこの天体は星間物質による赤化を受けた古典新星であることが判明しました。

西山さんと椛島さんのチームによる新星・超新星の発見はこの天体で100個目(天の川銀河内の新星24個、天の川銀河外の新星74個、超新星2個)となりました。http://www.astroarts.co.jp/news/2015/10/16nova_oph/index-j.shtml



再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について

ゼロ除算 100/0=0 は 説明も不要で、記号を含めて 数学的に既に確定していると考える。 もちろん、そこでは100/0 の意味をきちんと捉え、確定させる必要がある。 100/0 は 割り算の自然な拡張として ある意味で定義されたが、 その正確な意味は微妙であり、いろいろな性質を調べることによって その意味を追求して行くことになる:

ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
100/0=0 というのであるから、それは 100= 0 x0 というような意味を有するであろうかと 問うことは可能である。 もちろん、x を普通の掛け算とすると0x0 =0 となり、矛盾である。ところが山根正巳氏によって発見された解釈、物理的な解釈は絶妙に楽しく、深い喜びの情念を与えるのではないだろうか:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

等速で一直線上 異なる方向から、同じ一定の速さvで、同じ質量mの物体が近づいているとする。 その時、2つの物体の運動エネルギーの積は

\begin{equation}
\frac{1}{2}m{ v}^2 \times \frac{1}{2}m{(- v)^2} =E^2.
\end{equation}
で 一定E^2である。
ところが2つの物体が衝突して止まれば、vは ともにゼロになり、衝突の後では見かけ上
\begin{equation}
0 \times 0 =E^2.
\end{equation}
となるのではないだろうか。 その時はE^2 は 熱エネルギーなどに変わって、エネルギー保存の法則は成り立つが、ある意味での掛け算が、ゼロ掛けるゼロになっている現象を表していると考えられる。 ゼロ除算はこのような変化、不連続性を捉える数学になっているのではないだろうか。 意味深長な現象を記述していると考える。
運動エネルギー、物質は数式上から消えて、別のものに変化した。 逆に考えると、形式上ないものが変化して、物とエネルギーが現れる。これはビッグバンの現象を裏付けているように感じられる。 無から有が出てきたのではなくて、何かの大きな変化をビッグバンは示しているのではないだろうか?
以 上

再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について

ゼロで割る、ゼロ除算は 割り算が掛け算の逆と考えれば、不可能である事が簡単に証明されてしまう。しかるにゼロ除算はある自然な考え方でゼロになるということが発見されるや否や、ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であるということと その一意性があっという間に証明されてしまった。ここでは創造性の実態、不思議な面に触れて、創造性の奇妙な観点をしっかり捉えて置きたい。― 背景の解説は 次を参照:

ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
道脇裕・愛羽 父・娘 氏たちの自明であるという解釈は 再生核研究所声明194で纏めたので、ここでは高橋の一意性定理を確認して置きたい。

まず、山形大学の高橋眞映 名誉教授によって与えられた 定理とその完全な証明を述べよう:

定理 Rを実数全体として、 Fを R x R からRへの写像(2変数関数)で、全ての実数 a、b、c、d に対して

F (a, b)F (c, d)= F (ac, bd) 

および b がゼロでない限り、

F (a, b) = a/b

とする。 このとき、 F (a, 0) = 0 が導かれる。

証明 実際、 F (a, 0) = F (a, 0)1 = F (a, 0)(2/2) = F (a, 0)F (2, 2) = F (ax 2, 0 x 2) = F (2a, 0) = F (2, 1)F (a, 0) = 2F (a, 0).。 よって F (a, 0) = 2F (a, 0)、ゆえに F (a, 0)=0。

この定理で、F (a, 0) を a/0 と定義するのは自然であり、実際、 そう定義する。 ここは大事な論点で、チコノフ正則化法や道脇方式で既にa/0が定義されていれば、もちろん、定理ではF (a, 0) =a/0 が導かれたとなる。

定理は 分数の積の性質 (a/b)(c/d) = (ac/bd) を持つもので、分数をゼロ除算に(分母がゼロの場合に)拡張する、如何なる拡張も ゼロに限る a/0=0 ことを示している。― これは、拡張分数の基本的な積の性質(a/b)(c/d) = (ac/bd)だけを仮定(要請)すると、ゼロ除算は ゼロに限る a/0=0ことを示しているので、その意義は 決定的であると考えられる。 この定理は千年以上の歴史を持つゼロ除算に 決定的な解を与えていると考えられる。
チコノフ正則化法や一般逆の方法では、一つの自然な考え方で導かれることを示しているだけで、いろいろな拡張の可能性を排除できない。道脇方式も同様である。 一意性定理とは、そもそも何、何で定まるとは、その、何、何が定める性質の本質を捉えていて、導いた性質の本質、そのものであると言える。高橋眞映教授の定理は 証明も簡潔、定理の意義は絶大であり、このような素晴らしい定理には、かつて会ったことがない。数学史上の異色の基本定理ではないだろうか。
ゼロ除算は、拡張分数が 直接、自明であるが、積の公式が成り立つと、積極的に性質を導いていることにも注目したい。(ゼロ除算は 新しい数学であるから、そのようなことまで、定義に従って検討する必要がある。)
ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで, 世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。 人は、我々の時代で、夜明けを迎えたいとは 志向しないであろうか。
数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって、例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できたと言える。
高橋の一意性定理だけで、数学はゼロ除算100/0=0,0/0=0を確定せしめていると言えると考える。 実はこの大事な定理自身は 論文にもそのまま記述されたにも関わらず、共著者名に高橋の名前が高橋教授の希望で載っていない:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

ところが、 高橋教授がゼロ除算の一意性を証明したと 当時 アヴェイロ大学にポスドクで来ていた、イタリアのM. Dalla Riva博士に伝えたところ、そんな馬鹿な、反例を作ると猛然と挑戦したのであるが次々と失敗を続けていたが、帰る頃、驚いて高橋の結果は正しいと独自に定理を発見、証明した。― そこで、いろいろ経緯があって、共著で論文を書こうと提案していたところ、ゼロ除算そのものの研究の意味がないとして、論文と研究には参加せず、彼の結果は、齋藤のものとして良いとなった。彼らのあるグループ間では ゼロ除算は意味がないということで、意見が一致したというのである。これは数学が正しくても意味が無いという、見解の人たちが存在するという事実を述べている。アヴェイロ大学でもそのような意見であったので、アヴェイロ大学では、ゼロ除算は研究できない状況になっていた。それらの思想、感覚は、アリストテレスの世界観が宗教のように深くしみわたっていて、universe は不連続なはずがないという事である。ゼロ除算における強力な不連続性は受け入れられない、ゼロ除算はまるで、恐ろしい魔物をみるように 議論しても、発表してもならないと 数学教室の責任者たちに念を押された事実を 真実の記録として、書き留めて置きたい。
独立に証明された、Riva氏と高橋教授は、自分たちの定理の重要性を認識していなかったように感じられる。 他方、齋藤は、最初から今もなお その素晴らしさに驚嘆して感銘させられている。
以 上

再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議

ゼロで割る、ゼロ除算は 割り算を掛け算の逆と考えれば、不可能である事が簡単に証明されてしまう。しかるにゼロ除算は 自然な考え方でゼロになるということが発見されるや否や、ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であるということと その一意性があっという間に証明されてしまった。ここでは創造性の実態、不思議な面に触れて、創造性の奇妙な観点をしっかり捉えて置きたい。― 背景の解説は 次を参照:

ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
道脇裕・愛羽 父・娘 氏たちの意見は 割り算を除算の固有の意味から考えて、自明であると結論づけたものであるが、この文脈を追記すると:
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、

100 - 0 = 100,

であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数(商)は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。
さらに、
ところで、 除算を引き算の繰り返しで計算する方法自身は、除算の有効な計算法がなかったので、実際は日本ばかりではなく、中世ヨーロッパでも計算は引き算の繰り返しで計算していたばかりか、現在でも計算機で計算する方法になっている(吉田洋一;零の発見、岩波新書、34-43)。
さらに、道脇裕氏が、2014.12.14日付け文書で、上記除算の意味を複素数の場合にも拡張して ゼロ除算z/0=0を導いているのは、新しい結果であると考えられる。
吉田洋一氏は、上記著書で、ゼロ除算の方法を詳しく書かれているにも関わらず、ゼロ除算はゼロであるとの 結果に至っていない。道脇氏が見破ったセロ除算が出ていない。 吉田氏が書かれているように、中世ヨーロッパ、アジアでも、計算機内の計算法でも広範に、使われている方法の 小さな、小さな発想が出ていない。世界は広く、四則演算を習い、使用している人は それこそ膨大な人口なのに 皆道脇氏の発想が出ていないということは 何を意味するであろうか。 もちろん、数学や物理学の天才たちを回想しても 驚くべきことである。 しかも, 物理学には、ゼロ除算が自然に現れる公式が沢山存在して、ゼロ除算は 物理学の 不明な、曖昧な点であったという事実さえ存在していた。世間でもどうしてゼロで割れないかの疑問は 繰り返し問われてきていた、問われている。
この小さな、小さな発想の1歩が出なかった理由は、除算は乗算の逆であって、ゼロ除算は不可能であるという、数学の定説が ゆり動く事がなかったという、厳然とした事実ではないだろうか? 数学的に不可能性であることが証明されていることは、あたかも 絶対的な真理のように響いてきたのではないだろうか。― しかしながら、人類は非ユークリッド幾何学の出現で、数学的な真実は変わりうることを学んでいるはずである。 実際、平行線が無数に存在したり、全然、存在しない幾何学が現れ、現在それらが活用されている。
道脇愛羽さん(当時6歳)は 四則演算の定義、基本だけを知っていて、自由な発想の持ち主であるがゆえに、得られた感覚とも言えるが、無限が好きだとか、一般角の三等分を考えるなど、相当な数覚の持ち主のように感じられる。道脇裕氏は、自由人で、相当な整数論を独力で展開するなど多彩な才能の持ち主であるが、除算の理解にも深く、複素数でも除算の考えができるなど、全く新しい結果を得ていると考える。数学の定説など ものともしない、世界を観ているのが良く分かる。それらの故にこの偉大な1歩を踏み出すことができたと考えられる。
この1歩は偉大であり、小学校以上の割り算の考えを改め、ゼロ除算を 世界の常識にすべきであると考える。
我々は、この発見の契機から、人間の創造性について沢山の事を学べるのではないだろうか。

以 上


再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。 
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f 割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している、好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

以 上
文献:
Castro, L.P.; Saitoh, S. Fractional functions and their representations. Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).

世界中で、ゼロ除算は 不可能 か 
可能とすれば ∞  だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。

原点を中心とする単位円に関する原点の鏡像は、どこにあるのでしょうか・・・・
∞ では
無限遠点はどこにあるのでしょうか・・・・・

無限遠点は存在するが、無限大という数は存在しない・・・・

ゼロ除算(1/0=0)は、ピタゴラスの定理(a2 + b2 = c2 )を超えた基本的な結果であると考えられる。

地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????

1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????

再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?

(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は  既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/








ガロア ゼロ除算

0 件のコメント:

コメントを投稿