2015年10月15日木曜日

記事 PRESIDENT Online2015年10月13日 11:00姜尚中「悪」はどこから生まれるか - 「こいつは絶対に許せない!」の深層心理を解明 東京大学名誉教授 姜尚中 構成=岡村繁雄 撮影=澁谷高晴

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PRESIDENT Online2015年10月13日 11:00姜尚中「悪」はどこから生まれるか - 「こいつは絶対に許せない!」の深層心理を解明




東京大学名誉教授 姜尚中 構成=岡村繁雄 撮影=澁谷高晴 

悪の問題は人間の自由に帰結する
いま、私たちの周りには「悪」が蔓延している。凶悪な事件や国際テロが新聞やテレビに登場しない日はめずらしい。日本国内では今年、名古屋大学の女子学生による77歳女性の殺人事件があった。理由は「人を殺してみたかった」からという常識とは乖離した感覚だ。海外ではイスラミックステート(IS)に象徴される過激テロの拡散が激化している。いつも、不幸や苦難を舐めるのは一般市民である。殺人だけでなく、東芝不適切会計に見られるように名門企業の歴代のトップが粉飾決算に近い行為を続けてきたことも発覚した。


姜尚中さん。近著に『悪の力』(集英社新書)がある。 

個人的なことでいえば、60歳半ばにして初めて、私は「悪人というものは、実際に存在するのだ」と思い知る経験をした。その過程で私は「許せない」という強烈な感情の虜になってしまい、精神的な痛手を受けたといっていい。このことが近著『悪の力』を書きたいと思った理由である。

世の中がこうなってしまったのは、いつごろからだろうか。戦後を振り返ってみると、1950年代後半から60年代の高度経済成長期に、国民が物不足からようやく解放されている。テレビ、洗濯機、冷蔵庫という“三種の神器”に象徴される、貧しさからの自由を求めて働いたからだ。やがて、車やマイホームも手に入れると、今度は「○○からの自由」ではなく、より主体的な「○○への自由」を求めはじめる。

ところが、これがそう簡単ではない。なぜなら、それは他人から与えられるものではないからである。よく「年収1000万円へ稼ぎ方」といった本や雑誌の特集を目にする。そこではコンサルタントやファイナンシャル・プランナーといった人たちが稼ぎ方を伝授している。しかし、厳密にいえば「○○への自由」とは違う。本当の自由というものは、金銭欲の充足ではなく、生きる意味とか目標を自分で模索し、発見することである。

悪の問題を考えるとき、この人間の自由ということが重要な意味を持つ。例えばいま、社会の規制が繰り返し緩和されたことで、自由に競争できるようになった。確かに、自分に投資して、スキルアップをすれば、億万長者へのサクセスストーリーも夢ではない。自由とは何かを選ぶことでもある。ただし、それには自己責任が伴う。それを嫌がり、選択を避けてしまっては自由を獲得できず、そうした人たちの集まる社会は「何でもOK」の浮ついたものになる。当然、そこには悪の温床が生まれる。

「絶対に許せない」という気持ちの共有
戦後論に話を戻せば、私は1979年に大きな時代の転換点があったと思っている。世界的には、強い個性で経済が低迷するイギリスを導いたマーガレット・サッチャーが首相に就任。ホメイニーを精神的指導者としたイラン革命が起きている。ソビエト連邦のアフガン侵攻もこの年だ。日本は第2次石油ショックが起きたものの、アメリカの社会学者であるエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いたように“黄金の80年代”に突入していく前夜である。だが、理念なき繁栄は、やがてバブル崩壊した。その後の30年は、政治や経済には閉塞感が漂い、人々は何を信じていいかわからず、空虚感を抱くようになってしまった。


実は、悪というものは、こうした空虚なところに宿るのである。自分が何のために生きているのかわからず、他人からも認められない。そうした人間の心に、するりと忍び込んで、その身体を乗っ取ってしまうのだ。そうして、個々人の持つ生命力を奪っていき、さらに増殖を繰り返していくのである。しかも、恐ろしいことに、人を傷つけたい、世界を壊したいといった衝動を育てていく。

話題になった元少年Aの『絶歌 ――神戸連続児童殺人事件』を読んでみた。正直、読むのが辛かった。確かに、彼が好きだった祖母が亡くなったことは大きな痛手だったかもしれない。けれども、それによって思春期に限りない空虚感を抱いたまま、動物を殺してエクスタシーすら覚えるというのは異常としかいいようがない。やがて、連続児童殺人事件に発展していく。そのとき、元少年Aの内面は空っぽだったのだろう。そこには孤立感しか感じられない。

一方で、このような凶悪な犯罪を報道で知り、続報を見聞するたびに、私たちは怒りの感情をもてあますことになる。例えば、あの川崎市中1男子生徒殺害事件の現場には、数多くの花束や被害者少年の好物だった飲み物などが供えられた。家族でも友人でもない人間が、悲劇的な事件の被害者に感情移入しての行動だ。ここでは人々が、非道な加害者に対して「絶対に許すことはできない」という気持ちを他者と共有しようとしている。

元少年Aの孤立感とは対照的な行動と見ることができる。これは人間の持っている二面性にほかならない。普段は「自分だけしか信じられない」という人であっても、誰かとつながろうという現象は社会における“絆”を感じさせてくれる。その意味で、私は犯罪が、人々に社会をというものを再認識させる出来事だと考える。例えば、残忍な事件ほどネットへの書き込みが増え、はてはサイトが炎上してしまう。しかし、こうした荒々しい感情の根底には、どす黒いエネルギーだけでなく、社会につながりたいという共感への回路も潜んでいるのである。

夏目漱石が描いた「世間」とは
ここで、明治の文豪である夏目漱石に触れてみたい。彼はその作品のなかで、細々とした人間の日常における心情や感情、人間関係の駆け引きを描き続けた。それは、私たちが俗に「世間」と呼ぶ存在だと思う。有名な『それから』という小説を読むと、ブルジョワの息子として登場する主人公の放埓ぶりや友人の妻との三角関係などを通して“モラル”というものを考えさせられる。漱石は、それが世間の外にあるのではなく、私たちの日常の生活の細部にあると説く。私は、彼のいうモラルを愛や信頼という言葉に置き換えて考えていいと思う。


それなのに、いつしか世間が薄く、空虚になってしまった。最近の老人の孤独死などは、その結果なのかもしれない。それでも私たちは、この世間で他者とともに生きるしかない。その人間関係のなかで、自由の本質を考え、勝ち取っていかなければならない。自由は互いに認め合うことで成り立つ。自分さえ良ければ他人はどうでもいいという風潮がはびこる世の中だからこそ、周囲の人と共感することが必要だ。

悪が絶えるときがいつなのか、私にもわからない。大事なことは悪に屈しないという強い心を鍛えることでないだろうか。言葉を換えれば、より良く生きようと心がけることである。人間を信じ、モラルを実践するところには、悪が付け入る隙はないはずだ。そうすれば、人間を大切にする社会の回復につながっていくことは間違いない。私は、悪の連鎖が、いつの日か人間的な連鎖に変わっていくことを夢見て日々を過ごしている。http://blogos.com/article/138785/

悪の深層心理、これは興味深いですね。社会の歪や心の葛藤が精神状態を悪くしてしまう。


再生核研究所声明 115(2013.4.26):  
枯れ木も山の賑わい ― 現状と存在に理由あり

(2013.4.19.08:30 8時、宿舎を出る前に 新しい声明の題材が閃く, quatanion analysis を論じて興奮していた翌朝)
(枯れ木も山の賑わい: つまらないものでも、無いよりはましであるということ。また、役に立たない者でも、いないよりはいたほうがましだということのたとえ。)

この声明は一見何にもならない、無駄なようなものでも、意外に存在価値があるなどの所見を表現しょうとするものである。極論をすれば、何でも存在するものは それなりに価値が有るということ、存在する現状は それなりの原因が有って存在するということである。 現状を肯定、 まずは尊重すべきものではないだろうか。
悪も、不正義も、暗闇も それなりの理由が有って、存在しているということである。― ボストン・マラソンにおいて 卑劣なテロ事件が起きて、罪なき人を 無差別に巻き込むなど 理解できないのが 世の常識であろうから、その動機と真相、経過を徹底的に調べるべきである。― ここで、オバマ大統領が ビンラディン氏を裁判もかけずに しかも家族の前で公然と虐殺した事件を想い出し、家族の心情は 如何なるものであったかと 想いを巡らすのは当然である ― 公正の原則(再生核研究所声明1: 良い社会を作るには)(再生核研究所声明 61:ビンラディン氏殺害 ― アメリカの名誉と大義を傷つけた オバマ大統領)。
声明
再生核研究所声明 71:  菅 暗黒政権 を総括する
で、菅元首相の 貢献ある盟友 と 党の公約に対する 明確な背信行為を批判して来たが、それとて、菅氏にとってみれば、苦労の末、とうとう首相になれた 何とか権力を維持したい、また、首相になったら、国の状況はとてもやっていける状況ではなかったなどと、それなりの理由が有るのは当然である。しかし、菅氏と野田氏の上記背信行為が 嫌な感情を国民に与えてしまい、どのように弁明しても もはや信頼回復は 難しいのではないだろうか。 実際には そんなには悪意のあるものでは ないのではないだろうか。 残念である。世の中とはそのようなものではないだろうか。明智光秀にも、吉良上野介にも相手の身になれば、それなりのやもう得ない事情が有ったのではないだろうか。
組織には いわば、組織の落ちこぼれ組に属するような人がいるものである。ところがそのような人が 組織にいろいろ重要な役割をしているのは 世に多い。逆に、一様な組織こそ、偏り、変な方向に気づかずに走っている場合が世に多い。 このようなことは、多様性の重視、広い視点と幅を持たせることの重要性を示していると言えるだろう。
ニートなどと批判する世相、弱い者、貧しい者、悪者を厭う気持ちが世に有ると考えられるが、 逆にそれらの存在が人間社会を偉大な存在にして、いろいろな役割を果たしていることを積極的に発見して行きたい。優秀な人たち、美しい人たちだけでは社会は構成できず、 多様な人が居て、良い社会ができるのではないだろうか。全体的なバランスが 大事ではないだろうか。
いわば、負の部分にも価値を見つけ出し、大きな視野を持って、寛容な社会を志向したい。 白、黒ではなく、敵、味方ではなく、相手にもそれなりの立場があるという、広い見方である。
人生についても言える。 大事な時に、重病を患い、入院生活をやむなくされたが、それが反って、違った視点を与え 幅を持たせ、人生や、専門、仕事の上でも大いに良い影響を与えたことは 良く見られる現象である。ポルトガルでは 同性婚が法律で認められているが、これは出来るだけ、自由を尊重し、多様な在り様、世界を志向しようという意味で、その精神を高く評価したい。 独断と偏見で 単細胞的思考(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)に陥らないように注意したい、

以 上

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上


再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/







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