「死ぬ権利」認める州法、米カリフォルニア州で成立
2015年10月6日 11時39分 CNN.co.jp
(CNN) 米カリフォルニア州のジェリー・ブラウン州知事は5日、回復の見込みのない患者などの「死ぬ権利」を認める法案に署名し、成立させた。
同法では、回復の見込みのない患者などが自分の意思で死を選択できるようになり、死を手助けした医師などが罪に問われずに済むようになる。
これまでブラウン知事は同法案に対する姿勢を明確にしていなかったが、「自分に死が迫ったとしたら何を望むか」を考えたと告白。「もし自分が長期にわたる極度の苦痛の中で死に向かっているとしても、どうするかは分からない」「ただ1つだけ確かなこととして、同法によってその選択肢が保証されれば安心につながる。他人のその権利を否定することはできない」と指摘した。
一方、自殺幇助(ほうじょ)に反対する団体は、医師に致死量の薬剤を処方する権限を認めることは貧困層や十分な医療を受けられない層を傷つける結果になると警告。「機能不全の医療システムにこの『選択肢』を加えると、人々をより安価な死の選択に向かわせる結果となる」と指摘した。
同団体によると、医療関連団体やキリスト教団体、障害者団体などからも反対の声が上がっているという。
米国ではミシガン州のジャック・ケボーキアン医師が患者の死ぬ権利を訴え、自殺幇助を支持する長年の運動を展開。実際に患者数人の安楽死を手助けして、1999年に殺人の罪に問われた。
昨年には脳腫瘍(しゅよう)と診断されたカリフォルニア州の女性が、法律で安楽死を認めているオレゴン州に移り住み、自らの意思で命を絶った。これをきっかけに全米で死ぬ権利を巡る論議が巻き起こっていた。http://news.livedoor.com/article/detail/10674149/
再生核研究所声明 47(2011.02.08): 肯定死
(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)
そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)
再生核研究所声明 63 (2011.05.25) :
解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得
人が世に生まれ、終末を迎えるに当たって、できれば、人生を肯定的にみて、安らかな終末を迎えたいと考えるのは 相当に基本的な願いではないかと考える。そこで、再生核研究所声明においても、 再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道、再生核研究所声明 57:人生とは何か、人生如何に生きるべきか などで、ふれ、人生の意義などについても、再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について などでふれている。 しかるに、
2011.5.14.08:40 宿舎から研究室に向かっているとき、無意識に歩けるとは 何と素晴らしいことだろう、と思い巡らして歩いていたら、 突然、 解脱という言葉が 湧いてきて、 その意味を理解できました。 その意味は 暫く、検証するとして、効果は、死の現象をのりこえて、 永遠の生命に 帰依することが できるだろうと 直観した。
と 直ちに書き留めておいたように、理由もなく解脱の言葉が湧いてきて、その本質を直観したような経験をした。 そこで、 その背景を言葉で表現して、解脱への暗示、ヒントとしたい。 このような見方が、神、自由、不死に至る道、1種の悟り、安らかな終末を迎える心構えになると考える。
人間とは何だろうか、 人生とは そもそも何だろうか。 多くの人は毎日歩いているが、 しかし、 考えて歩いているのは、意識して歩いているのは殆どないと言える。 すなわち、私たちは無意識のうちに歩いているのである。 それと同じように、 恋をして子供を儲けたり、育ててきたりしていますが、 人生の殆どは 本能のような 何かに動かされて生きてきているとも言えます。 我々の意識する世界とは、 我々の大きな生命のいとなみからすると、ほんの僅かな部分に過ぎないことが分かる。 なぜ生まれてきて、 どうなって行くのかも分からないのが、 人間であり、 人生と言えます。 我々を世に送り、その本質部分を動かしているのは、元祖生命体の 生命のいとなみ自身 ではないでしょうか。 その雄大な生命の一部を ほんの少し、担っているのが 人生ではないでしょうか。 雄大な生態系の ほんの一部を になっている のが人生であり、人間ではないでしょうか。
私たちは、その雄大な生命、元祖生命体のほんの一部ですから、我々の仮想的な部分が消えてもその本質である元祖生命体は永続していく 雄大な存在と言えます。 解脱とは、 仮想的な個人、 人間を離れて、超えて、その雄大な生命に帰依することではないでしょうか。我々のうちには、元祖生命体の本質が内在していて、ここの固体を超えた 大きな生命に通じているのではないでしょうか。 ここの固体から、その永遠の生命を直観するには 世の現象を真面目に見つめ、 自分の内なる世界を見つめれば、自然に湧く信仰として、実現するのではないでしょうか。 ここに朽ち果てていく 自分の生体がある、 その魂は 上記 雄大な生命の一部として、永続していくが、 元祖生命体の乗り物である生物個体としては、滅びていかざるを得ない。 また、元祖生命体の いとなみの全貌、目標などは 知ることもできない。 しかしながら、人間、人生が雄大な生命活動のほんの一部の活動であり、我々が知り、感じ、想像する世界は 実は幻のように儚い 小さものであることを知ることは、 神、自由、不死を感得し、悟りへの道になると考える。
個々の人間の生体は、元祖生命体の、 たとえば、人体の中の一細胞のような存在と考えられよう。
多くの芸術家や数学者は、己が生命の活動として、作品や理論を創作しているが、実は、それらは厳然として実在していたものを 生命活動としての情念によって 内なる生命が働きかけて 形に成ったもので、 実は 自分が創造したものでも、努力して作ったものでもないと言えるのではないでしょうか。 それらの背景には 元祖生命体の 生命体の発露 の一部を見ることができる。
もしわれわれが、 大いなる生命を実感したいと思うならば、絶壁に立ったり、死の面前に立って、われ死するべきかと自らに問えば、 内なる生命は、 単なる自己の意識や感情を越えて、否、それを阻止する 大いなる生命の叫び を感得することができるだろう。 また、親族や民族や友人や親しむ動物や植物に、 それと同じような、共感と共鳴を感じるならば、自己を越えた、大いなる大義に目覚めるときでもあると言える(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。 ― このような文章自体、私が書いたものではなくて、実は、上記 元祖生命体の生命の叫びとして、私を通して、表現しているものと言える。
以 上
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