イルカ漁断罪映画 残酷さ強調のため血の赤みをCG処理し脚色
2015.06.06 16:00
「(和歌山県)太地町で捕獲されたイルカの入手をやめよ」という世界動物園水族館協会(WAZA)の要求を日本動物園水族館協会(JAZA)が受け入れた。欧米のイルカ漁反対派は「日本のイルカ漁は野蛮」と主張する。
文化論からすればイルカ漁反対派の意見に耳を貸す必要がないことは明白だが、そもそもイルカ漁について彼らは大きな思い違いをしている。
WAZAは「イルカ漁は残酷」と主張するが、彼らがイメージするイルカ漁はひと昔前のものだ。『白人はイルカを食べてもOKで日本人はNGの本当の理由』(講談社+α新書)の著者でジャーナリストの吉岡逸夫氏が語る。
「反対派の多くは太地町のイルカ漁を断罪し話題となった映画『ザ・コーヴ』の影響を受けている。そこには海がイルカの血で真っ赤に染まる様子が映し出されているが、それは一昔前の漁法。映画が公開された2009年当時、すでに方法が改善されて海が血で染まることはない。残酷さを強調するために昔の漁の映像を使用し、血の赤みをCG処理して脚色しているのです」
現在のイルカ漁は、水族館用の場合、入り江に追い込んだイルカの群れの中から若くて活きのいい個体を選別し、残りは逃している。イルカにストレスがかからないように食用のための漁と時期をずらして行なっている。食用の場合でも、首筋に銛を入れて苦しませずに即死させる手法が採られるようになった。それらは環境保護団体などの求めに応じて改善したものだ。
にもかかわらず、今回WAZAが「太地町のイルカ漁は残酷だから入手をやめよ」と通告してきた裏にいるのが、そうした環境保護団体なのである。
「WAZAは昨年8月の会合で追い込み漁は『イルカの福祉に反しない』という見解を示すなど必ずしも強硬な態度ではなかった。それが環境保護団体にJAZA除名を求める訴訟を起こされるなどの圧力を受けて今回のような措置を取ったようです」(JAZA関係者)
それらの団体は、イルカの苦しみを取り除くのが目的ではなく、何が何でも日本を叩くことを目的化している。これまでJAZAは「追い込み漁のどこが残酷か」とWAZAに対して再三回答を求めてきたが、根拠が示されたことはない。
それでもWAZAは日本のイルカ漁を「残酷」だと非難するのか。改めて見解を問うため取材を申し込んだが、「追い込み漁は残酷でWAZAの倫理規範に反している。段階的に廃止するまで対話を続ける」と回答するのみだった。なぜ残酷なのかという問いにはやはり答えなかった。
※週刊ポスト2015年6月12日号http://www.news-postseven.com/archives/20150606_326123.html
→虚像が多いので気を付ける必要が・・・
再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ
まずは 言葉を確認して置こう:
ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して物語を紡いでいく、芸術表現の一形態。日常会話で「ドラマ」といった場合、テレビドラマを指す場合が多い。
作品としてのドラマの特徴は、物語の一切が登場人物の行動によって描かれる点と、登場人物が何らかの目的を持っている点に特徴がある。その目的への障害に直面することで、登場人物は葛藤する。障害への直面は、往々にして、登場人物同士の精神的・物理的衝突の形で提示される。登場人物が行動を積み重ねていった末に、障害を最終的に乗り越えるか、乗り越えられないかが、物語の大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。
映画が生み出されて以降は、上記の定義のようなドラマを主に描く映像作品を、ドラマとジャンルづける場合もある。
かつてドラマは演劇や戯曲の代名詞でもあった。しかし近代以降、葛藤や、行動の因果関係のない非ドラマの演劇作品・戯曲も数多く生み出されており、演劇や戯曲をドラマと呼ぶのは現代においては不正確と言える。
現実世界においても、現実の人物が上記のような状況に陥っていること指して、ドラマ、もしくはドラマティックと呼ぶ場合もある。(ウィキペディア)
上記 説明で 芸術表現の一形態、演劇や戯曲の代名詞 という部分は 言語の確認として大いに参考になるのではないだろうか。 これらの言葉の背景には、創作者や演出家、関係者の多くの生命の表現としての要素が本質的に存在するということである。 絵画や作曲者が絵画を描き、曲を創作するように ドラマを制作するということである。 なるほどそうならば、今NHK大河ドラマや朝ドラなど みなそれぞれに素晴らしく輝いていて 実に素晴らしいと賞賛でき、感銘できる。 芸術作品となれば、それは本質的に自由であり、生命の活動として 生命の表現として みなされる。
テレビドラマを指す場合が多い には、美術館で美術を楽しむ、映画館で映画を楽しむ、会場で音楽を楽しむというような相当に自由な表現の芸術作品と少し違った要素を有するのではないだろうか。 具体的には、
1) 広範に公開される。
2) 多くの場合、何かの素材に基づいた場合が多い。
3) 繰り返し、日常 連続的、定期的に続けられる。
などである。 ドラマについて何か書きたいと考えた動機は、ドラマを見ることが、人生でどのような意味を持つか、また、そのような観点から、ドラマは どのようにあるべきか と 問うことであった。
我々はなぜ、ドラマを見るのだろうか。 楽しいから、面白いから、感銘するから、 展開が楽しみだから、新規な世界が、珍しい、世界が覗けるから、知識や新しい情報が入って有益だから、共感、共鳴するから、など、などであろうか。― ドラマを通して 人生、世界を考察して、哲学したいからなどの 高級な視点も大事ではないだろうか。連続ドラマなど楽しく、次の展開が楽しみで、生活の張りになっているは 世に多いのではないだろうか。次が楽しみで、生活の張りになっているは好ましく、 それはそれで良いと評価できるが、それが現代のように沢山のドラマが賑わっていると、生活が逆に乱され、楽しいドラマ見て暮らして、人生それで良いかという気持ちが湧いてくる時がある。 素晴らしい映画や、ドラマの後で、虚しさを覚えることもある。― それは何を意味するだろうか、それは現実の生活、社会から離れて、言わば作られた虚像の世界にいることの虚しさを表しているのではないだろうか。― それに対して、何か 為になったという印象の残るドラマ は良いと言えるのではないだろうか。
ドラマの製作者が 露骨に視聴者の関心、人気を集めようとして、意図的に場面を整えれば、我々の心を意図的に弄んでいると感じ、気づけば 空しい、トリックの世界で、心を意図的に弄ばれていると感じるであろう。
視聴者は人生の意味を、自分の世界、心をしっかり捉えて、ドラマに弄ばれないように、のまれないように心がける必要があるのではないだろうか。
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。次も参照:
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題。
以 上
聖書には、次のように書かれています。
「すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。」(レビ記10章9節)
(補足に対する回答)
上記の「レビ記10章」のところを、もう少し書きます。
「水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、水の中にいるものでひれとうろこのあるものは、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたが忌むべきものである。これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。」
(レビ記10章9~11節)
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