2015年6月2日火曜日

愛の重みで名所の橋も悲鳴、南京錠撤去へ パリ

愛の重みで名所の橋も悲鳴、南京錠撤去へ パリ
2015.06.01 Mon posted at 12:35 JST

パリ名物の「愛の南京錠」が撤去へ
(CNN) パリ市は1日、セーヌ川にかかるポンデザール橋に観光客が取り付けていった大量の南京錠を撤去する作業に着手する。同橋がかかるのはユネスコの世界遺産に指定された一画。錠の重みで橋が破損する恐れに加え、市民と観光客の安全にも配慮し、撤去の判断に踏み切った格好だ。
愛の証しとして橋に南京錠を取り付ける行為は、2006年のイタリアのベストセラー小説をきっかけとしてローマで始まり、08年ごろパリに波及した。中にはセーヌ川に鍵を投げ込んで愛を誓うカップルもいる。
しかし欄干の一部が南京錠の重みで崩れるなど、12年ごろから問題が浮上した。現時点で取り付けられた錠の数は70万個以上。重さはゾウ20頭分に相当すると推定される。
南京錠の取り付けはほかの橋にも及び、落書きやスリ、安い南京錠を売る業者なども横行した。ナポレオン時代の1800年代に建設された美しい遊歩道は、いつしか地元住民が避ける場所になっていた。
南京錠の取り付けに反対してきた団体は、「史跡を守るための対策が必要だった。世界遺産に指定された全区域が、愛の南京錠のため危機に瀕している」と訴える。
市は昨年8月に、南京錠を付けるのではなく橋の上で自撮り写真を撮るよう呼びかけるキャンペーンを実施したが不発に終わった。今年2月にはバレンタインデーに合わせて南京錠を木の板で覆う対策も実施していた。
ポンデザール橋の周辺にフランス語と英語で張り出された掲示によると、南京錠を撤去する作業のため、同橋は6月1日から8日まで通行止めになる。さらにこの秋にかけて、橋を保護するためのガラスの覆いを取り付ける作業が予定されている。
もっとも南京錠の被害はポンデザール橋にとどまらない。少なくとも11の橋やエッフェル塔などの観光名所に取り付けられた南京錠は100万個を超えているといい、「観光業界がこの行為を愛の証しとして宣伝している限り、闘いは続く」と保護団体は宣言する。
同団体はパリ市に対し、ローマにならって南京錠の全面禁止に踏み切るよう求めている。http://www.cnn.co.jp/travel/35065260.html?tag=top;topStories
再生核研究所声明146(2013.12.17) 愛の本質、愛の原理 
(On this morning (2013.12.12, at 4:20), I waked up with the mathematical idea:
Reproducing kernels are positive definite Hermitian matrices when the dimensions are of finite cases. So, for the Berezin transform, we can apply the idea, then we will be able to obtain definite results, I think.
Please look our recent new paper for matrices and reproducing kernels.
Meanwhile, at 6:20, I got a new idea on the Principle of Love; I will be able to write a new Announcement on human beings.)
上記のように突然、考えが湧いたので、 その考えを 成文化したい。
まず、愛とは何か、の定義を与えたい。 -  愛とは、共生感に基づく、喜びの感情である としたい。本質を捉えるのには、愛が現れている典型的なところから、捉えれば良い。 すなわち、命を交換する, 再生の原理、親子の愛と男女の愛から、愛の本質、原理を捉えよう。共に自らの命を存続させるべき、大いなる命への帰依への原理 が働いていることを知るであろう。これは 命を共有することを述べていて、愛の定義の妥当性を述べていると考えられる。当然 大いなる命の存続性から、喜びが湧かなければ、生命の基本定理が成り立たず、生物が存続できないことになってしまうだろう。
述べたい、愛の原理を導くには、他から見れば、変な親子、恋人、夫婦でも 愛は存在して、多くは永く、愛の感情が続いていくという,事実である。これは何を意味するであろうか。共生感が共に生きている、精神的な世界全体の共感を伴う、共通世界の共有感が、存在している事実を表わしている。初期はいずれも生物の命の共有感、再生の原理が強く働くが、それが長く続くのは、親子も、夫婦も共に生きてきた共通の世界を共有していて、その間には 運命共同体の様な連帯の絆で結ばれていることを意味する。
こうなると、親子や、男女の間に関わらず、民族や国家も同じ精神、文化を共有しているとして、共生感、連帯感に根差す、愛、愛国心がおのずから湧くのは当然である。 級友や同窓会、同郷の間で、共有する想い出に根差した愛が感じられるのは、当然である。志を共にした間、さまざまな仲間の間に愛を感じるのも 当然である。同じ、想い出、文化それらは、精神的な命そのものであり、それらを共有し、大いなる命に帰依したいと本能的に求めるからである。
― しかしながら、ここで生きることとは、個として生きることに非ず、大きな生命、元祖生命体 (再生核研究所声明36) としての 大きな命の存続 を志向している のも明らかである。それ故に、人は、共感、共鳴、交流を求めている。それは、精神を引き継いで行きたいという この大きな命に帰依したいという、本能に基づいているからである。(再生核研究所声明145)
軍隊における部隊が、寝食を共にして生活していれば、一体の生命観を共有して、自己の命も部隊の命も同じような感情を有して、一糸乱れない行動をとるようになるだろう。現に 世における戦場では 部隊が同じ運命を共にしているのは明らかである。なぜならば、部隊を離れた、自己の存在は 意味がないように感じられるからである。
人は、国の為に命が掛けられるか と問う。 祖国亡くして生きる意味があるのかと問えば、是非に及ばず、国と運命を共にせざるを得ないだろう。それは、愛の本質からの、自然な帰結となるだろう。
親子や夫婦に愛が有るのは、共有する大きな命、経験、想い出を共有しているからである。 逆に見れば、何でも質が大事であるが、深い付き合いが 愛を深める事になるだろう。これが 愛の本質であると考える。
以 上
参考資料 愛 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B より):
概説[編集]
「愛」の意味は、時代とともに多様化してきている。
最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、その後、現代の多様な用法まで、歴史に沿って解説する。
辞典等の主要語義の解説[編集]
広辞苑では、次のような語義をあげている。
親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり[1]。
男女間の愛情。恋愛[1]。
大切にすること。かわいがること。めでること[1]。
〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー[1]。
〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる[1]。
日本語の「愛」の意味の変遷[編集]
日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい[2]、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま[2]、を意味した[3]。
近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「Love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多用な用法が作られてきた。
伝統的な説明、宗教的な説明[編集]
古代ギリシア・キリスト教での愛[編集]
キリスト教において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりもアガペーである。 そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情(すでに古代ギリシア時代から考えられていた4種類の"愛"、いずれもギリシア語表現。)について説明している[4]ことが多い。それらは以下のとおり。
「ストルゲー(英語版)」 στοργή storgē
キリスト教では家族愛。古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛。
「エロス」 έρως érōs
キリスト教では性愛。古代ギリシアでは自己を充実させる愛。
「フィーリア」 φιλία philía
キリスト教では隣人愛。古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。
「アガペー」 αγάπη agápē
キリスト教では真の愛。古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛。
新約聖書においては「神は愛です」(ヨハネの手紙一 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特にイエス・キリストを通して愛が示されている。「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない[5]。
イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。
パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charis(ロマ 1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。
西欧の伝統、キリスト教の信仰においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。
「知」への愛
哲学を意味する古代ギリシア語の「φιλοσοφία(フィロソフィア)」は上記「フィーリア」に対応する動詞「φιλειν(フィレイン)」(愛する)と「知」を意味する「σοφία(ソフィア)」とが合わさった語であり、直訳すると、知を愛する、「愛知」、となる。
ユダヤ教「ヘブライ語聖書」における愛[編集]
ヘブライ語聖書においては愛に相当する語として、ヘブライ語の「אהב」(エハヴ)(エハヴァ)(エハヴァー)が使われているが、日常でも用いられる。なお、ヘブライ語をカタカナで表すのは難しく、「א(声門破裂音アレフ)・ה(無声声門摩擦音へー)・ב(軟口蓋接近音ヴェート)」の発音が組み合わさると、「ה」と「ב」は「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。また、主の名と、アダムの妻の名と、愛、これら三つの言葉は、発音がよく似ている。
また、キリスト教の英語旧約聖書で「lovingkindness」「kindness」「kindly」「mercy」「in goodness」と訳される「慈悲」の意味の「חסד」(ヘセド)[6]は、他に「favor」「Loyalty」「disgrace[7]」などと訳されて「えこひいき」「忠誠心」「恥」の意味にも使われているが、「Loyalty(恥)」と訳された「חסד」(ヘセド)をヘブライ語聖書レビ記20章17節に見ると「慰み」の意味合いも含まれていることがわかる。神の愛はしばしば歴史記述を通して具体的に語られる。概要としては、愛を受けるに相応しくない者に、神の自由な一方的な選択によって愛が与えられ、その者が、たとい神から離れようとも、神は見捨てない、という内容である[5]。
「מאהבת」は[8]、主の「愛」の意味。この綴りは、主が「愛した」という意味の「אהב」を[9]核とする。
キリスト教では、新共同訳聖書申命記7章8節「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。 」と翻訳されている。
「מאהבת」はまた[10]、女の「愛」も意味する。
キリスト教では、新共同訳聖書サムエル記)下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。
「אהבתך」は[11]、親友の「愛」を意味する。
キリスト教では、新共同訳聖書サムエル記下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。
「אהבת」は[12]、息子に対するアブラハムの「愛」。
キリスト教では、新共同訳聖書創世記22章2節「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 」と翻訳されている。
「ואהבת」は[13]、主を「愛すべし」の意味。
キリスト教では、新共同訳聖書申命記6章5節「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 」と翻訳されている。
「ואהבת」はまた[14]、隣人を主である私のように「愛すべし」という意味の聖句にも使われている。なお、主は、キリスト教申命記10章9節にも記されているとおり、レビ族の[15]嗣業を意味する。
キリスト教では、新共同訳聖書レビ記19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 」と翻訳されている。
「לאהבי」は[16][17]、主から慈悲を与えられる「愛人」の意味。主の「לאהבי」(愛人)であることに対する見返りが、主の「חסד」(慈悲)である。
キリスト教では、新共同訳聖書出エジプト記20章6節並びに申命記5章10節「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 」と翻訳されている。
仏教での愛と慈悲[編集]
仏教における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。
「愛」に相当する、概念には サンスクリット語ではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種がある。
tRSNaa
人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。
広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。
また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
kaama
kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。
仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。
密教が空海によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に立川流が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。
性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
慈悲
preman, sneha
preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。
仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。仏や菩薩が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitrī」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaruṇāには「悲」の字を用い、それらをあわせて「慈悲」という表現で呼んだ。
特に大乗仏教では、慈悲が智慧と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『スッタニパータ』にも慈悲の章がある。
あたかも母が己の独り子をば身命を賭けて護るように、一切の生きとしいけるものに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『スッタニパータ』[18][19])
一切衆生に対する純化された想い(心)を慈悲という。それは仏だけでなく、普通の人々の心の中にもあるものだと大乗仏教では説く。
観音菩薩(や聖母マリア)は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。


再生核研究所声明206(2015.2.12) 女性の生態、主婦の生態

人間の個性はいろいろであり、主婦の立場もいろいろであるが、女性や主婦の根源的な有り様を纏めてみたい。 次に、男性の生態、亭主の生態と対で考察したい。
女性とは、何であろうか、主婦とは何だろうか。 それには、女性の関心の所在を見極めれば良い。 女性は、頼りを求め、育児と食の関心が強い存在である。頼りを求めるは、愛の問題や恋の問題が深いと言える。家庭を持つ以前の難題については次を参照:
再生核研究所声明 36: 恋の原理と心得 
再生核研究所声明 124 (2013.8.20): 恋の機微 - 恋の極意
育児と食の関心は 次の段階であるが、当然、若くから、準備されていることは当然である。 本質的に、育児と食が満足できれば、女性は本質的に幸せであり、芸術その他の多くの趣味は、そんなに基本的な問題ではないように見える。亭主の立身出世も本質的では無く、経済的な条件の改善くらいの軽い意味しか、大抵の場合にはないのではないだろうか。もちろん、虚栄心で、亭主を頑張るように励まし、亭主を追い立てる場合も 希に世に見られるが、一般的ではないように見られる。他方、子供については、子供の将来を思い、子供を励ましている状況は 世に多く見られる。 これらを総括すると、 猿などの家族で、育児に勤しむメスザルと 主婦の生態は殆ど同じようなもので、慎ましく愛すべきもの、自然状態に近い存在であるように見える。多くの母親は、家庭の健全な状態を願い、健康や食に気遣い、生物の基本的な集団である家族を大事に考えているという意味で、主婦とは完全であり、男性にとっても家族にとっても素晴らしい存在であると言える。
主婦の立場では、生も死も大した問題では無く、宗教も多くは深い意味を持たず、学問、芸術、政治なども多くは大きな関心ではなく、大きな存在ではないだろう ― これらにおいて、男性勝りに 能力が高く、関心の強い方は 世に多いが、一般的とは言えないだろう。
結論的に言えば、女性は男性に比べて、より原始的な安定した、自然と神に近い存在といえよう。美しい女性を育てるには、愛情に恵まれ、経済的な基礎に基づく、豊かな生活が必要である。男性には、夢を与える志があるのが望まれる。 世の男性の奮起を促したい。
以 上


再生核研究所声明207(2015.2.13) 男性の生態、亭主の生態
人間の個性はいろいろであり、亭主の立場もいろいろであるが、男性や亭主の根源的な有り様を纏めてみたい。これは再生核研究所声明206(2015.2.12) 女性の生態、主婦の生態と対で考察したい。
男性とは、何であろうか、亭主とは何だろうか。 それには、男性の関心の所在を見極めれば良い。男性は、家族の責任者であるから、外との関係で収入を得て、家族を養い、 安定した生活に何時も気を遣うのは当然で、それらの本能は立身出世を基本的に志向し、それらは多く、求道や真理の追究、多くの好奇心として現れ、男性の多様性は女性の多様性には比べられないほどである。高名な研究者が深夜ジグソーパズルに耽っていたかと想えば、探検家や登山家、岩登りなどに挑戦している姿などは、女性には中々理解できない面である。また、純粋数学者が動機も無くただ、真実の追求に人生にかけているなど、男性の趣味、志は豊かで、多様、深く、人間存在としても極めて興味深い。― これらを男性の特徴かと思うと、男性勝りの女性が世に多いことも注目して置きたい。家庭を持つ以前の男性にとっても 女性の関する難題については 次を参照:
再生核研究所声明 36: 恋の原理と心得 
再生核研究所声明 124 (2013.8.20): 恋の機微 - 恋の極意
男性の関心の原点が外にあるということは、家庭内で、安定に生活し、子供が健やかに成長していれば、概ね、内は諒と考えて、男性は志の方に大きな関心が行き、それは、多くの場合、家庭を顧みない、妻を顧みない亭主として 世の亭主の批判は定着化しているのではないだろうか? それはソクラテスの悪妻として2000年以前から変わらない、 主婦と亭主の根源的な関係である。― 逆に 男性が家庭に埋没していれば、女性は、物足りないと 実感するだろう。その意味で、男性は外に志を抱く、必要があり、家庭では孤独な存在になるだろう。結論的に言えば、男性は女性に比べて、より発展したそれゆえに、弱く、不安定安な存在で、進化したという意味では 女性より 神に近い存在といえよう。素敵な男性を育てるには、家庭をきちんと纏めて、育児をなし、よい食を整え、生活を整えれば、自ずから、成長するのではないだろうか。良き伴侶を見つけることの重要性は 女性の一大事であることは、古来変わらない原理ではないだろうか。これは自明のことであるが、世の女性の注意、奮起を促したい。男性にも 家庭を持たないで、悟り、人生を肯定することは 極めて難しい原理があることに 注意を喚起して置きたい。もちろん、良き伴侶を見つけることの重要性は 男性の一大事であることも、古来変わらない原理である。
以 上

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