一部成功的教科书
《几何原本》:
一部成功的教科书
□ 程佳羽
《几何原本》的翻译揭启了中西文化交流的开篇大幕,此后,一批与西方几何学相关的数学译著陆续问世。这些西方著作给中国古代数学输入了新鲜血液,引发了中国学者对几何学的探索
《几何原本》又称《原本》,是古希腊数学家欧几里得所著的一部数学著作。它是欧洲数学的基础,总结了平面几何五大公理,被广泛认为是历史上最成功的教科书。这本著作是欧几里得几何的基础。中国最早的译本是1607年意大利传教士利玛窦(Matteo Ricci,1552-1610)和徐光启根据德国人克拉维乌斯校订增补的拉丁文本《欧几里得原本》(15卷)合译的,定名为《几何原本》,几何的中文名称就是由此而得来的。该译本第一次把欧几里得几何学及其严密的逻辑体系和推理方法引入中国,同时确定了许多我们如今耳熟能详的几何学名词,如点、直线、平面、相似、外似等。
徐光启(1562-1633),字子先,号玄扈,天主教圣名保禄,汉族,上海县法华汇(今上海市)人,明代著名科学家、政治家。官至崇祯朝礼部尚书兼文渊阁大学士、内阁次辅。毕生致力于数学、天文、历法、水利等方面的研究,勤奋著述,尤精晓农学,除《几何原本》外,还译有《泰西水法》《农政全书》等书,为17世纪中西文化交流作出了重要贡献。
明神宗万历十年(1582),意大利传教士利玛窦到中国传教,“负西国异书”,即带来了十五卷的《几何原本》。利氏“以数载习语认字,数载通经学文”,终而“融会两境义理,有所阐译”。万历二十八年(1600),利玛窦进京贡献,得以“侨邸燕台”;四年后,徐光启赴京会试,考选为翰林院庶吉士。两人相识后渐有来往,徐光启常去利玛窦寓所谈论“天主大道”,利玛窦以徐光启“既自精心,长于文笔,与旅人辈交游颇久”,“私计得与对译,成书不难”,故而认定徐光启为翻译《几何原本》的合适人选。之后,利玛窦口传,徐光启笔授,二人“反复辗转,求合本书之意,以中夏之文重复订正,凡三易稿。迄万历三十五年(1607)春,前六卷译毕刊刻”并改名为《几何原本》。后九卷则是到了1857年由中国清代数学家李善兰(1811-1882)和英国人伟烈亚力译完的。
万历三十五年(1607)《几何原本》在北京初次刻印,此本即所谓“初刻本”,后经利玛窦手订,徐光启及庞迪我(Diego de Pan-toja,1571-1618)、熊三拔(Sabatino de Ursis,1575-1620)等校阅重修,遂成万历三十九年(1611)之“再校本”。崇祯初年,李之藻(1565-1630)又将其辑入《天学初函》,作为“器编”十种之一,是为“初函本”。明刊本总体上基本承用“初刻本”,虽版本众多,但各版本的具体内容特别是正文则鲜有差异。入清后,《几何原本》作为西方数学典籍被收入《钦定四库全书》。道光年间,有广东潘仕成《海山仙馆丛书》刊本。后金陵书局于同治四年(1865),将明译前六卷与伟烈亚力、李善兰合作续译的后九卷合并印行,遂成全帙,世称“局本”“金陵本”。此后出版的《几何原本》基本以此作为底本进行刻印或石印,其中刘铎以明刊本互校,并将勘校列示于各卷之后的“《古今算学丛书》本”较为精良。
随着《几何原本》译本问世,出现了一批研习之作。如徐光启所做的《勾股义》(1609),徐光启门生孙元化的《几何用法》(1608),其后李笃培《中西数学图说》(1631)、陈荩谟《度算解》(1640)等。入清后又继有方中通《数度衍》(1661)、李子金《几何易简集》(1679)、杜知耕《数学钥》(1681)、《几何论约》(1700)、王锡阐《圜解》、梅文鼎《几何通解》、《几何补编》(1692)、庄亨阳《几何原本举要》等。
同时,《几何原本》的翻译也揭启了中西文化交流的开篇大幕,此后,一批与西方几何学相关的数学译著陆续问世,如《圜容较义》《测量法义》《测量全义》《大测》《比例规解》等。这些西方著作给中国古代数学输入了新鲜血液,引发了中国学者对几何学的探索。
在教育方面,1862年成立的北京同文馆设有《几何原本》课程,李善兰任总教习。地方学堂也以《几何原本》为教材,1898年京师大学堂、1902到1903年兴建的一批中学堂以及1905年废除科举后兴办的新式学校中,中学课程均采用了《几何原本》作为蓝本的新教材。
http://finance.sina.com.cn/roll/2018-05-20/doc-ihaturft0052259.shtml
《几何原本》:
一部成功的教科书
□ 程佳羽
《几何原本》的翻译揭启了中西文化交流的开篇大幕,此后,一批与西方几何学相关的数学译著陆续问世。这些西方著作给中国古代数学输入了新鲜血液,引发了中国学者对几何学的探索
《几何原本》又称《原本》,是古希腊数学家欧几里得所著的一部数学著作。它是欧洲数学的基础,总结了平面几何五大公理,被广泛认为是历史上最成功的教科书。这本著作是欧几里得几何的基础。中国最早的译本是1607年意大利传教士利玛窦(Matteo Ricci,1552-1610)和徐光启根据德国人克拉维乌斯校订增补的拉丁文本《欧几里得原本》(15卷)合译的,定名为《几何原本》,几何的中文名称就是由此而得来的。该译本第一次把欧几里得几何学及其严密的逻辑体系和推理方法引入中国,同时确定了许多我们如今耳熟能详的几何学名词,如点、直线、平面、相似、外似等。
徐光启(1562-1633),字子先,号玄扈,天主教圣名保禄,汉族,上海县法华汇(今上海市)人,明代著名科学家、政治家。官至崇祯朝礼部尚书兼文渊阁大学士、内阁次辅。毕生致力于数学、天文、历法、水利等方面的研究,勤奋著述,尤精晓农学,除《几何原本》外,还译有《泰西水法》《农政全书》等书,为17世纪中西文化交流作出了重要贡献。
明神宗万历十年(1582),意大利传教士利玛窦到中国传教,“负西国异书”,即带来了十五卷的《几何原本》。利氏“以数载习语认字,数载通经学文”,终而“融会两境义理,有所阐译”。万历二十八年(1600),利玛窦进京贡献,得以“侨邸燕台”;四年后,徐光启赴京会试,考选为翰林院庶吉士。两人相识后渐有来往,徐光启常去利玛窦寓所谈论“天主大道”,利玛窦以徐光启“既自精心,长于文笔,与旅人辈交游颇久”,“私计得与对译,成书不难”,故而认定徐光启为翻译《几何原本》的合适人选。之后,利玛窦口传,徐光启笔授,二人“反复辗转,求合本书之意,以中夏之文重复订正,凡三易稿。迄万历三十五年(1607)春,前六卷译毕刊刻”并改名为《几何原本》。后九卷则是到了1857年由中国清代数学家李善兰(1811-1882)和英国人伟烈亚力译完的。
万历三十五年(1607)《几何原本》在北京初次刻印,此本即所谓“初刻本”,后经利玛窦手订,徐光启及庞迪我(Diego de Pan-toja,1571-1618)、熊三拔(Sabatino de Ursis,1575-1620)等校阅重修,遂成万历三十九年(1611)之“再校本”。崇祯初年,李之藻(1565-1630)又将其辑入《天学初函》,作为“器编”十种之一,是为“初函本”。明刊本总体上基本承用“初刻本”,虽版本众多,但各版本的具体内容特别是正文则鲜有差异。入清后,《几何原本》作为西方数学典籍被收入《钦定四库全书》。道光年间,有广东潘仕成《海山仙馆丛书》刊本。后金陵书局于同治四年(1865),将明译前六卷与伟烈亚力、李善兰合作续译的后九卷合并印行,遂成全帙,世称“局本”“金陵本”。此后出版的《几何原本》基本以此作为底本进行刻印或石印,其中刘铎以明刊本互校,并将勘校列示于各卷之后的“《古今算学丛书》本”较为精良。
随着《几何原本》译本问世,出现了一批研习之作。如徐光启所做的《勾股义》(1609),徐光启门生孙元化的《几何用法》(1608),其后李笃培《中西数学图说》(1631)、陈荩谟《度算解》(1640)等。入清后又继有方中通《数度衍》(1661)、李子金《几何易简集》(1679)、杜知耕《数学钥》(1681)、《几何论约》(1700)、王锡阐《圜解》、梅文鼎《几何通解》、《几何补编》(1692)、庄亨阳《几何原本举要》等。
同时,《几何原本》的翻译也揭启了中西文化交流的开篇大幕,此后,一批与西方几何学相关的数学译著陆续问世,如《圜容较义》《测量法义》《测量全义》《大测》《比例规解》等。这些西方著作给中国古代数学输入了新鲜血液,引发了中国学者对几何学的探索。
在教育方面,1862年成立的北京同文馆设有《几何原本》课程,李善兰任总教习。地方学堂也以《几何原本》为教材,1898年京师大学堂、1902到1903年兴建的一批中学堂以及1905年废除科举后兴办的新式学校中,中学课程均采用了《几何原本》作为蓝本的新教材。
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ゼロ除算の発見は日本です:
∞???
∞は定まった数ではない・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:
とても興味深く読みました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所
ゼロ除算関係論文・本
再生核研究所声明 394(2017.11.4): ゼロで割れるか ― ゼロで割ったらユークリッド以来の新世界が現れた
ゼロで割る問題は、ゼロ除算は Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスはゼロ除算の不可能性を述べていたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べている。
まずゼロで割れるか否かの問題を論じるとき、その定義をしっかりすることが大事である。 定義をきちんとしないために空回りの議論をしている文献が大部分である。何十年も超えて空回りをしている者が多い。割れるとはどのような意味かと問題にしなければならない。 数学界の常識、割り算は掛け算の逆であり、az =b の解をb割るaと定義し、分数b/a を定義すると考えれば、直ちにa=0の場合には、一般に考えられないと結論される。それで、ゼロ除算は神でもできないとか神秘的な議論が世に氾濫している。しかしながら、この基本的な方程式の解が何時でも一意に存在するように定義するいろいろな考え方が存在する。有名で相当な歴史を有する考え方が、Moore-Penrose一般逆である。その解はa=0 のとき、ただ一つの解z=0 を定める。よって、この意味で方程式の解を定義すれば、ゼロ除算 b/0, b割るゼロはゼロであると言える。そこで、このような発想、定義は自然であるから、発見の動機、経緯は違うが、ゼロ除算は可能で、b/0=0 であると言明した。Moore-Penrose一般逆の自然性を認識して、ゼロ除算は自明であり、b/0=0 であるとした。
それゆえに、神秘的な歴史を持つ、ゼロ除算は 実は当たり前であったが、現在でもそうは認識されず混乱が続いている。その理由は、関数 W = 1/z の原点での値をゼロとする考えに発展、適用するとユークリッド以来、アリストテレス以来の世界観の変更に繋がるからである。1/0は無限大、無限と発想しているからである。実際、原点の近くは限りなく原点から遠ざかり、限りなく遠くの点、無限の彼方に写っている歴然とした現象か存在する。しかるに 原点が原点に写るというのであるから、これらの世界観は ユークリッド空間、アリストテレスの世界観に反することになる。それゆえに Moore-Penrose一般逆は一元一次方程式の場合、意味がないものとして思考が封じられてきたと考えられる。
そこで、この新しい数学、世界観が、我々の数学や世界に合っているか否かを広範囲に調べてみることにした。その結果、ユークリッドやアリストテレスの世界観は違っていて、広範な修正が必要であることが分った。
そこで、次のように表現して、広く内外に意見を求めている:
Dear the leading mathematicians and colleagues:
Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1
-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40)
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:
数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学
www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上
再生核研究所声明 424(2018.3.29): レオナルド・ダ・ヴィンチとゼロ除算
次のダ・ヴィンチの言葉を発見して、驚かされた:
ダ・ヴィンチの名言 格言|無こそ最も素晴らしい存在
我々の周りにある偉大なことの中でも、無の存在が最も素晴らしい。その基本は時間的には過去と未来の間にあり、現在の何ものをも所有しないというところにある。この無は、全体に等しい部分、部分に等しい全体を持つ。分割できないものと割り切ることができるし、割っても掛けても、足しても引いても、同じ量になるのだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。ルネッサンス期を代表する芸術家、画家、彫刻家、建築技師、設計士、兵器開発者、科学者、哲学者、解剖学者、動物学者、ファッションデザイナーその他広い分野で活躍し「万能の人(uomo universale:ウォモ・ウニヴェルサーレ)」と称えられる人物
そもそも西欧諸国が、アリストテレス以来、無や真空、ゼロを嫌い、ゼロの西欧諸国への導入は相当に遅れ、西欧へのアラビヤ数字の導入は レオナルド・フィボナッチ(1179年頃~1250年頃)によるとされているから、その遅れの大きさに驚かされる:
フィボナッチはイタリアのピサの数学者です。正確には「レオナルド・フィリオ・ボナッチ」といいますが、これがなまって「フィボナッチ」と呼ばれるようになったとされています。
彼は少年時代に父親について現在のアルジェリアに渡り、そこでアラビア数字を学びました。当時の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世は科学と数学を重んじていて、フィボナッチは宮殿に呼ばれ皇帝にも謁見しました。後にはピサ共和国から表彰もされました。
フィボナッチはイタリアのピサの数学者です。正確には「レオナルド・フィリオ・ボナッチ」といいますが、これがなまって「フィボナッチ」と呼ばれるようになったとされています。
彼は少年時代に父親について現在のアルジェリアに渡り、そこでアラビア数字を学びました。当時の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世は科学と数学を重んじていて、フィボナッチは宮殿に呼ばれ皇帝にも謁見しました。後にはピサ共和国から表彰もされました。
ローマ数字では「I, II, III, X, XV」のように文字を並べて記すため大きな数を扱うのには不便でした。対してアラビア数字はローマ数字に比べてとても分かりやすく、効率的で便利だったのです。そこでフィボナッチはアラビア数字を「算術の書」という書物にまとめ、母国に紹介しました。アラビア数字では0から9までの数字と位取り記数法が使われていますが、計算に使うにはとても便利だったために、ヨーロッパで広く受け入れられることになりました。(歴史上の数学者たち: レオナルド・フィボナッチ
historicalmathematicians.blogspot.com/2012/03/blog-post.html Traduzir esta página 02/03/2012 -)
ゼロや無に対する恐怖心、嫌疑観は現在でも欧米諸国の自然な心情と考えられる。ところが上記ダ・ヴィンチの言葉は 如何であろう。無について好ましいものとして真正面から捉えていることが分かる。ゼロ除算の研究をここ4年間して来て、驚嘆すべきこととして驚かされた。ゼロの意味、ゼロ除算の心を知っていたかのような言明である。
まず、上記で、無を、時間的に未来と過去の間に存在すると言っているので、無とはゼロのことであると解釈できる。ゼロとの捉え方は四則演算を考えているので、その解釈の適切性を述べている。足しても引いても変わらない。これはゼロの本質ではないか。さらに、凄いこと、掛けても割っても、ゼロと言っていると解釈でき、それはゼロ除算の最近の発見を意味している: 0/1 =1/0=0。- ゼロ除算を感覚的に捉えていたと解釈できる。ところが更に、凄いことを述べている。
この無は、全体に等しい部分、部分に等しい全体を持つ。これはゼロ除算の著書DIVISION BY ZERO CALCULUS(原案)に真正面から書いている我々の得た、達したゼロに対する認識そのものである:
{\bf Fruitful world}\index{fruitful world}
\medskip
For example, in very and very general partial differential equations, if the coefficients or terms are zero, we have some simple differential equations and the extreme case is all the terms are zero; that is, we have trivial equations $0=0$; then its solution is zero. When we see the converse, we see that the zero world is a fruitful one and it means some vanishing world. Recall \index{Yamane phenomena}Yamane phenomena, the vanishing result is very simple zero, however, it is the result from some fruitful world. Sometimes, zero means void or nothing world, however, it will show some changes as in the Yamane phenomena.
\medskip
{\bf From $0$ to $0$; $0$ means all and all are $0$}
\medskip
As we see from our life figure, a story starts from the zero and ends to the zero. This will mean that $0$ means all and all are $0$, in a sense. The zero is a mother of all.
\medskip
その意味は深い。我々はゼロの意味をいろいろと捉え考え、ゼロとはさらに 基準を表すとか、不可能性を示すとか、無限遠点の反映であるとか、ゼロの2重性とかを述べている。ゼロと無限の関係をも述べている。ダ・ヴィンチの鋭い世界観に対する境地に驚嘆している。
以 上
*057 Pinelas,S./Caraballo,T./Kloeden,P./Graef,J.(eds.): Differential and Difference Equations with Applications: ICDDEA, Amadora, 2017. (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 230) May 2018 587 pp.
再生核研究所声明 427(2018.5.8): 神の数式、神の意志 そしてゼロ除算
NHKスペシャル 神の数式番組を繰り返し拝見して感銘を受けている。素晴らしい映像ばかりではなく、内容の的確さ、正確さに、ただただ驚嘆している。素晴らしい。
ある物理学の本質的な流れを理解し易く表現していて、物理学の着実な発展が良く分かる。
原爆を作ったり、素粒子を追求していたり、宇宙の生成を研究したり、物理学者はまるで、現代の神官のように感じられる。素粒子の世界と宇宙を記述するアインシュタインの方程式を融合させるなど、正に神の数式と呼ぶにふさわしいものと考えられる。流れを拝見すると物理学は適切な方向で着実に進化していると感じられる。神の数式に近づいているのに 野蛮なことを繰り返している国際政治社会には残念な気持ちが湧いて来る。ロシアの天才物理学者の終末などあまりにも酷いのではないだろうか。世界史の進化を願わざるを得ない。
アインシュタインの相対性理論は世界観の変更をもたらしたが、それに比べられるオイラーの公式は数学全般に大きな変革をもたらした:
With this estimation, we stated that the Euler formula
$$
e^{\pi i} = -1
$$
is the best result in mathematics in details in: No.81, May 2012 (pdf 432kb)
余りにも神秘的な数式のために、アインシュタインの公式 E= mc^2 と並べて考えられる 神の意志 が感じられるだろう。 ところで、素粒子を記述する方程式とアインシュタインの方程式を融合したら、 至る所に1/0 が現れて 至る所無限大が現れて計算できないと繰り返して述べられている。しかしながら、数学は既に進化して、1/0=0 で無限大は 実はゼロだった。 驚嘆すべき世界が現れた。しかしながら、数学でも依然として、rがゼロに近づくと 無限大に発散する事実が有るので、弦の理論は否定できず、問題が存在する。さらに、形式的に発散している場合でも、ゼロ除算算法で、有限値を与え、特異点でも微分方程式を満たすという新しい概念が現れ、局面が拓かれたので、数学者ばかりではなく、物理学者の注意を喚起して置きたい。
物理学者は、素粒子の世界と巨大宇宙空間の方程式を融合させて神の方程式を目指して研究を進めている。数学者はユークリッド以来現れたゼロ除算1/0と空間の新しい構造の中から、神の意志を追求して 新しい世界の究明に乗り出して欲しいと願っている。いみじくもゼロ除算は、ゼロと無限大の関係を述べていて、素粒子と宇宙論の類似を思わせる。
人の生きるは、真智への愛にある、すなわち、事実を知りたい、本当のことを知りたい、高級に言えば 神の意志 を知りたいということである。 そこで、我々のゼロ除算についての考えは真実か否か、広く内外の関係者に意見を求めている。関係情報はどんどん公開している。 ゼロ除算の研究状況は、
数学基礎学力研究会 サイトで解説が続けられている:http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
また、ohttp://okmr.yamatoblog.net/ に 関連情報がある。
以 上
ゼロ除算の論文が2編、出版になりました:
ICDDEA: International Conference on Differential & Difference Equations and Applications
Differential and Difference Equations with Applications
ICDDEA, Amadora, Portugal, June 2017
• Editors
• (view affiliations)
• Sandra Pinelas
• Tomás Caraballo
• Peter Kloeden
• John R. Graef
Conference proceedingsICDDEA 2017
log0=log∞=0log0=log∞=0 and Applications
Hiroshi Michiwaki, Tsutomu Matuura, Saburou Saitoh
Pages 293-305
Division by Zero Calculus and Differential Equations
Sandra Pinelas, Saburou Saitoh
Pages 399-418
ICDDEA: International Conference on Differential & Difference Equations and Applications
Differential and Difference Equations with Applications
ICDDEA, Amadora, Portugal, June 2017
• Editors
• (view affiliations)
• Sandra Pinelas
• Tomás Caraballo
• Peter Kloeden
• John R. Graef
Conference proceedingsICDDEA 2017
log0=log∞=0log0=log∞=0 and Applications
Hiroshi Michiwaki, Tsutomu Matuura, Saburou Saitoh
Pages 293-305
Division by Zero Calculus and Differential Equations
Sandra Pinelas, Saburou Saitoh
Pages 399-418
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