2016年8月23日火曜日

市民活動とあぶない正義 ~こども食堂でケンカする大人たち 若新雄純=文

市民活動とあぶない正義 ~こども食堂でケンカする大人たち

若新雄純=文
 

正義と正義のケンカ

最近、「こども食堂」が全国的に広がっています。子どもの6人に一人が相対的に貧困状態と言われるなか、家庭で満足に食事を取れない子どもや、親が働きに出ているために一人で食事をしなければならない「弧食」の子どもたちが増えています。そういう子どもたちに対して、格安や無償で温かい食事を提供する社会奉仕的なサービスです。食材は、賞味期限の問題で廃棄間近の食材や各家庭で余った食材などを集め、市民団体がボランティアで運営していることが多いようです。
社会的課題に地域で取り組むのはいいことだと思いますが、こども食堂は「恵まれない子どもたちのために」といった「施し」の色がどうしても強くなりがちです。また、実際に現場の人たちの話を聞いてみると、仕事以外の自己表現の場として、「自分の正義を体現したい」というモチベーションで活動している人が結構多いようなのです。
すると、そこでしばしば、正義と正義のぶつかり合いによるケンカが起こっているようです。たとえば、どこまでを貧困と捉え、どこまで施しの対象にするのか、食事の値段をいくらに設定するか、といったことなどで激しく揉めるらしいのです。ある人は「無料で提供したい」と言い、ある人は「ワンコインくらいは払ってもらうべきだ」と主張する。メンバーそれぞれが持つ正義と正義の対立から、「お前の主張は偽善だ」といったような口論まで起きて、組織が分裂したり、同じような活動を近くで始めてライバルとして妨害しあうようなことまであるようです。
正義を盾にして、活動の本質をを見失う。これは、他の市民活動やボランティアなどでもよくあることかもしれません。

誰が食べてもいい「ゆるい食堂」

僕が公共事業をお手伝いしている福井県鯖江市でも、市民活動のひとつとしてこども食堂をやろうという話になりました。そして、地元のスーパーや生協、商店などから余った食材の提供をお願いしました。ただし僕たちは、「恵まれない子どもたちのために」といった弱者支援のような態度はやめようと決めました。

代わりに僕たちが重視したのは、まず、食堂には「誰が来てもいい」ということです。貧困対策に携わる市民団体とも連携はしていますが、対象者を限定せず、あらゆる市民を対象にしています。もちろん、本当に困っている子や、普段一人でさみしく食事している子にも来てほしい。ただ、誰でも気軽に来て食べられるし、お代わり自由で、わいわい騒いで好きなだけ食べられる。誰にでも開かれた場であり、そのなかで「食べる」という幸福をみんなで体験できるような場にしたいという思いから、「ゆるい食堂」と名づけました。つまり、基本的にはごはんをみんなで楽しく食べる、というだけの場所なのです。
「ゆるい食堂」のもう一つのこだわりは、「食事をつくる人も楽しむ」ということです。食事に困っている子どもたちのためとか、貧困をなくすためという大げさな正義を大上段に構えるのではなく、まずはつくり手自身が得意の料理の腕で提供してもらった食材を活かし、楽しみながら運営できる場を目指しました。そのような趣旨で声をかけたら、賛同するお母さんたちが毎回10人以上集まってくれました。
スーパーや商店から余った食材を提供してもらうため、当日にならなければどんな食材が集まるか分かりません。だからメニューも当日にならないと決められない。それでも、お母さんたちは忙しい毎日のなかで家族のために手際よくおいしい食事をつくるプロフェッショナルなので、そういう機転の利かせ方が得意です。当日やってみたら、約2時間の準備時間の中で10種類以上の充実したメニューができました。そして、会場に来てくれた100人近くの親子に対して、すべて無料で食事を提供できました。
記事
若新雄純=文

 
まずは自分たちが楽しむこと
若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)
人材・組織コンサルタント/慶應義塾大学特任講師
福井県若狭町生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程(政策・メディア)修了。専門は産業・組織心理学とコミュニケーション論。全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生が自治体改革を担う「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円の「ゆるい就職」など、新しい働き方や組織づくりを模索・提案する実験的プロジェクトを多数企画・実施し、さまざまな企業の人材・組織開発コンサルティングなども行う。
若新ワールド
http://wakashin.com/

 
終わったあとに、食事をつくってくれたお母さんたちは、「毎週でもやりたい」と言ってくれました。食材の準備などが大変なので、隔月での実施を予定していますが、自分たちがなにかをつくって提供するという充実した体験ができたからこそ、お母さんたちはそのように言ってくれたのだと思います。
100人に食事が無償提供できても、社会的にはきわめて微力です。正義を掲げても、問題は簡単には解決しません。まずは何よりも、自分たちが「楽しい」と思って取り組めることが、こうした市民活動の裾野を広げていくためにとても大切なことだと思います。
最初から「施し」の色が強くなることに違和感があるのは、正義の意識が強くなると、自分たちの勝手な理想で市民同士の衝突やトラブルを引き起こし、市民活動を窮屈であぶないものにしてしまいかねないからです。市民のボランティアにできることは限られていて、結局は手の届く範囲にしかサービスを提供できません。本当に必要なものをあまねく広く提供するには、政府や自治体が税金を使って公共事業として展開する必要があります。
市民活動の意義は、公共社会との接続窓口であるということだと思っています。自分の正義を体現する場所でもなければ、その責任をとれるようなものでもありません。まずは、自分のライフスタイルの中に、楽しくて前向きな時間のひとつとして取り入れていくことができればいいのではないでしょうか。活動に参加する人たちが楽しければ、「だったら私もやりたい」という人が徐々に増えていって、それが各地に広がっていく。そうすればいつかは、新しい社会インフラのひとつになっていくかもしれません。

お互い行き過ぎないように、程々・・・・・・・
○○○にしているのに・・・・・・・
裏切られたとか・・・・

再生核研究所声明35(2010/04/23): 社会と個人の在りよう―細胞の役割
               
声明 33:民主主義と衆愚政治 の中で、民主主義

( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )

の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、民主主義の問題点を考察した。 そこで、(1)まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかること。(2)投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が高いこと。(3) また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちであること。(4)また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうこと。(5)何でも多数をそろえて、政治その他を推し進めようとなりがちなこと。(6)会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために言わば数の結果で悪い決定がなされる。(7)さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点。 難しい問題を素人の多くの人に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるということ。

として、次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、運用の在りようについて:

1)代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票して頂くのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。
2)代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3)代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4)代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5)特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 報道の5原則にいつも留意すること。

とした。そして、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して  より良い政治の下で良い社会を築いて行こうと呼びかけている。
上記考察のうちで、政党政治の形をとるのが 民主主義の必然的な形態と考えられるが、政党政治は本来もつべき国家や社会についての大きな視点から、 往々にして、政党間の競争、あるいは無用の権力闘争に陥り易い弊害があることも指摘されなければならない。 本来考えるべき国家や社会の問題をないがしろにして、権力闘争に明け暮れるさまは 戦国時代と何ら本質的に変わらない形相と云える。 いわゆる派閥や仲間を作り、公の立場よりも、そのような派の利害を優先した行動がとられ、民主主義が空洞化してしまうのはよく見られる現象である。 また、公人を選出するのに 自己の利益や自己の所属する集団の利益の観点から、代表者を選出しようとするのは、本質的な間違いであるのに 多くの人はそれすら克服できない恥ずかしい状況にあると言える (衆愚政治とは、有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。 出典フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。)  さらに、各個人の属する社会の中での 自己の立ち場に対する配慮 (保身) から、あるいは無気力や自分の専門や仕事に 埋没した多くの人が、自己の意見を表明せず、民主的な多数の意思が、実際には多数の意思を反映せず、一部の強い意見がまかり通ることが結構多いと危惧される (アビリーンのパラドックス)。  バブル崩壊後の新しい特徴として、社会の厳しさが、生活や生きていくことの困難性を生じせしめ、社会や国家について深く想いをめぐらす余裕を失ない、 国家や社会についての理解や論調が 軽薄になっているとみられる。

そこで、国家と個人は、社会と個人は 如何にあるべきかについて、 2010年4月18日 朝、
人体と細胞のように在るべきである
という考えを抱いた。 国家や社会は人体のように全体として、統一のとれた主体的な存在であるが、個人は細胞のようにそれぞれの役割をもって、国家や社会に調和する存在であるべきであるという考え方である。 個々の意思は中枢に反映され、中枢の指示は個々に反映される。 それは細胞のなす、おのおのの器官を通して 全体に調和する形でなされなければならない。 この理念を社会に活かすには、人はそれぞれに希望する形で社会に参加して、1)項のように 強制的でなく、 自発的、自由な意思での参加方式をとるのがよいと考える。
これは社会が複雑になり、人びとの関心と興味が多様になり、一律全体が との形が 逆に大きな弊害をもたらす事実をさけて、 いろいろな役割によって全体に参加することにしようと提案しているものである。 中枢の個々への指示は明瞭であるが、個々の中枢への意思の表示については尚検討の余地があるが、現状の在りようで基本的にはよいと考える。 この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 
実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
以 上

再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙

(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)

猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。

何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:

再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること

言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上

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