2016年8月12日金曜日

記事 ヒロ2016年08月12日 10:00地方再生なのに一極集中が続くわけ

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ヒロ2016年08月12日 10:00地方再生なのに一極集中が続くわけ




かつて地方の人からすると東京は「恐ろしいところ」と言われました。東京出身の者としては聞き捨てならないわけですが、理由は(人間が)冷たそう、(人々の動きの)スピードが速そう、複雑すぎて難しそうでついていく自信がない、というわけです。

最近、この言葉を聞かなくなったのは若い人を中心に情報が行きわたったことがあるかと思います。東京がどんなところか詳しく見えるようになり、マイナスイメージよりも「面白そう」「おいしそう」で僕も私も東京へ、ということなのかもしれません。むしろ、地方の疲弊ぶりは深刻で駅前のかつての繁華街にはコンビニと食堂が寂しげに営業し、人が集まるのはパチンコ屋だったりするわけです。これでは若者を地方に括り付けておく方が難しいというものでしょう。

月曜日の日経トップは「企業の首都圏転入最多」となっています。サブタイトルが「昨年13%増、働き手確保狙う」で「一極集中歯止めかからず」とあります。企業業績はおおむね良好で攻める経営が重視されています。攻めるならば顧客、取引先、さらには情報が集中する東京はうってつけでありましょう。また、名刺に記載される本社の住所が「東京都港区…」ならば格好いい上に凄そう、儲かっていそう、信頼できそう…となるわけです。

新聞記事にある転入転出のグラフが日本経済の歩みを見せているかのようです。80年代初頭から03年ぐらいまでは地方の時代でありました。つまり、企業が首都圏の外に本社を動かす流れです。その後、今日に至るまで東日本大震災の直後を除き一極集中が続きます。80年代は不動産の高騰という問題がありました。多くの企業は高すぎる東京本社の維持費に悲鳴を上げ、地方に向かいました。また、当時はまだまだ日本は若く、地方でも活力がありました。

その後、政治機能を首都から移転するという議論もありました。かなり本格的な議論が進み、日本は本気でブラジルが意図的に作り上げた政治機能都市、ブラジリアのような街を作るのかと思いきや、地方移転したくない政治家や官僚がせっかくの盛り上がりをあっさり潰してしまいました。

地方勤務をするサラリーマンの方が思うことは「いつかは本社に」ではないでしょうか?同様に会社が首都に移転するその意味は人が首都を目指しているとも言えます。それに対して地方は「都落ち」であって日本の歴史背景が反映されているかもしれません。

アメリカの都市を考えてみるとNY、ワシントン、ボストン、アトランタ、シカゴ、ロス、サンフランシスコ、シアトルなど巨大都市があちらこちらで成長し、かつ、それぞれの都市に特徴が見られます。金融であり政治であり、ITであり、製造業であったりするわけです。あるいは教育というのもあるかもしれません。お国自慢ではないですが、それぞれの都市に地域特性を持たせています。

カナダでも経済のトロント、フレンチカナディアンのモントリオール、アジアゲートウェイのバンクーバー、資源のカルガリー、政治のオタワなどそれぞれ性格が全く違う都市であります。では日本をそのカテゴリーで分類できるかといえばとにかく巨大な東京、製造業の名古屋、商人の大阪、アジア大陸との接点の博多となるのでしょうか。しかし、札幌、仙台、高松といった都市はその特徴を書き出しにくいでしょう。その地域の中心ではありますが、それ以上のものもない気がいたします。

何故、地方に色が出ないのか、といえば役人も企業も東京中心主義であり、地方を理解し特徴を持たせた都市づくり、地域経済づくりを進めなかったことはあろうかと思います。例えば一時話題になった徳島。IT普及率が高く、関連の起業者も多かったのですが、その後、話題になりません。それはせっかくのチャンスを魅力ある政策等でさらに引き付け、面白い街づくりを進めなかったからでしょう。極端な話、徳島と東京を結ぶLLCをはじめ、特定産業誘致の優遇税制、不動産のあっせんや人材確保、さらに遊びを充実させたり夜の徳島を魅力的にするということも必要でした。またこれらは官民合同で進めるべきでした。

官民と申し上げたのは官の仕事は原理原則に従い、骨格を作るのが得意ですが、そこに魅力はありません。民間はその骨格にボディという形を上乗せすることで一般人がわかりやすい内容に仕立てあげることができます。

日本はどうしてもお役所主導でことが進みます。そして業界団体などとの軋轢の中でギリギリの調整が進むというのがいつものパタン。それゆえ例えば民泊のルール作りもいつまでたってもはっきりしないわけです。こんなことしていればせっかく盛り上がった民泊ブームも消えかねません。(いや、たぶん、あと1年ぐらいでブームは終わると思っています。)

地方再生は官が主導するというより官民一体化で投資を呼び込む仕掛けが必要だと思います。やみくもに地方の時代を作ろうとしても何も生まれません。その場所だからその産業が必要だ、と思わせる論理性も必要でしょう。

早く地方再生を進めないと疲弊は思った以上に加速度を増して進んでいるような気がいたします。

では今日はこのぐらいで。http://blogos.com/article/186788/

読んでためになりました:

再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界

(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)

主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、
成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:

再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること

理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ
大事ではないだろうか。次の声明

再生核研究所声明144(3013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である

の題名も真実だろうが、そこで述べた、

そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。

は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。

言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば

磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。

などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:

再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。

以 上




再生核研究所声明75(2012.2.10):  政治・経済の在りようについて

(この声明は 再生核研究所声明に関心を抱く方の要望によって、動機付けられたものです。他方、大谷杉郎 元群馬大学名誉教授の下記の文が気になって来ました: (新里山文明 ― 私は、基本的には、社会の制度、経済の仕組みにまで立ち入らないと解決はしないと思っています。無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組みの通用した時代は、もうあきらめたほうがいいと思っています。技術と社会制度と、それに人々との考え方と、みんな一緒にならないと循環社会、新里山文明の時代は来そうにありません。 ―( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P106~P107より )(群馬大学工業会会報・平成11年3月 99)p95~p107より)。)
上記両者の意見には いわゆる資本主義は 社会主義同様 行きづまっているのではないか、新しい社会の、経済の在りようを模索する必要が有るのではないか との考えを暗示しているようにみえる。
もちろん、政治・経済の在りようについての総合的な考察は、大きな課題であるから、考察を進めるには 重い課題ということになる。 しかしながら、歴史は連続的に流れ、慣性の法則で動いている(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)とすれば、現状の問題点を分析することによって、在るべき方向が見えて来ると考えられる。
現在の世界を、アメリカ、EU, 日本など、いわゆる自由主義経済、資本主義社会、民主主義の国々、および、 ロシア、中国など、いわゆる社会主義の変化で 社会主義と資本主義の中間に位置する国々、および いろいろな国柄を反映させているその他の国々と考えてみよう。 社会主義国では、経済活動は国によって計画され、企画されて、人々を資本家から解放し、より平等で公正な社会を目指していると考えられたが、結果は産業・経済活動が停滞し、民生の遅れをもたらし、皮肉にも自由、平等、民主主義の理念から外れ、社会主義の理念は 内部から、崩壊し、より自由な経済活動を許す、解放経済の方に向かわざるを得なかったようにみえる。 これは自由な経済活動が、産業の活性化をもたらし、国や特定の機関の管理では、庶民の力を発揮することができないという、 いわば、人間の本性に根ざした原理から出ていると考えられる。
しからば、資本主義諸国の現状における問題とは何だろうか。 いみじくも、アメリカ,EU, 日本に共通する大きな課題は、 膨大な債務を抱えて、財政破綻の危機にさらされているということである。これは、民主主義の中で、庶民の意志を尊重するあまり、各国の政府が無責任な財政運営を余儀なくされてきたということに他ならない。 民主主義は衆愚政治に陥り、国家は財政破綻を迎えたと、旧社会主義や独裁主義国家から、嘲笑されかねない由々しき事態ではないだろうか。 自由を保証する社会は、そもそも人類の理想であるから、財政の立て直しによる、復活を願わざるを得ない。
しかしながら、資本主義社会で見られる、次のような現象については、大きな歯止めと警戒、対処が必要ではないだろうか。

債務の増大と金融不安、
過熱な自由競争の国際化、
過熱な投機の在り様、
行きすぎた世界的な経済活動、
行きすぎた世界の均一化、
多くの失業者の出現、
為替の急激な変動、
貧富の大きな格差、
アメリカなどに見られる 軍事産業の力、
大量生産、大量消費の在り様、
お金、お金の風潮の増大、
社会生活まで、共生より競争の世相、成果主義や評価、評価の厳しい世相、 
経済活動の環境、社会への大きな影響 など、

それらについて、関係する国際的な機関で 枠をはめ、より良い方向に誘導するような政策を進める必要が有るのではないだろうか。植物界でも動物界でも、自由に野放ししておけば良いとはならず、適当な手入れ、癌細胞などは除去するなど適切な処置が必要であるように である。― これは要するに、現状の自由を尊重する、資本主義と民主主義の在りようを評価して、そこから発する大きな歪を是正していこうとの 現実的な対応を志向するものである。
上記 (無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組み)などについては 税率によって、 調整して行く と考えるのは 如何なものであろうか。
他方、ロシアや中国における在りようの問題では、いまだ自由の保証が十分では無く、人権、人間の尊厳の観点から問題が有るのではないかとの危惧の念を抱かせるが、それぞれの国には それなりの歴史と伝統、文化が有るのだから、軽々しく内政干渉のような態度をとらない姿勢が大事ではないだろうか。 アラブや、その他の諸国についても お互いに内政干渉を控え、いろいろな国による、多様な在り様、多様な文化の存続を尊重、重視していくべきではないだろうか。 いわゆる グローバリゼーションは 地球を画一化して、貧しい均一的な 世界を作り、 傾向として良くないと評価したい。 多様な世界を志向したい。

逆に民主主義の問題点を指摘して置きたい。 上述の様に国民に慮る故に 政府が弱く、政府が責任ある政治を進めることができない状況が起きているから、政治家の身分を安定的に保証して、責任ある政治に専念できるように配慮すべきではないだろうか。そのためには、首相や国会議員の任期を長くして、その間、身分を篤く保証することも検討に値するのではないだろうか。アメリカの大統領選出過程などは あまりにも 長く、現実的ではないのではないだろうか。多数の意見が広く表現できるのは良いが、無責任なムードのようなもの、世論で、 政治が歪められやすい状況について、警戒を要するのではないだろうか。 次の危惧を参照(再生核研究所声明 33: 民主主義と衆愚政治)。

以 上


再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと

世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。

国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。

特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。

この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。

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