2015年7月10日金曜日

圧倒的!「高解像度宇宙望遠鏡」の建設構想を発表 ハッブル望遠鏡の5倍鮮明、次世代ジェームズ・ウェッブ望遠鏡をも凌駕

圧倒的!「高解像度宇宙望遠鏡」の建設構想を発表
ハッブル望遠鏡の5倍鮮明、次世代ジェームズ・ウェッブ望遠鏡をも凌駕
2015.07.09



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高解像度望遠鏡(HDST)で見たと仮定した画像の例(右)。ハッブル望遠鏡(左)に比べて、100億光年先にある銀河がおどろくほど詳細に見える。(Illustration by D. Ceverino, C. Moody, and G. Snyder, and Z. Levay)
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 先日、新たな宇宙望遠鏡の驚きの実力を詳述したレポートが米国の宇宙望遠鏡科学研究所から発表された。

 2030年代初頭には実用化できるというこの望遠鏡は、高解像度宇宙望遠鏡(HDST)と呼ばれる。地球から100万マイル(160万キロ)の距離に設置され、54個の独立した鏡が組み合わさって、鏡の面積はハッブル宇宙望遠鏡の25倍を誇る。地球に似た太陽系外惑星で生命の痕跡を探したり、銀河誕生の謎を明らかにしたり、我らが太陽系の秘密をより詳細に研究したりといった観測に十分に貢献できる大きさだ。

 この望遠鏡はまた、圧倒的な美しさを誇るハッブルの画像をはるかに超える、驚愕の高解像度画像を提供できるという。(参考記事:「ハッブル望遠鏡50の傑作画像」)

地球外生命の探査も簡単に?

 生命が存在する可能性のある地球型惑星を探す望遠鏡には、ごく弱い光しか出さない目当ての惑星を、その付近にある星々ときちんと区別して認識できる性能が必要だ。ハッブルやジェームズ・ウェッブ望遠鏡では、こうした光は互いに融合して見えてしまう。それはたとえば、遠くから近づいてくる車のヘッドライトが、ひとつの光源から出ているように見えるのと同じことだ。大きい鏡があれば、それだけ解像度も高くなる。画像をぼやけさせる大気のない宇宙空間では、とくに鮮明な画像が得られるだろう。(参考記事:「ここがすごい!ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」)

 また、目当ての惑星の主星(地球における太陽のような存在)の光をさえぎることも重要だ。主星の明るさは、付近の惑星の弱い光を圧倒してしまうからだ。この問題を解決するため、HDSTにはコロナグラフが装備される。これは星の光をさえぎる装置で、飛行機を見上げるときに手で太陽光をさえぎるのと同様の役割をはたす。(参考記事:太陽観測用のコロナグラフ)

 こうした性能をすべて備えれば、「おそらく地球から100光年以内に、何十という数の地球型惑星を発見できるでしょう」。報告書の執筆に協力した米マサチューセッツ工科大学(MIT)の天文学者、サラ・シーガー氏はそう語る。

 HDSTは地球型惑星の大気をスキャンして、生物活動の痕跡を探ることになる。たとえば大気中に酸素が存在すれば、大いに期待が持てる兆候だ。酸素は非常に反応しやすい分子で、生物活動によって絶えず補充され続けない限り、ほかの分子とすばやく結合してしまうからだ。(参考記事:特集「宇宙生物学のいま 生命は地球の外にも存在するのか?」)

 銀河の形成や進化を研究するには、紫外線に対する感度が高いことも重要となる。紫外線画像を見ることができれば「銀河の間に宇宙のクモの巣のように存在するガスを観測できるでしょう」と報告書執筆メンバーの1人であるマーク・ポストマン氏は言う。ガスの観測は、近傍の何百という銀河の進化過程の研究に貢献するだろう。

 またHDSTは、こうした銀河に含まれる太陽程度の大きさの星を個々に観測でき、ガスと星の両方のデータがあれば、科学者たちは「さまざまなタイプの銀河における完璧な進化のシナリオ」を手にできるという。

 HDSTは太陽系外縁部の観測にも活躍する。さらに、天王星や海王星といった太陽系惑星の連続写真も撮影可能。また、海王星軌道の外側にある天体が多い領域であるカイパーベルト内のエリス、ハウメア、マケマケ、クアオアといった大きな天体についても、詳細な画像が得られるようになるだろう。(参考記事:「冥王星は惑星か、研究者3人の見解」)

費用はどうなる?

 当然ながら、望遠鏡の開発にはお金がかかる。ジェームズ・ウェッブ望遠鏡は当初、5億ドルの予算で建設が始められたが、最終的な費用は10倍以上に膨れ上がった。HDSTの報告書執筆者らによると、ウェッブ望遠鏡の予算オーバーの原因は主に新技術開発にともなうもので、このとき生み出された技術の多くはHDSTにも引き継げるという。

 彼らは今回賢明にも、具体的な見積もりを提示していない。

「我々はそもそも、コストの見積もりすらしませんでした。まだ詳細が詰められていないので、やろうと思ってもできないのです。技術は日々進歩していますから、今は難しい課題でも、5年後にはクリアされているかもしれません」。報告書執筆委員会の共同代表者である米ワシントン大学のジュリアン・ダルカントン氏は語る。「自分が生きているうちに、ぜひともこの望遠鏡を使ってみたいですね。それはきっとすばらしい体験になるでしょう」

文=Michael D. Lemonick/訳=北村京子http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/070800175/

再生核研究所声明225(2015.4.23)偉大な数ゼロ ―ゼロの教え


ゼロ除算の結果は、直角双曲線関数 y=1/x の原点における値が ゼロであると言っている。それは、まるで、原点でゼロが正の量と負の量に 爆発して双方に広がっているようである。その様は現代物理学の学説、ビッグバン、すなわち、宇宙はあるとき、無から爆発によって突然現れ、その爆発の続きが続いているという。 無からの発生は、プラス、マイナス、とで合わせてゼロで、無からの発生はおかしいとも言えないという。これは、全体としてゼロとして釣り合っていることを意味する。universe が全体として ゼロとして釣り合っているということは 奇妙にも我々の心に響くものがある。
苦労しただけ、喜びが湧くのでは?
明るい面があるだけ、暗い面があるのでは?
ゼロは基準値であり、長命な生物も短命な生物も、 長命な人生も、短命な人生も同じようなものではないだろうか?
幼いころ、麦畑の上でひばりのさえずる情景を見たのを想い出す。 飛び立っては天高くまい上がり、やがて巣に戻る。 地平ゼロから始まって地平ゼロに帰する。永くさえずっていても、短くても結局同じではないか。 人間も誕生して、結局は元に戻る。結局、みんな同じようではないだろうか。 人生の長短など本質的には問題では無くて、みんな同じようではないだろうか。 ゼロから始まってゼロに帰する、ゼロとは そのようなものではないだろうか。
他方、ゼロ除算の複素版は、平面上では どのような方向でも どんどん原点から遠ざかれば、無限遠点の1点に行くが、 その無限遠点は、突然、原点に戻っている ことを述べている。これは結局のところ、ゼロから始まってゼロに帰すること、すなわち、元に戻る universe の原理を教えているのではないだろうか。
本声明は、ゼロの心境が大事なこと を述べている。
また、始めが大事であること を述べている。
以 上


再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え

ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。

と述べた。

ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。

ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。

以 上

ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・


再生核研究所声明150(2014.3.18) 大宇宙論、宇宙など小さい、小さい、the universe について

(この声明は、最近の特異点解明: 100/0=0, 0/0=0 の研究の進展に伴って 自然に湧いた構想である)

この声明の趣旨は、いわゆる物理学者が考えている宇宙、― 宇宙はビッグバンによって、誕生したという宇宙論を ニュートン力学と同様、幼き断片論と位置づけ、はるかに大きな the universe を志向し、アインシュタインを越えた世界、さらに 古代から続いてきた暗い人類の歴史に 明るい光を灯し、夜明けを迎える時代を切り拓きたいということである。 既に裏付ける思想は 一連の再生核研究所声明で確立していると考える。 ニュ-トン、アインシュタイン、数学の天才たちも、特異点の基本的な性質さえ捉えていなかったことは、明らかである。
簡単な基本、100/0=0,0/0=0 を発見した、精神、魂からすれば、新しい世界史を開拓する思想を語る資格があることの、十分な証拠になると考える。 実際、 - 古来から 続いてきた、人生、世界の難問、人生の意義、生と死の問題、人間社会の在り様の根本問題、基本概念 愛の定義、また、世界の宗教を統一すべく 神の定義さえ きちんと与えている。
The universe について語るとき、最も大事な精神は、神の概念を きちんと理解することである:

そもそも神とは何だろうか、人間とは何だろうか。 動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。
人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 それゆえに、人間は あらゆる生物たちのレべルに戻って 生物たちから学び、 また原始人に戻って、また子供たちのように 存在すれば 良いと言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 122: 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い; 再生核研究所声明 132 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか)。
すなわち、人間よ おごるなかれ、人類の知能など 大したことはなく、内乱や環境汚染で自滅するだろう、と危惧される。
昨年は 数学の存在と物理学が矛盾し、数学とは何かと問うてきた。

数学とは何か ― 数学と人間について
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15 

No.81, May 2012(pdf 432kb)

に公刊したが、そこで触れた、数学の神秘性については さらにその存念を深め、次のように問うている:
誰が数学を作ったのか? (再生核研究所声明 128: 数学の危機、末期数学について)

時間にもよらず、エネルギーにもよらない世界、それは、宇宙があるとき始まったという考えに 矛盾するものである。 無から世界が創造されたということも 受け入れがたい言明であろう。さらに、the universe には、物理学が未だに近づけない、生命や生命活動、人間の精神活動も歴然として有ることは 否定できない。音楽、芸術に感動している人間の精神は the universe の中に歴然と有るではないか。
ビッグバンで ゼロから、正の量と負の量が生じたとしても、どうしてビッグバンが生じたのか、何が生じせしめたかは 大きな課題として残っている。 数学の多くの等式は 数学を越えて、the universe で論じる場合には、その意味を,解釈をきちんとする必要がある。 The universe には 情報や精神など、まだまだ未知のものが多く存在しているのは当然で、それらが、我々の知らない法則で ものや、エネルギーを動かしているのは 当然である。
そこで、100/0=0,0/0=0 の発見を期に、今やガリレオ・ガリレイの時代、天動説が 地動説に代わる新しい時代に入ったと宣言している。The universe は 知らないことばかりで、満ちている。

以 上
天動説・・・・・・∞
地動説・・・・・・0









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