2015年7月13日月曜日

記事 mediagong2015年07月10日 10:49<新聞にできてグーグルにできないこと>紙メディアは想像力を拡張させる圧倒的な優位性を持っている

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mediagong2015年07月10日 10:49<新聞にできてグーグルにできないこと>紙メディアは想像力を拡張させる圧倒的な優位性を持っている




藤本貴之[東洋大学 准教授・博士(学術)/メディア学者]

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新聞の発行部数の低下が著しい。この1年間で、読売新聞は60万部減、朝日新聞は44万部減。その他の主要新聞ものきなみ大幅な部数減となっている。

新聞の急激なニーズの低下は、普段の生活の中でも体感できる。通勤・通学の電車内で新聞や雑誌を広げるという光景はめったにお目にかかれない。その代わりに多くの人がスマートフォンを覗き込んでいる。

ゲームやSNSに興じている場合もあろうが、ニュースを読んでいる人はかなりの割合になるだろう。特に、若い世代を中心に、ニュースとは、新聞やテレビからスマホを介してインターネットのニュースサイトから入手する方法へと完全にシフトしているように思える。

インターネット検索=グーグル時代の今日、情報は爆発的に増加し、スマホのような手軽な高機能なデバイスによって、これまで以上の多くの情報を簡単に入手できるようになったと言われる。ニュースでさえも、そのような「ググる」対象として位置づけられているのだろう。

しかし、グーグル以前に比べ、今日の私たちは、本当にニュースや情報をより多く、効率的に入手できるようになったのだろうか? 冷静に考えてみると、これが実に怪しい。むしろ、私たちが入手できるニュースや情報との接点は、従来よりも明らかに小さくなっているからだ。

例えば、新聞を広げ、なにがしかの記事を読む場合、その記事を追う過程で否応なしに「興味がない記事や情報」も目に入る。それが広告なのか、写真なのか、むずかしい数値なのかはさておき、絶対に「意図しない他の情報」が目に入る。

そういった、意識していない情報、読者の意思や関心の外にあった情報が目に入ってくる状況。これが往々にして「期せずして読む」「意図していないのに知る」という「未知の情報への接点」を生み出してきた。

このような意図しない「未知の情報との接点」こそ、人間にとっては知性を拡張させる重要な情報源だ。自分の興味関心だけでつながった情報や知識は偏狭であり、広がりを持たない。もちろんそれらでは新しい着想や発想、ブレイクスルーも起きづらい。

それに対し「情報との接点」を意図せずに発生させることは、新聞を中心とした紙メディアが持つ最大のメリットだ。グーグルにはない圧倒的な優位性といっても良い。インターネット上にどんなに膨大な情報があろうが、私たちが接触できるのは、結局、検索に利用したキーワードに関連したことに限られる。その意味では、ネットの広大な情報空間とは裏腹に、グーグルが抽出してくれる情報は極めて局所的だ。

ネットメディアでも「関連リンク」のような形で、他情報への広がりはあるが、それらはあくまでも「リンク」であって、クリックやタップという行為を「わざわざ」しない限り、目に入ることはない。

そもそも、関連リンク自体が、「それを読ませたい、クリックさせたい」という製作者側の意図や戦略の賜物にすぎない。それは、筆者自身、ニュースサイト「メディアゴン」(http://www.mediagong.jp)を主宰しているからこそよくわかる。

インターネットとその検索システムによって、私たちは膨大な情報を獲得できるよになったかに見える。しかし実態はそうではない。むしろ情報の接触率は、図書館を徘徊し、新聞を無目的にめくる時に意図せずに情報が目に入ってくる状況の方が、グーグル検索よりもはるかに大きい。

単純な例をあげよう。図書館や書店で必要な資料を探すとしよう。その時、私たちは、膨大な書棚から手と目を使って資料を探し出す。もちろん、その過程で、最低でも上下左右にある書籍、あるいは目的とする書棚に行くまでの経路において、否応無しに膨大な資料を目にする。タイトルや背表紙だけあっても、だ。

それが「未知との遭遇」を生み、新しい情報を私たちにもたらし、「新しい発想や知見」を生み出す源泉となる。それこそ紙メディアが持つ私たちの知性と想像力を拡張させる、WEBメディアに対する圧倒的な優位性と言ってもよい。

一方でインターネットではどうか。確かに、図書館や書店を徘徊する手間は省け、必要となるキーワードさえ明確であれば、その信憑性はさておき、迅速に多くの情報を簡単に入手することができる。しかし、図書館や書店を徘徊する時のような、不可避的に目に飛び込んでくる「意図しない無数の情報」との出会いはない。

新聞や雑誌といった紙メディアがネット化を推し進め、生き残りをかけた大きな変革を迎えている今日。紙からスマホを中心としたネットメディアへの変換を迅速に完了させねば、メディアや報道機関としてのニーズが著しく低下ゆくだろうことは誰の目にも明らかだ。

もちろん、スマートフォンで手軽にネットにアクセスし、簡単に必要なニュースや情報を獲得できる環境が、私たちの情報生活にとって素晴らしいことには疑いはない。しかしその反面で、私たち人間自身の知的な向上や発展の要素となる「予期せぬ新しい知識」の獲得という重要な可能性とチャンスは急激に低下している。

「予期せぬ新しい知識」との出会いこそ、想像力の源泉である。そして「想像力」こそ、資源を持たない私たち日本人にとっては、最大の武器である。既知の情報だけを頼りに検索することや、サイト製作者の意図にそって埋め込まれた関連リンクを辿るだけでは知性は広がらない。

もちろん、新聞のようなニュースメディアがWEBですべきこと、実現できることは無尽蔵にある。旧態依然と言われがちな紙メディアも、臆せずにそういった場面にどんどん切り込んでゆくべきだ。しかしながら、ニュースメディアが無目的に、あるいは機械的に「右へならへ」とWEBメディア化することには少なからぬ不安は残る。現在の紙メディアは明らかにそのバランスを欠いているように見える。

新聞を中心とした紙メディアは、今だからこそ、紙でできること/紙ですべきことを理解し、それとWEBですべきことを明確にわけた取り組みをすることが必要ではないだろうか。

紙メディアに期待されている役割は、当事者たちが考えているよりも、はるかに大きいはずなのだから。http://blogos.com/article/121787/

確かに新聞から、目で 膨大な、予期しない情報やニュースが 入ることは 新聞の大きな役割では? 


再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について


まず、世論について、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:

世論(せろん、よろん、英語: public opinion)とは、世間一般の意見のことで、公共の問題について、多くの人々が共有している意見、もしくは大多数の賛同が得られている意見(考え)のことを指す。1つの問題を巡って世論が割れ、対立し合うこともある。
用語[編集]
日本では、戦前より、「輿論(ヨロン)」と比べるとはるかに頻度は低いものの、「世論(セイロン、セロン)も使用されていた(輿論の項参照)。使用頻度に関しては、戦前の代表的な国語辞典である『言海』などに収載されていないことが一つのめやすになるだろう。戦後の当用漢字表制定時に、「輿」が当用漢字表に含まれなかったため、新聞などでは「世論」の表記が使われるようになった。その後、それまでの「セロン」のほか、「世の中の論」という感覚での「ヨロン」という読み(湯桶読み)も一般化した。
概要[編集]
世論は多くの人々が共有する意見であり、社会の統合化の促進、支配者の統治の正当化のために世論は重要であると考えられている。特に現代の議会制民主主義に基づいた社会においては選挙を通じて世論が政治的支配の正当性を左右することになる。すなわち世論は政治的リーダーに対する国民の意思表示としての機能があると言える。しかし世論がどのような内容となっているのか、またそもそも世論といえるような共通意見が世間一般に存在するのか、を知るのは相当程度に困難なことであり、単なるマスメディアの意見、ないし願望が「世論」として紹介されることも多いし、またアナウンス効果による世論操作と言われることもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AB%96

民主主義では 主権は国民にあり、 国民の意見に従うは大事とされるが、この文脈で、国民の意見の表現で しばしば世論が使われ、政治や政権に一定の圧力を加え、反映が期待される面を有している。また、選挙の動向の報告に世論調査が盛んに行なわれている。
まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見とは何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。 世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。 この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。 選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
ところで、民主主義の観点で、政治や政権が 世論に縛られるとは考えるべきでは無く、国民に選ばれた代表者は、高い立場から、個々の政治的な問題について、国民の世論など曖昧な意見に左右される必要はなく、自由に判断できると考えるべきである。そうでなければ、民主主義は 無責任政治、衆愚政治に陥ることになるだろう。まさに、間接民主主義の大事な観点は ここに有ると考えられる。
これはもちろん、選挙で選ばれた政治家が、多様な意見を参考にすることを、否定することを意味しない。逆にいろいろな意見を参考にすべきは当然である。
これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、 マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、 逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。

以 上



再生核研究所声明41(2010/06/10):世界史、大義、評価、神、最後の審判

声明36(恋の原理と心得)で、元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。 人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。 
と述べて、人類は 人間存在の原理(人間である限り否定できない、不変的な原理を述べているもので、人間である限り、存在していること、そして、存在していることを知っていること、そして、求めているという三位一体の、デカルトのコギトエルゴスム(我れ思う、故にわれ在り)を基礎に置いた考え方: 夜明け前 よっちゃんの想い:211ページ)によって、世界の歴史を発展、拡大、深化させていくであろう。
ここで、世界史とは 人類が得たあらゆる知識、情報を意味するが、世界史は過去の一切のことについても真相の究明を続けていくであろう。これは真実を知りたいという人間存在の原理に他ならないからである。
個々の人間の目標は、 人生における基本定理 (声明12) に述べられているように 生きること、感動できるように生きることであるが、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在であり、個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみれば 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である (声明36)。
そこで、人間にとって真に価値あることとは、人類の目標のために貢献することではないだろうか。 人類の営みは世界史によって、表現されるから、世界史のため、人類のため、元祖生命体のために貢献することこそが、真の意味における大義と言えよう。 人類が、世界史が進化していけば、過去の元祖生命体の営みの総体を次第に明らかにして、物事の真相と評価、位置づけ、位置関係を明瞭にしていくであろう。- すでに、グーグルの世界に それらの初歩を見ることができる。
神とは全知、全能の存在とされるが、世界の全体を捉えられるのは現在、人類以外に存在せず、未来において、進化した元祖生命体こそが、神に相当する存在ではないであろうか。
進化した未来人は 現代人の能力のレべルを あたかも幼稚園生くらいとみ、現在のコンピュータのレベルを 手動計算機程度くらいとみるだろう。
そのとき、世界の歴史は、個々の人間の存在の関係 (評価) をきちんと明らかにするであろう。
この声明の趣旨は、先ずは 世界の政治家の皆さんに、世界史に耐えられるような上記大義に基づいて、行動して頂きたいと要請しているのです。 小さな自分たちの立場ではなくて、より大きな世界のために高い志の基に、行動して頂きたいということです。 同時に、不正や不義は 歴史的に明らかにされ、真実は必ず、明らかにされるということに注意を喚起することにある。 研究者や芸術家たちは 近視眼的なことに拘らず、己が道を進めばいいのであって、適切な評価は必ず下されると考えるべきです。 マスコミ関係者や解説者の皆さん、思想家たちの皆さん、世界史の評価に耐えられるような高い視点と志で、重要な職務を果たして頂きたいと考えます。 人間にとって価値あることとは、小さな自己の世界に閉じこもらず、上記大義の基に努力することではないであろうか。
将来、世界史が明らかにする、世界史の全体における個々の関係こそが、最後の審判ではないだろうか。 それは同時に 未来ではなく、現在、いまの 個々の人間の 深奥に普遍的に存在する神性と良心 に通じていると考える。 それらを捉え、それらに調和し 忠実に生きることこそ、良く生きることに他ならない。 悪いことは苦しいことである。必ず、良心の呵責として、その深奥から湧いてくるからである。他方、大義に生きることは 上記永遠の生命の中に生きることを意味するから、楽しいことである。 滅ぶことも消えることもない。
以上











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