2015年7月20日月曜日

記事 安田洋祐2015年07月15日 09:43『「学力」の経済学』

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安田洋祐2015年07月15日 09:43『「学力」の経済学』




先日ブログでご紹介したヘックマン教授の『幼児教育の経済学』を読んで関連文献に興味を持ち、ちょうど書店で平積みされていた慶應SFCの中室先生の近著を衝動買い。(あまりに面白くて)早速読了したので、以下で簡単に感想を。

「学力」の経済学
「学力」の経済学 [単行本(ソフトカバー)]
中室 牧子
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2015-06-18



ポップな表紙と読みやすい文体で、教育に関するとっても興味深い研究成果が、次から次へと明らかにされていきます。某TV番組ではありませんが、「ホンマでっか!?」と思わず唸るような驚きの発見・ノウハウが満載で、一度読み始めたらページをめくる手が止まらなくなること間違いナシです^^ 本書で紹介された結果の一部をご紹介すると、次の通り。

・「ご褒美」はあげ方を工夫すればかなり効果的
・ほめて自尊心を高めると成績はむしろ低下する
・テレビやゲームの悪影響は実はほとんどない
・広い意味での教育投資の収益率は年齢が上がるにつれて下がる
・もっとも収益率が高いのは就学前の「幼児教育」
・学力以外の「非認知能力」の改善で将来収入が大幅に増える
・少人数学級によるプラスの教育効果はほとんどない
・親に対する子ども手当で学力は向上しない
・世代内の平等化が世代間の不平等を生む
・教員研修には効果が無い


これらのすべてが、単なる専門家の自説などではなく、きちんとした科学的根拠(エビデンス)に基づいた、信頼性の高い実証研究の成果としてまとめられています。その解釈についても、どの時期・どの国/地域・どの母集団から、どういった方法で集計したデータを、どのように(統計的に)評価したか、などが詳らかにされているので、読者が勝手に結果を拡大解釈してしまうリスクが最小限に抑えられていると感じました。通常、こってりした説明が増えるほど読み手の関心は下がっていってしまうものなのですが、そうした副作用を全く感じさせない中室さんの書き方は流石です。

僕のような子育て世代にとって、子供の教育にいくらお金をかけるか、いつ・どのような目的に使うべきかは、切実な問題です。教育論や教育政策を巡る議論は、ついつい個人的な経験や思い込みに左右されてしまいがち。まだ数は限られているかもしれませんが、本書のようなエビデンスにもとづく客観的な研究成果が少しでも広まることで、議論や教育の質が向上し、子供たちの未来がより豊かなものになることを、一人の父親として切に願っています。
(蛇足ですが、「教育は数字やデータなんかじゃ分からん!」と疑ってかからず、政治家や教育評論家の皆様にもぜひぜひ本書を手に取って頂きたいです)


さて、最近の経済書は「科学的根拠=エビデンス」を謳った実証研究系の書籍がかなり増えてきました。(以前ご紹介した清田さんの『拡大する直接投資と日本企業』でも、エビデンスの重要性が至るところで強調されていました。) そのエビデンスの中でも、最も信頼性が高いとされているのが「ランダム化比較試験」(Randomized Controlled Trial, RCT)と呼ばれる(他分野でもお馴染みの)手法です。名前は聞いたことがあっても実は中身についてほとんど知らない、なんとなくしか理解していない、という方は結構いらっしゃるのではないでしょうか?

本書の補論「なぜ、教育に実験が必要なのか?」では、政策評価のゴールドスタンダードとも呼ばれるこの「ランダム化比較試験」(RCT)について、その具体的な方法から、背後にある考え方、メリット、手法を生かした研究、注意点や潜在的な欠点に至るまで、非常に詳しく説明されています。僕が今まで読んだRCTの解説で(日本語・英語を問わず)ダントツで読みやすいので、教育や学力に関心の無い方でも、この箇所だけはぜひ読んで頂ければ幸いです。

特に、RCTの単純さに関する以下の視点は、政策提言を考える上で最重要ポイントではないかと思います。

米国の政策決定プロセスに、ランダム化比較試験が頻繁に登場するようになったのは、エビデンスとしての階層が高いからだけではありません。評価の解釈や説明が容易であることもその理由のひとつです。教育政策の効果について説明する際、複雑な手法を用いた評価を行っても、十分に理解できる人は多くありません。政策を決める国会議員や官僚といえども、複雑な計量経済学手法を理解している人は極めて少数でしょう。政策評価の手法が複雑でわかりにくいことは、これまで教育経済学の研究を政策に活かすうえでのハードルとなってきました。しかし、ランダム化比較試験はそのような分かりにくさとは無縁です。
(176ページより抜粋)


ちなみに、(主に医療分野で発達した)エビデンスの「階層」が、【図40】で紹介されています。直接データと対応していないような「専門家の意見なんて信用できない」と考えるか、それとも「専門家ですらこの状況なのだから、いわんや自称“専門家”をや」と見るか… いずれにしても、世論やメディアの眼がもっとエビデンスに向くようになれば、それがやがては政府・国会での議論の改善に繋がるのではないかと思います。道のりは遠いかもしれませんが、その一歩として、本書のような実証研究の知見がぜひ広まって欲しいです。

1:ランダム化比較試験
2:非ランダム化比較試験
3:分析疫学研究
4:症例報告
5:論説・専門家の意見や考え
(【図40】 数字が大きくなるほど信頼性が低い)http://blogos.com/article/122664/


確かにいいところを ついていますね。

再生核研究所声明 76(2012/2/16)  教育における心得 ― 教育原理

人間の教育には微妙で複雑な要素がある。 その要点について触れ、教育の原理に思いを寄せたい。 また、学校教育や、家庭教育、人間の在りようの心得としたい。
教育とは要するに、 外なる刺激で、人間の成長、発展を促すことであるが、要点は外なる刺激が、個々の人間にどのように影響して、好ましい影響を与えるかである。
好ましい影響とはそもそも何であろうか。 簡単に考えれば、次が 基本ではないだろうか:

個人の才能を伸ばしたり、活かしたり、 究極には個人が幸せになること、 

および

良き社会人になり、社会に貢献できるような人間に成長できるようにすること。

両者は矛盾するものではなく、表裏一体、車の両輪と言えるだろう。なぜならば、 人間は 社会の中の存在だからである。
まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。
いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。
次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。
あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義や自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。
もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。
個性を生かす、個人の能力を活かす、個人の全人的な成長を図ること; 良き社会人を育成し、文化の継承を図る、これらは教育の基本的な要素、教育原理であると考えられる。
軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。
特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。
この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。
日本の大きな教育目標が 本来あるべき教育の理念からずれ、受験勉強やそのための学力を付ける いわゆる科目の勉強に重点が行き過ぎてはいないだろうか。 ひどい場合だと、ただ良い大学に入ることばかりが目的で、文科系を専攻したいのに、理工系,医学系が 評判が良いので 評判の良い方に入学したということは 世に多い現象である。 また、近年はいわゆる名門大学に入るために、 小さなころから 塾通いをしたり、入試を有利にするために、専門的な学校に入学して、特訓をしている場合が 世に多いのではないだろうか。
これらは、昔の軍国主義教育と同じように 何か変な教育で、おかしな人間を大量に育てているのではないかとの危惧の念を抱いている。また入試の共通テスト方式の悪い影響を危惧したり(再生核研究所声明 20:大学入試センター試験の見直しを提案する)、貧しい、競争をあおる風潮にも懸念を表明したり(再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)、 天才教育などに対する配慮なども提案している(再生核研究所声明 60: 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会)。
そのような面からも、日本の教育の在りようについては 初心に戻って考え直す必要が有るのではないか(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)
と、 再検討を広く訴えたい。
EUやアメリカでは、日本のような上記教育問題が 顕在化していない様に見えるが、実体の解明と比較検討は 大いに参考になるのではないだろうか。
もちろん 教育の問題は、人間存在の意義 と同じく、永遠の問題であり、絶えず、各級で検討され続けて行かなければない。

以 上












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