2015年7月15日水曜日

記事 竹内健2015年07月13日 12:43日本人はなぜサムライと愚か者が極端に分かれてしまうのか

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竹内健2015年07月13日 12:43日本人はなぜサムライと愚か者が極端に分かれてしまうのか




最近、半導体、電機メーカーとそれに関連する私達への風当たりが強い。また、元の当事者、いわば業界の先輩にあたる方々が自信喪失で、「もう日本でやっても無駄ではないか、もう諦めたらどうか」と言われることも少なくない。

私は幸運にも企業・大学と立場は変わっても、フラッシュメモリ、SSD、半導体ストレージという、市場が成長し日本がいまだに強い分野に携わることができています。

正直言って、日本の電機業界を取り巻く自信喪失や沈滞ムードが理解できません。

個別のやり方が悪かったから負けただけで、日本のせいでも、ましてや日本人が駄目だから負けたわけではないのではないか。

この釈然としない「空気」の原因は何だろうかと、最近は電機メーカーが敗れていった様を描いた本を読んでいます。

 サムライと愚か者 暗闘オリンパス事件(山口義正)

 切り捨てSONY リストラ部屋は何を奪ったか(清武英利)

 会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから(大西康之)

 グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた(辻野晃一郎)

 パナソニック人事抗争史(岩瀬達哉)

それぞれとても読み応えがある力作で、とても考えさせられる内容ばかりでした。

ただ、負けた原因の多くが組織や経営の問題であるように描かれており、「なぜ日本では半導体や電機が負けるのか」釈然としませんでした。むしろ一度成功した企業が硬直化し、変化に対応できなくなっていったのではないか。

こうした企業の経営が悪化する原因は、外部環境の問題というよりも、人事の失敗や企業風土の劣化など。個別の原因があるでしょうし、失敗をただ一つの理由で説明することは乱暴すぎるでしょう。

共通の問題はないのかと探そうとしながら本を読み進めるうちに、「サムライと愚か者」の中に「これだ」と思える部分がありました。

それは、この本の題名にもなっている言葉、不正を暴いた結果、解任されたオリンパスのウッドフォード社長が著者に語った言葉です。

「日本人はなぜサムライと愚か者がこうして極端に分かれてしまうのか?」

不正が明らかになる時というのは、内部で重要な仕事をしている人からの通報が多いのでしょう。自分には何のメリットもないのに、会社を立て直したいという思いから危険を顧みずに不正を追求する「サムライ」たち。

一方、遵法精神に欠け不正を働く経営者や、不正が露見することを揉み消そうとする関係者や社員という「愚か者」。

日本の企業で大きな不祥事が起こる場合は、特定の個人の罪というよりも、出資している金融機関、不正を見過ごす監査法人や監督官庁、そして大企業の不正はなかなか報道しようとしないメディアなど、多くの関係者の連帯責任の場合が多いでしょう。

つまり、右肩上がりで成長している時は連携によってうまく働いていたエコシステムが、問題を起こした時には、かえって問題の解決を妨げて先延ばしし、取り返しがつかないほど問題を大きくしてしまうこともある。

産官学の様々なプレーヤーが「連携して成功することと」と「癒着して悪化すること」は紙一重なのかもしれません。

日本の強みが場合によっては弱みとして露呈してしまうのではないか、と考えさせられました。

こうした問題は電機メーカーに特有というわけではないでしょう。

同じく清武英利さん書かれた「しんがり 山一證券最後の12人」には、無謀な融資を行い、山一證券を自主廃業に追い込んだ「愚か者」と、破綻後に幹部まで逃げ出す中、最後まで会社に踏みとどまり、真相究明と顧客への清算業務を続けた「サムライ」の社員たちが描かれています。

難しいのは、場合によっては、サムライが愚か者に変わったり、その逆の場合もあるでしょう。

人は弱いもので、立場が「愚か者」を作ってしまうのかもしれません。「自分は絶対に愚か者にならない」と言える人がどれだけいるでしょうか。

こうした失敗は何度も何度も繰り返されます。過去の事例を学び続ける中で、少しでも同じ過ちを繰り返さないよう、自戒し続けることくらいしかできないのかもしれません。

今でも同じような事例がたくさんあります。例えば総工費が当初の1300億円から2500億円にまで膨れ上がった国立競技場。オリンピックが決まる前、当事者意識もリアリティも希薄なまま、コストを精査せずに「アピールが必要だし、いってしまえ」と決めたのではないでしょうか。ありがち、と言ってしまうと無責任ですが、そんな雰囲気も多少は理解できます。

詳しい事情を知っているわけではありませんが、それでも「ヤバイ」と気付いた時、何度も立ち戻るチャンスがあったのではないか。その時に、「今更戻れない、強行突破だ」となってしまっているとしたら、傷口を広げるだけでしょう。

上記の本の中にも、立ち戻るには遅すぎることはないのに、それができずに会社を潰すことになってしまった「愚か者」が描かれています。

サムライと愚か者が元々いるわけではなく、人生では立場によって、サムライにも愚か者にもなってしまう可能性がある。愚か者に落ち込むトラップ(罠)にはまらないよう、自分を振り返り続ける、罠にはまりそうになった時にアドバイスしてくれる人を持つことが大切なのでしょうね。http://blogos.com/article/122207/


罠にはまりそうになった時にアドバイスしてくれる人を持つことが大切なのでしょうね。
その通りです。

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上


再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/






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