2015年11月11日水曜日

記事 キャリコネニュース2015年11月09日 12:18相次ぐ動物殺傷事件でもの申す! 無闇に不安感を煽る報道は犯人を調子に乗らせるだけだ!

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キャリコネニュース2015年11月09日 12:18相次ぐ動物殺傷事件でもの申す! 無闇に不安感を煽る報道は犯人を調子に乗らせるだけだ!




突然だけど、僕はここ数日、大変に憤っている。

理由は連日のように報道されている動物殺傷事件についてのニュース。11月初頭から全国区で報じられているところであるが、横浜市中区ではここ2か月のうちに、8頭もの猫が相次いで不審な死を遂げていたことが分かっている。

何者かが毒殺したと見られているが、心苦しいのは死んだ猫がいずれも地域住人が普段から世話をしていた猫であったということ。愛されていた動物が殺されることは痛切の極みに違いない。

今年の夏以降、人間に虐待されたと見られる猫についての報道がポツポツと目に付くようになっていただけに、心が潰されそうな思いである。(文:松本ミゾレ)

猫に続きハトやカモも……相次ぐ報道に閉口
さらにこの事件と平行して、最近僕の心を嵐のように荒れ狂わせているのが埼玉県入間市で先月25日に発見された、首の付近に矢が貫通していたカモのニュースだ。とんでもなく残虐で愚かな行為と言うほかない。このカモは4日午後に公園管理事務所職員が捕獲に成功し、現在は矢も除去され元気にしているというのが唯一の救いだ。

ところがひどい事件は続くもので、6日放送の「NEWS ZERO」(日本テレビ系)では、栃木県大田原市で首のないカモやハトの死骸が発見されたと報じている。殺された鳥は首を刃物で切られているという。明らかに自分よりも弱い存在に対して、あんまりな所業である。

しかし僕はこの一連の残虐な行為、マスコミがあまりに騒ぎすぎるから、馬鹿で惨めな犯人を調子付かせて、さらには模倣犯を増やす可能性も増やしているように思える。

動物を惨殺する人間は大部分が弱虫、恐れることはない!
報道がこういう事件を取り上げた後、お定まりのパターンでコメンテーターが口にするのが「犯人がいずれ動物だけじゃなく、人に危害を加えるかも知れない」という危惧だ。こうして身近に異常な犯罪者が潜んでいるという警鐘を鳴らすのも、マスコミの大事な仕事かもしれない。

確かに、動物を殺すことからエスカレートして、人間をターゲットにするようになった凶悪殺人犯というのも過去にはいる。ただ、動物を虐待して殺すような人間は、その大部分が弱虫で、自分に勝てない小さな存在にしか力を誇示できない情けない人間だと思う。

こういう人間が自分の犯行を報道で見てどう感じるか。もしかしたらさも自分が世間を揺るがす凶悪な犯罪者だと錯覚して陶酔するかもしれない。

だったら、報道の際にいちいち危機感を煽るBGMや視覚効果を使って視聴者を不安にさせるようなことはせず、事実を淡々と報道するに留めた方がいいだろう。今のままでは、連日の報道を見て、世間を騒がせようとマネする輩が増える可能性だってある。

これ以上の模倣犯を出さないためにもマスコミは冷静な対応を
何年か前、花壇の花がズタズタに踏みつけられたことが報じられたこともあったが、残念なことにその直後、僕の住んでいた地域の公園の花壇が滅茶苦茶に荒らされていた。せっかく綺麗に咲いていた花が無残な姿になっていたのは悲しかったし、なにより世話をしていた人の心をなんだと思っているのか。

今回の件にしても、埼玉県でカモに矢を撃ち込んだ人間と、栃木県でカモやハトの首を切って殺した犯人は同一人物じゃない可能性がある。栃木県の犯人は模倣犯である可能性だって当然出てくるはずだ。

もしもマスコミが不安を煽ったりせずに淡々と報じていれば、こうした事件はこうも続かなかったも知れない。首を切られて殺されるハトもカモも出なかったかもしれない。報道する立場にいる人間には、大局的な視点を持って冷静に対応してもらいたいものである。

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影響の大きなテレビや新聞などは、 報道する内容の社会的な影響の評価が大事では? 
良い話題作りに考えて欲しい。

再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について


まず、世論について、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:

世論(せろん、よろん、英語: public opinion)とは、世間一般の意見のことで、公共の問題について、多くの人々が共有している意見、もしくは大多数の賛同が得られている意見(考え)のことを指す。1つの問題を巡って世論が割れ、対立し合うこともある。
用語[編集]
日本では、戦前より、「輿論(ヨロン)」と比べるとはるかに頻度は低いものの、「世論(セイロン、セロン)も使用されていた(輿論の項参照)。使用頻度に関しては、戦前の代表的な国語辞典である『言海』などに収載されていないことが一つのめやすになるだろう。戦後の当用漢字表制定時に、「輿」が当用漢字表に含まれなかったため、新聞などでは「世論」の表記が使われるようになった。その後、それまでの「セロン」のほか、「世の中の論」という感覚での「ヨロン」という読み(湯桶読み)も一般化した。
概要[編集]
世論は多くの人々が共有する意見であり、社会の統合化の促進、支配者の統治の正当化のために世論は重要であると考えられている。特に現代の議会制民主主義に基づいた社会においては選挙を通じて世論が政治的支配の正当性を左右することになる。すなわち世論は政治的リーダーに対する国民の意思表示としての機能があると言える。しかし世論がどのような内容となっているのか、またそもそも世論といえるような共通意見が世間一般に存在するのか、を知るのは相当程度に困難なことであり、単なるマスメディアの意見、ないし願望が「世論」として紹介されることも多いし、またアナウンス効果による世論操作と言われることもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AB%96

民主主義では 主権は国民にあり、 国民の意見に従うは大事とされるが、この文脈で、国民の意見の表現で しばしば世論が使われ、政治や政権に一定の圧力を加え、反映が期待される面を有している。また、選挙の動向の報告に世論調査が盛んに行なわれている。
まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見とは何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。 世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。 この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。 選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
ところで、民主主義の観点で、政治や政権が 世論に縛られるとは考えるべきでは無く、国民に選ばれた代表者は、高い立場から、個々の政治的な問題について、国民の世論など曖昧な意見に左右される必要はなく、自由に判断できると考えるべきである。そうでなければ、民主主義は 無責任政治、衆愚政治に陥ることになるだろう。まさに、間接民主主義の大事な観点は ここに有ると考えられる。
これはもちろん、選挙で選ばれた政治家が、多様な意見を参考にすることを、否定することを意味しない。逆にいろいろな意見を参考にすべきは当然である。
これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、 マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、 逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。

以 上


再生核研究所声明186(2014.12.6) ニュースの価値について

まず、ニュースについて、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:

ニュース(英:news)とは、最新の情報や出来事の報道のことである。あるいは、そうした事件や、出来事も指す。具体的には、最近発生した政治や事件・事故・スポーツ・地域情報などの出来事などを伝えること。メディアとしては、新聞やテレビ、ラジオ、電光掲示板、インターネット(特にWWW、ニュースサイト)が使われる。テレビが普及する以前には、映画(ニュース映画)も使われた。
1990年代以降、インターネットの普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
メディア市場調査会社ピュー・リサーチセンターの2008年12月の調査によれば、ネットを媒体としてニュースを知る人の割合が、ついに新聞を上回った。調査は2008年12月上旬に米国内1,489名の成人に対して行われたもので、40%がインターネットから国内外のニュースを得ることが多いと回答し、一方、新聞からという者は35%にとどまった。新聞をニュースソースとしている人の率は2005年からほぼ横ばいだが、インターネットを情報源としている者の率が高くなっており、2007年9月の前回調査では24%であった。 一方、テレビは70%の人がニュース情報源としていると回答しており、依然インターネットと新聞を上回っている。30歳以下の若年成人層に限定すれば、インターネットはすでにニュース情報源としてテレビに追いつき、ともに59%となった。ちなみに2007年はテレビ68%、インターネット34%であり、急速にインターネットのシェアが延びている。

そもそもニュースとは何かの議論をきちんとすべきである。上記説明では 本質がみえず、物事の本質が空虚になっていることを知るだろう。最新の情報、出来事とは何か。いずれにしても、それらは、メディア、インターネットを通して、伝えられ、広がって行くものである。問題は、情報、出来事でもほとんど無限に存在するものから、それらから、選択されて伝えられるということである。すなわち、情報、出来事は、関与する人間によって、価値判断がなされて、ニュースの価値の大小が判断され、それによって、新聞なら、どのような面に、どのくらいのスペースをもって扱われるか、テレビなどでは、画面や時間、扱われる順序などの問題が、ニュースの重要性、価値判断によって定められる。どのような価値を与え、どのように扱うは、それぞれの責任部署で判断されるだろう。
そこで、 この声明の趣旨は まさに、このニュースの重要性、価値判断について、考察することである。
まず、大事な事実は、ニュースの重要性、価値判断によっては、社会的な価値評価、判断が大きく影響を受けることである。例をあげれば、日本ではノーベル賞受賞関係は ニュースで大きく扱われるので、ノーベル賞は 相当に価値ある事として、社会で定着し、評価され、賞について付加価値がどんどん増加している事実がある。他方、数学界の最高の賞、フィールズ賞などは、相当に価値ある世界の賞であるにも関わらず、それほどのニュースにならない現実が存在する。いろいろなスポーツにおける優勝者の報道の有り様も このような観点から、興味深い。これらは、社会における影響の大小で、世の関心の大小で、そのような扱いは止むを得ない現状があると考えられる。問題は、ニュースの重要性、価値判断をする者によって、意図的に社会的な評価が定まる要素が存在するということである。結局、ニュースの重要性、価値判断は 社会の関心、価値観、文化、習慣などから判断されて、そしてニュースを流す人の価値判断が加味されて流されるという、観点である。そこで、個人的な、あるいは仲間の利益、政治的な、あるいはもろもろの圧力で、大きくニュースの扱いが、歪められる危険性が、何時でも大きいと言える。さらに、ニュースを扱う者の基礎的な知識や素養、教養、学識、見識に大きく左右される現実がある。このことは、次の観点を思い起こさせる:

再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について 
― まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見は何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。

― これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。― 

というように、ニュースの重要性、価値判断は 多くは、上記のようにマスメディアを操作している人たちによって定められるという観点である。インターネットの普及で、個人たちが社会への影響を志向して、いろいろ積極的な働きかけがなされるようになってきているが、当分、新聞やテレビ、ラジオの影響の大きさは 続くのではないだろうか。
そこで、そのような関係者は、文化を支え、社会的な価値判断をしている現実を真摯に受け止め、声明165に有るように、責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。
特に、この声明の発想は、ニュースとして扱われる重要性をきちんと評価され、適切に扱い、伝えられることを 要望したいということである。
卑小な犯罪や、つまらないニュースを繰り返し、繰り返し扱い、伝えられているようなことはないだろうか。ニュースの低俗化などはないだろうか。(最近のある会合で、テレビを持たないという高貴な方から、そのようなニ-ハに興味があるのかという、話しを珍しくお聞きした。)他方、伝えられるべき 価値あるニュースで、無視されているようなことはないだろうか。新しい価値を見い出したり、世相を高め、浄化するような視点にも配慮し、より良い社会を築くために ニュースの質、扱いの妥当性を検討するように 精進、また見識を高められるように、関係者に要請したい。
本声明は、報道関係者に マスメディアの社会における重要な役割を 思い起こさせることにある。
                                     以 上












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