インドと数学 ~ゼロの概念
最近注目されているインドの数学・計算術。その実践を見ながら、人類最大の発明である「ゼロ」を考えてみましょう。 更新日: 2011年09月11日
fever7777さんfever7777さん
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インドの経済勃興、とくにIT産業の興隆が目覚しい。時を同じくして、インド数学(計算術)が注目を浴びた。さらに、インドの理系教育の充実が我らを驚かした。二桁どうしの掛け算を暗記するだの高校生で三次の行列式や連分数を扱うだのと高度な数学教育が伝えられた。
出典
http://d.hatena.ne.jp/Hyperion64/20100911
インド式数学とは?
インドで暗記する掛け算は「9x9」ではなく「20x20」です。残念ながら日本人の多くは、数学力という点でインド人には敵いません。
今「インド式数学」が秘かな脚光をあびています。
それは計算・暗算が驚くほど早くなる上、暗算でも答えを間違えにくくなるからでしょう。
出典
http://math.hoge2.info/
インド式数学 公式一覧
http://math.hoge2.info/itiran.html
インド式数学の計算公式を一覧で表示しています。
zatta-mandaの数学 STORY03~インド式筆算~
http://www.geocities.jp/zt_manda/math/story03.htm
数学を趣味としない人のための、数学にまつわるこばなし集。
http://www.geocities.jp/zt_manda/math/image/hissan02.PNG
インド式数学で計算しよう
http://math.hoge2.info/
驚くほど簡単に計算ができるようになるインド式数学による計算法を画像つきで分かりやすく紹介。
http://math.hoge2.info/image/top.png
インド式計算術ドリルと数学の方法・やり方
http://xn--c-ieu5e3g138t.seesaa.net/
インド式数学に伝わるユニークな計算術。これを使って、暗算力を高めよう。そして、「脳トレ」もしよう。
7:43
YouTube
インド数学 2ケタと2ケタの引き算
1:36
YouTube
掛け算の暗算方法(図式解法-3)
ゼロの概念
Carlos Rodriguez 2@fever8777
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インドの凄いところは、数学力の高さだけではなく、ゼロの発見にある。ゼロの概念は、その後の仏教思想の「空」に繋がった。ゼロとは「何もない状態」ではない。「ゼロという状態がある」ということなのだ!
返信 リツイート お気に入りに登録 2011.09.10 15:13
コンピューターは、0と1の2進法による高速演算で成立する。この場合のゼロは、無ではなく確実に存在する。しかし、0と1の間には何も存在しない。
出典
http://mwainfo.blog.so-net.ne.jp/2011-01-11
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blog.explore.ne.jp
ゼロは、インドで発見された。あの強烈な太陽の熱が「なければいい」という発想がゼロの原点だと聞く。
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http://mwainfo.blog.so-net.ne.jp/2011-01-11
ローマ数字に0が無いのはどうしてでしょうか?インド発祥の数字だからです
出典
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q149344439
出典
pics.livedoor.com
8世紀頃インドからアラビアに伝わった「ゼロ」(サンスクリット語でshunya シューニャ)は、アラビア語で sifr スィフル「空(から)」と翻訳されました。この sifr が、13世紀のはじめ、アラビア記数法(つまりインド記数法)が伝わったイタリアでラテン語化して zephirum となり、最終的には zero となりました。一方、中世ヨーロッパの数学界では「ゼロ」をあらわすために、もとのアラビア語とほぼ同じ語 cifra を長く使い続けました。英語の cipher の語源はここからきています。英語のcipher のもつ意味のうち「暗号、符丁」は、当時の一般の人々が「ゼロ」に対し抱いていた神秘や秘密なものへの驚きの名残であるといわれています。
出典
インド数字
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r.tabelog.com
実体が無いといっても、それは法界(仏の世界)から見たらそう見えるのであって、我々娑婆世界に住んでいる人間には、やはり有るものは有ると見えるわけです。しかしながら、「有るんだけれど、あくまでそれは仮の姿であり、本当は実体は無いのだ」と観るのです。
出典
不増不減
出典
www.rendezvous-tokyo.com
インド人の超論理思考
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/cyoronri.html
インド哲学は、知性の赴くところ、限りなくどこまでも進もうとする。
出典
インド哲学の愉しみ
出典
ameblo.jp
社会科学原論 ~「宇宙の法則」とは? - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2130856380571760701
政治経済など社会現象、もちろん人間もまた「宇宙の法則」に左右されている。それを研究することにより、社会システムを創造できる筈。1990年代中頃の文のまとめです。
ゼロは本来的な意義として、決して「何もない」状態ではない。「ゼロという状態」があるのだ。ゼロは自然状態であり、安定相であり、森羅万象の帰結した姿である。仏教では、人は生老病死という四苦や八苦を経由して、「無」に帰るという。「無」では魂は生きているのであり、決して何もない状態であるということではない。だからゼロ=無限大である。0/0を無限大と定義した数学者は、強ち誤謬を犯した訳ではない。
ゼロ=無限大=自然状態=安定相を「宇宙の法則」と名付けよう。これこそが、すべての出発点になるのであるから。
出典
http://matome.naver.jp/odai/2130856380571760701
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blog.goo.ne.jp
ゼロというのはプラスマイナスして見かけ上ゼロの状態というのを意味する。化学で言う「平衡状態」に近い概念だ。これが仏教の中で取り扱われるようになり、「現時点で何者かとして観察される客体も、ある一定の条件と原因によってそこに今存在しているものに過ぎない」=「ゆえにそれは絶え間ない変化の中にあって何がしかの常態、あるいは核となる不変の原質というものを持ちえない」という縁起論に結びつく。さらに、ある概念が存在するためにこれと対になる否定概念が必要になり、両者は互いに依存している場合もこれを空と呼ぶ。
出典
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/caa12b78914a8b0ea8b46b66101b9950
Daisuke Uchimura@_UCHIMURA
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ありゃw先日無限に関しての本を読みました。ゼロも無限も面白いですよね。無限は三つの説を取れると言ってました。1つは… RT @fever7777: ありがとうございます。残念ながら違うんですよw インドと数学~ゼロの概念 matome.naver.jp/odai/213156344…
返信 リツイート お気に入りに登録 2011.09.10 22:33
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Daisuke Uchimura@_UCHIMURA
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1つは実際に状態として存在する無限。2つめは存在はしないが概念としての無限がある。3つめは概念としてさえ存在を拒否する態度。三は無いにしても宇宙がどうなってるか分からないから1にロマンを感じてしまいますw RT @fever7777
http://matome.naver.jp/odai/2131563448907165301
Daisuke Uchimura@_UCHIMURA
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私はゼロの形が円○であることが面白いです。森羅万象、自然から人の感情に至るまで全て運動や振幅、流れを持っていて、一見動いてなさそうなものも、作用と反作用が同時に起こっているにすぎなかったりするとのこと。だとしたら唯一完全な形は円。○は始まりにして終わり。断絶なき輪廻ですね。
返信 リツイート お気に入りに登録 2011.09.10 22:52
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Daisuke Uchimura@_UCHIMURA
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つまり、ここに出てくるゼロであり無限という概念を表すのが○ということに偶然性を見いだすことはできないですw RT @fever7777: インドと数学~ゼロの概念 matome.naver.jp/odai/213156344…
返信 リツイート お気に入りに登録 2011.09.10 22:57
インドで“ゼロ”ルピー紙幣が発行される | デジタルマガジ
http://matome.naver.jp/odai/2131563448907165301?page=2
再生核研究所声明257 (2015.11.05) 無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点
(道脇さんたちの、和算の伝統を感じさせるような、何とも 言えない魅力 がありますね。 添付のように完成させたい。例の専門家たち、驚いて対応を検討しているのでは?どんどん、事情がみえてきました. 今朝の疑問も きれいに散歩中 8時15分 ころ、解決できました.成文化したい。2015.11.1.9:7
無限遠点の値の意味を 約1年半ぶりに 神は関数値を平均値として認識する で 理解できました。今、気になるのは,どうして、正の無限 負の無限、および ゼロが近いのかです。その近いという意味を、 正確に理解できない。 近い事実は 添付する 電柱の左右の傾きに現れている。
log 0=0
と定義するのが 自然ですが、それには、 ゼロと マイナス無限大 が一致しているとも言える。 そのところが 不明、何か新しい概念、考え 哲学が 求められている???
2015.11.1.05:50)
ローラン展開の正則部の値の解釈のように(再生核研究所声明255 (2015.11.03) 神は、平均値として関数値を認識する)、実は当たり前だったのに、認識がおかしかったことに気づいたので、正確に表現したい。
まず、正の無限大とは何だろうか。 1,2,3,…… といけば、正の整数は 正の無限大に収束、あるいは発散すると表現するだろう。 この正確な意味は イプシロン、デルタ論法という表現で厳格に表現される。すなわち、 どんなに大きな 整数 n をとっても、あるN を取れば(存在して)、N より大の 全ての整数 m に対して、n < m が成り立つと定義できる。 いろいろな設定で、このようにして、無限は定義できる。 どんなに大きな数に対しても、より大の整数が存在する。 それでは、+∞ とは何だろうか。 限りなく大きな数の先を表す概念であることが分かる。 大事な視点は +∞は 定まった数ではなくて、極限で考えられたもので、近づいていく先を表した状況で考えられていることである。 これらの概念は極限の概念として、現代数学で厳格に定義され、その概念は新しいゼロ除算の世界でも、全て適切で、もちろん正しい。
簡単な具体例で説明しよう。 関数y=1/x のグラフはよく知られているように、正の実軸からゼロに近づけば、+∞に発散し、負からゼロに近づけば、-∞に発散する。 ところが、原点では、既に述べてきたように、その関数値はゼロである。 この状況を見て、0、+∞、-∞ らが近い、あるいは 一致していると誤解してはならない。+∞、-∞ らは数ではなく、どんどん大きくなる極限値や、どんどん小さくなる極限値を表しているのであって、それらの先、原点では突然にゼロにとんでいる 強力な不連続性を示しているのである。
複素解析における無限遠点も同様であって、立体射影で複素平面はリーマン球面に射影されるが、無限遠点とは あらゆる方向で原点から限りなく遠ざかった時に、想像上の点が存在するとして、その射影としてりーマン球面上の北極を対応させる。 関数W=1/z は原点でその点が対応すると、解析関数論では考え、原点で一位の極をとると表現してきた。
しかしながら、新しく発見されたゼロ除算では、1/0=0 であり 原点には、ゼロが対応すると言っている。 これは矛盾ではなくて、上記、一位の極とは、原点に近づけは、限りなく無限遠点に近づく、あるいは発散するという、従来の厳格議論はそのままであるが、ゼロ除算は、原点自身では、数としてゼロの値をきちんとして取っているということである。 この区別をきちんとすれば、従来の概念とゼロ除算はしっかりとした位置づけができる。 近づく値とそこにおける値の区別である。
以 上
再生核研究所声明232(2015.5.26)無限大とは何か、無限遠点とは何か。― 驚嘆すべきゼロ除算の結果
まず、ウィキペディアで無限大、無限遠点、立体射影: 語句を確認して置こう:
無限大 :記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)で表す。 大雑把に言えば、いかなる数よりも大きいさまを表すものであるが、より明確な意味付けは文脈により様々である。例えば、どの実数よりも大きな(実数の範疇からはずれた)ある特定の“数”と捉えられることもある(超準解析や集合の基数など)し、ある変量がどの実数よりも大きくなるということを表すのに用いられることもある(極限など)。無限大をある種の数と捉える場合でも、それに適用される計算規則の体系は1つだけではない。実数の拡張としての無限大には ∞ (+∞) と -∞ がある。大小関係を定義できない複素数には無限大の概念はないが、類似の概念として無限遠点を考えることができる。また、計算機上ではたとえば∞+iのような数を扱えるものも多い。
無限遠点 : ユークリッド空間で平行に走る線が、交差するとされる空間外の点あるいは拡張された空間における無限遠の点。平行な直線のクラスごとに1つの無限遠点があるとする場合は射影空間が得られる。この場合、無限遠点の全体は1つの超平面(無限遠直線、無限遠平面 etc.)を構成する。また全体でただ1つの無限遠点があるとする場合は(超)球面が得られる。複素平面に1つの無限遠点 ∞ を追加して得られるリーマン球面は理論上きわめて重要である。無限遠点をつけ加えてえられる射影空間や超球面はいずれもコンパクトになる。
立体射影: 数学的な定義
•
• 単位球の北極から z = 0 の平面への立体射影を表した断面図。P の像がP ' である。
• 冒頭のように、数学ではステレオ投影の事を写像として立体射影と呼ぶので、この節では立体射影と呼ぶ。 この節では、単位球を北極から赤道を通る平面に投影する場合を扱う。その他の場合はあとの節で扱う。
• 3次元空間 R3 内の単位球面は、x2 + y2 + z2 = 1 と表すことができる。ここで、点 N = (0, 0, 1) を"北極"とし、M は球面の残りの部分とする。平面 z = 0 は球の中心を通る。"赤道"はこの平面と、この球面の交線である。
• M 上のあらゆる点 P に対して、N と P を通る唯一の直線が存在し、その直線が平面z = 0 に一点 P ' で交わる。Pの立体射影による像は、その平面上のその点P ' であると定義する。
無限大とは何だろうか。 図で、xの正方向を例えば考えてみよう。 0、1、2、3、、、などの正の整数を簡単に考えると、 どんな大きな数(正の) n に対しても より大きな数n + 1 が 考えられるから、正の数には 最も大きな数は存在せず、 幾らでも大きな数が存在する。限りなく大きな数が存在することになる。 そうすると無限大とは何だろうか。 普通の意味で数でないことは明らかである。 よく記号∞や記号+∞で表されるが、明確な定義をしないで、それらの演算、2 x∞、∞+∞、∞-∞、∞x∞,∞/∞ 等は考えるべきではない。無限大は普通の数ではない。 無限大は、極限を考えるときに有効な自然な、明確な概念、考えである。 幾らでも大きくなるときに 無限大の記号を用いる、例えばxが どんどん大きくなる時、 x^2 (xの2乗)は 無限大に近づく、無限大である、無限に発散すると表現して、lim_{x \to +\infty} x^2 =+∞ と表す。 記号の意味はxが 限りなく大きくなるとき、x の2乗も限りなく大きくなるという意味である。 無限大は決まった数ではなくて、どんどん限りなく 大きくなっていく 状況 を表している。
さて、図で、 x が正の方向で どんどん大きくなると、 すなわち、図で、P ダッシュが どんどん右方向に進むとき、図の対応で、Pがどんどん、 Nに近づくことが分かるだろう。
x軸全体は 円周の1点Nを除いた部分と、 1対1に対応することが分かる。 すなわち、直線上のどんな点も、円周上の1点が対応し、逆に、円周の1点Nを除いた部分 のどんな点に対しても、直線上の1点が対応する。
面白いことは、正の方向に行っても、負の方向に行っても原点からどんどん遠ざかれば、円周上では Nの1点にきちんと近づいていることである。双方の無限の彼方が、N の1点に近づいていることである。
この状況は、z平面の原点を通る全ての直線についても言えるから、平面全体は球面全体からNを除いた球面に 1対1にちょうど写っていることが分かる。
そこで、平面上のあらゆる方向に行った先が存在するとして 想像上の点 を考え、その点に球面上の点 Nを対応させる。 すると、平面にこの想像上の点を加えた拡張平面は 球面全体 (リーマン球面と称する) と1対1に 対応する。この点が 無限遠点で符号のつかない ∞ で 表す。 このようにして、無限を見ることが、捉えることができたとして、喜びが湧いてくるのではないだろうか。 実際、これが100年を越えて、複素解析学で考えられてきた無限遠点で 美しい理論体系を形作ってきた。
しかしながら、無限遠点は 依然として、数であるとは言えない。人為的に無限遠点に 代数的な構造を定義しても、人為的な感じは免れず、形式的、便宜的なもので、普通の数としては考えられないと言える。
ところが、ゼロ除算の結果は、1 / 0 はゼロであるというのであるから、これは、上記で何を意味するであろうか。基本的な関数 W=1/z の対応は、z =0 以外は1対1、z =0 は W=0 に写り、全平面を全平面に1対1に写している。 ゼロ除算には無限遠点は存在せず、 上記 立体射影で、 Nの点が突然、0 に対応していることを示している。 平面上で原点から、どんどん遠ざかれば、 どんどんNに近づくが、ちょうどN に対応する点では、 突然、0 である。
この現象こそ、ゼロ除算の新規な神秘性である。
上記引用で、記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)、オイラーもゼロ除算は 極限の概念を用いて、無限と理解していたとして、天才 オイラーの間違いとして指摘されている。
ゼロ除算は、極限の概念を用いて得られるのではなくて、純粋数学の理論の帰結として得られた結果であり、世の不連続性の現象を表しているとして新規な現象の研究を進めている。
ここで、無限大について、空間的に考えたが、個数の概念で、無限とは概念が異なることに注意して置きたい。 10個、100個、無限個という場合の無限は異なる考えである。自然数1,2,3、、、等は無限個存在すると表現する。驚嘆すべきことは、無限個における無限には、幾らでも大きな無限が存在することである。 例えば、自然数の無限は最も小さな無限で、1cm の長さの線分にも、1mの長さの線分にも同数の点(数、実数)が存在して、自然数全体よりは 大きな無限である。点の長さはゼロであるが、点の集まりである1cmの線分には長さがあるのは、線分には点の個数が、それこそ目もくらむほどの多くの点があり、長さゼロの点をそれほど沢山集めると,正の長さが出てくるほどの無限である。
以 上
世界中で、ゼロ除算は 不可能 か
可能とすれば ∞ だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 247: The gradient of y-axis is zero and $\tan (\pi/2) =0$ by the division by zero $1/0=0$}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
\date{September 22, 2015}
\maketitle
In Announcement 246, we stated:
\medskip
Consider the lines $y = ax$ with gradients $a$ through the origin $ 0$. Consider the two limits that $a \quad (>0)$ tends to $ + \infty$ and $a \quad (<0)$ tends to $- \infty$, respectively. As their limits, we see that the limiting lines are $y$ — axis. Note that the gradient of the $y$ axis is zero, not infinity.
This example shows as in the graph of the function $y = f(x) = 1/x$ at $x = 0$ as $f(0) =0$, that was introduced by the division by zero $1/0=0$ mathematically (\cite{s,kmsy,ttk,ann}).
\medskip
For this announcement, Professor H. Begehr kindly referred to the gradient of the $y$ axis in the above: If the gradient of the imaginary axis is $0$ this would mean $\tan (\pi/2)=0$,
right? Of course this would be a consequence of $1/0=0$!
\medskip
We had sent the e-mail, soon as follows:
\medskip
For the gradient of $y$ axis, we can define it as zero, very naturally and in the intuitive sense; of course, we can give its definition precisely.
However, as you stated, we can derive it formally by the division by zero $1/0=0$; this deduction will be very interested in itself, because, the formal result $1/0=0$ is coincident with the natural sense.
\medskip
The gradients of y axis and x axis are both zero.
\medskip
Surprisingly enough, this would mean $\tan (\pi/2)=0$,
right?
THIS IS RIGHT for our sense; we gave the definition of the values for analytic functions at an isolated singular point:
\medskip
{\bf Theorem :} {\it Any analytic function takes a definite value at an isolated singular point }{\bf with a natural meaning.} The definite value is given by the first coefficient of the regular part in the Laurent expansion around the isolated singular point (\cite{ann}).
\medskip
As the fundamental results, we would like to state that
\medskip
{\huge \bf I) The gradient of the y axis is zero,}
\medskip
and
\medskip
{\huge \bf II) $\tan \frac{\pi}{2} = 0,$}
\medskip
in the sense of the division by zero in our sense.
\medskip
Note that the function $y = \tan x$ is similar with the function $y = 1/x$ around $x = \frac{\pi}{2}
$ and $ x = 0$, respectively.
\footnotesize
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics (in press).
\bibitem{ann}
Announcement 185: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics,
Institute of Reproducing Kernels, 2014.10.22.
\end{thebibliography}
\end{document}
再生核研究所声明236(2015.6.18)ゼロ除算の自明さ、実現と無限遠点の空虚さ
(2015.6.14.07:40 頃、食後の散歩中、突然考えが、全体の構想が閃いたものである。)
2015年3月23日、明治大学における日本数学会講演方針(メモ:公開)の中で、次のように述べた: ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、 強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されること が求められる。
そこで、上記、突然湧いた考え、内容は、ゼロ除算の理解を格段に進められると直観した。
半径1の原点に中心を持つ、円Cを考える。いま、簡単のために、正のx軸方向の直線を考える。 その時、 点x (0<x<1)の円Cに関する 鏡像 は y = 1/x に映る。この対応を考えよう。xが どんどん 小さくゼロに近づけば、対応する鏡像 yは どんどん大きくなって行くことが分かる。そこで、古典的な複素解析学では、x =0 に対応する鏡像として、極限の点が存在するものとして、無限遠点を考え、 原点の鏡像として 無限遠点を対応させている。 この意味で 1/0 = ∞、と表わされている。 この極限で捉える方法は解析学における基本的な考え方で、アーベルやオイラーもそのように考え、そのような記号を用いていたという。
しかしながら、このような極限の考え方は、適切ではないのではないだろうか。正の無限、どこまで行っても切りはなく、無限遠点など実在しているとは言えないのではないだろうか。これは、原点に対応する鏡像は x>1に存在しないことを示している。ところが、ゼロ除算は 1/0=0 であるから、ゼロの鏡像はゼロであると述べていることになる。実際、鏡像として、原点の鏡像は原点で、我々の世界で、そのように考えるのが妥当であると考えられよう。これは、ゼロ除算の強力な不連続性を幾何学的に実証していると考えられる。
ゼロ以上の数の世界で、ゼロに対応する鏡像y=1/xは存在しないので、仕方なく、神はゼロにゼロを対応させたという、神の意思が感じられるが、それが この世界における実態と合っているということを示しているのではないだろうか。
この説は、伝統ある複素解析学の考えから、鏡像と無限遠点の概念を変える歴史的な大きな意味を有するものと考える。
以 上
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