2015年11月24日火曜日

人類最初の科学者は誰か

人類最初の科学者は誰か

エラトステネス、アリスタルコス、アナクサゴラスの驚くべき快挙は、古代ギリシャで起こりつつあった 科学的思考の進展を 鮮やかに示している。というのも、彼らが宇宙を測定した方法は、論理と数学と測量にもとづいているからだ。しかし、科学の 礎石を敷いた功績のすべてをギリシャ人たちに帰してしまってよいものだろうか?なんといってもバビロニア人たちは偉大な実践的 天文学者で、詳細な観測を何千件も行っているのだから。だが、バビロニア人たちは本当の意味での科学者ではなかったという点で、 哲学者や科学史家の意見はほぼ一致している。なぜならバビロニアの人々は、宇宙は神に支配され、神話によって説明されるという 考えに安んじていたからだ。いずれにせよ、測定結果を山のように蓄積し、星や惑星の位置を延々と記録することは、宇宙の基本的 性質を理解することによって観測結果を説明しようとする大いなる望みをもつ本物の科学に比べれば取るに足りないことである。 フランスの数学者で科学哲学者でもあったアンリ・ポアンカレは、いみじくもこう述べた。「家が石で造られるように、科学は 事実を用いて作られる。しかし石の集積が家でないように、事実の集積は科学ではない」
バビロニア人がもっとも古い科学者の原型ではないにしても、エジプト人はどうだろう?クフ王の大ピラミッドが作られた時期は パルテノン神殿よりも二千年早いし、秤(はかり)や化粧品、インク、木製の錠前、ロウソクなど、さまざまなものを発明、開発した 点では、エジプト人はギリシャ人より何世紀も先んじていた。だが、これらはテクノロジーであって科学ではない。テクノロジーは、 右に挙げた例でもわかるように、実用的な活動であり、死に際する儀式や、商取引、美容、筆記、保安、照明などの役に立つ。 ひとことで言えば、テクノロジーは生(と死)をより快適にするために役立つのに対し、科学はひたすら世界を理解しようとする努力だ。 科学者を駆り立てているのは、快適さや便利さではなく好奇心なのである。
科学者と科学技術者とでは、目標は大きくことなっている。それにもかかわらず科学とテクノロジーがしばしば混同されるのは、 科学上の発見によってテクノロジーが飛躍的に進歩することが多いからだろう。たとえば科学者が何十年もかけて電気を発見し、 科学技術者はそれを利用して電球などを発明するというふうに。しかし古代においては、テクノロジーは科学の恩恵なしに発展し、 エジプト人たちは科学を何も知らなくてもテクノロジーの面で成功することができた。ビールを醸造するにしても、テクノロジー としての方法とその成果には関心があったが、ある物質がなぜ、どのようにして別の物質になるのかには興味がなかった。彼らは 基礎となる化学や生化学のメカニズムには少しも気づいていなかったのである。
このように、エジプト人たちは科学技術者ではあっても科学者ではなかった。それに対してエラトステネスとその仲間たちは 科学者であって科学技術者ではなかった、ギリシャの科学者たちの目的は、それから二千年後にアンリ・ポアンカレが述べたことと 何ら変わらない。
科学者が自然を研究するのは、それが役に立つからではない。科学者が自然を研究するのは、そのなかに喜び を感じるからであり、そこに喜びを感じるのはそれが美しいからである。もしも自然が美しくなかったら、それは知るに値しない だろうし、もしも自然が知るに値しなかったなら、命は生きるに値しなかったろう。もちろんここで私は五感を刺激する美、質と 見かけの美について語っているのではない。私はそのような美の価値を低く見てはいない。それどころか私はそうした美を高く 評価している。ただ、そのような美は、科学とは関係がないということだ。科学にかかわる美は、各部分が調和した秩序から もたらされ、純粋な知性によって把握されるような、より深い美なのである。
以上の話をまとめると、古代ギリシャ人たちは、太陽の直径を知るには太陽までの距離がわかればよく、太陽までの距離を 知るには月までの距離がわかればよく、月までの距離を知るには月の直径がわかればよく、月の直径は地球の直径がわかればよい ことを示した。そしてエラトステネスは、地球の直径を知るという偉大な一歩を踏み出した。距離や直径という足がかりは、 北回帰線上にある深い井戸と、地球が月に投げかける影と、半月のときには太陽、地球、月が直角三角形の配置になるという 事実と、皆既日食のときには月がぴったり太陽と重なるという観測結果を利用して得られた。これに、月の光は太陽光を反射した ものにすぎないといったいくつかの仮定を付け加えると、科学的な論理の体系ができあがる。この科学的な論理体系は固有の 美しさをもっている。たくさんの論証がみごとに噛み合い、いくつもの測定結果が合致し、それまでとは異なった理論が突然 持ち込まれることでその体系は強度を増す―そうして姿を現すのが、科学的な論理なのだ。
初期の測定段階を終えた古代ギリシャの天文学者たちは、いよいよ太陽、月、惑星の運動を吟味できるようになった。彼らは このときまさに、天体間の相互作用を理解し、ダイナミックな宇宙のモデルを作ろうとしていたのである。これは、宇宙を深く 理解するという道のりの次の一歩となるものだった。
『ビッグバン宇宙論』上下巻(サイモン・シン著 青木薫訳 新潮社2006年6月 上 第Ⅰ章「はじめに神は・・・」)より

『ビッグバン宇宙論』(上下二巻)は説明が丁寧であり、一般読者によくわかるように書かれています。今は上巻を読んだところだが、 「しかし大地が球形だとすると、今日でも子どもたちを悩ませている ひとつの問題が生じる―南半球に住む人たちはなぜ落っこちないのだろうか?」の設問は著者がどこに視点をおいて書いているか を示している好例です。 (管理人)http://james.3zoku.com/kojintekina.com/physics/physics090501.html


再生核研究所声明257 (2015.11.05) 無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点 

(道脇さんたちの、和算の伝統を感じさせるような、何とも 言えない魅力 がありますね。 添付のように完成させたい。例の専門家たち、驚いて対応を検討しているのでは?どんどん、事情がみえてきました. 今朝の疑問も きれいに散歩中 8時15分 ころ、解決できました.成文化したい。2015.11.1.9:7
無限遠点の値の意味を 約1年半ぶりに 神は関数値を平均値として認識する で 理解できました。今、気になるのは,どうして、正の無限 負の無限、および ゼロが近いのかです。その近いという意味を、 正確に理解できない。 近い事実は 添付する 電柱の左右の傾きに現れている。
log 0=0
と定義するのが 自然ですが、それには、 ゼロと マイナス無限大 が一致しているとも言える。 そのところが 不明、何か新しい概念、考え 哲学が 求められている???
2015.11.1.05:50)

ローラン展開の正則部の値の解釈のように(再生核研究所声明255 (2015.11.03) 神は、平均値として関数値を認識する)、実は当たり前だったのに、認識がおかしかったことに気づいたので、正確に表現したい。
まず、正の無限大とは何だろうか。 1,2,3,…… といけば、正の整数は 正の無限大に収束、あるいは発散すると表現するだろう。 この正確な意味は イプシロン、デルタ論法という表現で厳格に表現される。すなわち、 どんなに大きな 整数 n をとっても、あるN を取れば(存在して)、N より大の 全ての整数 m に対して、n < m が成り立つと定義できる。 いろいろな設定で、このようにして、無限は定義できる。 どんなに大きな数に対しても、より大の整数が存在する。 それでは、+∞ とは何だろうか。 限りなく大きな数の先を表す概念であることが分かる。 大事な視点は +∞は 定まった数ではなくて、極限で考えられたもので、近づいていく先を表した状況で考えられていることである。 これらの概念は極限の概念として、現代数学で厳格に定義され、その概念は新しいゼロ除算の世界でも、全て適切で、もちろん正しい。
簡単な具体例で説明しよう。 関数y=1/x のグラフはよく知られているように、正の実軸からゼロに近づけば、+∞に発散し、負からゼロに近づけば、-∞に発散する。 ところが、原点では、既に述べてきたように、その関数値はゼロである。 この状況を見て、0、+∞、-∞ らが近い、あるいは 一致していると誤解してはならない。+∞、-∞  らは数ではなく、どんどん大きくなる極限値や、どんどん小さくなる極限値を表しているのであって、それらの先、原点では突然にゼロにとんでいる 強力な不連続性を示しているのである。
複素解析における無限遠点も同様であって、立体射影で複素平面はリーマン球面に射影されるが、無限遠点とは あらゆる方向で原点から限りなく遠ざかった時に、想像上の点が存在するとして、その射影としてりーマン球面上の北極を対応させる。 関数W=1/z は原点でその点が対応すると、解析関数論では考え、原点で一位の極をとると表現してきた。
しかしながら、新しく発見されたゼロ除算では、1/0=0 であり 原点には、ゼロが対応すると言っている。 これは矛盾ではなくて、上記、一位の極とは、原点に近づけは、限りなく無限遠点に近づく、あるいは発散するという、従来の厳格議論はそのままであるが、ゼロ除算は、原点自身では、数としてゼロの値をきちんとして取っているということである。 この区別をきちんとすれば、従来の概念とゼロ除算はしっかりとした位置づけができる。 近づく値とそこにおける値の区別である。

以 上


再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。 
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f 割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している、好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

以 上
文献:
Castro, L.P.; Saitoh, S. Fractional functions and their representations. Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).

世界中で、ゼロ除算は 不可能 か 
可能とすれば ∞  だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。

原点を中心とする単位円に関する原点の鏡像は、どこにあるのでしょうか・・・・
∞ では
無限遠点はどこにあるのでしょうか・・・・・

無限遠点は存在するが、無限大という数は存在しない・・・・

ゼロ除算(1/0=0)は、ピタゴラスの定理(a2 + b2 = c2 )を超えた基本的な結果であると考えられる。

地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????

1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????

0×0=0・・・・・・・・・だから0で割れないと考えた。
唯根拠もなしに、出鱈目に言っている人は世に多い。
ビッグバン宇宙論と定常宇宙論について、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243254887 #知恵袋_

ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・・ 1+1=2が当たり前のように

『ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった』 ⇒ http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12089827553.html … … →ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・ 1+1=2が当たり前のように、
1÷0=0 1÷0=∞・・・・数ではない 1÷0=不定・未定義・・・・狭い考え方をすれば、できない人にはできないが、できる人にはできる。

アラビア数字の伝来と洋算 - tcp-ip
明治5年(1872)
http://www.tcp-ip.or.jp/~n01/math/arabic_number.pdf


再生核研究所声明254 (2015.11.2)  愛が無ければ観えない ― について、 更に

既に、

再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
2013.2.26.11:15:
で、愛が無ければ、見えない、 関心が無ければ、進まない、できると考えなかった。
何と 15年も前から、 考え、 3人の学位論文の素材になり、 2冊の著書でも扱い、 S先生やF先生も講究録で触れている。 それなのに馬鹿みたいなことに気付かなかった。

と述べている。要するにある結果に気づいたのであるが、先が有ると思わなかったので、関心をもって考えなかったので、長い間 基本的な結果に気づかず、通り過ぎていた、事を示している。
さらに、最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の結果の場合は 凄い歴史的な事件と言える。すなわち、ゼロ除算100/0=0は割り算を掛け算の逆と考えると、不可能であることが証明されるので、不可能の烙印を押されていた。しかし、物理学などでは重要な問題が絡んでいるにも関わらず、何百年間も人は、新しい考え方に関心を抱かず、不明のままで年を重ねてきた。それが、偶然ちょっとしたきっかけで、解決をもたらした(再生核研究所声明171参照)。
興味、関心、愛が無ければ、何も気づかず、発見もせず、認知さえしないで、空しいものになる。
と言及している。
さらに、そもそも人間とは何者かと問い

― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている― 再生核研究所声明148

そこまでは行かなくても、 人間が何に関心を抱くは 極めて興味深い、人間研究の課題である。実に多種多様であり、世間を見てもその多様性には驚かされる。その多様性こそ人間社会の豊かさの表れであると評価される。生まれながらの性格、能力、幼児時の育ち、教育など、どうして興味の対象、関心を抱く対象が決まるかは 今後の大きな課題である。 一般には、関心や愛情はどんどん深まって、成長、発展する性格があり、人生の晩年までには名人や、達人の域にまで成長する例は世に多い。 多くの数学者が、子供の頃将棋や碁で遊んでいたなどの話しを交わしたことが有るが、興味深い例である。一流のスポーツマン、イチロー選手などいろいろな有名選手の生い立ちと名前が思い出される。
愛を抱く、興味を持つ、関心を持つは、人間らしい人間を育てる基本であるから、知識偏重、詰め込み教育ではなくて、 みずみずしい愛、意欲が湧く、情念が生命力とともに湧いてくるような 全人的な教育が大事ではないだろうか。
心身を大事にすることともに、真理、真智を愛する精神こそ、大事ではないだろうか。
何のために、何故か? ― 人間らしい、人生を送るためにである。
と結んでいる。
愛とは 共生感に基づく喜びの感情であると 表現した。 全く経験したことのない世界に触れると、全然、共感、共鳴しないで、ただ暗号が並んでいるように感じることがある。 純粋数学などでは純粋な抽象理論であるから 顕著に遭遇することがある。専門外だと始めから最後まで、殆ど何も分からない研究発表も珍しくはない。 共感、共鳴が、更に愛の感情まで高まるには相当な経験に基づいた共通の基盤が必要ではないだろうか。 民族の文化や、男女関係の愛の問題についても言える。愛の素である共生感が深まるための背景について言及している。最近のゼロ除算の理解の仕方から実感してきた感情である。
ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるとされ、ゼロで割れないことは定説である。 そこで、突然、ゼロ除算が可能であると言い出され、可能であると言われたとき、人はそんな馬鹿な、今更何を言っているのか? また結果が、従来の数学と全然違う、強力な不連続性を述べていることに触れられると、そんな数学は始めから、正しくとも興味がないと発想するは多い。 全く新しい結果となると、共感も、共鳴もなく、愛着も湧かないのは 我々の心の仕組みからも言えるのではないだろうか。
他方、客観的には何の、あるいは大した意味や、動機が無くても、いわゆる未解決問題として提起された問題などで、永く挑戦を続けていると どんどん愛着、愛情が深まり、湧いてきて、いわば問題にハマって行く状況は 数学界などで、個人や、グループとしてもよく見られる現象である。― 不可能、未解決と言われると、挑戦したいという心情と 解いて、いわば競争に勝ちたい という心情が湧くのは当然で、結構数学の研究を推進する原動力になっているのではないだろうか?
この声明の趣旨は、愛は 共通の基盤、経験、関わりの深さで深まり、我々の心は、生命のあるべき方向での 関わりの深さで 愛も深まるという 観点に想いを致すことである。

                                                        以 上


再生核研究所声明253(2015.10.28) 私も探そう ―ゼロ除算z/0=0 の現象

(再生核研究所は ゼロ除算の研究を推進している。特に研究は初期段階にあるので ゼロ除算の実在感の観点からの考察を進めている。 最近、素晴らしい事実の発見が寄せられてきたので、 広く世にそのような現象の発見を呼びかけたい。)

ゼロ除算1/0=0については 次で、解説したり、再生核研究所声明でも いろいろ取り上げている: 数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
最近、いろいろな具体例が しかも素人にも分かるような例が発見されてきたので、 広く 世にそのような面白い新しい現象の発見を呼びかけたい。まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロであると述べている。すなわち、 1/0=0 である。それらは 既に 数の実体である と言える。
― 要点は、上記双曲線は、原点で猛烈な不連続性を有し、爆発や衝突、コマで言えば、 中心の特異性などの現象を記述していることである。複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界であるが、無限遠点は 数値としては ゼロが対応する。
現在までに発見されたゼロ除算の実現例を簡単に列挙して置こう:
万有引力の法則で、2つの質点が一致すれば、引力はゼロである;一定の角速度で回転している回転体の中心で、角速度はゼロで、中心で不連続性を有している;光の輝度は 光源でゼロであること:円の中心の鏡像は 無限遠点ではなくて、中心そのものであるという強力な不連続性;電柱の微小な左右の揺れから、真っ直ぐに立った電柱の勾配はゼロであり、左右からマイナス無限とプラス無限の傾きの一致として、傾きゼロが存在している; 代数的には ゼロ除算z/0=0を含む簡単な体の構造が明らかにされ、数体系として自然な体系である複素数体より ゼロ除算z/0=0を含むY体 の方が自然であると考えられること; 点の曲率がゼロであること、などである。これらの現象は ゼロ除算が 普遍的に存在する現象を説明するもの と考えられる。
そこで、広く いろいろな世界に現れる ゼロ除算の現象の発見 を提案し、ゼロ除算の意味を深く理解したい:

― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

良い具体例は 再生核研究所声明で取り上げ、永年の記録にしたい。

例:
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議(道脇裕・愛羽 父・娘 氏たち)
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
Announcement 237(2015.6.18): A reality of the division by zero $z/0=0$ by geometrical optics
Announcement 246: An interpretation of the division by zero $1/0=0$ by the gradients of lines
Announcement 250(2015.10.20): What are numbers? - the Yamada field containing the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明251(2015.10.27) 円と曲率 ―ゼロ除算z/0=0から導かれる道脇裕氏の解釈

もちろん、内容は論文その他で、積極的に取り上げ、状況によっては共著としての参加や論文出版を勧めたい。
ご提案は 下記宛 メールで お送りください:
kbdmm360@yahoo.co.jp
学術的な観点については、次を参照:
再生核研究所声明189(2014.12.23) ゼロ除算の研究の勧め
                                     以 上

以 上








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