2015年6月1日月曜日

今の青少年は「携帯を持ったサル」…スマホにない真の心の交流とは

今の青少年は「携帯を持ったサル」…スマホにない真の心の交流とは
日本人の座標軸(46)2015.5.30 11:00
人通りが多い横断歩道でも「歩きスマホ」をする人が多く見られる=大阪・梅田1/3枚
 山上憶良が万葉集でこんな歌を詠んでいる。
 白銀(しろがね)も黄金(ごがね)も玉もなにせむに優れる宝子にしかめやも
 解説はいるまい。子供に勝る宝はないと歌っている。今から約1300年前、当時の子供の数は現在よりはるかに少なかったようだが、人間関係はむしろしっかりしていたようだ。
 今では連日のように子供が親に殺害されたり、虐待されたりする事件が起きている。近所同士が殺し合う事件も珍しくない。この歌が詠まれた頃は、電気も水道もない。今思えば想像を超えた貧しい時代であったが、家族の絆ははるかに強かったのではなかろうか。
 過日、テレビを見ていると、女子高校生の4割が1日に6時間以上スマートフォンや携帯に時間をさいていると報道していた。多くの高校生や中学生が、平均数時間ネットを使っているという。コミュニケーションは十分とれているように見えるが、それは仮想空間の世界で、現実は顔と顔が向き合った真の心の交流はないようだ。
 『ケータイを持ったサル「人間らしさ」の崩壊』(中公新書)を読んでいただきたい。今の青少年は携帯を持ったサルになっているのではなかろうか。
 大人も同じだ。東京に行ったおり、地下鉄に乗ると全員と言ってもよいほど、皆がケータイかスマホか知らないが、一心不乱になって親指を動かしておられた。本を読んでいる人や会話をしている人はなく、「へー、何とまあ…」と思わず独り言を言ったことがあった。そうした体験をした数日後、偶然CS放送で映画「緑の小筺(こばこ)」を見た。概要は次の通りである。
 《ある日、妻のもとへ、夫が乗っている捕鯨船が難破したとの連絡が入る。思い悩んだ妻は床に伏してしまう。一人息子が「“お父さん早く帰ってきて”と書いた手紙をお父さんが作った木箱に入れて、家のそばの小川に流すと、お父さんに届くかもしれないね」と母に相談する。雪の日の朝、願いを込めた手紙を、父が作った木箱に入れて小川に流す。木箱は川がいてついて止まったり、猿や野ウサギにけ飛ばされたりする。春になって氷が解けると、また流れ出す。魚を釣っている少年に触られたりしながらダムを越えて、ようやく海に出る。最後は鯨に飲み込まれて胃袋の中に収る。その木箱が偶然、捕鯨船上で鯨の胃袋を解体していた父の目にとまり、自分が作った木箱だと気づき、手紙を取り出して読む。父親は子供の願いに応えて故郷に帰り、久々に母子と再会する》
 有り得ないような話だが、私は小学生の頃、汗の臭いのする古い木造の体育館で、すきま風で波打つにわか作りのスクリーンに映されたセピア色のこの映画を、小さな胸をときめかせながら見たのを鮮明に覚えている。もう70年近く昔の話だ。
 私が小学生の頃には、こんな歌がはやった。
 ♪とんとんとんからりと隣組 格子をあければ顔なじみ 廻して頂戴回覧板 知らせられたり 知らせたり…
 これが昔のコミュニティーの姿であった。近所同士の殺人事件などなかった。今ではエベレストの頂上であろうと、地球の裏側であろうが、瞬時に携帯電話で話し合える時代になっている。しかし、その中に人間臭さや井戸端会議がみられない時代になったような気がする。
 足立勝美氏は5月8日に死去しました。ご冥福をお祈りします。
■足立勝美(あだち・かつみ) 兵庫県立高校教諭、県立「但馬文教府」の長、豊岡高校長などを務め、平成10年に退職。24年、瑞宝小綬章受章。『教育の座標軸』など著書多数。個人通信「座標」をホームページで発信。養父市八鹿町在住。鳥取大農学部卒。http://www.sankei.com/smp/west/news/150530/wst1505300003-s.html?pdm_ref=soe

携帯を持ったサル 人間はサルよりなお猿である を思い出しますね。 軽薄になる_

再生核研究所声明183(2014.11.27) 野生動物と人間
まず、野生の動物、 生物の素晴らしさ をきちんと捉えたい。どのような生物でも この厳しい自然環境の中で、何億年に亘って生きてきた事実を重く受け止め、その意味で畏敬の念を以て、生物を捉えたい。このことは、生物の生存が安定していて、神域に属するほどの素晴らしさと捉えたい。自然とともにある 高度に調和した世界である。
我が家でも、 燕は毎年訪れ、猿の集団も時々出没する。しかし、それらの生態は逞しく続いている。 蛇が燕の巣を襲い、全滅させられる場合もしばしばであるが、襲う蛇も賢明で驚嘆すべき本能を持っているが、襲われる燕もある種の余裕を以て、棲息を続けている 誠に切なくも逞しさを感じる。忍耐強い蛇にもある種のいとおしさと、愛着の念を感じさせられる。猿の家族も逞しく、器用に柿や栗の実を採って元気よく山に姿を消していく。誠に愛すべき家族たちである。 冬など沢の奥などに潜んで、寒さと飢えを忍んで居るのではないだろうか? 雪の日などどうして居るだろうか。逞しさゆえに 意外に幸せな時かも知れない。
そこで、人間に近い猿の生態を参考にして、人間の生態を考えてみよう。 結論は、人間の生態の本質は、猿とほとんど変わらないという視点である。
考えてみよう。 人間は何をやっているのか。多くの人は社会の一員として働き、収入を得て暮らしを立てる ― 猿は食料を自然の中から,採る。 そして、家庭を以て、家庭生活を楽しむ。 猿も全く同様、家族が十分食料を採れれば相当に満足では。 人間も衣、食、住、が整い、生活の基盤が整えば、相当に満足では。 現在では 猿ができていること、家庭を持ち、衣、食、住が整い、健全に生きられる子供たちに囲まれていれば、既に相当に良い生活のレベルと言えるのではないだろうか。 余裕ができれば、果たして、人間は何をやっているのか? テレビを見、映画、音楽など楽しいことをしているが、果たして、それらが、どのような意味があり、猿よりどれほど優れているのかと自問したい。
美味しいものを頂き、楽しんで、良い家庭を営めば 人生はそれで良いように見える。
多くの人の人生は、猿の生態とほとんど本質は変わらず、往々にして、猿の生態より劣っているようにさえ見える。人間が猿よりどのようなところで優れ(再生核研究所声明181: 人類の素晴らしさ ― 7つの視点)、どのようなところで、猿より劣っているのかと自問したい。
動物である人間が 動物的な本能を満たしたいのは分かる。それでは、その先、人間として生きるということはどのようなことかと 自問したい。 そして、それらは、如何にして、どのような価値があるのかと問いたい。
以 上

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