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秋元祥治2015年05月28日22:50図書館で「本deドミノ」をするのは良いのか悪いのか、香ばしく炎上中のようですね
僕の住む岐阜市は、7月18日に市立図書館をリニューアルオープンさせるんですね。
建築家・伊東豊雄さんの設計で、年間100万の利用者を見込んでいるとのこと。
岐阜市は、同市司町で整備を進める新図書館を備えた複合施設「みんなの森ぎふメディアコスモス」の開館を7月18日と決めた。2015年度当初予算案に運営費などで9億3千万円を盛り込み、多くの市民の利用を呼び込むため図書館機能を充実させるほか、市民が交流できる場の常設を計画。「教育立市、市民協働のまちづくりを象徴する施設」として活用を図る。(岐阜新聞2015年02月21日)
そのオープニング企画が、なかなかネット上では物議を醸しているんですねえ。
というのも、市民から1万冊の中古書籍を寄付で集め、その本で図書館でドミノしちゃおう、という企画。この「本deドミノ」市民有志のよる実行委員会主催で、岐阜市や市教育委員会も後援した取り組み。
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これが、本を大事にする図書館で「本を粗末に扱うのは不快だ」といった異論が出てきています。
例えばブックカフェなども運営するNPO法人ぶうめらんの北村代表理事はブログで
私はこれを見たときに、とっても嫌な気分になりましました。
私も本を通したまちづくりを行っていますが、本を扱うものとして、本には敬意を払っています。
物を敬う心、その書物を書いた先人を敬う心。
子供の頃には、本はまたいではいけないものと教わりましました。
本をまたぐことは、その書いた人の頭をまたぐようなものだと。
とコメント。
Facebookのイベントページでも、コメント欄で反対意見が出ている状況です。
出版社や著者は、こんな事に使われるために本を作ったのではないはずです。そんなこともわからない図書館は、存在意義そのものが問われますよ。
もしも、私の本があったら使わないでください。馬鹿にしないでほしい。
本はドミノに使うものではないです。岐阜市民として恥ずかしいです。
一方、世界に目を向けると各地でこうした取り組みが行われているのも事実。
2013年5月31日、シアトル公共図書館が、中央図書館の3階で、本を使ったドミノ倒しの世界記録に挑戦。(中略)2131冊の世界記録を達成しました。(中略)
このイベントは、2人の大学生とシアトル公共図書館の職員が企画し、27人により本は並べられました。また、その模様は、5人のカメラクルーにより、7台のカメラで撮影されました。
なお、このイベントは、夏の読書プログラムのプロモーションとして行われたものです。ドミノに使われた本は、シアトル公共図書館の友の会が、ドミノに使われたものであることを証明するスペシャルステッカー付きで、販売するとのことです。(国立国会図書館WEBサイトより)
以下が、その時の模様が3分ほどの動画にまとめられていて、YouTubeにアップされていました。
その後も、ベルギーやイギリスで同様の取り組みが行われていて、どんどんとギネス記録が更新されていますね。現在の世界記録は2015年1月にイギリスで樹立された5318冊とのこと。
こうして各地の取り組みを見ていると、書籍や図書館への関心を高める取り組みとして、一定の広がりも在るような気もします。
使用する書籍は図書館の蔵書ではなく、家庭などで不用になった本。同市の全小中学校71校の児童生徒にチラシを配って本の提供を呼び掛けており、すでに千冊近くが集まったという。(中略)ドミノ倒しで使った本は挑戦後に古本屋に引き取ってもらい、代金を市図書館に寄付する。(岐阜新聞5月20日)
こう新聞も報じている通り、図書館の蔵書でなく各家庭の不要な図書を活かし「本や図書館」への注目を集め、そして販売代金は図書館で活用されるからこそ、有効ではないか、といった声もまた上がっています。
以下は、先ほどのフェイスブックページなどより、肯定的な意見。
本に対する想いは十人十色ですね。私は素晴らしいチャレンジだと思いますし応援しています。ぜひ成功させてほしいです!(^^)!
電子書籍にどんどん注目が集まる中、本に興味を持ってもらう話題性としてはアリなのかもと思ってます。
賛否両論がある中ですが、ただ賛否いずれも共通するのは「本や図書館」への注目が集まることが大事だ、という姿勢。問題は、結局本を粗末にしているのではないか、という感情を抱くヒトもまた少ないということ。
とすると、まぁ、本deドミノしなくても他に注目度を高める打ち手がないもんでしょうか。
みなさん、どう考えます?
あ、もしや、そのための炎上マーケティングだとしたら、一本取られました。
僕も片棒担いでる…いや、本や図書館への注目集めに貢献した、ということでw
確かに本とは何か、論文や、
新聞などなど、インターネットの普及で大きな問題が生じていますね。
基本は、多様な有り様で、自然に有り様が定まってくるのでは?
再生核研究所声明231(2015年5月22日)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち - 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
本(ほん、英: book)は書物の一種であり、書籍・雑誌などの印刷・製本された出版物である。
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく本質的なことに関心がある。
何故本を書きますか?理論、ークリッド原論のように数学的な事実ユを 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も心もどんどん時間と共に環境とともに変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 若い時代に
しかしながら、本は多く宣言されているように 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
現在、いろいろな世界に触れてもそれが私にとって何になるのかと深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は簡単である。本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば良いのではないだろうかは広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは、この点、次の声明が参考になるであろう。
再生核研究所(2012年4月24日)85声明:食欲から人間を考える - 飽きること。
以上
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