2016年1月18日月曜日

人がいない限界集落で誰が墓を清掃する? 注目高まる代行サービス

人がいない限界集落で誰が墓を清掃する? 注目高まる代行サービス

ZUU Online

都心でも積雪となり街は雪化粧した。右奥は東京スカイツリー=18日午前7時29分、東京都墨田区、池田良撮影
東京都心で6センチ 今冬初めての積雪
スキーバス転落事故の現場で合掌する女性(右)=17日午前、長野県軽井沢町
運転手、大型バスの運転に習熟せず?
急激な人口減少で消滅の危機が迫っている限界集落。先祖伝来の墓を解体、撤去する「墓じまい」や墓の放棄が相次ぐ中、墓参りできない家族に代わって墓守を代行する新サービスが全国各地に登場している。

故郷を遠く離れ、都会で暮らす人たちにとって、墓は古里と自分を結ぶ最後の絆だ。しかし、これまで墓を守ってきた高齢者は老い、都会に根づいた子や孫は戻ってこない。最後の絆さえ失われようとする中で出現した墓守代行サービスは、限界集落が置かれた厳しい状況を物語っている。

■家族に代わって墓を清掃し、焼香

墓守代行サービスをしている業者の1つが、長崎市春木町にある「墓守代行センター」(西大悟社長)だ。2005年に創業した比較的新しい会社で、長崎、福岡県を中心に北九州各地で墓守代行や遺骨の海洋散骨を進めている。

同社のサービスは、利用者の希望に合わせて年に何回か墓へ行き、掃除や水の入れ替え、焼香、お供えをしたうえで、作業前と作業後の状況を写真に撮影し、利用者へ報告する仕組みだ。作業件数は月に100件ほど。お盆やお彼岸を中心に年に3、4回の依頼が多いが、中には月命日を含めて年24回の依頼をしてくる人もいて、年間作業件数は300回ほどになる。

利用者は福祉施設に入居するなど体力が衰え、墓参りが難しくなった地元の高齢者か、都会で暮らす跡取りがほとんど。依頼の際に「先祖伝来の墓を撤去する決断はできないものの、都会にいる子や孫に負担をかけたくない」、「親類に迷惑をかけるのが心苦しい」などと理由を伝えてきているという。

本社がある長崎県は、急激な人口減少と高齢化社会の進行に苦しむ離島を多く抱えている。長崎市内でも旧伊王島町、高島町など過疎の集落が存在する。西社長自身が離島にあった先祖の墓の処置に困った経験から、このサービスを思い立った。

人がいない限界集落で誰が墓を清掃する? 注目高まる代行サービス(写真=PIXTA) ((ZUU online))
© (ZUU online) 人がいない限界集落で誰が墓を清掃する? 注目高まる代行サービス(写真=PIXTA)
西社長は「墓じまいをする人は誰もやりたくてそうしているわけではない。墓守代行でサポートしてあげれば、墓じまいなどしなくても済む。利用者の多くは頻繁に墓参りしていたのにできなくなった人たち。そんな人たちの悩みを解決してあげたい」と意気込みを語った。

■全国各地にサービス会社が出現

広島市安佐南区祇園にも、墓守代行を始めた業者がある。墓地管理事務所「ひこばえの杜」(堀暢貴社長)だ。サービス内容は墓守代行センターとほぼ同じで、雑草抜きや掃除、焼香をし、作業前、作業後の写真を撮影して利用者にメールで報告している。利用者は関東に住む50代から60代の地元出身者。年間に3~5件程度の依頼がある。

墓守代行サービスを引き受けているのは主に墓地管理業者だが、そうした業者がいない地域では、いわゆる便利屋やシルバー人材センターが乗り出している。中には動けない高齢者を墓まで連れて行くサービスもある。

地方だけでなく、東京や大阪にも引き受ける業者が生まれてきた。中には全国にネットワークを築き、地方の墓守代行を請け負うところもある。まさに墓守代行が静かなブームになりつつあるような気配さえ感じられるほどだ。

2000年ごろから山間部にある先祖伝来の墓を自宅近くに移すブームが起きた。現在はそれに代わって墓を撤去して納骨堂を移す動きが静かに広まろうとしている。団塊の世代が後期高齢者となるのが2025年。そのころには放置か移設かを迫られる人が多くなるとみられている。

ただ、年代が下がれば下がるほど、信仰心の低い人が多いのが現実だ。ひこばえの杜の堀社長は「墓にかけるお金にシビアになってきているように感じる。自宅近くの納骨堂に納める人が増え、やがて墓守代行の需要も収まるのではないか」とみている。

■背景に潜む深刻な人口の減少

その背景にあるのが、地方の急激な人口減少と高齢化。65歳以上の高齢者が過半数を占める限界集落は、総務省の調査で全国に400以上ある。高知県大豊町や徳島県上勝町など自治体全体で高齢者が過半数を占める限界自治体も生まれている。

これまで過疎地域を支えてきた昭和一桁世代は信心深い人が多いが、後期高齢者となって自由に墓参りもしにくくなってきた。病院や高齢者施設に入り、墓守がいなくなった世帯も珍しくない。

かといって、都会に出た子や孫は戻ってこない。過疎地の農林業では生計を立てにくく、働く場所もないからだ。政府が唱える地方創生の掛け声だけが虚しく響き、消滅に向かってひたすら坂道を転がっているのが限界集落の現状だ。

その結果、多くの墓が移設もされずに放棄されている。熊本県人吉市が2013年、市内の墓地約1000カ所を調べたところ、全1万5000基のざっと4割に該当する6500基が夢苑墓になっているという衝撃的な実態が明らかになった。

墓地を持つ寺の住職が不在で、都市部の寺の住職が兼務する例も増えている。中には十分な手が回らず、荒れ果てようとしている寺もあるという。限界集落の寺に赴任しようと考える人はなかなか見つからない。

民間の有識者会議・日本創世会議(座長・増田寛也元総務相)は2014年、全国約1800の自治体のうち、ほぼ半数に当たる896自治体に消滅の可能性があると発表した。墓守代行サービスの登場は消滅へのカウントダウンが始まったことを意味するのだろうか。

高田泰 政治ジャーナリスト

地方新聞社で文化部、社会部、政経部記者を歴任したあと、編集委員として年間企画記事、子供新聞などを担当。2015年に独立し、フリージャーナリストとしてウェブニュースサイトなどで執筆中。マンション管理士としても活動している。http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E4%BA%BA%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E9%99%90%E7%95%8C%E9%9B%86%E8%90%BD%E3%81%A7%E8%AA%B0%E3%81%8C%E5%A2%93%E3%82%92%E6%B8%85%E6%8E%83%E3%81%99%E3%82%8B%EF%BC%9F-%E6%B3%A8%E7%9B%AE%E9%AB%98%E3%81%BE%E3%82%8B%E4%BB%A3%E8%A1%8C%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9/ar-BBoi2cy?ocid=UP97DHP#page=2


再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上

https://twitter.com/SLANG_SCHC/status/667233481408184321

再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい:
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。

言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。

以 上


再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。

以 上











0 件のコメント:

コメントを投稿