2016年3月9日水曜日

中3男子生徒自殺 誤り判明後もデータ未修正で残る 3月9日 5時27分

中3男子生徒自殺 誤り判明後もデータ未修正で残る
3月9日 5時27分

中3男子生徒自殺 誤り判明後もデータ未修正で残る
去年12月、広島県府中町の中学3年生の男子生徒が自殺した問題で、学校と町の教育委員会が8日夜、会見し、生徒の指導の際に使った「万引きの非行歴があった」との誤った資料について、誤りが判明したあとも学校のサーバーにデータが未修正のまま残っていたことを明らかにしました。会見で学校側は、情報管理に問題があったと謝罪しました。
去年12月8日、広島県府中町の町立中学校の3年生で15歳の男子生徒が自宅で自殺しました。学校や町の教育委員会によりますと、自殺当日までに5回行われた進路指導の際、生徒に万引きの非行歴があったとする誤った資料に基づいて、担任の教諭が、志望校への推薦は出せないと伝えていたということで、誤った資料に基づく指導が生徒の自殺につながった原因とみられるとしています。
8日夜の記者会見で、校長は誤った資料の作成について、「データ入力の過程で生徒の名前を誤ったことが原因と思われる。その後、ミスと判明したが学校のサーバーの電子データは未修正のまま残されてしまった」と述べたうえで、情報管理に問題があったと謝罪しました。また、学校が教育委員会に報告した別の資料では誤りが修正され、この生徒の非行歴は、誤りに気付けた可能性があったということです。
中学校は9日、全校集会を開き、校長が詳しい経緯を生徒に説明することにしています。
自殺した生徒の両親は弁護士を通じて、「ずさんなデータ管理、間違った進路指導がなければ、わが子が命を絶つということは決してなかったと親として断言できます」とするコメントを出しました。
記者会見の詳細
広島県府中町の中学3年生が自殺した問題を受けて、男子生徒が通っていた中学校と町の教育委員会は、8日午後10時半ごろから3時間余りにわたって記者会見を開きました。
この中で、自殺した男子生徒が通っていた中学校の校長は「生徒みずからが命を絶つようなことが起こったことについて、生徒を預かる学校の責任者として深くおわび申し上げます」と述べ、謝罪しました。そのうえで、公表が男子生徒の自殺から3か月後になったことについて、「亡くなった翌朝に遺族から『みずからの命を絶った事実を知らせると同級生の動揺が大きく進路にも影響があるかもしれないので進路が一段落するまで急性心不全で亡くなったことにしてほしい』と希望が寄せられた。公立高校の入学試験が終わったので公表した」と説明しました。
また、男子生徒に「万引きの非行歴があった」とする誤った資料については、「男子生徒が1年の時の生徒指導推進委員会の資料で触法行為をした生徒として名前があった。記録上のミスで、会議の席でミスであると確認したものの、サーバー上の電子データは未修正のまま残されてしまった」と説明しました。
誤った資料が作成された理由については、「当時、生徒が万引きをしたと連絡を受けた教諭が、資料を作成する生徒指導部の教諭に生徒の名前を口頭で連絡した。データの入力の過程で誤ったと思われる」としたうえで、「あくまで会議で使うための資料だったので、その後、ほかのことに活用するということは考えず、データも直されなかった」と述べました。
さらに校長は生徒を高校に推薦する際の基準について、それまで3年生の1年間で非行歴がある場合は推薦の対象としないとしていたものを、去年11月に1、2年生の時も含めて非行歴がある場合には推薦の対象にしないと改めたことを明らかにしました。そのうえで、こうした考えは生徒の成長を認め、生徒の意欲を高めるという観点に欠けていたと述べました。
一方、担任の教諭と男子生徒のやり取りについては、「担任は去年11月から自殺した日の朝にかけて5回、男子生徒と面談した。担任は1回目の11月16日の面談で触法行為があったことの確認を取ろうとしたが、具体的な事実を確認せず、生徒本人の不明確なことばで確認が取れたと思い込んでしまった。5回の面談を通しても担任は生徒が触法行為を否定したと感じなかったため、触法行為があったと確認が取れたとしていた」と説明しました。
保護者会開催も批判相次ぐ
中学校は8日夕方から緊急の保護者会を開き、これまでの経緯を保護者に説明しました。
緊急の保護者会は8日午後6時半から、およそ3時間半にわたって中学校の体育館で行われました。出席した複数の保護者によりますと、中学校の校長と町の教育委員会の教育長が、これまでの経緯を説明し、この中で、学校側は自殺した男子生徒に「触法行為」があったとする誤った資料に基づいて、担任の教諭が生徒に「志望校への推薦は出せない」と伝えたことが自殺に直接結びついた可能性が高いことを認め、保護者に謝罪したということです。
一方で詳しい当時の状況や原因の分析などの詳細な説明はなかったということで、保護者からは「説明が十分されていない」といった意見や批判が相次いだということです。
会には自殺した生徒の両親も出席しましたが、担任の教諭は出席せず、出席した保護者からは「担任が直接説明しないのはおかしい」とか、自殺の公表が今まで遅れたことに触れ、「なぜもっと早く説明しなかったのか」といった指摘が相次いだということです。出席した保護者の1人は「説明は体裁を整えているだけで、事実を伝えることから逃げているようだった。先生が生徒の味方になれば、自殺は起きなかったはずで納得がいかない」と話していました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160309/k10010436561000.html


再生核研究所声明 17 (2008/7/25)  教育界の改革を求める

大分県の教育界における不祥事は、いくら日本国が 空虚な日本の社会(再生核研究所声15)といっても 流石に健全な批判が湧いてきたのは当然である。身近な点から問題点を考察すると、試験がたとえ公正にできたとしても、全然問題は解決しないのではないでしょうか。 第一に、試験問題が適切であるかどうか、広く日本中で検討してみる必要があるのではないでしょうか。さらに、面接試験という大事な場面を迎えますが あのような体質で、より良い学生を公正に選ぶことができるか 検討する必要があると考えます。

試験内容について、例えば、数学専攻で、教育学部長をされた ある先生の嘆きを思い出します。大学でいくら専門の数学を熱心に勉強しても 専門の数学は採用試験には出題されず、大学受験や高校程度の数学の問題しか出題されず、それで、大学で熱心に勉学している学生よりも、家庭教師や塾でアルバイトをしている学生の方が有利になってしまい、実際、合格率も高いという嘆きです。これでは数学教育界が、数学の本当の精神や深い専門的な内容などよりは 受験勉強に代表されるような問題解きの技術の勉強になってしまうのではないでしょうか。 実際、入学して来る多くの大学生は 数学は問題解きであり、多くの技術を学ぶのが数学だと思っているのが現状ではないでしょうか。これでは創造性豊かな教育や本来の数学教育の目標からは ほど遠いのではないでしょうか。

一般に試験について、何十年も前に あるラジオ ニュースで聴いたことが なぜか何時も気になります: ネジの検査で、良いものを落とし、悪いものをわざわざ選んでいたというのです。わざわざ数学嫌いな生徒を育てたり、悪い教育を行っているような事は 至る所に見られる現象ではないでしょうか。

他方、教育には善良な市民を育成するという大事な面があるはずです。その大事な考えの一つには個性を活かし、公正な社会を実現することにあるのではないかと考えます。しかし、教育委員会の指導的な人達が 自ら信じられないような不正を行っていて、そのような方々が面接したり、教員を指導しているという事は如何なものでしょうか。大分で起きた事件は 大分県の特殊性から出てきたものではない以上、日本中で同じような状況ではないでしょうか。人事の刷新を行い、教育改革を進めるように訴えます。

このような状況で、教員更新性の導入を行えば、教育界はますます混乱し、よい事は何もないと考えます。マイナス要素を挙げてみたいと思います。

(1)教員の忙しい状況の中で、さらに時間と余計な気遣いの負担を増加させる。
(2)財政難で国がおかしくなるような状況の中で、さらに大きな資金と労力をかける事になる。
(3)更新講習は形式的になり、効果が望めず、逆効果が考えられる。また講習で改善されるような教員は初めから、問題が無いと考えられる。
(4)更新されなかった教員の生活や身分の問題が解決できなければ、結局更新の問題は解決できず、いわば余計なことをすることになる。
(5)このような制度の導入そのものが、教員の身分を不安定にし、教育上良くない効果を生むと考えられる。

などなどですが、そのようなことに 時間とお金 をかけるくらいならば、
忙しい先生に休暇とお手当てを配布した方が 遙かに効果的ではないでしょうか。

日本国の再生のために、試験問題の作成委員や面接する人を 見識ある人物に代えるばかりではなく、教育界の全般的な改革と刷新を行うように 多くの関係者に求めます。またマスコミの積極的な取り組みを要請致します。 以上。


再生核研究所声明 104(2012.10.28) 人事採用、昇任について

(この声明は、再生核研究所声明に興味を抱く人からの 要望によるものである。難しい課題である。)
人事とは、人物評価、人物の能力、問題となる職種との関係で、実に難しい、重い課題である、総合的に論じると 難しいと考える。 そこで、 軽く、経験から、気づいたことを纏めてみたい。いろいろな観点があるので、一面的な見方と柔軟に考えられたい。ここで、人事とは 添付のウィキペディアの: 企業その他の団体・組織における職員の処遇などの決定に関する業務(本項において解説)を意味する。
まず、公務員など 公的な職種は、採用に当たって、公正、平等、機会均等 の原則 があると考えられる。 他方、私的な企業等は、 経営者の自由に 相当なると考えられる。しかし、 企業といえども 大きな社会的な存在になればなるほど、公務員等と 同様に 公正、平等の原則が 強まると考えられる。
次に 職に合った 適任者を採用するのは いずこも 当然の要求である。

これらを行うために、公募による、客観的な試験 (これには書類選考を含めることが出来る) と 責任ある者たちの総合的な面接 で 総合判定されるのが 世に多いと考えられる。客観的な試験、多くはペーパ―テストで点数化されて 採用の決定に大きな比重を占めるのは、公務員などで多いのではないだろうか。 多数の採用を行う企業などでも 実際、面接を適切に行う余裕も、面接で判断する能力と信頼に自信がないために、 客観的な試験に頼るは 世に多い。 大学受験などの大部分がそうであるような現象が 世に多いとみられる。
ここで、 客観的な 試験で、判定する弊害を 次のように 指摘したい:

1) 試験で、 大事な、複雑な 人間の能力を判定できるかという問題。
2) 試験内容が、あるいは その結果で、職種に合った、 適材適所になる人材を選べるかという観点から、非常に疑わしい面があること。
3) 職場には いろいろ多様な人物がいた方が 良いのに 偏り、同じような 人物を集めがちである。

などである。
― ここで、何十年も前に NHKラジオで聞いた、 適正試験の結果と 適任者として求める才能が 逆であったということが判明した、との話しが 何時も気に成る。 逆の評価で採用していたという、有りそうな現象である。
また、元群馬大学名誉教授 道脇義正先生の言葉: 数学の教科書を出筆するような人は数学が好きで、できる人が書く、それで、数学が嫌いで できない人の 気持ちが分かる筈がない。また、教育関係のいろいろな諮問員会の先生たち、優秀な方ばかりで 議論していて、いわゆる おちこぼれ組の生徒の気持が分る筈がない。という視点は 大いに参考にすべきではないだろうか。ノーベル賞受賞者の意見を尊重すると、ノ-ベル賞級の世界観を示される危険性が有る。 いろいろな視点や、多様性は 大事ではないだろうか。

逆に、 面接を重視すると

1) 公正でなく、場合によっては、責任者の私的な 都合の良い人事に走りがちである。 公募などを行っても、自分の都合の良い人を集めるは 世に多い現象である。公のポストを 私的のように行っている人事は 世に多い。
2) 面接を受ける者は 真剣勝負で臨むので、中々、人物評価は 実際には難しい点がある。 一緒に食事をとったり、日ごろの様子を観察したり、友人や知人の意見を参考にしたり、 いろいろ工夫していると考えられる。
3) 多くの労力を必要とする。

などである。
私的な企業や、伝統的な職業などは 縁故関係で 採用を決める傾向が強いは 一概には否定できず、 良い面が多々あると評価すべきである。 それぞれ、伝統と文化的、背景を活かせるからである。 世襲的政治家など 批判的に捉えがちであるが、政治社会は大きく 偉大で 人間関係や背景を強固にするには 一代ではできず、 世襲的な政治家もおおいに育て、 優秀な人材を輩出すべき基礎を、基盤を整えるのが 良いのではないだろうか。 国家の指導的な人たちを育てる ある階層が有っても良いと考える。 学問、芸術でも 伝統に基づいた基礎に配慮するのは 是と考え、同時にいろいろな分野からの 人材の補充、登用もいろいろ配慮するのが、 良いのではないだろうか。 多様な、自由な余地を考えることである。
人材の登用はいわば、 王たる者の 最も大事な能力のひとつであるから、それは、国や社会の 総合的な文化力を反映させるものである。 帰するところ、 文化力の問題であると、自覚し、文化力の向上に日ごろ大いに努力すべきである。

以 上
付記:
ウィキペディア:
人事(じんじ)とは、以下のような意味がある。
(自然に対して)人間に関することがら、出来事
人間としてなし得るまたはなすべきことがら(例:人事を尽くして天命を待つ。)
企業その他の団体・組織における職員の処遇などの決定に関する業務(本項において解説)
人事異動の略
意識(例:人事不省)
法律用語として、人の身分や能力、住所など、そのうち特に身分に関すること(例:人事法、人事訴訟)





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