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幻冬舎plus2015年11月10日 06:00北野武「道徳も正義も簡単にひっくり返る。 だからどうするかって話」 第3回 試し読み<新しい道徳>
発売直後から大反響!! 18万部突破の『新しい道徳』(北野武著)。
連載最終回は、「〈道徳〉の宿命論」。「コロコロ変わるのが道徳の宿命」なんて、そんな!じゃあ一体どうすればいいんだ……と答えを外に求めたくなったら、ぜひゆっくり腰を落ち着けて読んでみてくださいませ。
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誰かに押しつけられた道徳に、
唯々諾々と従うとバカを見る。
それはすでに昔の人が経験済みだ。
社会という大きな枠に、その社会の構成員は囲い込まれて生きている。構成員にはいつも、その枠からできるだけはみださないように、という圧力がかかっている。
人間は大昔から、ずっとそうやって生きてきた。
キリストだって、人間と神様の関係を、羊と羊飼いにたとえている。
人間に限らず、社会を構成する生きものはみんなそうだ。
道徳は、そういう観点からすれば、その社会の枠を示すものともいえる。
いうなれば、牧場の柵だ。
武士道にしても、騎士道にしても同じだ。
「武士道というは死ぬことと見つけたり」というのも、武家社会の構成員である武士が、羊である自分と羊飼いである主君との関係をどうするかっていう話なわけだ、結局は。
命を捨てて忠義を尽くすとか、大義のために死ぬとか。
そういえばなんか格好いいけれど、柵の中の自分を美化しているだけなんじゃないか。
武士が主君に絶対的忠誠を誓い、忠臣は二君に仕えずなんていうことをやかましくいうようになったのは、江戸時代になってからの話だ。その前の戦国時代は、「士はおのれを知る者のために死す」で、自分を高く評価してくれる主君がいれば、二君でも三君でもどんどん仕えた。
実力主義の時代と終身雇用の時代では、道徳は変わるのだ。
変わるのは当たり前だ。
牧場の柵なんだから。
牧場の持ち主が変われば、柵のカタチや場所が変わる。昨日まで自由に行き来できたところが、いきなり立ち入り禁止になったりもする。
道徳はしょせんそんなものだと思っていれば害はないのだけれど、普通そういう風には道徳を教えない。道徳が相対的なものだなんていい出したら、誰も道徳を真面目に守ろうとしなくなるからだ。
だから、まるで永遠不変の真理のように道徳を教える。
世の中が変わらなければ、それでも問題はない。柵を柵と思わずに、自分は此処にいたいから此処にいるんだと思っている方が、羊はよっぽど幸せだ。
だけど、なかなかそうはいかない。この世はいつも動いている。
いちばんわかりやすいのは、戦争に負けたときだ。
ある歴史学者が何かの本に書いていたけれど、戦争とは、敵国の社会を成立させている基本原理に対する攻撃なんだそうだ。
「俺たちが正義だ。お前の考え方は間違ってる」
そういって戦争するわけだ。
アメリカとソ連(当時)の冷戦も、まさしくそういうものだった。太平洋戦争中に、日本が鬼畜米英なんていっていたのもそうだ。
戦争の勝ち負けと、どちらが正しいかは別問題だと思うけれど、現実には勝った方の正義が通って、負けた方は間違っていたってことになる。負けた国は、その社会を成立させている基本原理を否定される。今まで白だったことが黒になり、黒だったことが白になる。太平洋戦争に負けた日本の教科書は、あちこちを墨で黒く塗り潰された。
鬼畜だった米英の兵隊はヒーローになって、子どもたちはガムだのチョコレート欲しさにあとを追いかけ回す。子どもだけでなく、若い女もそうなった。今もそれが続いているのは、夜の六本木あたりを歩けばすぐにわかる。
良い悪いの話をしているわけじゃない。道徳なんて、そんなものだという話だ。
正義なんてものは、戦争に負けたくらいのことで簡単にひっくり返るのだ。
戦前の世代は、そのことを身に沁みて経験したはずだ。
戦後の教師は、それまでとまるで反対のことを、子どもに教えなくてはいけなくなった。
真面目でいい先生ほど、そのことに悩んだり傷ついたりしただろう。
いい加減で、人の尻馬に乗るのが大好きな奴は、そうでもなかっただろうけど。
戦後の日本で幅をきかせたのは、だいたいそういう連中だった。昨日までバリバリの軍国主義者だった奴らが、今度は占領軍の手先になって、またデカい顔をする。
腹の立つ話だ。
だけど、生きものとして考えれば、そういう奴は環境適応力が優れているともいえる。
牧場主が自分の都合で牧場の柵を作るように、権力者は自分の都合で道徳を作る。都合が変われば、道徳もコロコロ変わる。
コロコロ変わるのが道徳の宿命なのだから。
学校で教わった道徳を、絶対だと信じるからおかしなことになる。
戦後の日本が世界も驚くような復興を遂げたのは、戦前の道徳がひっくりかえって、道徳なんかどうでもいいやってことになったおかげともいえる。人生とはなんぞやなどという難しい話はやめて、ひたすら経済活動に邁進したおかげで今の日本がある。かつては、エコノミックアニマルなんていわれたものだけど、それはつまり道徳を失った動物ってことだろう。
今頃になって、日本人はエライとかスゴイとか、日本人の道徳を取り戻せなんていい出したのは、その反動に違いない。
だけど、なんだかそれも虚しい。
世の中の道徳が変わったからといって、自分まで変わる必要はない。
誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々と従うとバカを見る。
それはもう、すでに昔の人が経験済みのことだ。
※今こそ日本に必要な「新しい道徳」!! 続きは『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいいのはなぜか」』をぜひお手にとってご高覧ください。
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見識のある考え方では?
再生核研究所声明254 (2015.11.2) 愛が無ければ観えない ― について、 更に
既に、
再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
2013.2.26.11:15:
で、愛が無ければ、見えない、 関心が無ければ、進まない、できると考えなかった。
何と 15年も前から、 考え、 3人の学位論文の素材になり、 2冊の著書でも扱い、 S先生やF先生も講究録で触れている。 それなのに馬鹿みたいなことに気付かなかった。
と述べている。要するにある結果に気づいたのであるが、先が有ると思わなかったので、関心をもって考えなかったので、長い間 基本的な結果に気づかず、通り過ぎていた、事を示している。
さらに、最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の結果の場合は 凄い歴史的な事件と言える。すなわち、ゼロ除算100/0=0は割り算を掛け算の逆と考えると、不可能であることが証明されるので、不可能の烙印を押されていた。しかし、物理学などでは重要な問題が絡んでいるにも関わらず、何百年間も人は、新しい考え方に関心を抱かず、不明のままで年を重ねてきた。それが、偶然ちょっとしたきっかけで、解決をもたらした(再生核研究所声明171参照)。
興味、関心、愛が無ければ、何も気づかず、発見もせず、認知さえしないで、空しいものになる。
と言及している。
さらに、そもそも人間とは何者かと問い
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている― 再生核研究所声明148
そこまでは行かなくても、 人間が何に関心を抱くは 極めて興味深い、人間研究の課題である。実に多種多様であり、世間を見てもその多様性には驚かされる。その多様性こそ人間社会の豊かさの表れであると評価される。生まれながらの性格、能力、幼児時の育ち、教育など、どうして興味の対象、関心を抱く対象が決まるかは 今後の大きな課題である。 一般には、関心や愛情はどんどん深まって、成長、発展する性格があり、人生の晩年までには名人や、達人の域にまで成長する例は世に多い。 多くの数学者が、子供の頃将棋や碁で遊んでいたなどの話しを交わしたことが有るが、興味深い例である。一流のスポーツマン、イチロー選手などいろいろな有名選手の生い立ちと名前が思い出される。
愛を抱く、興味を持つ、関心を持つは、人間らしい人間を育てる基本であるから、知識偏重、詰め込み教育ではなくて、 みずみずしい愛、意欲が湧く、情念が生命力とともに湧いてくるような 全人的な教育が大事ではないだろうか。
心身を大事にすることともに、真理、真智を愛する精神こそ、大事ではないだろうか。
何のために、何故か? ― 人間らしい、人生を送るためにである。
と結んでいる。
愛とは 共生感に基づく喜びの感情であると 表現した。 全く経験したことのない世界に触れると、全然、共感、共鳴しないで、ただ暗号が並んでいるように感じることがある。 純粋数学などでは純粋な抽象理論であるから 顕著に遭遇することがある。専門外だと始めから最後まで、殆ど何も分からない研究発表も珍しくはない。 共感、共鳴が、更に愛の感情まで高まるには相当な経験に基づいた共通の基盤が必要ではないだろうか。 民族の文化や、男女関係の愛の問題についても言える。愛の素である共生感が深まるための背景について言及している。最近のゼロ除算の理解の仕方から実感してきた感情である。
ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるとされ、ゼロで割れないことは定説である。 そこで、突然、ゼロ除算が可能であると言い出され、可能であると言われたとき、人はそんな馬鹿な、今更何を言っているのか? また結果が、従来の数学と全然違う、強力な不連続性を述べていることに触れられると、そんな数学は始めから、正しくとも興味がないと発想するは多い。 全く新しい結果となると、共感も、共鳴もなく、愛着も湧かないのは 我々の心の仕組みからも言えるのではないだろうか。
他方、客観的には何の、あるいは大した意味や、動機が無くても、いわゆる未解決問題として提起された問題などで、永く挑戦を続けていると どんどん愛着、愛情が深まり、湧いてきて、いわば問題にハマって行く状況は 数学界などで、個人や、グループとしてもよく見られる現象である。― 不可能、未解決と言われると、挑戦したいという心情と 解いて、いわば競争に勝ちたい という心情が湧くのは当然で、結構数学の研究を推進する原動力になっているのではないだろうか?
この声明の趣旨は、愛は 共通の基盤、経験、関わりの深さで深まり、我々の心は、生命のあるべき方向での 関わりの深さで 愛も深まるという 観点に想いを致すことである。
以 上
再生核研究所声明255 (2015.11.3) 神は、平均値として関数値を認識する
(2015.10.30.07:40
朝食後 散歩中突然考えが閃いて、懸案の問題が解決した:
どうして、ゼロ除算では、ローラン展開の正則部の値が 極の値になるのか?
そして、一般に関数値とは何か 想いを巡らしていた。
解決は、驚く程 自分の愚かさを示していると呆れる。 解は 神は、平均値として関数値を認識すると纏められる。実際、解析関数の場合、上記孤立特異点での関数値は、正則の時と全く同じく コ-シーの積分表示で表されている。 解析関数ではコ-シーの積分表示で定義すれば、それは平均値になっており、この意味で考えれば、解析関数は孤立特異点でも 関数値は 拡張されることになる ― 原稿には書いてあるが、認識していなかった。
連続関数などでも関数値の定義は そのまま成り立つ。平均値が定義されない場合には、いろいろな意味での平均値を考えれば良いとなる。解析関数の場合の微分値も同じように重み付き平均値の意味で、統一的に定義でき、拡張される。 いわゆるくりこみ理論で無限値(部)を避けて有限値を捉える操作は、この一般的な原理で捉えられるのではないだろうか。2015.10.30.08:25)
上記のようにメモを取ったのであるが、基本的な概念、関数値とは何かと問うたのである。関数値とは、関数の値のことで、数に数を対応させるとき、その対応を与えるのが関数でよく f 等で表され x 座標の点 x をy 座標の点 yに対応させるのが関数 y = f(x) で、放物線を表す2次関数 y=x^2, 直角双曲線を表す分数関数 y=1/x 等が典型的な例である。ここでは 関数の値 f(x) とは何かと問うたものである。結論を端的に表現するために、関数y=1/xの原点x=0における値を問題にしよう。 このグラフを思い出して、多くの人は困惑するだろう。なぜならば、x が正の方からゼロに近づけば 正の無限に発散し、xが負の方からゼロに近づけば負の無限大に発散するからである。最近発見されたゼロ除算、ゼロで割ることは、その関数値をゼロと解釈すれば良いという簡単なことを言っていて、ゼロ除算はそれを定義とすれば、ゼロ除算は 現代数学の中で未知の世界を拓くと述べてきた。しかし、これは誰でも直感するように、値ゼロは、 原点の周りの値の平均値であることを知り、この定義は自然なものであると 発見初期から認識されてきた。ところが、他方、極めて具体的な解析関数 W = e^{1/z} = 1 + 1/z + 1/2!z^2 + 1/3!z^3 +……. の点 z=0 における値がゼロ除算の結果1であるという結果に接して、人は驚嘆したものと考えられる。複素解析学では、無限位数の極、無限遠点の値を取ると考えられてきたからである。しかしながら、上記の考え、平均値で考えれば、値1をとることが 明確に分かる。実際、原点のコーシー積分表示をこの関数に適用すれば、値1が出てくることが簡単に分かる。そもそも、コーシー積分表示とは 関数の積分路上(簡単に点の周りの円周上での、 小さな円の取り方によらずに定まる)で平均値を取っていることに気づけば良い。
そこで、一般に関数値とは、考えている点の周りの平均値で定義するという原理を考える。
解析関数では 平均値が上手く定義できるから、孤立特異点で、逆に平均値で定義して、関数を拡張できる。しかし、解析的に延長されているとは言えないことに注意して置きたい。 連続関数などは 平均値が定義できるので、関数値の概念は 今までの関数値と同じ意味を有する。関数族では 平均値が上手く定義できない場合もあるが、そのような場合には、平均値のいろいろな考え方によって、関数値の意味が異なると考えよう。この先に、各論の問題が派生する。
以 上
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