2015年11月4日水曜日

記事 幻冬舎plus2015年11月02日 06:00北野武「気持ちがいいから いいことしろっておかしくないか」  第1回 試し読み<新しい道徳>

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幻冬舎plus2015年11月02日 06:00北野武「気持ちがいいから いいことしろっておかしくないか」  第1回 試し読み<新しい道徳>




発売直後から大反響!! 16万部突破の『新しい道徳』(北野武著)。何がいいことかわからなくなっている世の中だから、自分の頭で考える。それを考える縁(よすが)となる本書から、中身をちょっぴりご紹介します。
連載第1回目は、子供たちの道徳の教科書に蔓延する「いいことをすると気持ちがいいよ。だからいいことをしましょうね」と教えることの気持ち悪さについて。北野流の倫理学講義、スタートです。



まるでクスリの効能書きみたいに、
「いいことをしたら気持ちいいぞ」って
書いてある。

 道徳の言葉は、なんだかとても薄っぺらい。どのくらい薄いかというと、「トイレを綺麗に使いましょう」と書かれた貼り紙くらい薄っぺらい。

 もちろん、トイレは綺麗に使った方がいいとは思う。俺は汚いトイレを見ると、掃除をせずにはいられない。飲み屋でトイレに入って、前の人が粗相していたりすると、つい掃除をしてしまうのは昔からの癖みたいなものだ。今までいったい何遍、見ず知らずの他人が汚したトイレを掃除したことか。

 だけどそれは「トイレを綺麗に使いましょう」という貼り紙を見て、そりゃそうだよなあと納得してやっているわけではない。そこが、根本的に違う。「親を殺してはいけません」「お金を盗んではいけません」「レイプはしないようにしましょう」というのと同じだ。

「噓をついてはいけません。正直に生きなさい」

 これは、道徳の定番フレーズだ。なんだか表面的なことしか書いていないわりに、けっこう矛盾したことをいっている。

 道徳の教材に、こんなイラストがあった。電車の席に座った子どもが嫌そうな顔をしている。隣の大人は眠ったふりをしている。目の前に年寄りが立っているからだ。大人も子どもも、席を譲りたくないんだろう。

 さらに、そのイラストには、こういう問いが付けられていた。

「こういうときは、どうすればいいか、みんなで考えましょう」

 一応、みんなで考えて答えを出すことになっているわけだが、正しい答えはもちろんはじめから決まっている。「席を譲らなくてもすむように隣の大人と同じように眠っているふりをする」という答えに、まさか先生がマルをくれるはずはない。

「どうぞ」といって年寄りに席を譲るっていうのが、正解なのだろう。

 ……これは、噓じゃないのか? 嫌そうな顔をしているのは、席を譲りたくないからだろう。その気持ちには正直じゃなくていいんだろうか。

 ほんとうは座っていたいのに、年寄りには喜んで席を譲るふりをする。

 これは子どもに噓をつけといってるのと同じことだろう。

 それで、いいことをすると気持ちがいいよ、なんて書いてある。

 気持ちいいときもあるかもしれないが、辛くて苦しくてどうしようもないときだってあるんじゃないの、子どもにだって。毎晩遅くまで塾に通わされて、へとへとに疲れ切った子どももいるはずだ。それでも、高尾山かなんか登山して元気に帰ってきた年寄りにも、ニコニコ顔で席を譲れというんだろうか。それで気持ちが良くなるわけがない。

 俺が子どもの頃は、年寄りに席を譲るのが当たり前だと教えられた。年寄りが立っていて、子どもが座っていたら、生意気だってひっぱたかれたものだ。

 優先席なんて、あの頃は必要なかった。本来、電車の席は、全部が優先席だ。前に年寄りが来たら、子どもは有無をいわずに立つ。そこに理由なんて必要ない。

 ところが、今の道徳では、年寄りに席を譲るのは、「気持ちいいから」なんだそうだ。
席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか。

 だとしたら、席を譲って気持ち良くないなら、席なんか譲らなくていいという理屈になる。

 年寄りに席を譲るのは、人としてのマナーの問題だ。美意識の問題といってもいい。

 マナーにわざわざ小理屈をつけて、気持ちいいから譲りなさいなんていうのは、大人の欺瞞以外の何ものでもない。

 だいたい、隣のおやじが寝たふりをしているのが、そもそも駄目じゃないか。

 大人が率先して席を譲って、子どもにこれがマナーだよって教えてやらなくてはいけない。

 それを真似して席を譲って、辛そうに立っていた年寄りに「ありがとう」といわれて、それで「ああ、なんだかいい気分になった」というのが順序だろう。

 だけど、そのいい気持ちになったというのは、道徳の教科書に書いて、子どもに教え込むことではない。手品のタネを明かしてしまうのと同じだ。面白くもなんともない。
誰かに親切にして、いい気持ちになるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある。

 それをクスリの効能書きかなんかのように、いいことをしたら気持ちいいぞ、気持ちいいぞ、って書いてあるのが道徳の教科書だ。薄っぺらいにもほどがある。

 まるで、インチキ臭い洗脳だ。

 洗脳される子どももいるかもしれないけれど、そういう奴はどうせロクな大人にはならない。妙に素直な分、気の毒ですらある。どこかの新興宗教に洗脳されて、わけのわからない仏像だとか壺だとかを売り歩くようになるんじゃないか。

第2回「画家になりたい? バカヤロウ! 絵描きで飯が喰えるわけがねえだろ!」は、11月5(木)公開予定です。

関連書籍

北野武『新しい道徳』
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発売直後から大反響!! 16万部突破の『新しい道徳』(北野武著) は良いのでは?良い感覚では?


再生核研究所声明221(2015.4.3) ある数学者の仏教解説
(これは 日蓮思想の論理構造― 一神教原理主義との対比 ― 、藤本坦孝著、 山喜房佛書林 (平成26年) を通読して感じたものを纏めたものである。)

本書は 著名な数学者(1988年、日本数学会幾何学賞受賞者)の 仏教の解説書であり、極めて興味深いものである。数学者の仏教信仰者は世に多いが 数学者による仏教に関する著書は 世に珍しいと言える。世では誤解があり、峻厳な論理や合理性を重んじる数学者が 宗教に関心を懷くのは おかしいと誤解されているのではないだろうか。
本書の内容の筋は、著者が仏教に深い関心を懐き、お釈迦様(釈尊)を崇敬され、また,
同じように釈尊を崇敬された 日蓮が 特に釈尊の教えのうちでも、法華経に帰依して 多くの言葉を残されたことに対して 著者の 人生観、世界観を元に 数学者らしい 客観的な記述で 解説されているものである。日蓮の残された教えは 膨大なものであるから、文献なども膨大であり、広くて、深い解説には驚嘆させられる。 しかしながら、著者自身の纏まりのある世界観で調和良く、纏められていて、明快に全体が理解でき、普遍的に、一般的に共感、共鳴できるものであると思われる。普遍的に お釈迦様、日蓮の教えの本質を 平易に明快に解説されていると考えられる。
著者自身の中心思想として、
縁起観、久遠の本仏の概念を挙げることができるが、著者は、
それらが相争うことなく、それぞれの長所を発揮しあって相互に照らし合う世界を求めることが志向されているもの(232ぺージ)、また、あらゆる存在が相互に絡み合ったなかで起きており(1ページ)
と 世界の宗教の統一、世界の調和を求め、
永遠のいのちの考えに達しており、史上多くの高僧が現れた輝かしい仏教の世界で、著者自身素晴らしい境地に達しておられるように感じられる。
本書は 日蓮に対するいろいろな誤解を解き、日蓮に対する崇敬の念を深め、同時に仏教の本質を簡明に解き明かした著書として、 世で高く評価されるのではないだろうか。
著書の はじめに の部分は 全ての人の心をうつのでは ないだろうか。
再生核研究所は 世界の宗教の統一を思考した:

再生核研究所声明122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
再生核研究所声明132 (2013.9.10): 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか。 
(2013.9.5.6:50 まだ 薄暗い中、研究室に向っているとき、神を如何に感じるか という、 新しい声明の原案が閃いた。)

が、本書の内容全体は素晴らしく、受け入れられ、共感、共鳴できるものである。
このように素晴らしい仏教の世界を みると、日本の仏教界の現状については 返すがえすも残念に思われることがある。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。 日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。
以 上










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