2015年11月6日金曜日

算盤の書(そろばんのしょ、Liber Abaci)

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算盤の書(そろばんのしょ、Liber Abaci)は、1202年にフィボナッチによって書かれた算術に関する歴史的な本である。計算の書(けいさんのしょ)とも。この作品においてフィボナッチはアラビア数学をヨーロッパに紹介した。これらの知識はフィボナッチが父親のグリエルモ・ボナッチオと共に北アフリカに住んでいた時、アラブ人と学んだものである。
「算術の書」とはアラビア数学について述べられた西洋初の本の1つである。商人や学者に説くことにより、新しい数学がこれまでの数学より優れたものであるということを人々に確信させた。
第2版の算盤の書はマイケル・スコットにより1227年に献呈された。[1][2] 今日1202年版のオリジナル原稿は存在しない。
目次 [非表示]
1 各部の要約
1.1 章立て
2 フィボナッチの分数表記法
3 Modus Indorum
4 脚注
5 参考文献
6 外部リンク
各部の要約[編集]
第一部ではアラビア数学の体系について、格子乗算や異なる表記法間における換算の方法を含めて述べている。
第二部では商業を例にとり、通貨や寸法の換算、利益や利子の計算について述べている。
第三部では多くの数学の問題について論じている。例として、中国の剰余定理、完全数、メルセンヌ素数などである。同様に等差数列や四角錐数の公式についても論じている。また、この章では兎の頭数の増加について述べているが、それはフィボナッチ数列の起源となり、このため今日でもフィボナッチの名が広く知られるようになった。
第四部では平方根などの無理数の近似値を代数学や幾何学の知識で求めている。
この本ではユークリッド幾何学の証明や、連立一次方程式そしてディオファントス方程式についての研究についても述べられている。フィボナッチは10-11世紀に活躍したペルシアの数学者アル=カラジー(Abū Bakr al-Karajī)にこれらのことを学んだようである。
章立て[編集]
インド・アラビア数字の読み方と書き方
整数の乗法
整数の加法
整数の減法
整数の除法
整数と分数の乗法
分数と他の計算
三数法、商品の相場
両替
合資算
混合法
問題解決
仮定法
平方根と立方根
幾何学(測量を含む)と代数学
フィボナッチの分数表記法[編集]
「算術の書」を読むのにフィボナッチの分数表記法を理解することは役立つ。その表記法とは当時まで一般的に用いられていたエジプト式分数と、今日も使われている形式の分数の中間のものである。
帯分数の表記において、現在\scriptstyle 2\ \frac{1}{3}(=7/3)と書くところを、フィボナッチは\scriptstyle \frac{1}{3}\ 2と顕した。
フィボナッチは合成された分数、つまり複数の分子と分母が同じ括線(分数の中央の横棒)を共有している形式を用いた。これを通常の形式にするには、分子はそのままで、各分母にそれよりも右にある分母を掛けた分数の和とすればよい。例えば\scriptstyle \frac{b\ a}{d\ c}=\frac{a}{c}+\frac{b}{cd}、\scriptstyle \frac{c\ b\ a}{f\ e\ d}=\frac{a}{d}+\frac{b}{de}+\frac{c}{def}である(右から左に読んでいることに注意)。これは異なる基数の数の和として表され、伝統的な重さ、長さ、通貨の単位を扱うのに便利である。具体的な例として、長さの単位フィート、ヤード、インチに関して1ヤード=3フィート、1フィート=12インチが成り立つので、5ヤードと2フィートと\scriptstyle 7\ \frac{3}{4}インチの和は\scriptstyle \frac{3\ 7\ 2}{4\ 12\ 3}\ 5ヤードと表される。しかし、伝統的な単位に対する典型的な分数表記法は、異なる基数に基づくのと同様、分母を明記しない。フィボナッチの表記法において、明記された分母は異なる基数の単位を多様な問題に自由に用いられる。シグラーはフィボナッチがすべての分母が10である合成された分数を用いて、小数を分数の形で表す方法を定めていることも指摘している。
フィボナッチは時として複数の分数を隣り合わせて並べ、各分数の和として表現していた。例えば、\scriptstyle \frac{1}{4} \frac{1}{3}\ 2 は\scriptstyle \frac{1}{4}+\frac{1}{3}+2(=31/12)を表す。この形式は2.の合成された分数の形式とは、各分数間に切れ目があることから区別できる。もし全ての分子が1で全ての分母が互いに異なるものであれば、結果としてエジプト式の表記と同じものになる。この形式は時々2.の形式と併用されることもある。つまり\scriptstyle \frac{b\ a}{d\ c}\frac{f\ e}{h\ g}は\scriptstyle (\frac{a}{c}+\frac{b}{cd})+(\frac{e}{g}+\frac{f}{gh})を意味する。
この形式の複雑性は数を多くの異なる方法で書き表すことを可能にし、フィボナッチはある表記法から別のものへと換算するいくつかの方法を説明している。特に、第2章第7節は通常の分数をエジプト式分数に換算する方法の表を含む。
Modus Indorum[編集]
翻訳中途
この項目「算盤の書」は途中まで翻訳されたものです。(原文:en:Liber Abaci17:05,6 April 2009(UTC))
翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2009年5月)
「算盤の書」において、フィボナッチは次のようないわゆるModus Indorum(インドの方法)を紹介している。それは今日ではアラビア数学として知られるものである。
私の父が故国からブギア(現アルジェリアのブージー)の税関の州当局者に任命された後、彼はそこに集まるピサの商人から税金の徴収をしていた。そして、将来の有用性、利便性から少年であった私もそこに連れて行き、そこで私に将来のため計算の勉強に専念し、指導を受けることを望んでいた。そこで、次の素晴らしい技術の指導の結果としての私のヒンディーの9つの数字の序論とは、他の何よりも私の興味を引いた技術の知識である。それのために私はその全ての側面がエジプト、シリア、ギリシャ、プロヴァンスで様々な方法で研究されたことに、その後これらの地では、商業の傍らで気付いた。私は深い勉学と論争の意見交換の学習を推し進めた。
それ故に、私はヒンドゥーの方法をより厳格に組み込み、なお一層研究に骨を折りながら、私の知識から幾分かのものを付け加え、またユークリッド幾何学の技術の精密さからもいくつかのことを挿入し、この本を丸ごと、できるだけ分かりやすく、15の章に分けて構成した。 私が正確な証明とともに発表したほぼ全ての導入したものは、この知識のさらなる探究のため、その優れた方法で指導されるかもしれない。もし私がたまたま何かを多かれ少なかれ適切もしくは必要なことを書き落としていたら、私は許しを乞う。責任のない者も、完全に全てのことに用心深い人もいないのだから。
9つのインドの数は、1,2,3,4,5,6,7,8,9である。これら9つの数に記号0を加えれば、どのような数でも書き表せるだろう。
つまり、彼はこの本で0から9の数字及び桁の値の使用を提唱している。
彼は著作において新しい数学体系の実用的な重要性を、格子乗算とエジプト式分数を用いながら、それを簿記、単位の換算、利子の計算、両替、その他多くの用法に応用することで示している。この十個の数の使用が三世紀後の1585年に活版印刷術が発明されて初めて広まったにもかかわらず、この本はヨーロッパの知識層へ広く受け入れられ、ヨーロッパ人の考え方そのものに大きな影響を及ぼした。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%97%E7%9B%A4%E3%81%AE%E6%9B%B8


再生核研究所声明257 (2015.11.05) 無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点
(道脇さんたちの、和算の伝統を感じさせるような、何とも 言えない魅力 がありますね。 添付のように完成させたい。例の専門家たち、驚いて対応を検討しているのでは?どんどん、事情がみえてきました. 今朝の疑問も きれいに散歩中 8時15分 ころ、解決できました.成文化したい。2015.11.1.9:7
無限遠点の値の意味を 約1年半ぶりに 神は関数値を平均値として認識する で 理解できました。今、気になるのは,どうして、正の無限 負の無限、および ゼロが近いのかです。その近いという意味を、 正確に理解できない。 近い事実は 添付する 電柱の左右の傾きに現れている。
log 0=0
と定義するのが 自然ですが、それには、 ゼロと マイナス無限大 が一致しているとも言える。 そのところが 不明、何か新しい概念、考え 哲学が 求められている???
2015.11.1.05:50)

ローラン展開の正則部の値の解釈のように(再生核研究所声明255 (2015.11.03) 神は、平均値として関数値を認識する)、実は当たり前だったのに、認識がおかしかったことに気づいたので、正確に表現したい。
まず、正の無限大とは何だろうか。 1,2,3,…… といけば、正の整数は 正の無限大に収束、あるいは発散すると表現するだろう。 この正確な意味は イプシロン、デルタ論法という表現で厳格に表現される。すなわち、 どんなに大きな 整数 n をとっても、あるN を取れば(存在して)、N より大の 全ての整数 m に対して、n < m が成り立つと定義できる。 いろいろな設定で、このようにして、無限は定義できる。 どんなに大きな数に対しても、より大の整数が存在する。 それでは、+∞ とは何だろうか。 限りなく大きな数の先を表す概念であることが分かる。 大事な視点は +∞は 定まった数ではなくて、極限で考えられたもので、近づいていく先を表した状況で考えられていることである。 これらの概念は極限の概念として、現代数学で厳格に定義され、その概念は新しいゼロ除算の世界でも、全て適切で、もちろん正しい。
簡単な具体例で説明しよう。 関数y=1/x のグラフはよく知られているように、正の実軸からゼロに近づけば、+∞に発散し、負からゼロに近づけば、-∞に発散する。 ところが、原点では、既に述べてきたように、その関数値はゼロである。 この状況を見て、0、+∞、-∞ らが近い、あるいは 一致していると誤解してはならない。+∞、-∞  らは数ではなく、どんどん大きくなる極限値や、どんどん小さくなる極限値を表しているのであって、それらの先、原点では突然にゼロにとんでいる 強力な不連続性を示しているのである。
複素解析における無限遠点も同様であって、立体射影で複素平面はリーマン球面に射影されるが、無限遠点とは あらゆる方向で原点から限りなく遠ざかった時に、想像上の点が存在するとして、その射影としてりーマン球面上の北極を対応させる。 関数W=1/z は原点でその点が対応すると、解析関数論では考え、原点で一位の極をとると表現してきた。
しかしながら、新しく発見されたゼロ除算では、1/0=0 であり 原点には、ゼロが対応すると言っている。 これは矛盾ではなくて、上記、一位の極とは、原点に近づけは、限りなく無限遠点に近づく、あるいは発散するという、従来の厳格議論はそのままであるが、ゼロ除算は、原点自身では、数としてゼロの値をきちんとして取っているということである。 この区別をきちんとすれば、従来の概念とゼロ除算はしっかりとした位置づけができる。 近づく値とそこにおける値の区別である。

以 上

再生核研究所声明236(2015.6.18)ゼロ除算の自明さ、実現と無限遠点の空虚さ

(2015.6.14.07:40 頃、食後の散歩中、突然考えが、全体の構想が閃いたものである。)

2015年3月23日、明治大学における日本数学会講演方針(メモ:公開)の中で、次のように述べた: ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、 強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されること が求められる。
そこで、上記、突然湧いた考え、内容は、ゼロ除算の理解を格段に進められると直観した。
半径1の原点に中心を持つ、円Cを考える。いま、簡単のために、正のx軸方向の直線を考える。 その時、 点x (0<x<1)の円Cに関する 鏡像 は y = 1/x に映る。この対応を考えよう。xが どんどん 小さくゼロに近づけば、対応する鏡像 yは どんどん大きくなって行くことが分かる。そこで、古典的な複素解析学では、x =0 に対応する鏡像として、極限の点が存在するものとして、無限遠点を考え、 原点の鏡像として 無限遠点を対応させている。 この意味で 1/0 = ∞、と表わされている。 この極限で捉える方法は解析学における基本的な考え方で、アーベルやオイラーもそのように考え、そのような記号を用いていたという。
しかしながら、このような極限の考え方は、適切ではないのではないだろうか。正の無限、どこまで行っても切りはなく、無限遠点など実在しているとは言えないのではないだろうか。これは、原点に対応する鏡像は x>1に存在しないことを示している。ところが、ゼロ除算は 1/0=0 であるから、ゼロの鏡像はゼロであると述べていることになる。実際、鏡像として、原点の鏡像は原点で、我々の世界で、そのように考えるのが妥当であると考えられよう。これは、ゼロ除算の強力な不連続性を幾何学的に実証していると考えられる。
ゼロ以上の数の世界で、ゼロに対応する鏡像y=1/xは存在しないので、仕方なく、神はゼロにゼロを対応させたという、神の意思が感じられるが、それが この世界における実態と合っているということを示しているのではないだろうか。
この説は、伝統ある複素解析学の考えから、鏡像と無限遠点の概念を変える歴史的な大きな意味を有するものと考える。

以 上
付記 下記図を参照:

再生核研究所声明232(2015.5.26)無限大とは何か、無限遠点とは何か。― 驚嘆すべきゼロ除算の結果

まず、ウィキペディアで無限大、無限遠点、立体射影: 語句を確認して置こう:

無限大 :記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)で表す。 大雑把に言えば、いかなる数よりも大きいさまを表すものであるが、より明確な意味付けは文脈により様々である。例えば、どの実数よりも大きな(実数の範疇からはずれた)ある特定の“数”と捉えられることもある(超準解析や集合の基数など)し、ある変量がどの実数よりも大きくなるということを表すのに用いられることもある(極限など)。無限大をある種の数と捉える場合でも、それに適用される計算規則の体系は1つだけではない。実数の拡張としての無限大には ∞ (+∞) と -∞ がある。大小関係を定義できない複素数には無限大の概念はないが、類似の概念として無限遠点を考えることができる。また、計算機上ではたとえば∞+iのような数を扱えるものも多い。
無限遠点 : ユークリッド空間で平行に走る線が、交差するとされる空間外の点あるいは拡張された空間における無限遠の点。平行な直線のクラスごとに1つの無限遠点があるとする場合は射影空間が得られる。この場合、無限遠点の全体は1つの超平面(無限遠直線、無限遠平面 etc.)を構成する。また全体でただ1つの無限遠点があるとする場合は(超)球面が得られる。複素平面に1つの無限遠点 ∞ を追加して得られるリーマン球面は理論上きわめて重要である。無限遠点をつけ加えてえられる射影空間や超球面はいずれもコンパクトになる。
立体射影: 数学的な定義

• 単位球の北極から z = 0 の平面への立体射影を表した断面図。P の像がP ' である。
• 冒頭のように、数学ではステレオ投影の事を写像として立体射影と呼ぶので、この節では立体射影と呼ぶ。 この節では、単位球を北極から赤道を通る平面に投影する場合を扱う。その他の場合はあとの節で扱う。
• 3次元空間 R3 内の単位球面は、x2 + y2 + z2 = 1 と表すことができる。ここで、点 N = (0, 0, 1) を"北極"とし、M は球面の残りの部分とする。平面 z = 0 は球の中心を通る。"赤道"はこの平面と、この球面の交線である。
• M 上のあらゆる点 P に対して、N と P を通る唯一の直線が存在し、その直線が平面z = 0 に一点 P ' で交わる。Pの立体射影による像は、その平面上のその点P ' であると定義する。

無限大とは何だろうか。 図で、xの正方向を例えば考えてみよう。 0、1、2、3、、、などの正の整数を簡単に考えると、 どんな大きな数(正の) n に対しても より大きな数n + 1 が 考えられるから、正の数には 最も大きな数は存在せず、 幾らでも大きな数が存在する。限りなく大きな数が存在することになる。 そうすると無限大とは何だろうか。 普通の意味で数でないことは明らかである。 よく記号∞や記号+∞で表されるが、明確な定義をしないで、それらの演算、2 x∞、∞+∞、∞-∞、∞x∞,∞/∞ 等は考えるべきではない。無限大は普通の数ではない。 無限大は、極限を考えるときに有効な自然な、明確な概念、考えである。 幾らでも大きくなるときに 無限大の記号を用いる、例えばxが どんどん大きくなる時、 x^2 (xの2乗)は 無限大に近づく、無限大である、無限に発散すると表現して、lim_{x \to +\infty} x^2 =+∞ と表す。 記号の意味はxが 限りなく大きくなるとき、x の2乗も限りなく大きくなるという意味である。 無限大は決まった数ではなくて、どんどん限りなく 大きくなっていく 状況 を表している。
さて、図で、 x が正の方向で どんどん大きくなると、 すなわち、図で、P ダッシュが どんどん右方向に進むとき、図の対応で、Pがどんどん、 Nに近づくことが分かるだろう。
x軸全体は 円周の1点Nを除いた部分と、 1対1に対応することが分かる。 すなわち、直線上のどんな点も、円周上の1点が対応し、逆に、円周の1点Nを除いた部分 のどんな点に対しても、直線上の1点が対応する。
面白いことは、正の方向に行っても、負の方向に行っても原点からどんどん遠ざかれば、円周上では Nの1点にきちんと近づいていることである。双方の無限の彼方が、N の1点に近づいていることである。
この状況は、z平面の原点を通る全ての直線についても言えるから、平面全体は球面全体からNを除いた球面に 1対1にちょうど写っていることが分かる。
そこで、平面上のあらゆる方向に行った先が存在するとして 想像上の点 を考え、その点に球面上の点 Nを対応させる。 すると、平面にこの想像上の点を加えた拡張平面は 球面全体 (リーマン球面と称する) と1対1に 対応する。この点が 無限遠点で符号のつかない ∞ で 表す。 このようにして、無限を見ることが、捉えることができたとして、喜びが湧いてくるのではないだろうか。 実際、これが100年を越えて、複素解析学で考えられてきた無限遠点で 美しい理論体系を形作ってきた。
しかしながら、無限遠点は 依然として、数であるとは言えない。人為的に無限遠点に 代数的な構造を定義しても、人為的な感じは免れず、形式的、便宜的なもので、普通の数としては考えられないと言える。
ところが、ゼロ除算の結果は、1 / 0 はゼロであるというのであるから、これは、上記で何を意味するであろうか。基本的な関数 W=1/z の対応は、z =0 以外は1対1、z =0 は W=0 に写り、全平面を全平面に1対1に写している。 ゼロ除算には無限遠点は存在せず、 上記 立体射影で、 Nの点が突然、0 に対応していることを示している。 平面上で原点から、どんどん遠ざかれば、 どんどんNに近づくが、ちょうどN に対応する点では、 突然、0 である。
この現象こそ、ゼロ除算の新規な神秘性である。
上記引用で、記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)、オイラーもゼロ除算は 極限の概念を用いて、無限と理解していたとして、天才 オイラーの間違いとして指摘されている。
ゼロ除算は、極限の概念を用いて得られるのではなくて、純粋数学の理論の帰結として得られた結果であり、世の不連続性の現象を表しているとして新規な現象の研究を進めている。
ここで、無限大について、空間的に考えたが、個数の概念で、無限とは概念が異なることに注意して置きたい。 10個、100個、無限個という場合の無限は異なる考えである。自然数1,2,3、、、等は無限個存在すると表現する。驚嘆すべきことは、無限個における無限には、幾らでも大きな無限が存在することである。 例えば、自然数の無限は最も小さな無限で、1cm の長さの線分にも、1mの長さの線分にも同数の点(数、実数)が存在して、自然数全体よりは 大きな無限である。点の長さはゼロであるが、点の集まりである1cmの線分には長さがあるのは、線分には点の個数が、それこそ目もくらむほどの多くの点があり、長さゼロの点をそれほど沢山集めると,正の長さが出てくるほどの無限である。


以 上


世界中で、ゼロ除算は 不可能 か 
可能とすれば ∞  だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。


再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え

ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。

と述べた。

ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。

ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。

以 上

ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・


地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????

1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????








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