2015年9月7日月曜日

記事 mediagong(メディアゴン)2015年08月30日 06:50<方法論でノンフィクションは蘇る>「ノンフィクションは視聴率を取れない」は方法論を忘れた結末 高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]

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mediagong(メディアゴン)2015年08月30日 06:50<方法論でノンフィクションは蘇る>「ノンフィクションは視聴率を取れない」は方法論を忘れた結末




高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]

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テレビの番組制作には「フリーの人間」が欠かせない。これはテレビの番組制作が始まって以来変わっていない仕組みだろう。映画関係者や新聞社の人間や報道カメラマン、代理店の人間など、さまざまな人間が入ってきて成立していった業界だからだ。

かつて、インパール作戦に従軍した記者もいた。今は100歳を越えているが元気である。流入してきた人間たちの雑多な経験や考え方がテレビを作っていったわけだ。

ここで出来上がった鉄則は実は「テレビは自前では作らない」ということだったかもしれない。テレビ局が自前で番組を作るほどの数の採用を考えたことがない。「群がる人々」を最初から数に入れていたのだ。

逆に言うとそんな伝統があったから優秀な人々が集まったともいえる。ある一定の比率で組織からはみ出る人はいつもいる。それは優秀さとは関係ない。そんな人が流入して来た。面白そうだ、と。

流入してきた人々の中に「ブレイン」と呼べる作家の一群があった。ノンフィクションの番組が、視聴率を争う時間帯に進出していった時、こうした作家の一群の果たした功績は大きい。1980年代、各局にノンフィクション枠が次々に出来ていったときに作家の一群も、各局に散って行き、成果を出していった。

その中の一人に「ラーメン戦争」を仕掛けた人がいる。それまでのノンフィクションには無い手法だった。テレビの相乗効果は大きい。テレビに映ることで人が集まり、映ることでカリスマ性を帯び、更においしいものができていく。だから更に人気が出てくる。そうしたテレビの特性をうまく利用した。

ノンフィクションにはさまざまな手法が持ち込まれてきた。「あるがまま」を撮るのではなく、「起こっていく」ことを撮る。仕掛けるのだ。

たぶんこれはノンフィクションの世界だったから面白かったのだろう。そこには生身の人間がいた。生身の人間が変わっていくさまは面白い。あるシチュエーションさえあれば、人間はがんばりもするしその結果変わって行ったりもする。人生がそこに見える。そこは真剣勝負だ。それが笑えるものになったりする。真剣であればあるほどそれが起こる。

この頃、ノンフィクション番組の中にはさまざまな手法が生まれた。今も残っているものも多い。この頃生まれた「はじめてのおつかい」にどれだけフリーの作家がかかわっていたかは分からないが。

この作家はノンフィクションを面白がるという視点から、報道の番組にも盛んに進出した。報道の側もそれを望んでいた。報道の側にもさまざまな手法が生まれた。一年に起こったことをただ見せるのではなくどう見せるのか、それがいつも問いの中にあった。

そして一週間で起こったことをどう見せるか、そう考えると、面白がれることが次から次に起こっていくから不思議だ。そして長寿番組も生まれた。

ノンフィクションの中にこうした手法を発揮させることは難しい。生身の人間が変わっていく、という視点を持ち続けることが難しいからだ。それが出来ないからやってもらう、やってもらうならプロのほうが良い、ということになり、またバラエティーの領域に戻っていった。

ノンフィクションでは変わっていく人間という視点を忘れて「やってもらう」という安直さだけが残るようになった。これでは面白くならない。

「ノンフィクションは視聴率も取れないジャンルだ」というのは方法論を忘れた結末のように思える。

本物は強い、それをどう描くか、その方法論との葛藤のように思える。方法論が新鮮である時、ノンフィクションは興味あるジャンルによみがえるはずだ。http://blogos.com/article/130957/


真実、事実の 尊重は 基本では? 虚像では 虚しい想像の世界になってしまう。


再生核研究所声明175(2014.8.8)  人間の擁く 大きな虚像



どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。

虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。

そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。

人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。

世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。

多く描く目標や幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。

このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(



再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;

再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 

再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること;

再生核研究所声明86(2012.4.25):  未だ おめでたい人類 - 先史時代;

再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 

再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;

再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;

再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;

再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生

)、



一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。

しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。

人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。

以 上


再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ 

まずは 言葉を確認して置こう:

ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して物語を紡いでいく、芸術表現の一形態。日常会話で「ドラマ」といった場合、テレビドラマを指す場合が多い。
作品としてのドラマの特徴は、物語の一切が登場人物の行動によって描かれる点と、登場人物が何らかの目的を持っている点に特徴がある。その目的への障害に直面することで、登場人物は葛藤する。障害への直面は、往々にして、登場人物同士の精神的・物理的衝突の形で提示される。登場人物が行動を積み重ねていった末に、障害を最終的に乗り越えるか、乗り越えられないかが、物語の大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。
映画が生み出されて以降は、上記の定義のようなドラマを主に描く映像作品を、ドラマとジャンルづける場合もある。
かつてドラマは演劇や戯曲の代名詞でもあった。しかし近代以降、葛藤や、行動の因果関係のない非ドラマの演劇作品・戯曲も数多く生み出されており、演劇や戯曲をドラマと呼ぶのは現代においては不正確と言える。
現実世界においても、現実の人物が上記のような状況に陥っていること指して、ドラマ、もしくはドラマティックと呼ぶ場合もある。(ウィキペディア)

上記 説明で 芸術表現の一形態、演劇や戯曲の代名詞 という部分は 言語の確認として大いに参考になるのではないだろうか。 これらの言葉の背景には、創作者や演出家、関係者の多くの生命の表現としての要素が本質的に存在するということである。 絵画や作曲者が絵画を描き、曲を創作するように ドラマを制作するということである。 なるほどそうならば、今NHK大河ドラマや朝ドラなど みなそれぞれに素晴らしく輝いていて 実に素晴らしいと賞賛でき、感銘できる。 芸術作品となれば、それは本質的に自由であり、生命の活動として 生命の表現として みなされる。
テレビドラマを指す場合が多い には、美術館で美術を楽しむ、映画館で映画を楽しむ、会場で音楽を楽しむというような相当に自由な表現の芸術作品と少し違った要素を有するのではないだろうか。 具体的には、

1) 広範に公開される。
2) 多くの場合、何かの素材に基づいた場合が多い。
3) 繰り返し、日常 連続的、定期的に続けられる。

などである。 ドラマについて何か書きたいと考えた動機は、ドラマを見ることが、人生でどのような意味を持つか、また、そのような観点から、ドラマは どのようにあるべきか と 問うことであった。
我々はなぜ、ドラマを見るのだろうか。 楽しいから、面白いから、感銘するから、 展開が楽しみだから、新規な世界が、珍しい、世界が覗けるから、知識や新しい情報が入って有益だから、共感、共鳴するから、など、などであろうか。― ドラマを通して 人生、世界を考察して、哲学したいからなどの 高級な視点も大事ではないだろうか。連続ドラマなど楽しく、次の展開が楽しみで、生活の張りになっているは 世に多いのではないだろうか。次が楽しみで、生活の張りになっているは好ましく、 それはそれで良いと評価できるが、それが現代のように沢山のドラマが賑わっていると、生活が逆に乱され、楽しいドラマ見て暮らして、人生それで良いかという気持ちが湧いてくる時がある。 素晴らしい映画や、ドラマの後で、虚しさを覚えることもある。― それは何を意味するだろうか、それは現実の生活、社会から離れて、言わば作られた虚像の世界にいることの虚しさを表しているのではないだろうか。― それに対して、何か 為になったという印象の残るドラマ は良いと言えるのではないだろうか。
ドラマの製作者が 露骨に視聴者の関心、人気を集めようとして、意図的に場面を整えれば、我々の心を意図的に弄んでいると感じ、気づけば 空しい、トリックの世界で、心を意図的に弄ばれていると感じるであろう。
視聴者は人生の意味を、自分の世界、心をしっかり捉えて、ドラマに弄ばれないように、のまれないように心がける必要があるのではないだろうか。
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。次も参照:

再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題。


以 上

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