NHK『花燃ゆ』 吉田松陰と桂小五郎が共演しない理由とは
NEWS ポストセブン 6月8日(月)16時6分配信
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』は超低空飛行の視聴率が続く。その理由の一つといわれるのが、「あまりに史実と違う」脚本だ。
例えば、4月12日放送の第15話『塾を守れ!』は、吉田松陰(伊勢谷友介)が老中暗殺を計画した罪で安政6年(1859年)の元旦を長州藩の野山獄(現・山口県萩市)で迎えるところから始まる。
獄中でなお老中暗殺を諦めない松陰は、妹の文(ふみ・井上真央)の最初の夫で江戸にいる久坂玄瑞(東出昌大)に計画に賛同するよう手紙を書くが、久坂と高杉晋作(高良健吾)から計画に反対する血判状が返ってくる。松陰は激怒し、絶交を宣言する。
しかし、史実では血判状は桂小五郎(維新後に木戸孝允に改名)が江戸から萩に帰る際に、久坂、高杉から預かり、松陰に渡したとされている。ドラマでは桂小五郎の代わりに、文の再婚相手となる小田村伊之助(大沢たかお)にやらせているのだ。
そうした脚色がドラマを盛り上げるためとは考えにくい。維新三傑と称される桂の役割を、いくら物語後半の準主役とはいえ、目立った功績のない小田村にさせるのは不可解だ。ある芸能プロダクション関係者はその理由をこう説明してみせた。
「NHK側が、松陰役の伊勢谷と桂役の東山紀之が絡まないよう配慮しているのでしょう。理由は東山の妻で女優の木村佳乃だ」
木村は映画『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』で伊勢谷と意気投合し、2007年5月に交際が発覚した。別の映画でも共演し、プライベートの関係も発展するかと思われたが、2008年3月に破局が報じられた。その後、木村と東山の交際が始まり、2010年10月に結婚した。
「木村佳乃の元恋人と今の夫を、松陰と桂という非常に近い関係の大物2人にキャスティングしてしまった。そのため2人が顔を合わせないように考えたようです。もっとも、2人とも実績と経験のある演者だから、顔を合わせたからといってトラブルになるはずもないが、NHKが過度に配慮したのではないか」(同前)
大河ドラマを巡っては過去にも同様の配慮がされてきた形跡がある。『花燃ゆ』の制作統括がプロデューサーを務めた『龍馬伝』(2010年放送)では、福山雅治演じる坂本龍馬の初恋の女性・加尾役を広末涼子が演じ、高杉晋作役に起用されたのが、かつて広末と交際し、破局した伊勢谷だった。
「2人の共演場面はもともと少なかったが、広末と伊勢谷の出番が重ならないようにしたといわれる。高杉のキャスティングをNHKが発表したのは、放送が始まって半年近く経ってから。主要キャストの多くは放送前年に発表されていたが、広末に出演を断わられないよう伊勢谷の出演発表を先延ばしにしたともいわれる」(NHK関係者)
『花燃ゆ』でも、伊勢谷の吉田松陰をはじめ高杉晋作、久坂玄瑞などの配役が発表されたのは2014年6月だったが、桂小五郎役として東山の起用が発表されたのは4か月遅れの同年10月だった。
2014年8月に萩市でロケが始まった際に報道陣の前で主要キャストが記念撮影したが、「そこで伊勢谷と東山が居合わせぬように気を遣ったのではないか」(前出の芸能プロ関係者)という見方まである。
NHKは「大河ドラマは、史実をもとにしたフィクションです」(広報局)と回答するだけで、伊勢谷と東山を同じシーンに出さないことにしているのかとの問いには答えなかった。
ドラマがフィクションであるのは百も承知だが、都合良く史実をねじ曲げる“歴史修正主義”は、ただでさえ「複数脚本家体制でストーリーがちぐはぐ」(前出・NHK関係者)といわれている大河の迷走に拍車をかけるだけではないか。
※週刊ポスト2015年6月19日号http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150608-00000021-pseven-ent
再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ
まずは 言葉を確認して置こう:
ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して物語を紡いでいく、芸術表現の一形態。日常会話で「ドラマ」といった場合、テレビドラマを指す場合が多い。
作品としてのドラマの特徴は、物語の一切が登場人物の行動によって描かれる点と、登場人物が何らかの目的を持っている点に特徴がある。その目的への障害に直面することで、登場人物は葛藤する。障害への直面は、往々にして、登場人物同士の精神的・物理的衝突の形で提示される。登場人物が行動を積み重ねていった末に、障害を最終的に乗り越えるか、乗り越えられないかが、物語の大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。
映画が生み出されて以降は、上記の定義のようなドラマを主に描く映像作品を、ドラマとジャンルづける場合もある。
かつてドラマは演劇や戯曲の代名詞でもあった。しかし近代以降、葛藤や、行動の因果関係のない非ドラマの演劇作品・戯曲も数多く生み出されており、演劇や戯曲をドラマと呼ぶのは現代においては不正確と言える。
現実世界においても、現実の人物が上記のような状況に陥っていること指して、ドラマ、もしくはドラマティックと呼ぶ場合もある。(ウィキペディア)
上記 説明で 芸術表現の一形態、演劇や戯曲の代名詞 という部分は 言語の確認として大いに参考になるのではないだろうか。 これらの言葉の背景には、創作者や演出家、関係者の多くの生命の表現としての要素が本質的に存在するということである。 絵画や作曲者が絵画を描き、曲を創作するように ドラマを制作するということである。 なるほどそうならば、今NHK大河ドラマや朝ドラなど みなそれぞれに素晴らしく輝いていて 実に素晴らしいと賞賛でき、感銘できる。 芸術作品となれば、それは本質的に自由であり、生命の活動として 生命の表現として みなされる。
テレビドラマを指す場合が多い には、美術館で美術を楽しむ、映画館で映画を楽しむ、会場で音楽を楽しむというような相当に自由な表現の芸術作品と少し違った要素を有するのではないだろうか。 具体的には、
1) 広範に公開される。
2) 多くの場合、何かの素材に基づいた場合が多い。
3) 繰り返し、日常 連続的、定期的に続けられる。
などである。 ドラマについて何か書きたいと考えた動機は、ドラマを見ることが、人生でどのような意味を持つか、また、そのような観点から、ドラマは どのようにあるべきか と 問うことであった。
我々はなぜ、ドラマを見るのだろうか。 楽しいから、面白いから、感銘するから、 展開が楽しみだから、新規な世界が、珍しい、世界が覗けるから、知識や新しい情報が入って有益だから、共感、共鳴するから、など、などであろうか。― ドラマを通して 人生、世界を考察して、哲学したいからなどの 高級な視点も大事ではないだろうか。連続ドラマなど楽しく、次の展開が楽しみで、生活の張りになっているは 世に多いのではないだろうか。次が楽しみで、生活の張りになっているは好ましく、 それはそれで良いと評価できるが、それが現代のように沢山のドラマが賑わっていると、生活が逆に乱され、楽しいドラマ見て暮らして、人生それで良いかという気持ちが湧いてくる時がある。 素晴らしい映画や、ドラマの後で、虚しさを覚えることもある。― それは何を意味するだろうか、それは現実の生活、社会から離れて、言わば作られた虚像の世界にいることの虚しさを表しているのではないだろうか。― それに対して、何か 為になったという印象の残るドラマ は良いと言えるのではないだろうか。
ドラマの製作者が 露骨に視聴者の関心、人気を集めようとして、意図的に場面を整えれば、我々の心を意図的に弄んでいると感じ、気づけば 空しい、トリックの世界で、心を意図的に弄ばれていると感じるであろう。
視聴者は人生の意味を、自分の世界、心をしっかり捉えて、ドラマに弄ばれないように、のまれないように心がける必要があるのではないだろうか。
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。次も参照:
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題。
以 上
再生核研究所声明229(2015.5.12)吉田松陰から学ぶ ― 志の重要性と松陰の最期、モミの実の喩え
(NHK 大河ドラマ 花燃ゆ を見て 特に吉田松陰の言葉と最期についての感想を述べたい。)
素晴らしい NHK 大河ドラマ 花燃ゆ を楽しみに見ている。いろいろ素晴らしいところが多いのであるが、ここでは吉田松陰の言葉と最期についての強い印象を述べたい。まず、Wikipediaによって、基本的な情報を確認し、吉田松陰の言葉を確認して置こう:
立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
志を立ててもって万事の源となす
志士は溝壑に在るを忘れず
己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず
凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし
体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す
人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
それぞれに深く心に響く言葉である。 ドラマにも、志が大事である、あなたの志は何ですか、志がないから、つまらなく思っているなどと 反映されている。 まこと至言である。そこで、志の大事さ が 強い印象として残っている。 ― 志を立ててもって万事の源となす。 ―
人生、好きなように生きれば 良い訳であるが、これは、環境に上手く順応して自分の心が のびのびと 良い感動が伴うように 生きるということである。 しかしながら、感動に満ちて、上手くいっても 人生で何かもの足りない気持ちが残るのではないだろうか。 また、どうしたら永く、感動が続くだろうか。 それには 人生に掛ける虹 というような、人生を貫く筋のようなものが必要ではないだろうか。 これこそ、 人生における志ではないだろうか。 我々は道を求める者、研究に励む者、芸術に励む者、芸に打ち込む者、スポーツに打ち込む者、政治を志す者、様々な いわゆる人物 にそのような芯、しっかりとした志を有している人物を世に多くみる。 1個の人間として このように生きている、生きたいと表現できるものである。
吉田松陰の志は明白である。日本国を外国の侵略から、命懸けで、自分の命を顧みずに、守るという 言わば 大義に生きる事である。 塾生にも 私は モミの粒となって、志を継いでくれる者が有れば 何ら命を惜しむことはないと言い、極めて高い志を懐いて、見事に実践して、実際、日本の歴史を大きく動かす原動力となっている。 まさに日本国の畏れ多い、偉大な人物として、尊崇の念が 湧いてくる。 言行一致、多くの人の信頼、そして30歳で、そのような心境に達して、生涯を閉じたというのであるから、 まことに凄い人物である。 そこで、松陰の生い立ちの環境や教育についても 大いに研究すべきではないだろうか。 それに比べて 現代の空虚な教育は如何であろうか。― 何か、人物が育たない教育にみえる。
また、この観点において、 歴史の重大な局面に出会うと,人間は 人間の神性に目覚め、 言わば大義に殉じたい心情が湧いてくる面があるのではないだろうか。 実際、多くの戦場などでは 自己犠牲で大義に殉じた人々は 世の英雄ばかりではなく、無数の無名戦士の中に 見られる 世界史における普遍的な現象ではないだろうか。
吉田松陰の最期の言葉、国を憂いて 真実を述べ 言わば意図的に処刑されることを 選択したのは、心に湧く 神性の現れ ではないだろうか。
平時にも、高い志を懐き、人生における虹をもてる者は まこと 幸せであると考える。
以 上
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