2015年6月3日水曜日

<篠原涼子さん>地元愛、桐生市ポスター…問い合わせ殺到

<篠原涼子さん>地元愛、桐生市ポスター…問い合わせ殺到
毎日新聞 6月2日(火)21時44分配信
<篠原涼子さん>地元愛、桐生市ポスター…問い合わせ殺到
桐生市観光大使の篠原涼子さんがモデルとなった観光イメージアップポスター=桐生市提供
群馬県桐生市出身の女優、篠原涼子さん(41)を起用した桐生市の観光ポスターが話題を集めている。名所旧跡の写真やキャッチフレーズをてんこ盛りにした「ありがち」な観光ポスターとは一線を画し、ファッション広告のようなシンプルなデザインが売り。ノーギャラでモデルを買って出た篠原さんの地元愛を背に、市はPRに燃えている。【尾崎修二】
【篠原涼子】“第三のブラ”で大人の表情
黒いドレス姿で前を見据える篠原さん。訴えかけるような表情の下に大きく「KIRYU」。まるでファッション誌の表紙のようなデザインのポスターは、最下部には桐生織の柄をあしらい、カラー版と白黒版の2種類を用意した。「ひもかわうどん」「のこぎり屋根」といった地元の観光情報を盛り込むデザインも検討されたが、思い切ってそぎ落とした。市観光交流課は「見る人にインパクトを与え、桐生に興味を持ってもらうきっかけになれば」と狙いを説明する。
16歳まで桐生で過ごした篠原さんは、2013年に市の観光大使に就任。屋台の食べ歩きや川で遊んだ思い出を披露し、「桐生は人が温かく、私も助けられた。自然豊かで食べ物もおいしい。そんな桐生をPRしたい」と語っていた。以降、市のパンフレットに登場したり、成人式で新成人に祝福メッセージを贈ったりしていた。俳優の市村正親さん(66)と結婚し、2児の母となった今も里帰りを続けているという。
ポスターの写真は東京都内で3月、人気カメラマンの渡辺達生さんが撮影した。市の支払いは最低限の必要経費のみ。篠原さんはノーギャラだったが、「光栄です」と快諾したという。
ポスターは4月末から、市内の公共施設や観光施設、周辺の飲食店、東京・銀座にある群馬県のアンテナショップ「ぐんまちゃん家(ち)」に掲示。市役所には問い合わせが殺到し、盗難も起きている。予想を上回る反響に、市は今月中にも全国からポスター掲示希望者を募り、200枚程度を配布する方針。「全国にポスターが張られることで一人でも多くの人に桐生に足を運んでもらいたい」と期待をふくらませている。
 問い合わせは桐生市観光交流課(0277・46・1111)へ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150602-00000086-mai-soci
再生核研究所声明223(2015.4.14) 人生の目的は、自然を愛でて楽しみ、ともに喜び合うこと ― 二十一世紀の壮大なロマン 真実(播磨屋助次郎著)を読んで
(これは上記 本 播磨屋本店発行(1997)を 近くの80歳を超えた意欲ある素敵なご婦人 久保田様に勧められて通読して感じたものを纏めたものである。)
本書は警世の著書と言える。現在が危険な方向に向かっていることを、自然と環境の観点から 説き起こし、経済、政治の在り様まで触れている。生活の基本的な在り様や医療の在り様、教育の在り様なども大事な論点である。
経済、お金、政治の問題については、現実,現状の分析や認識の甘さが感じられるものの全体の世界観は 再生核研究所声明の中で述べられている世界観と基本的な一致が感じられて共感、共鳴し、好感が持たれたが、少し現実離れの印象も受ける。
特に印象的なことを述べたい。
真摯に人生、世界を思考されて、自然を見直して、 人生の目的は、自然を愛でて楽しみ、ともに喜び合うこと;「大自然の尊く美しい命の営みを、愛でて楽しみ ともに喜び合う」こと(32ページ)と表現されたのは 驚嘆すべき素晴らしいことで、気づかれたとき、如何に深い感動を覚えられたかが、想像される。 人生の意義は感動することにある や ― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― などの思いが湧いた時のことが思い出される。著者のこの言明は 多くの宗教や哲学より、明白であり、その価値と意義は 表現できないほど素晴らしいもの と高く評価したい。実に素晴らしい。― しかしながら、砂漠の民や厳しい自然環境の中で生存を余儀なくされている人々には、この言明には共感できず、自然は 自ら作り上げていくものと発想するだろう。― 
そのような思想であるから、 環境問題、衣食住の問題、医療の問題、教育の問題などの考え方は容易に理解され、いろいろな指摘は素晴らしいものと評価される。ただ 在るべき原理や方向性が示されても現実の社会から、如何にしてそのような方向に向かうかは大きな問題である。特に教育の在りようなど、具体的には 現体制の在り様からどのようにして改革して行くかが大きな問題として残る。
経済、政治の問題は より大きな問題であり、 経済、政治の現状を憂えるは よく分かり、根本的に危険な要素を具体的に 提起している。しかし、特に貨幣の理解には大きな誤解があるのではないだろうか。ここでも、具体的にどうして行くべきかの大きな問題が提起される。さらに、政治の大きな方向として、天皇による親政のような在り様を志向しているが、気持ち、心情はよく分かるとしても、特定の個人に大きな負担を掛けるべきではなく、皇族の人たちには 仕事を軽くして、大幅な自由を現憲法の枠内で考えていくべきであると考える。政治の具体的な在りようも大きな問題である。
具体的な在り様を広く検討して行く、大きな問題を提起している 警世の著書として高く評価したい。
以 上

再生核研究所声明218(2015.3.19)興味、関心、感動;人間とは
(2015.3.14:13時頃、歩けることの不思議さを感じながら、春先の 昼食後の散歩の折り、自然に湧いた考えである。)
考えの中心が 次の声明にあるので、まず要点を引用する:
再生核研究所声明 76(2012.2.16)  教育における心得 ― 教育原理:
(前略)
まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。
いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。
次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。
あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義や自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。
もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。
個性を生かす、個人の能力を活かす、個人の全人的な成長を図ること; 良き社会人を育成し、文化の継承を図る、これらは教育の基本的な要素、教育原理であると考えられる。
軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。
特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。
この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。(以下略)
人間は 多くは本能原理で、生物面では共通にできているが、純粋に趣味、関心、興味、好みなどに於いては 驚くべき多様性を有し、それは社会の多様性、人間世界の広さと深さの原理である。問題は、喜びを感じる、感動することが、人によって相当に違いがあり、それが価値観の相違となって現れてくると言う事である。1日 本当に自由な日が与えられたとき、どのように過ごしたいかは、人それぞれである。価値判断もそれぞれである。そのような感性、人生観や世界観がどのように構成されるかは、人間とは愛するところのものである ともみなせるから、上記声明76のように極めて興味深く、大事な基本的な問題ではないだろうか。
人間には、共感、共鳴したい本能があるから、共通の感動を覚えたり、共通の価値観を持つ者が群がり、ある社会を構成するだろう。これは人間社会に無数に存在する、社会の細胞のようなものになる。俳句会やお花教室、談話会や教室、塾 等々。
8歳で巨大素数の構造に興味がある、6歳で無限に興味があるなど、どうしてそのような興味を抱いたかは、大いに興味がある。一般に、早く、あるいは長く関与したり、学習していると愛情が深まり、興味が深まり、 どんどん能力が進み、感性も発展して、志や夢、感動の元となるは 世に広く見られる。
このように考えて来ると、個人でも、集団でも、人間と数学は同じようなところがあることに気づく。 数学は、膨大に広がっているが、興味を持たれる部分がどんどん発展して、研究者は専門や分野の中に 人生を掛けていくことになる。個人でも、ある集団でもそうである。応用される分野では 要請される課題の研究になるが、純粋数学の場合には本質的に興味によって方向が定まると言える。そこで、なぜ、興味を抱くか、どうしてそのような数学に興味を抱くか、それは、人間とは 何者かと問うことである。何をするように人間は 作られているのだろうか。生存の問題を超えた、高いレヴェルの段階における問題を提起している。人間存在の原理; 存在、智、愛、すなわち、存在することは、 知ることであり、また、何かを求めることである。 存在することを求めるは 当然理解できるが、 しかし、それらを超えて、人間は何を求めているのだろうか。真、善、美、聖と表現されることを求めるは 古来から、知られてきているが、その背後に、感動することを求めるは、当然であるが ― 人間が好きなことをして、好きなことを求めるは当然であるから – 人間は何に感動するかと問うている。すなわち、人間は、何をするように作られているか。それが、個人の生命、もともとのものと環境によって定められていることは 確かである。
数学にいろいろな公理系が有って、いろいろな数学が有るように 人や民族にはいろいろな文化背景を持っていて、感動するもの、仕方、価値観などでも相当な違いが存在する。それらの間の関係と評価、交流などは基本的な問題があるが、人間には、新規なもの、珍しいもの、に興味と関心をもつ本能があるのは確かであるが、最終的な評価はどのようになるであろうか。
この声明は 論旨が不明瞭であるが、基本的な興味深い、未知の世界に注意を喚起させたものとして、未完の声明としたい.
人間は、何をするように作られているかの問題について、相当に良い解答を得ていることに気づく:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
関係話題について、下記の声明も参照:
再生核研究所声明 112(2013.3.14) 公理系からの脱却、論理的思考、逆思考によって、視野を高め、広めよ ― 平成暗黒時代を このまま終わらせて 良いものか
再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
再生核研究所声明175(2014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像
再生核研究所声明198(2015.1.14)計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
以 上

再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと
世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。
国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。
特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。
この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。

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