2016年7月13日水曜日

ぼくが岡潔とウディ・アレンに学んだこと──独立研究者・森田真生が歩く「情緒ある数学の世界」

ぼくが岡潔とウディ・アレンに学んだこと──独立研究者・森田真生が歩く「情緒ある数学の世界」

数学者・岡潔に影響を受け、彼と同じく数学を通して「人間」に迫る独立研究者・森田真生。「生きているとはどういうことか」を純粋な気持ちで問い続ける森田は、さながら哲学者、あるいは思想家のようである。そんな異彩の研究者が、数学を通して学んだこと。人工知能ブームに沸く世界に、いま伝えたいこと。

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森田真生|MASAO MORITA
1985年、東京都生まれ。独立研究者。数学者・岡潔の著書『日本のこころ』と出合ったことがきっかけで数学の道へ。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。現在は京都に拠点を構え、研究活動を行う傍ら全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」といったイヴェントを行っている。著書に『数学する身体』〈新潮社〉、編著に『数学する人生』〈新潮社〉がある。choreographlife.jp
──大学にはもともと文系で入学した森田さんが、数学を学び始めたきっかけは何だったのでしょうか?

ぼくは高校まではバスケットボールをしており、そのときの経験から「身体を通して考える」ということに興味をもっていました。身体を使った新しい学問をつくりたい、という壮大な夢をもって大学に入ったのですが、次第に「社会における身体」とは組織だと考えるようになりました。個人レヴェルではなく組織レヴェルの認知のあり方、「組織としての身体性」ともいえるものに興味をもち始めることになります。

当時起業が流行っていたこともあり、自分も組織=会社をつくりたいと思って20歳のときにシリコンヴァレーに行ったんですね。あちこちの会社に電話をして、いろんな社長やVCに会っていたのですが、そのときに会った人から「アカデミックなモチヴェーションで会社をつくりたいなら日本にぴったりの人がいる」と紹介されたのが鈴木健さん(現スマートニュース共同CEO兼会長)でした。

帰国して健さんに会いに行き、とにかくこの人はすごいと感銘を受けます。彼が新しく会社(サルガッソー)をつくろうとしていると聞き、カバン持ちでもなんでもいいから手伝わせてくださいと言ったら、その翌週に健さんがフットサルでアキレス腱を切ってしまって文字通りカバン持ちをすることになりました(笑)。そうして健さんとともに時間を過ごし、その思想の背景を教わるなかで、彼が尊敬するアラン・チューリングの本を読み始めたのが数学に触れることになったきっかけです。

関連記事:アラン・チューリングとは何者か?

──同じく影響を受けた数学者である岡潔にも、そのころに出会ったのでしょうか。

健さんの会社を手伝い始めたころ、21歳のときに神保町の古本屋・明倫館で岡潔の『日本のこころ』に出合いました。ぼろぼろの文庫本で、数学の本なのに「数学」という言葉がほとんど出てこない。気になって買って読んでみると、「人が生きているとはどういうことなのか」「わたしとは何なのか」という根本的な問いにまっすぐに進む岡潔の思考を知ることになります。

例えば生物の授業を受けても、「生命とは何か」が正面から問われることはない。大学でいろいろ勉強して知識は増えても、本質の周辺をぐるぐると回っているだけのように感じていました。でも岡潔は、最初からそうしたど真ん中の問いに突き進んでいく。こういう学者もいるのかと衝撃を受け、彼が学んだ数学を自分も学びたいと思って数学科に入り直したんです。岡潔との出会いが人生を変えましたね。

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明倫館で購入した『日本のこころ』は何度も読み返しているという。この1冊のほかにも、鈴木健の後押しが数学の道に踏み出すきっかけになった。「本格的に数学を勉強したいと健さんに伝えたときに『5年くらいやってダメだったら諦めるくらいの中途半端な気持ちじゃないだろうね?』と言われたんです」と森田は振り返る。「それは図星だったのですが(笑)、そのときに『もちろん10年はやる覚悟です』と健さんと約束をしたからこそここまで続けることができました」

──大学卒業後は「独立研究者」という肩書で活動をされていますが、そう名乗る理由は?

「私(わたくし)」という現象が、行為のなかからどのように立ち上がるのか。「私」というのが実体ではなくプロセスだということを強調して、哲学者エヴァン・トンプソンは「I-ing(私する)」という言葉を提唱しているのですが、ぼくは、数学という行為を通して「私する」メカニズムに近づきたい。数学が自己探究の道でもありうるということをぼくに教えてくれたのが岡潔で、ぼくはその精神を継承して自分なりの自己探究を始めようと心に決めたのです。

その自己探究を、どこかに所属をすることでできるとは思いませんでした。能力や出会いやいろいろな幸運が重なって、大学でもいきいきと研究ができる人もたくさんいますが、ぼくの場合はそうではなかった。逆に大学から離れて、初めて等身大でリアルな学びが始まったという実感があります。

「これが知りたい」という気持ちがあったら、そのためにあらゆる手段を尽くすのが研究の原点です。ぼくは研究室で生き残ったり、出世したりするためじゃなく、自分の知りたいことを探究していきたい。それが世間にどのように評価されるかは最後までやってみないとわかりませんが、少なくとも自分がリアルだと思えることを、手応えを感じながら研究していきたい。そういう想いで「独立研究者」と名乗っています。

──独立研究者として、現在行われている活動について教えてください。

岡潔は「情的にわかったことを知的に表現する」ことが学問だと言いました。論文は知的表現のひとつの方法ですが、ほかにも数学を伝えるにはいろいろな手段がありうると思います。

例えばぼくが開催しているイヴェントのひとつに「数学の演奏会」があります。音楽の世界でも、楽譜というのは情的な世界の知的表現ですが、たとえ楽譜が読めなくても演奏会を聴いたら音楽を感じることができますよね。それと同じように数学の世界にも「演奏」がありえるんじゃないかと考え、論文や数式が読めなくても、数学の情(こころ)に直接触れられる場をつくれないかと模索しています。

芸術の世界に鑑賞や評論があるのと同じように、数学の世界にも論文を書く以外にさまざまなかかわり方があるはずです。自分自身でも実験をしながら、数学的な感動の経験を知的に分かち合う方法を探っていきたいと思っています。

──「数学=数式を解く」といったイメージがありますが、それ以外にも数学を楽しむ方法はたくさんあるということですね。そのように数学に触れる意義というのはどんなところにあるのでしょうか?

数学の対象は「数」も含めて、人間がつくり出した人工物です。人間の思考が生み出した数学的対象について、人間が思考するわけですから、数学というのは思考が思考自身について思考しているようなところがあります。だからこそ数学研究は、常に「自己探究」の要素を孕んでいることになります。

岡潔は、数学という行為に耽るなかで大きな自己の変容を経験しました。そのときの様子を彼は、まるで「内外二重の窓がともに開け放たれ」るような解放感と描写しています。

自分とは何か、あるいは自分とは何でありうるか。数学を通して、そうした問いを知的にも、情的にも掘り下げていくことができる。ぼくは数学のもつそういう可能性をもっともっと追究してみたいと思っています。

関連記事:「ABC予想」を証明した、異世界からきた論文を巡って

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2015年10月に刊行した初の著書『数学する身体』〈新潮社〉。岡潔とアラン・チューリングという2人の数学者の思考をたどりながら、数学とは何か、数学にとって身体とは何かを説いた1冊。
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──『数学する身体』では、岡潔のほかにもチューリングを取り上げて、心をマシンのなかにつくることで心を考えようとした彼の思考を説明しています。チューリングの研究から始まった人工知能(AI)分野がいま社会の注目を集めていますが、このAIブームについてはどうお考えでしょうか?

知性には2種類あると思っています。ひとつは「自力」の知性。自分の手持ちのルールを駆使して、巧みな計算によって問題を解決していくようなタイプの知性です。もうひとつは「他力」の知性。手持ちのリソースで計算するというよりも、身体を使ってうまく進行中の世界の一部に同化していくようなタイプの知性です。

哲学者のアンディ・クラークが著書『現れる存在』(原題:Being There)のなかで「90 percent of life is just being there」というウディ・アレンの言葉を紹介しているのですが、生命の最大の使命は「ただそこにいること(being there)」。高度な記号操作で難しい計算をするというよりも、いかにして進行中の環境や世界の一部であり続けられるかということです。

「人工“知能”」といわれていますが、自力の知性だけでなく、他力の知性についても考えなければ本当の「知能」とは言えません。そういう意味で現状のAIはartificialなだけでなく、すごくsuperficial(表層的)という印象があります。

では、知性の深層とは何か。ぼくは「compassion」(慈悲)というものがこれからすごく大事になってくるのではないかと思っています。心というのは肉体の中に閉じたものではなく、他と通い合うことができる。通い合う心を基盤とした知性について、AIの観点からどのようなことが言えるのか。AIのそうした可能性にぼくは興味があります。

──さまざまな数学者がAIの発展に貢献してきたなかで、森田さんが現在のAIのあり方に懐疑的であるのは意外でした。

自然科学は、よくも悪くも進み続けることで自己維持しています。それによって凄まじい勢いで「事実」が積み重ねられ、その積み重ねが経済や技術と繋がって思いもしない「行動」を生み出していく。

小林秀雄が岡潔のエッセイを読んで、「岡氏の文章は、瞑想する一人の人間へ、私を真っすぐに連れて行く。そういう人間の喜びを想っていると、ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥は、何か全く見当が外れているように思われてくる」と書いています。虚偽よりは事実のほうがいいし、机上の空論よりは行動のほうがいい。でも、事実と行動以外にもその「外」がある。それを岡潔の文章からしみじみと感じるというのです。

AIの凄まじい発展を見ていると、「ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥」というこの言葉をつい思い起こしてしまいます。確かにその進歩が知的にエキサイティングなことは間違いないのですが、同時に、この虚しい焦燥感は何なのだろうかと思うことがあります。ただひたすら前に進み続けることでしか自己維持できなくなってしまっている現代の学問の焦燥から一歩引き下がって、「事実と行動の外にある平和」を探っていくような視点が、いまこそ必要な気がするんです。http://wired.jp/2016/07/12/interview-masao-morita/


再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:

Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
数 0 は正でも負でもなく、素数でも合成数でも単数でもない。しかし、0は偶数である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0⁄x= 0 である。しかしx⁄0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。

実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:

しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:

No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。

複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。

全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。

古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。

2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明296(2016.05.06)   ゼロ除算の混乱

ゼロ除算の研究を進めているが、誠に奇妙な状況と言える。簡潔に焦点を述べておきたい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えることであるが、物理学的にはアリストテレス、ニュートン、アンシュタインの相当に深刻な問題として、問題にされてきた。他方、数学界では628年にインドで四則演算の算術の法則の確立、記録とともに永年問題とされてきたが、オイラー、アーベル、リーマン達による、不可能であるという考えと、極限値で考えて無限遠点とする定説が永く定着してきている。
ところが数学界の定説には満足せず、今尚熱い話題、問題として、議論されている。理由は、ゼロで割れないという例外がどうして存在するのかという、素朴な疑問とともに、積極的に、計算機がゼロ除算に出会うと混乱を起こす具体的な懸案問題を解消したいという明確な動機があること、他の動機としてはアインシュタインの相対性理論の上手い解釈を求めることである。これにはアインシュタインが直接言及しているように、ゼロ除算はブラックホールに関係していて、ブラックホールの解明を意図している面もある。偶然、アインシュタイン以後100年 実に面白い事件が起きていると言える。偶然、20年以上も考えて解明できたとの著書さえ出版された。― これは、初めから、間違いであると理由を付けて質問を送っているが、納得させる回答が無い。実名を上げず、具体的に 状況を客観的に述べたい。尚、ゼロ除算はリーマン仮説に密接に関係があるとの情報があるが 詳しいことは分からない。
1: ゼロ除算回避を目指して、新しい代数的な構造を研究しているグループ、相当な積み重ねのある理論を、体や環の構造で研究している。例えて言うと、ゼロ除算は沢山存在するという、考え方と言える。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
2:同じくゼロ除算回避を志向して 何と0/0 を想像上の数として導入し、正、負無限大とともに数として導入して、新しい数の体系と演算の法則を考え、展開している。相当なグループを作っているという。BBCでも報じられたが、数学界の評判は良くないようである。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
3:最近、アインシュタインの理論の専門家達が アインシュタインの理論から、0/0=1, 1/0=無限 が出て、ゼロ除算は解決したと報告している。― しかし、これについては、論理的な間違いがあると具体的に指摘している。結果も我々の結果と違っている。
4:数学界の永い定説では、1/0 は不可能もしくは、極限の考え方で、無限遠点を対応させる. 0/0 は不定、解は何でも良いとなっている。― 数学に基本的な欠落があって、ゼロ除算を導入しなければ数学は不完全であると主張し、新しい世界観を提起している。
ここ2年間の研究で、ゼロ除算は 何時でもゼロz/0=0であるとして、 上記の全ての立場を否定して、新しい理論の建設を進めている。z/0 は 普通の分数ではなく、拡張された意味でと初期から説明しているが、今でも誤解していて、混乱している人は多い、これは真面目に論文を読まず、初めから、問題にしていない証拠であると言える。
上記、関係者たちと交流、討論しているが、中々理解されず、自分たちの建設している理論に固執しているさまがよく現れていて、数学なのに、心情の問題のように感じられる微妙で、奇妙な状況である。
我々のゼロ除算の理論的な簡潔な説明、それを裏付ける具体的な証拠に当たる結果を沢山提示しているが、中々理解されない状況である。
数学界でも永い間の定説で、初めから、問題にしない人は多い状況である。ゼロ除算は算数、ユークリッド幾何学、解析幾何学など、数学の基本に関わることなので、この問題を究明、明確にして頂きたいと要請している:

再生核研究所声明 277(2016.01.26):アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明 278(2016.01.27): 面白いゼロ除算の混乱と話題 
再生核研究所声明279(2016.01.28) : ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280(2016.01.29) : ゼロ除算の公認、認知を求める

我々のゼロ除算について8歳の少女が3週間くらいで、当たり前であると理解し、高校の先生たちも、簡単に理解されている数学、それを数学の専門家や、ゼロ除算の専門家が2年を超えても、誤解したり、受け入れられない状況は誠に奇妙で、アリストテレスの2000年を超える世の連続性についての固定した世界観や、上記天才数学者たちの足跡、数学界の定説に まるで全く嵌っている状況に感じられる。

以 上


考えてはいけないことが、考えられるようになった。 
説明できないことが説明できることになった。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
http://file.scirp.org/pdf/ALAMT_2016061413593686.pdf


再生核研究所声明287(2016.02.12) 神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:

論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。

直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:

Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29) ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday

詳しい解説も次で行っている:
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku

以 上


何故ゼロ除算が不可能であったか理由

1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。

Matrices and Division by Zero z/0 = 0
http://file.scirp.org/pdf/ALAMT_2016061413593686.pdf

再生核研究所声明310(2016.06.29) ゼロ除算の自明さについて
人間の感性の観点から、ゼロ除算の自明さについて触れて置きたい。ゼロ除算の発見は誠に奇妙な事件である。まずは、近似の方法から自然に導かれた結果であるが、結果が全然予想されたことのない、とんでもないことであったので、これは何だと衝撃を受け、相当にその衝撃は続いた。まずは、数学的な論理に間違いがないか、厳重に点検を行い、それでも信じられなかったので、多くの友人、知人に意見を求めた。高橋眞映山形大学名誉教授のゼロ除算の一意性定理は大事だったので、特に厳重に検討した。多くの友人も厳重に時間をかけて検討した経過がよく思い出される。その他、いろいろな導入が発見されても、信じられない心境は1年を超えて続いたと言える。数学的に厳格に、論理的に確立しても 心情的に受け入れられない感情 が永く続いた。そのような心境を相当な人たちが抱いたことが国際的な交流でも良く分かる。中々受け入れらない、ゼロ除算の結果はそうだと受け入れられない、認められない空気であった。ゼロ除算の発展は世界史上の事件であるから、経過など出来るだけ記録するように努めてきた。
要するに、世界中の教科書、学術書、定説と全く違う結果が 世に現れたのである。慎重に、慎重に畏れを抱いて研究を進めたのは 当然である。
そこで、証拠のような具体例の発見に努めた。明確な確信を抱くために沢山の例を発見することとした。最初の2,3件の発見が特に難しかった。内容は次の論文に、招待され、出版された: http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html :
ゼロ除算を含む、山田体の発見、
原点の鏡像が(原点に中心をもつ円に関する)無限遠点でなく ゼロであること、
x,y直角座標系で y軸の勾配がゼロであること、
同軸2輪回転からの、ゼロ除算の物理的な意味付け、

これらの成果を日本数学会代数学分科会で発表し、また、ゼロ除算の解説(2015.1.14)を1000部印刷広く配布してきた。2年間の時間の経過とともに我々の数学として、実在感が確立してきた。その後、広範にゼロ除算がいろいろなところに現れていることが沢山発見され、やがて、ゼロ除算は自明であり数学の初歩的な欠落部分であるとの確信を深めるようになってきている。
単に数学の理論だけでなく、いろいろな具体例が認識の有り様を、感性を変えることが分かる。そこで、何もかも分かったという心境に至るには、素朴な具体例で、何もかも当たり前であるという心理状況に至ることが大事であるが、それは、環境で心自体が変わる様をしめしている。本来1つの論文であった原稿は 招待されたため次の2つの論文に出版される:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra
& Matrix Theory, 6, 51-58. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces:
International Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue 1, 2017)。

沢山の具体例が述べられていて、ゼロ除算が基本的な数学であることは、既に確立していると考えられる。沢山の具体例が、そのような心境に至らしめている。
ゼロ除算の自明さを論理ではなく、簡単に 直感的な説明として述べたい。
基本的な関数y=1/xを考え、そのグラフを見よう。原点の値は考えないとしているが、考えるとすれば、値は何だろうか? ゼロではないか と 思えば、ゼロ除算は正解である。それで十分である。その定義から、応用や意味付けを検討すれば良い。― 誰でも値は ゼロであると考えるのではないだろうか。中心だから、真ん中だから。あるいは平均値だからと考えるのではないだろうか。それで良い。
0/0=0 には違う説明が必要である。条件付き確率を考えよう。 A が起きたという条件の下で、B が起きる条件付き確率を考えよう。 その確率P(B|A) は AとBの共通事象ABの確率P(AB) と A が起きる確率P(A)との比 P(B|A)=P(AB)/P(A) で与えられる。もし、Aが起きなければ、すなわち、P(A) =0 ならば、もちろん、P(AB) =0. 意味を考えても分かるようにその時当然、P(B|A) =0である。 すなわち、0/0=0は 当たり前である。

以 上

再生核研究所声明255 (2015.11.3) 神は、平均値として関数値を認識する
(2015.10.30.07:40 
朝食後 散歩中突然考えが閃いて、懸案の問題が解決した:
どうして、ゼロ除算では、ローラン展開の正則部の値が 極の値になるのか?
そして、一般に関数値とは何か 想いを巡らしていた。
解決は、驚く程 自分の愚かさを示していると呆れる。 解は 神は、平均値として関数値を認識すると纏められる。実際、解析関数の場合、上記孤立特異点での関数値は、正則の時と全く同じく コ-シーの積分表示で表されている。 解析関数ではコ-シーの積分表示で定義すれば、それは平均値になっており、この意味で考えれば、解析関数は孤立特異点でも 関数値は 拡張されることになる ― 原稿には書いてあるが、認識していなかった。
 連続関数などでも関数値の定義は そのまま成り立つ。平均値が定義されない場合には、いろいろな意味での平均値を考えれば良いとなる。解析関数の場合の微分値も同じように重み付き平均値の意味で、統一的に定義でき、拡張される。 いわゆるくりこみ理論で無限値(部)を避けて有限値を捉える操作は、この一般的な原理で捉えられるのではないだろうか。2015.10.30.08:25)
上記のようにメモを取ったのであるが、基本的な概念、関数値とは何かと問うたのである。関数値とは、関数の値のことで、数に数を対応させるとき、その対応を与えるのが関数でよく f  等で表され x 座標の点 x  をy 座標の点 yに対応させるのが関数 y = f(x) で、放物線を表す2次関数 y=x^2, 直角双曲線を表す分数関数 y=1/x 等が典型的な例である。ここでは 関数の値 f(x) とは何かと問うたものである。結論を端的に表現するために、関数y=1/xの原点x=0における値を問題にしよう。 このグラフを思い出して、多くの人は困惑するだろう。なぜならば、x が正の方からゼロに近づけば 正の無限に発散し、xが負の方からゼロに近づけば負の無限大に発散するからである。最近発見されたゼロ除算、ゼロで割ることは、その関数値をゼロと解釈すれば良いという簡単なことを言っていて、ゼロ除算はそれを定義とすれば、ゼロ除算は 現代数学の中で未知の世界を拓くと述べてきた。しかし、これは誰でも直感するように、値ゼロは、 原点の周りの値の平均値であることを知り、この定義は自然なものであると 発見初期から認識されてきた。ところが、他方、極めて具体的な解析関数 W = e^{1/z} = 1 + 1/z + 1/2!z^2 + 1/3!z^3 +……. の点 z=0 における値がゼロ除算の結果1であるという結果に接して、人は驚嘆したものと考えられる。複素解析学では、無限位数の極、無限遠点の値を取ると考えられてきたからである。しかしながら、上記の考え、平均値で考えれば、値1をとることが 明確に分かる。実際、原点のコーシー積分表示をこの関数に適用すれば、値1が出てくることが簡単に分かる。そもそも、コーシー積分表示とは 関数の積分路上(簡単に点の周りの円周上での、 小さな円の取り方によらずに定まる)で平均値を取っていることに気づけば良い。
そこで、一般に関数値とは、考えている点の周りの平均値で定義するという原理を考える。
解析関数では 平均値が上手く定義できるから、孤立特異点で、逆に平均値で定義して、関数を拡張できる。しかし、解析的に延長されているとは言えないことに注意して置きたい。 連続関数などは 平均値が定義できるので、関数値の概念は 今までの関数値と同じ意味を有する。関数族では 平均値が上手く定義できない場合もあるが、そのような場合には、平均値のいろいろな考え方によって、関数値の意味が異なると考えよう。この先に、各論の問題が派生する。

以 上


Reality of the Division by Zero $z/0=0$
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

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