2016年7月31日日曜日

『ポケモンGO』が早くもオワコン!? ゲーム業界に革命を起こした空前のヒット作が世界中で急速に飽きられている「原因」とは

『ポケモンGO』が早くもオワコン!? ゲーム業界に革命を起こした空前のヒット作が世界中で急速に飽きられている「原因」とは

2016年7月30日 11時0分 ビジネスジャーナル
 現代社会が烏兎匆匆(うとそうそう)の世であることは確かだが、いくらなんでもあまりにも早すぎるのではないか――。

「革命的なゲーム」として、今月初めにアメリカを中心に世界的なヒットを飛ばしたアプリ『ポケモンGO』。スマホの位置情報サービスを利用したAR位置ゲームとして、家の中ではなく外でやるゲームは、世界中のゲーマーをお天道様の下へ引きずり出した。街中でスマホ片手に画面を睨んだまま徘徊する若者たちの姿には、多くの人々が衝撃を受けたはずだ。

 そんな世界的ブームを巻き起こした『ポケモンGO』が今月22日、日本に初上陸。待望の祖国凱旋を果たした。ゲーム先進国の日本でも「ポケモン」の力は絶大だ。解禁初日から全盛期を知る20代から30代の世代を中心に瞬く間に普及し、町のいたるところでスマホを片手にうろうろと練り歩く、今や世界でもお馴染みとなった光景が日本でも再現された。

 ところが日本で爆発的ヒットを飛ばしている一方、先んじて『ポケモンGO』を堪能したアメリカでは、早くも“下り坂”というから驚きだ。

 調査サービス会社の『サーベイモンキー』は「ポケモンGOはピークを越えた」と発表。同社のデイリーアクティブユーザー数から見える利用状況の落ち込みだけでなく、アプリのダウンロードに見られる消費者の関心や、グーグルの検索エンジンで検索された回数も急速に落ちているという。

 まるで『ポケモンGO』が起こしたビッグウェーブが、アメリカから太平洋を渡って日本に上陸した途端、本当に潮が引いたように配信先行国のブームが沈静化しているようだ。

 無論、あまりにも爆発的なヒットだったため、短期間で一定の落ち着きを見せるのは当然だ。だが、実は上陸してから1週間経った日本でも、早くも『ポケモンGO』離れが加速しているという。

 実際に筆者の周りでも解禁初日は話題の中心で暑い中を皆がこぞって“ポケモンゲット”に出掛けていたが、1週間が経った頃には話題にさえ上がり難くなっている。

 それにしても何故、こんなにも早く『ポケモンGO』をやめた人が増えてしまったのか。ゲーム業界に精通した記者に聞いたところ、次のような答えが返ってきた。

「一言で言うと『ポケモンGO』はシンプルが故に多くの人が楽しめる仕様になっていますが、シンプル過ぎるために飽きられるのも異常に速いようです。実際にやってみるとわかるんですが、現実世界と仮想空間をリンクさせてポケモンを捕まえるという発想は画期的ですが、このゲームは本当にそれだけしかない。それで興味を持続させることは、やはり難しいようです」(記者)

『ポケモンGO』には対戦システムとして「ジム」という機能も存在しているのだが、これも一部のヘビ―ユーザーの独壇場となり、半ば機能していない状況だという。

「専門家の間では当初から懸念されていましたが『ポケモンGO』には、ポケモンをコンプリートするという大目標はあっても“中期的な目標”が欠如しているようです。例えば、多くのRPGがラスボスに到達するまでに、様々な中ボスとの戦いを繰り広げながらストーリーを進めているように、没頭できるゲームには必ず『中期的な目標を繰り返し達成させる』という仕組みが存在します。『ポケモンGO』にはそういった要素がないため、ライトユーザーは1週間ほど遊べば、すぐに飽きてしまうということです」(同)

 幸い今のゲームはアプリとして発信されているため、『ポケモンGO』も今後のアップデート次第では、ユーザーの興味を持続させるようなコンテンツが生まれる可能性もある。

 しかし、空前の大ヒットとなった『ポケモンGO』だが、このままの“ピカチュウ頼み”では、騒がれ続けている歩きスマホユーザーの危険性と相まって、この夏の終わりと共に急速な冷え込みに陥りそうだ。http://news.livedoor.com/article/detail/11828398/


再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること

あらゆる生物の最も基本的な本能は、外部から取り入れるという、食の本能である。生きている顕著な営みであると言える。 この基本的な本能から、人間の基本的な要素を分析、考察し、人生の基本を理解したい。 
認識できる人間は 自己の生命が求めていることを、欲求や欲望、求める、欲しいという感覚で自覚するが、求める、欲しいの 最も基本的なものは、空腹を満たし、食べたいという、欲求である。もちろん、苦痛からの解放など、生存を脅かす状況からの解放は当然である。
このことから 既に、人間が有限の存在であることを知る。食欲といえども食を無限に頂くことはできず、どんな好物でも やがて、飽きるだろう。有限のものを取り入れている存在であると言える。何を頂くか、何を頂きたいかは、我々の生命が何を要求しているかの 要求の自然な表現として現れていると考えられる。基本的には 好きなものを好きなだけ頂くのが 健康にも良いと考えられよう。 その原理は多様な食から、変化を持たせて、適度に頂くが基本ではないだろうか。すなわち、多様性の原理とそれを実現させる 飽きるという重要な感覚がある。 飽きるという感覚が無ければ、食に偏りを生じ、複雑な生命活動を維持するのに支障が生じるだろう。
この声明の趣旨は、ちょうど食欲の状況のように、外部からの情報を取り入れて 豊かな精神活動を展開しようという観点に思いを至らしむことにある:

1) 我々は有限のものしか受け入れられない、制限があること
2) 我々の生命が 心が何を求めているかを 注意深く絶えず、己が心に尋ねること;
生きたい、死にたくない、良く暮らしたい、それらを越えて、生きるということは どのようなことか、自らに問うて行きたい。
3) 何事集中しすぎると飽きてくるので、間を考え、適度に変化を持たせること
4) 生命作用は複雑な存在だから、幅広い世界、情報に接するように配慮すること
5) 年齢、健康状態、環境などに影響をうけること
6) 慣れる、習慣、学習効果などにも配慮すること。

近年、インターネットの普及で、名曲や名画、映画の名場面など繰り返し、繰り返し楽しむことができる時代を迎えている。また、知識や情報が幾らでも入り、友人、知人、友達など幾らでも増やせる自由な時代を迎えている。それゆえに逆に、自己の世界をきちんと整理、制御して、取捨選択をきちんとして行かないと、いたずらに情報に振り回されて、適切でない食生活が健康を害するように、我々の精神を害することになるだろう。大いに気を付け、配慮して行きたい。

食も、飽きるものと、飽きないで、基本的に続けられるものが在ることにも注目したい。確かに定食など永く続けていても 適当な間隔で頂けば、飽きないで永続できるものがある。水やエネルギー源などは 基本的に必要であり、精神活動でも適度な刺激、変化、発見など、同様に基本的に心がけなければならないものが有り、また、いくら続けても、求道、芸術や研究活動などの創造活動のように 続けられる分野 が有ることに注目したい。
したがって、そのような永続するものを しっかりと受け止めて、適当に揺らぎを取り入れた生き方が、人生を豊かにする秘訣であると言えるだろう。
個人にはそれぞれの才に器が有り、生命作用は内部から、湧いている。教育の原理は その生命作用を補助することにある。 日本の公教育の現状は 個人の食欲を弁えず、一方的に強制して与えすぎで、消化不良と分裂、混乱させ、不健康な人間を大量育成している状況が有るのではないかと危惧している。これは、2500年も前に 中国古代で、既に注意されている事実である(再生核研究所声明2:教育方法では、学生の過誤を未発のうちに防止することを予という。学生の学習状況に応じて、ちょうど好い時に教えることを時という。学生の(受容能力の)程度を越えぬようにして授業することを孫(順当)という。 学生が互いに注意して言行を善美にしてゆくように指導すること、これを摩(磨)という。 これらの四事は、教育の効果を大きくする善法である。)。
美しいものをみたい、聞きたい、義に生きたい、人生の意味を知りたい、真相を知りたい、世の法則を知りたい、道を究めたい などなどは、食欲と同様、我々の生命が求めているのである。 実際、我が生命は 何を求めているのか と 絶えず、自らに問うべきである。 これは 人生の基本定理 を内から表したものである(再生核研究所声明 12:人生、世界の存在していることの意味について)。

以 上

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