2016年4月22日金曜日

The Division of One by Zero Ilija Barukčić 1

The Division of One by Zero
Ilija Barukčić 1
1
Horandstrasse, DE-26441 Jever, Germany
Email: Barukcic@t-online.de
Received April 20, 2016. Accepted; Published
Copyright © 2016 by Ilija Barukčić, Jever, Germany.
Abstract
Unfortunately, however, the relation between a finite and an infinite is not always so straightforward.
The infinite and the finite mutually related as sheer others are inseparable. A related point
is that while the infinite is determined in its own self by the other of itself, the finite, the finite itself
is determined by its own infinite. Each of both is thus far the unity of its own other and itself.
The inseparability of the infinite and the finite does not mean that a transition of the finite into the
infinite and vice versa is not possible. In the finite, as this negation of the infinite, we have the satisfaction
that determinateness, alteration, limitation et cetera are not vanished, are not sublated.
The finite is a finite only in its relation to its own infinite, and the infinite is only infinite in its relation
to its own finite. As will become apparent, the infinite as the empty beyond the finite is burdened
by the fact that determinateness, alteration, limitation et cetera are vanished. The relation
between the finite and the infinite finds its mathematical formulation in the division of one by zero.
As we will see, it is +1/+0=+¥.
Keywords
Number theory, Quantum theory, Relativity theory, Unified field theory, Causality
1. Introduction
Time determined as opposed to an other is negatively determined not only against an other but as an infinite it
opposed to a finite. Even when time is represented as unlimited and infinite, a 'point in time' still constitutes its
element. Is infinity itself free from any opposition? The infinite, a purely self-related, is something relative, it is
related to its own other, it is the negation of its own other, of its own finite. The infinite even if determined by its
own other, by the finite, is determined as the non-being of an other, while the finite itself stands as opposed to its
own infinite. Both are equally others to each other. The infinite, in separation from the other, separated from the
finite, above or beyond the finite, the finite as being here and the infinite being there, is related to the finite.
What could justify the assumption that an infinite does stand as something complete and finished and superior or
above to the finite? Even as separated, the infinite and the finite are connected by that which separates both. As
therefore each is in its other and through its own other determining its own self, the finite and the infinite, even
if separated are inseparable, which is equally the inner unity. Consequently, in the changing or the necessary file:///C:/Users/saito%20saburo/Downloads/1604.0295v1.pdf


再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方

再生核研究所声明148で 結構詳しい状況について説明し、特異点解明:100/0 =0,0/0=0 として 詳しい状況はブログなどでも公開、関係文書は保管されている。2月2日考えを抱いた日としているので、まだ、3か月足らずである。
簡潔に回想して、問題点と今後について、考察し、今後を構想したい。
まず、あまりにも基本的な問題で、全く予期しない それこそ驚嘆すべき結果なので、茫然としてこれは何だと、あたかも憑かれたかのように夢中で取り組み、相当な研究者、共同研究者と交流し、相当なメールと印刷部が溜まっている。経過、成果などきちんとしておくべきと考えて、2か月で、2つの論文の出版を確定させて、ちょうど良いタイミングもあって、一つは4月早々に既に出版されている。
まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。 出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである
と宣言している。すなわち、 1/0=0 である。
グラフを想像して、そんな馬鹿な、信じられない、そのようなことは考えるべきではないとは、結構な数学者の真面目な意見であった。 そこで、
その実態を追及して、ムーア・ペンローズ一般逆の考えがあることを認識して、いわば奇妙な、変な逆として、分数を拡張しているが、永年研究してきた チコノフ正則化法の神秘力 によってそれらは 数の実体である と認識した。
との信念を持って研究を進め、共同研究者には、割り算の意味から、当たり前だとか、計算機は(:アルゴリズムは)そのように解釈する、物理的な楽しい説明さえ現れて、実数の場合には 論文も出版されたこともあり、既に当たり前で 今後 物理的な応用などに関心が移っている。― 要点は、上記双曲線は、原点で猛烈な非連続性を有し、爆発や衝突、駒で言えば、 中心の特異性などの現象を記述していることが分った。
上記2件の論文出版の確定をみて、4月1日:
複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界です。しかしながら、1/0=0 は 動かせない真実です。それで、勇気をもって進まざるを得ない:― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― 再生核研究所声明148.

私には 無理かと思いますが、世の秀才の方々に 挑戦して頂きたい。空論に付き合うのはまっぴらだ と考える方も多いかと思いますが、面白いと考えられる方で、楽しく交流できれば幸いです。
として、公表して 複素解析に取り掛かった。
上記で、予想された難問、 解析関数は、孤立特異点で確定値をとる、が 自分でも予想しない形で解決でき、ある種の実体を捉えていると考えたのであるが、この結果自体、世のすべての教科書の内容を変える事件であるばかりではなく、確立されている無限遠点の概念に 新しい解釈を与えるもので、容易に進められる状況ではない。
念をおしたいのは、 ゼロで割る新しい結果は、従来の数学に 何ら矛盾するものでは、なく、従来ゼロで割るときに避けてきたところに、ある種の新しい結果が得られるということである (複素解析学では、無限遠点が有るので、少し意味あいが変わる)。 すなわち、 従来の数学に、新しい数学が加わると言うことである。その新しい数学が、実が有って、物理的な意味や、従来の数学に好ましい影響を与えるかは、多くは、今後の問題である。ある変な島を発見した。つまらなそうだから、関心ないは 当然有り得る態度である。
そこで、今後の姿勢は、世界観の問題に大きく影響されるのではないだろうか。ゼロで割ればゼロになり、割り算を自然に拡張すれば、それに限るという、何か裏に大きな、凄い世界が有るのではないだろうか、と構想している。― 1/0 は 無限大、無限遠点である、それは良く分る、しかしながら、無限大、無限遠点は 数ではないではないか、矛盾ではないか?  他方、数学は 1/0=0と一意に定めている、何か有るのではないだろうか? どうして、南極と北極がくっ付いているのか? どうして、原点と無限遠点がくっ付いているのか? 神の 人類に対する意地悪、隠しごと? 人類の知能検査か?

以 上

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory.(in press).

再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?

(本当に面白い、中国茶。研究室に来る途中、 ちょうど、2014.5.5.8:00です。考えがひとりでにわきました。知りたい神の意志です。例の数学ですね。 どうして、無限遠点とゼロ点が 一致しているかです。作文が出来そうです。)

ゼロで割ることの一般化について、発見して3か月目に

100/0=0,0/0=0 誕生日(2014.2.2) 3か月:
足し算、引き算、掛け算は 何時もできる。 割り算はゼロで割ることが出来なかった。ゼロで割ればゼロになる、良い、自然な解釈を発見して、ちょうど3か月になる。ゼロで割る数学は 爆発、衝突などの特異現象を記述しているが、複素解析学では、従来の、無限遠点に対して、ゼロを対応させるべきとして、とんでもない現象を示している。

と記述し、詳しい経過

再生核研究所声明148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

や その後の経過、内容についても纏めている:

再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方

5日朝 ひとりでにわいた、新鮮な想いをできるだけ多くの人に、その奇妙な現象を表現して、世界の理解を深めたい。― 神も 世界も かすかにしか、感じられない - しかしながら ― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

述語やグラフに馴染みの薄い方は、下記注でインターネットなどで確認、 補充して下さい。要するに、 直角双曲線y=1/xのグラフも 立体射影における北極(無限遠点) も ゼロで割る考えの自然な一般化は 原点でゼロ、1/0=0, z/0=0 と 数学はなっている。十分な一般化でも、それ以外には考えられないとなっている。ところが、1変数複素解析学を実現させる立体射影では、複素数の世界では、1/0は 無限遠点として、球の北極を考えるのが世界の常識で、複素解析学の教科書、学術書は全て、現在そうなっている。そこで、発見された新しい概念に基づいて、そこに問題を提起し、無限遠点、無限は数ではないのではないか、おかしいのではないか と述べている。 他方、1/0=0 は割り算の概念を越えて、関数y=1/xとW=1/zが それぞれ、実数全体や複素数全体を 1対1に ちょうど対応させるなど 極めて自然な性質を有する。
しかしながら、ここで、極めて、面白い現象が起きている。 双曲線でも、球でも、原点の近くで、無限の彼方にとんでいるのに、原点で、突然ゼロに戻っているという、驚嘆すべき現象である。この驚嘆すべき不連続性のために、ゼロで割る新しい考えは受け入れられないと 人は思うだろうか?
逆に、その特異性こそ、ゼロで割ることの本質、要点であり、神の意志、思わせぶりが出ていると考えるべきか?
ビッグバン現象、接触現象、生と死の一致、永劫回帰の思想、ユニバースは 一体どうなっているのか (神の意志) と、そのからくり、 どうなっているのか しきりに 切に 知りたい。
天動説が地動説に変わったように、何時か、この強烈な不連続性を、ユニバースの常識と捉える時代が来るだろうか。それとも 神の気まぐれに 終わるだろうか。

注:
1. 直角双曲線
www.sist.ac.jp/.../chokkaku_sokyokusen.html‎
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反比例の関係を表すxy=k(k≠0)のような関係をx軸y軸平面に描くと、図のような直角双曲線となる。 kの値によって違う線となるが、いずれもx=0(y軸)とy=0(x軸)に限り ...

ステレオ投影:ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E6%8A%95%E5%BD%B1
数学的な定義


単位球の北極から z = 0 の平面への立体射影を表した断面図。P の像がP ' である。
冒頭のように、数学ではステレオ投影の事を写像として立体射影と呼ぶので、この節では立体射影と呼ぶ。 この節では、単位球を北極から赤道を通る平面に投影する場合を扱う。その他の場合はあとの節で扱う。
3次元空間 R3 内の単位球面は、x2 + y2 + z2 = 1 と表すことができる。ここで、点 N = (0, 0, 1) を"北極"とし、M は球面の残りの部分とする。平面 z = 0 は球の中心を通る。"赤道"はこの平面と、この球面の交線である。
M 上のあらゆる点 P に対して、N と P を通る唯一の直線が存在し、その直線が平面z = 0 に一点 P ' で交わる。Pの立体射影による像は、その平面上のその点P ' であると定義する。

以 上

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory.(in press).









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