2016年4月24日日曜日

(挑む!)人間とは何か 数学から考える 文・大貫聡子 写真・池永牧子2016年4月23日15時04分

(挑む!)人間とは何か 数学から考える
文・大貫聡子 写真・池永牧子2016年4月23日15時04分

東京・青山の書店で開かれたイベント「数学ブックトーク」で熱弁をふるう森田真生さん=東京都渋谷区、池永牧子撮影
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■独立研究者:森田真生(まさお)さん(30)

 「『3』を見た人はいないのに、みんな『3』を経験してる。数学って五感に回収されない特殊な身体的行為なんです」。トークショーで約80人を前に語る。偉大な数学者の変人ぶりを紹介すると、男女がほぼ半々の会場から笑いが起きた。そして話題は世界的な難問「ABC予想」へ飛躍する。話が熱を帯びてくると早口になった。

 少年時代はバスケットボールに夢中で、マイケル・ジョーダンにあこがれた。コートで培ったのは、考えるよりも先に体が動いている、そんな身体性や実感へのこだわり。学問も身体から切り離せないと考えていたが、理系は座学一辺倒だった。“アンチ理系”となり、東京大学文科二類に進んだ。

 大学3年の夏、古書店で一冊の本に出会う。岡潔(おかきよし)の「日本のこころ」だ。「人の中心は情緒である」という天才数学者の言葉に触れ、脳内だけに閉じない数学の可能性に目を見開かされた。東大の数学科で学び直し、卒業後の2012年、岡が一時期を過ごしたhttp://www.asahi.com/articles/ASJ4C6GFHJ4CPTIL01Y.html

再生核研究所声明36(2010/05/14): 
恋の原理と心得

元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。 元祖生命体においては 男女はなく一体の存在である。 従って、恋も、もちろん、男女の愛も親子の愛もそして死も本来存在しないものである。 元祖生命体においては 本来 永遠の生命を有していたから、 食欲や生命間の争いも無く、人類の進化の先をもっぱら志向しているとみられる。
しかしながら、物質の形をとって、 生命が存在するためには、そのままで、永年存続させることは、 物理的に不可能であり、再生機能による仕掛けを用意する必要があった。 厳しい自然環境に柔軟に対応できるように、多様な生体系に分け、多様性の観点から、高等生物を2種類に分け、2つの作用によって、生命を再生させる仕掛けができて、それらが、男女の誕生、恋、結婚、出生、育児、親子の基本的な営みができたというのが そもそも恋の原理である。 これが子の誕生と死の輪廻、再生の原理である。 実際、人類以外の多くの生物は、生きること、恋をすること、子を設け、育てることで 殆どその生命活動は尽きると言える。 もちろん生物である人類にとっても、 基本は同様であると言える。 実際、 人生のあらゆる活動の大部分を それらに関して費やしていると言える。 種の保存は あらゆる生物の第1原理 であるから、当然である。 実際、人生を表現するあらゆる文学の課題がそれらに絡む題材であると言っても過言ではない。
このような発想はギリシャと仏教の思想にあると考えるが、 夜明け前 よっちゃんの想い で最初に述べられた 最も大事なこと ― 必然的に新しい価値観と考え方を限りなく発展させて、雄大な世界を拓く - となるので、深入りはしないことにしたい。 そこで、心得の方に視点を移したい。 
男女がどのように恋について関わるかは 2人の自由であるから、それらの内部関係ではなくて、社会的な在り様についてまず触れたい。 実際、現在でも国や、社会によって多様な在りようが存在するのが 現実であり、実際である。 しかしながら、それらの在りようの基本として、声明1に述べられている、 公正の原則は ここでも基本になり得ると考える:

1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか. 
4) それは安定的に実現可能か.

殆どの小説の題材になる程に 恋の問題は、人間の精神に深い影響を与えるものであるから、 特に個人個人が 自己の心に忠実に、全体として、諒となるように対応するのが 最も肝要である。 自己の心とは実際深く、複雑なものであるから、しっかりと自分を捉えて対応するのが肝要である(恋の心得)。 上述のように そもそも 恋は生と死に関わる人生の大事 であるから、特に恋の 第一の結晶作用(スタンダール)がはじまる以前においては 慎重さが大事であり、第二の結晶作用 前においては 恋を解消する勇気を持ちながら、十分な時間をとり、全人格を賭けて決断を行なうことが特に肝要である。恋には、一個の人間の、愛、欲求、良心、熱情、不安、畏れ、などなどの激しい葛藤があり、その意味で、恋にどのように関わったかは、1個の人物の第1次の総合指標を表していると言える。

恋の現象として、特に印象深い、参考文献、表現について触れておきたい:
恋の問題を人生・世界の広い視点から深く扱っているものとして、ゲーテのファウスト。
女性の恋と性は簡単ではなく深いものであることに触れている、バルザックの谷間のゆり。
自殺する前に話した、先輩の言葉: 私の人生で、真実は唯一つ、A を愛したことだけである。- 実際、恋のいわば失敗で、自殺に追い込まれたり、生涯に亘る傷を負うことは世に多くみられる。
人生の基本定理(声明12)に寄せられた言葉: 出産が 私の最も感動したときである。

少し、超越への道について触れたい。 食欲と性欲は 基本的な人間の欲求とされるが、上記 元祖生命体においては 本来それらは、無いものであり、本来の生命活動としては、それらを超えたところに存在するということである。 したがって、 食べるために生きる、恋のために生きるは、本質的な誤りを含んでいる。 真実、本質は逆である。 生きるために食べ、生きるために恋をするのである。 したがって、それらは無限ではあり得ない。 人類が 元祖生命体の人類の先を志向するのは、あらゆる生物のうちで、人類だけができる人類の崇高な使命である。 人類は己が存在の基礎に元祖生命体の己の分身が雄大に広がっていて、同じ運命共同体であることを忘れてはならない。 もちろん、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在である。 まこと 個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみると 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である。
元祖生命体の高度な謙虚な営みの一つして、 数学者の人生を紹介したい。 数学者は関係を追及していて、ただその関係はどうかという問題意識を持ち、あるいは その真偽の追求、あるいはそのような関係を求めて、真理の追求を行っている。 面白いのは、それらは世の中と何ら関係がなくても、 それはどうか、どうかと限りなく追及していることである。 しかも その中に、美と感動を見出して、その追求には終わりはなく、 無限である。実際、たとえば、オイラーの公式の魅力は千年や万年考えても飽きることはなく、数学は美しいとつぶやき続けられる、と言える。数学者にとっては 人生は短すぎると言える。また、移ろい行くものや世事に関心が薄く、実際、戦場でも数学を考えていたというような逸話が残されている。 科学者や芸術家も同じような人生ではないかと考えられる。実際、人間は有限性と無限性の両面を持っている存在である。
以 上


再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴

(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。

以 上









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