2016年4月26日火曜日

3 空の論理による数学的零の成立

3 空の論理による数学的零の成立

第 1 章での考察より、インドで数学的な零が歴史上はじめて発見
されたことと、零が物理学の発展において非常に重要な数であるこ
とが分かった。また第 2 章において、空の論理を物理的に解析する
ことにより、その論理構造をより明確に把握することができた。以
上をふまえた上で、本章では空の論理によって数学的零が成立した
ということを証明してみようと思う。
まず、第 1 章で明らかとなった零の性質をもう一度見つめ直すこ
とにより、「零」と「無」の関係について考えてみる。次に、第 2 章
で詳しく検証した関係性の論理を「零」と「有」の関係に適用する
ことで数学的な零が生まれることを示し、空の論理によって数学的
零が成立したことを導く。
3.1 零と無の関係について
バビロニアの零記号はある位の数が欠如したときにのみ使用され
るものであった。つまり、バビロニアの零記号は欠如という「無」
を意味する。しかし、マヤの零記号は欠如した位を表すとともに、
1,2,3,・・・という 1 以上の自然数と同様に、それのみ単独で使用さ
れることもあった。バビロニアの零記号とマヤの零記号にはいくつ
かの相違点があるが、両者ともに数学的演算には対応できなかった
ようである。これに対しインドの零記号は欠如した位を表し、もち
ろん単独でも使用され、なおかつ数学的演算も満足するものであっ
た。それではなぜバビロニアとマヤの零記号は数学的な零にまで発
展しなかったのか、ということを考えてみるとそれぞれ以下の理由
が考えられる。
バビロニでは零記号が使用される以前は欠如した位を空白で表し
ていた。空白によって欠如した位を表すと、1 つの位が欠如した場合
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と隣り合う 2 つの位が欠如した場合との判別が難しくなり、演算す
る上で混乱をまねいてしまう。そのような混乱をなくすために、2
本の楔形を傾けた零記号が考案されたと考えられる。バビロニアの
零記号は欠如した位を表す空白と同様の意味を持っている。つまり、
バビロニアの零記号は純粋な「無」を意味するのである。バビロニ
ア人が欠如した位を空白によって表現したのは、欠如した位がいか
なるものも存在しない「無」を意味するからである。しかし、空白
は演算上の混乱を生むため、それを解決するため「無」を意味する
空白を楔形の記号によって表した。これがバビロニアの零記号であ
る。バビロニアにおいて「無」を記号に置き換え「零」としたこと
は、数の歴史において非常に大きな功績である。しかし、バビロニ
ア人は零のみ単独で使用することができなかった。つまり、「無」を
それのみ単独で使用することができなかったのである。零以外の数
を表すときにのみ零記号が登場するということは、とうぜん数学的
に不完全であり、零に対する認識に何らかの誤りがあるか、もしく
は足りないものがあるかのどちらかである。だがバビロニア人は
「無」と「零」を等価なものとして扱っており、零に対する認識に
誤りはないようである。つまり、数学的な零を構築するために足り
ない何かがあったと考えられる。では足りないものとはいったい何
であろうか。そこで、第 1 章と第 2 章の検証結果より、足りないも
のは関係性の論理(相関関係)であると考えられる。関係性の論理
がなければ「無(零)」を「有(自然数)」と結びつけることができ
ず、「無」と「有」を等価なものとして扱うことができない。それに
対し、「無」と「有」に関係性の論理を適用すれば両者の間に相関関
係が生じ、「無」と「有」を等価なものとして扱うことができるであ
ろう。
バビロニアでは位取り記数法が考案されてから 1000 年以上もの
間、零記号を用いることなく演算を続けていたのに対し、マヤでは
位取り記数法が考案されるのとほぼ同時期に零記号が使用されてい
る。さらに、マヤの零記号はバビロニアの零記号と違い、単独で使
用されることもあった。一見すると、マヤの零記号はバビロニアの
零記号より論理的に進展しているように思える。しかし、マヤ人の
零に対する認識には大きな誤りがある。実際、マヤの零記号は数学
的には不完全なものであり、単独の演算に対しては無力であった。
マヤの零記号が不完全である理由は、零に「有」の意味が込められ
ている点にある。「有」として零を扱うことにより、零記号を単独で
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使用することができ、さらに、位取り記数法が考案された早い段階
から零記号を導入することができたのである。マヤの零は「有」を
示す自然数とほぼ同様の意味であり、「有」という集合の中において
相関関係が適用され数字として成立していたのではないだろうか。
もちろん、マヤでは「無」ではなく「有」に注目しているので、「無」
と「有」の間に関係性の論理が適用されることはない。
以上の理由により、バビロニアとマヤの零記号は数学的な零にま
で発展しなかったと考えられる。バビロニア人が零を「無」として
とらえたのに対し、マヤ人は零を「有」としてとらえた。また、バ
ビロニア人は「無」と「有」との間にはたらく相関関係まで思索が
及ばなかった。その結果、バビロニアの零は単なる空白を表す代替
記号でしかなかった。一方、マヤ人は零を「有」としてとらえるこ
とにより単独での使用を可能とした。しかし、マヤの零も数学的な
零にはほど遠く、自然数(1,2,3,…)の領域から脱していないもので
あった。
確かに、バビロニアとマヤの零はともに数学的に不完全なもので
ある。しかし、バビロニアとマヤの零に対する認識の誤りは、数学
的な零が成立する上で不可欠な要素を示してくれている。数学的な
零が成立するために、まず乗り越えなければならない壁は「無」を
数として認識することである。「無」を数として認識することにより
「無=零」となり、「無」と等価な意味を持つ零記号が生まれる。そ
して「無」と「有」の間に関係性の論理を適用することにより、零
と自然数の間に関係性が生じて数学的な零が成立すると考えられる。

龍谷大学大学院文学研究科
真宗学専攻
「空」の物理的解析
―空の論理による数学的零の成立―

浄土真宗本願寺派
信成寺
http://www.ne.jp/asahi/shinseiji/tera/101208.pdf

再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。 
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f 割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している、好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

以 上
文献:
Castro, L.P.; Saitoh, S. Fractional functions and their representations. Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).

ゼロの発見には大きく分けると二つの事が在ると言われています。
一つは数学的に、位取りが出来るということ。今一つは、哲学的に無い状態が在るという事実を知ること。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1462816269


世界中で、ゼロ除算は 不可能 か 
可能とすれば ∞  だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。

原点を中心とする単位円に関する原点の鏡像は、どこにあるのでしょうか・・・・
∞ では
無限遠点はどこにあるのでしょうか・・・・・

無限遠点は存在するが、無限大という数は存在しない・・・・

ゼロ除算(1/0=0)は、ピタゴラスの定理(a2 + b2 = c2 )を超えた基本的な結果であると考えられる。

地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????

1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????

Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/

もし1+1=2を否定するならば、どのような方法があると思いますか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12153951522 #知恵袋_
一つの無限と一つの∞を足したら、一つの無限で、二つの無限にはなりません。


割り算のできる人には、どんなことも難しくない

世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。

ベーダ・ヴェネラビリス

数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年

数学で「A÷0」(ゼロで割る)がダメな理由を教えてください。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411588849 #知恵袋_

割り算を掛け算の逆だと定義した人は、誰でしょう???

0×0=0・・・・・・・・・だから0で割れないと考えた。
唯根拠もなしに、出鱈目に言っている人は世に多い。

multiplication・・・・・増える 掛け算(×) 1より小さい数を掛けたら小さくなる。 大きくなるとは限らない。

ビッグバン宇宙論と定常宇宙論について、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243254887 #知恵袋_

ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・・ 1+1=2が当たり前のように

『ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった』 ⇒ http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12089827553.html … … →ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・ 1+1=2が当たり前のように、
1÷0=0 1÷0=∞・・・・数ではない 1÷0=不定・未定義・・・・狭い考え方をすれば、できない人にはできないが、できる人にはできる。

アラビア数字の伝来と洋算 - tcp-ip
明治5年(1872)
http://www.tcp-ip.or.jp/~n01/math/arabic_number.pdf

ゼロ除算の証明・図|ysaitoh|note(ノート) https://note.mu/ysaitoh/n/n2e5fef564997

Q)ピラミッドの高さを無限に高くしたら体積はどうなるでしょうか??? A)答えは何と0です。 ゼロ除算の結果です。

ゼロ除算は1+1より優しいです。 何でも0で割れば、0ですから、簡単で美しいです。 1+1=2は 変なのが出てくるので難しいですね。
∞÷0はいくつですか・・・・・・・

∞とはなんですか・・・・・・・・

分からないものは考えられません・・・・・

1人当たり何個になるかと説いていますが、1人もいないのですから、その問題は意味をなさない。
よってこれは、はじめから問題になりません。
ついでですが、これには数学的に確定した解があって それは0であるという事が、最近発見されました。

Reality of the Division by Zero z/0 = 0
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://okmr.yamatoblog.net/
Einstein's Only Mistake: Division by Zero
http://refully.blogspot.jp/2012/05/einsteins-only-mistake-division-by-zero.html

再生核研究所声明171(2014.7.30)

掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?

(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は  既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/









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