2016年3月3日木曜日

記事 やまもといちろう2016年03月02日 18:32保守は「こづかいないんだから我慢しろ」と言い、左翼は「こづかいがないのはおかしい」と言う

記事
やまもといちろう2016年03月02日 18:32保守は「こづかいないんだから我慢しろ」と言い、左翼は「こづかいがないのはおかしい」と言う




先日、ヤフーニュースでこんな記事が載っていたのでコメントを寄せました。

消える人 もがく地方… 3000円散髪に1万5000円のタクシー代
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160227-00000070-san-bus_all
山本一郎さんのオーサーコメント
http://person.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/comments/posts/14565491735686.d1a9.03055/

 記事は産経新聞のものですが、特に思想がかったものではなく、単純に人口減少が地方で深刻になり、自活できる都市圏にまででかけないと過疎地域の人たちは一般的なサービスを受けられなくなっている、という話です。

 単純に、人が減っているし、人が減った地域でサービスを賄うのは採算が合わなくなったから、無い袖は触れないので都市圏に移動するしか文明的な生活をするには方法が無いんじゃないですか、という保守主義的で「現実を見よう」という発言をしたんですよ。

 私は保守主義者ですし、人がいないんだからしょうがないだろ、人がいるところで文化的で健康的な生活ができたほうが、生まれ育ったからといって不便なところで暮らすよりいいんじゃないの、という考えなわけです。

 そしたらですね、幾つか左方面の皆さんから、とても批判的なコメントをいただきました。主に、メールやFACEBOOKなどでですが。

 掻い摘んで共通した内容を整理すると、こんな感じです。

・人間は、生まれ育った地域で暮らす権利がある。

・国家や社会は、そういう人たちにも文化的で不便の無い暮らしを実現する責任があるのではないか。

・文化的な生活を地方在住者が送れないという不利があるならば、助成するなどして、彼らが都市部で住んでいるのと変わらないクオリティを目指すべきだ。

・村から町へ年寄りを寄せることは、人口問題を先送りするだけで解決にならない。

・高齢者を都市部に移住? できるならやってみろ。

 まあ、意見として「理解はできる」けど「賛同はしない」わけですね。

 私としては、保守と左翼で意見を出し合い、お互い納得はしないんだろうけど折り合えるところを探して、社会があるべきところに着地するのが政策論争だと思っております。なので、賛同はしないまでも、理解はしますし、 逆に不便なところに自発的に住んでる人を支えるコストを誰が払うのかも考えてよ左翼のみんな! みたいな気持ちにはなりますね。まあ、山の両側から頂上目指して登っているイメージでしょうか。

 そうこうしているうちに、青森市のコンパクトシティ失敗事案が出たり、興味深い事案はありました。

「コンパクトシティ政策」のトップランナー青森市の自滅
http://togetter.com/li/943974

 個人的には、公共サービスのコストを効率化するにはコンパクトシティ的な方法でしか解決できない、人がまばらな地域はその人が不便さを許容され、衰退を余儀なくされてもなお土地にしがみつきたいということであればどうぞ、という話になっちゃうので、それはそれで冷たい話だと思うんですけどね。伴侶を見つけたくても若い人が少ない、結婚できて子供が産みたくても産む場所がない、子供は風邪を引くし怪我もするし近くに小児科のあるところでないと何かと不便だ、っていう意味で育てづらいだろうし、出生率もそこまで上がらない。

 高齢者だって、産経の記事にもあるとおり散髪したくてもタクシー代のほうが高いとか、病院いきたくても近くにないだとか、何事かあったときに救急車が来るのに40分とか。死ぬでしょ。高齢者の貧困だといっても、その高齢者の選択の果てに、生活費が高くなって困窮するしかない地域に住んでいたら、そりゃ貧困になるだろとしか言えない。

 民主主義社会だし、住民の権利だと言われると、まあそりゃそうです。ご自由に。ただ、日本社会全体がお金の余裕が無くなって、人口も減って、地方津々浦々にサービスを行き渡らせられるような非効率を社会的合意で甘受できなくなりつつあるとき、あるタイミングで一気に梯子を外さないといけなくなるでしょう。なぜなら、非効率に暮らしている人々のお陰で、自活的な経済圏にいる人たちの納める税金が無駄に使われる余裕はなくなるだろうから。

 それじゃ都市部以外に人が住んではいけないのか、という話になるとむつかしいんでしょう。”村閉め”じゃないけど、若い人がいない、子供が産まれない、先が無い地域はてこ入れしようが本人たちが頑張ろうがそう遠くない将来地域は無くなるんですよ。社会や地域を持続させることができるのは、次の世代を生み出す能力に尽きるわけです。

 だからこそ、個人の選択として「採算の取れない地方に住む」というのは、公共も民間もサービスレベルが下がるという前提で暮らしてもらわないといけないってことだと思うわけです。

 私なんかは、社会で賄えるこづかいが減っているんだから自分で稼ぐか我慢するしかないと思うほうだけど、左の人たちはそういう人たちが困っているのだからこづかいを配るべきって話になるようです。まあ、心情的には分かるんだけどさ。

 ついでと言っては何ですが、千葉市長の熊谷俊人さんが「市政サービスの見える化」という話をされていて、私は賛成です。お前らの払っている税金に比べて、どれだけ受益をしているのか、要求する市民サービスのコストに見合う付加価値をお前は生み出しているのか、という議論は、国民の権利と主張するのと同じぐらい必要なことだと思っています。

 もちろん、私自身もそれ相応の税金を支払っているとはいえ、もしも何事かあったら市民サービスのありがたみを痛感する日々を迎えることになるかもしれないわけです。だからこそ、ゴミ収集から介護やら保育園・幼稚園など、あらゆる分野で行政がかけているコストを国民が目で見て、払っている税金などの負担と見比べて「ああ、私は社会にきちんとプラスの貢献をしているんだ」と自負できるかどうかは考えた方が良いと思うんですよね。


 逆に、貧困で辛いという人たちも卑下する必要はないと思うんですよ。この世に日本で生まれたからには、いいたいこと、して欲しいことを堂々と主張しても良い。それが社会の富が喪失して、そちらにまでお金が回せないぞとなったとき、どうにかして助け合わなければならないのが社会であるわけだし。

 意外とこの辺の行政サービスのコストと国民のサービス不足感ってのは、実態を知らないだけなのかなと思います。過疎地に住んで不便だ、行政はどうにかしろという考えは理解はするけど、やっぱり人口減少の局面で要求どおりのことはできないよ、と強く感じるわけですね。

 そういうことですので、今日はビールを飲んで酒税をいっぱい払いたいと思います。
http://blogos.com/article/164251/


再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上

再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/








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