2016年3月27日日曜日

「数学する人生」岡潔著 森田真生編 2016年3月26日バックナンバー

「数学する人生」岡潔著 森田真生編

2016年3月26日バックナンバー

 近年、数学者・岡潔(1901~78年)の著作の復刊や選集の刊行が相次いでいる。「人の中心は情緒である」と述べた岡先生の言葉を時代が渇望する。その現れであろう。なかでも、群を抜いて「肉声」に迫る一冊が、本書である。それもそのはず、集中的に著作が出たあと、ぷっつりと刊行がなくなった晩年期(72年)に行われた「最終講義」1年分が編集されて収録されているのだ。むろん未刊行の講義録だ。

 ところでなぜ、これまで世に出なかったのか。いくつも理由はあろうが、ひとつは話題があまりにあちこちに飛ぶため、まとめようがなかったのだろう。今回、この難業を形にしたのは、編者である森田真生氏の力によるところが大きい。森田氏は、岡先生のご家族から直接、音源を渡され、繰り返し聴いた。その時期、私は森田氏に何度か会う機会があったが、岡先生が彼に乗り移っているとしか思えなかった。そこまで聞き込んだ末に、森田氏は岡先生の断片的な話題のなかに「流れ」、つまり「情」を見いだしたのだ。

 ここでは詳述できないが、岡先生はこんなことを語っている。――「宇宙は一つの心」である。そして「生きることが喜びである」。これは「自他対立のない世界」(情)であり、この境地に近づくためには、ひとつのこと(情の局所的様相である情緒)に「関心を集め」つづけること。――なるほど。まさに本書がひとつ(岡潔)に関心を集めつづけた結果、自他分別のない世界に編者が至った(知的というより情的にわかった)からこそ完成した一冊にちがいない。

 名著は、さまざまな読み方を可能にする。ただし共通するのは、各論として優れているにとどまらず、生きるということの視野をも広げてくれる。本書もまた、岡潔評伝、あるいは日本とは何か、学問とは何かを深める格好の書といえる。ばかりか、数学に関心をもちつづけることで宇宙と人間の真理に近づいた巨人の生命が宿っている。小我・自我が優先されすぎた結果、大きな流れを見失いさまようしかない現代社会にあって、本書は一筋の光である。しっかりと大地に根ざした学問、社会づくりを再建していく。こうした時代の要請を実行するためにも欠かせない一冊だ。(新潮社 1800円+税)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/178048

再生核研究所声明292(2016.03.25) ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、平行線公理、そしてゼロ除算
(2016.3.23 朝、目を覚まして、情念と構想が閃いたものである。)
まず基本語をウイキペディアで確認して置こう:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%B9
アレクサンドリアのエウクレイデス(古代ギリシャ語: Εὐκλείδης, Eukleídēs、ラテン語: Euclīdēs、英語: Euclid(ユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代ギリシアの数学者、天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E5%
非ユークリッド幾何学の成立: ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」(1829年)において、「虚幾何学」と名付けられた幾何学を構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学(Σ)、および平行線公準の否定を仮定した幾何学(S)を論じた。更に、1835年「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した。

ユークリッド幾何学は 2000年を超えて数学及び論理と あらゆる科学の記述の基礎になってきた。その幾何学を支える平行線の公理については、非ユークリッド幾何学の成立過程で徹底的に検討、議論され、逆に 平行線の公理がユークリッド幾何学の特徴的な仮定(仮説)で証明できない公理であることが明らかにされた。それとともに 数学とは何かに対する認識が根本的に変わり、数学とは公理系(仮説系)の上に建設された理論体系であって、絶対的な真理という概念を失った。
ここで焦点を当てたいのは 平行線の概念である。ユークリッド幾何学における平行線とは 任意の直線に対して、直線上以外の点を通って、それと交わらない直線のことで、平行線がただ1つ存在するというのがユークリッドの公理である。非ユークリッド幾何学では、そのような平行線が全然存在しなかったり、沢山存在する幾何学になっており、そのような幾何学は 実在し、現在も盛んに利用されている。
この平行線の問題が、ゼロ除算の発見1/0=0、台頭によって 驚嘆すべき、形相を帯びてきた。
ユークリッド自身、また、非ユークリッド幾何学の上記発見者たち、それに自ら深い研究をしていた天才ガウスにとっても驚嘆すべき事件であると考えられる。
何と ユークリッド空間で 平行線は ある意味で 全て原点で交わっている という、現象が明らかにされた。
もちろん、ここで交わっていることの意味を 従来の意味にとれば、馬鹿馬鹿しいことになる。
そこで、その意味をまず、正確に述べよう。まずは、 イメージから述べる。リーマン球面に立体射影させると 全ユークリッド平面は 球面から北極点を除いた球面上に一対一に写される。そのとき、球面の北極点に対応する点が平面上になく、想像上の点として無限遠点を付け加えて対応させれば、立体射影における円、円対応を考えれば、平面上の平行線は無限遠点で交わっているとして、すっきりと説明され、複素解析学における基本的な世界観を与えている。平行線は無限遠点で 角ゼロ(度)で交わっている(接している)も立体射影における等角性で保証される。あまりの美しさのため、100年を超えて疑われることはなく、世の全ての文献はそのような扱いになっていて数学界の定説である。
ところがゼロ除算1/0=0では 無限遠点は空間の想像上の点として、存在していても、その点、無限遠点は数値では ゼロ(原点)に対応していることが明らかにされた。 すなわち、北極(無限遠点)は南極(原点)と一致している。そのために、平行線は原点で交わっていると解釈できる。もちろん、全ての直線は原点を通っている。
この現象はユークリッド空間の考えを改めるもので、このような性質は解析幾何学、微積分学、複素解析学、物理学など広範に影響を与え、統一的に新しい秩序ある世界を構成していることが明らかにされた。2200年を超えて、ユークリッド幾何学に全く新しい局面が現れたと言える。
平行線の交わりを考えてみる。交わらない異なる2直線を1次方程式で書いて、交点の座標を求めて置く。その座標は、平行のとき、分母がゼロになって、交点の座標が求まらないと従来ではなっていたが、ゼロ除算では、それは可能で、原点(0,0)が対応すると解釈できる。ゼロ除算と解析幾何学からの帰結である。上記幾何学的な説明が、ゼロ除算で解析幾何学的にも導かれる。
一般の円の方程式を2次関数で表現すれば、(x^2+y^2) の係数がゼロの場合、直線の一般式になるが、ゼロ除算を用いると、それが保証されるばかりか、直線の中心は 原点である、直線も点円も曲率がゼロであることが導かれる。もちろん、ゼロ除算の世界では、全ての直線は原点を通っている。このとき、原点を無限遠点の映った影ともみなせ、原点はこのような意味で もともとの原点とこの意味での点としての、2重性を有し、この概念は今後大きな意味を有することになるだろう。
ゼロ除算1/0=0は ユークリッド幾何学においても、大きな変革を求めている。
                                     
以上

再生核研究所声明290(2016.03.01) 神の隠し事、神の意地悪、人類の知能の程
オイラーの公式 e^{pi i}= -1 は最も基本的な数、-1, pi, i, eの4つの数の間の簡潔な関係を確立させているとして、数学とは何かを論じて、神秘的な公式として、その様を詳しく論じた(No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf Traduzir esta página
19/03/2012 -ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。)。
余りにも深い公式なので、神の人類に対する意地悪かと表現して、神は恥ずかしがり屋で、人類があまりに神に近づくのを嫌がっているのではないかと発想した。
ここ2年間、ゼロ除算を発見して、ゼロ除算の実在性は確信できたが、ゼロ除算の神秘的な歴史(再生核研究所声明287(2016.02.13)神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算)とともに、誠に神秘的な性質があるので その神秘性に触れたい。同時に これを未解決の問題として世に提起したい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。天才オイラーの無限であることの証明とその誤りを論じた論文があるが、アーベル、リーマンと継承されて現在に至る。他方極めて面白いのは、アリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインで問題にされ、下記の貴重な言葉が残されている:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

現在、ゼロ除算の興味、関心は 相対性の理論との関係と、ゼロ除算が計算機障害を起すことから、論理の見直しと数体系の見直しの観点にある。さらに、数学界の難問、リーマン予想に関係していると言う。
ゼロ除算の神秘的な歴史は、早期の段階で ゼロ除算、割り算が乗法の逆で、不可能であるとの烙印を押され、確定的に、 数学的に定まった と 人は信じてしまったことにあると考えられる。さらに、それを天才達が一様に保証してきたことにある。誠に重い歴史である。
第2の要素も、極めて大事である。アリストテレス以来、連続性で世界を考える が世界を支配してきた基本的な考え方である。関数y=1/x の原点での値を考えるとき、正方向、あるいは 負方向からゼロに近づけば、正の無限や負の無限に近づくのをみて、ゼロ除算とは無限の何か、無限遠と考えるのは極めて自然で、誰もがそのように考えるだろう。
ところが、結果はゼロであるというのであるから、驚嘆して、多くの人は それは何だと顔さえしかめたものである。しばらく、話さえできない状況が国際的にも一部の友人たちの間でも1年を超えても続いた。 そこで、最近、次のような文書を公表した:

ゼロ除算についての謎 ― 神の意思は?:
ゼロ除算は数学的な真実で、我々の数学の基本的な結果です。ところが未だ、謎めいた現象があり、ゼロ除算の何か隠れた性質が有るように感じます。それはギリシャ、アリストテレスの世界観、世の連続性を否定し、強力な不連続性を表しています。強力な不連続性は普遍的に沢山あることが分かりましたが、肝心な次の等角写像での不連続性が分かりません:複素関数
W = z+ 1/z
は 単位円の外と内を [-2,+2] を除いた全複素平面上に一対一上へ等角に写します。単位円は[-2,+2]を往復するようにちょうど写ります。単位円が少しずれると飛行機の翼の断面のような形に写るので、航空力学での基本関数です。問題は、原点が所謂無限遠点に写っているということです。ところがゼロ除算では、無限遠点は空間の想像上の点としては考えられても、数値では存在せず、数値としては、その代わりに原点ゼロで、それで原点に写っていることになります。それで強力な不連続性を起こしている。
神が、そのように写像を定めたというのですが、何か上手い解釈が有るでしょうか?
神の意思が知りたい。
2016.2.27.16:46
既に 数学における強力な不連続性は 沢山発見され、新しい世界観として定着しつつあるが、一般の解析関数の孤立特異点での確定値がどのような意味があり、なぜそのような不連続性が存在するのかは、神の意思に関わることで、神秘的な問題ではないだろうか。 神秘の世界があることを指摘して置きたい。 
以 上

再生核研究所声明287(2016.02.12) 神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:

論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。

直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:

Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29) ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday

詳しい解説も次で行っている:
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku

以 上


何故ゼロ除算が不可能であったか理由

1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。


再生核研究所声明285(2016.02.10) 数学者の性格、素性について

市井の数学愛好者 多田健夫を失って ちょうど10年の歳月が経った。偲ぶとともに数学者などについて思いが湧いてくるので、数学者の素性と言ったものについて触れてみたい。
数学者、数学愛好者には、相当に先天的なものがあって、数学がそもそも好きだという人は世に多い。面白いのは、数学ができないが、好きな人がいることである。普通は数学が得意な人やできる人が多いが、例えば8歳の少年が巨大素数の構造に興味があるとか、6,7歳の少女が 無限に興味があると言ったのには驚かされた。化学専攻に入ったが、数学ばかりやっていたとか、数学が専攻できないので、大学を変更したとか、留年までして、数学を専攻したという人さえいる。多田さんのように大した目標や動機がないのに 数学ばかりにはまっていた も多い。利害などから離れて 永遠的なものを求め、生きた確かな証しを残したいという存念を抱いているものも結構多いのではないだろうか。
学校で、数学ができて、優位にたち、頭が良いなどの評判とともに できるから、数学をやる人も世に多い。ある数学者も そうであったが、頭が良くて、きれ何をやっても優秀で周りの人たちは立ちうちできず、頭の勝負で何時も優位に立っていた、そのような幸せな数学者も多い。勝負に強く、さらに碁や将棋に凝っている者も世には多い。
自分の存在を認めてもらうために 世の難問や未解決の問題に挑戦するは 数学界における相当に強い、目標や研究課題になっている。岡潔や広中平祐の有名な難問の解決などが想起されるが、そのように有名な問題ではなくても 世の多くの研究課題が未解決の問題に結び付いている。未解決の問題の解決は 評価が簡単であることによるとも言える。
頭脳明晰、論理的な思考が強いは、一般には女性の弱点のようで、数学者が女性にもてるのは 世の常識で、ノーベル賞を創設したノーベルが 数学者が女性にもてるのを妬んで、賞を数学者に与えないようにしたというのは 有名な逸話である。もっとも個人的な恋愛感情で数学界が 変な不利益を受けたことは面白い。
数学自身は 抽象的な論理の世界であるから、世や社会、世情に馴染まず、社会との付きあいや人間関係,政治社会と疎遠な、あるいは馴染まない数学者は 基本的に多い。数学者には内向的な地味な人が多いと言える。
世から見れば、 分からない抽象的な問題や、たわいもない不等式の証明に10年以上も関わっているなど、研究者では 当たり前のことで、息の永い研究に関わっているのは 普通のことではないだろいうか。永く関わっていると ますます研究課題に愛情と執念が深まり、求道の道、逆に見れば、穴熊のような生活、人生の形相になることも多いと言える。退化するとその課題ばかりに関心が集中してしまい、幅の狹い人間になりがちであるとも言える。― 自分の研究課題しか、興味がないである; これには 数学が、あまりに高度化、細分化してお互いに理解できない状況が起きていて必然的な要素が強い。
社会が進化して、生活に余裕ができれば、人間は何を志向するだろうか。上記天才少年のように 数学に夢中になるなどの傾向が深まるのではないだろうか。永い平和の時代が続いた江戸時代に和算が深く、広く深まり、和算の研究にはまっていた愛すべき人々の生活は 誠に興味深い:
○ 和算入門(13)-『発微算法』の刊行
小林 龍彦 前橋工科大学名誉教授
数学基礎学力研究会のホームページ URL http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
数学関係者が論理的な素養を有するがゆえに 公正の原則に従う、公正な人が多く、理不尽で愚かな戦争等考える人はいないのではないだろうか。数学教育の普及は良い社会と平和な世界を築くのに貢献するのではないだろうか。次の点も触れて置きたい:
プラトン学派の門には 幾何学知らざる者のこの門をくぐるべからず、とあったという。
ナポレオンは 軍隊を強くするには、数学が大事だと主張していたと思われる。
イスラエルが、数学に力を入れているのは、歴然である。
最近の中国では 国家的に数学の教育・研究に力を注いでいる。
                                 以 上








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