月刊誌『Voice』2015年10月12日 08:46オリジナルとコピーの違い――五輪エンブレム問題から学ぶ - 小浜逸郎(批評家)
*以下の文章は、2015年8月28日に脱稿したものですが、その後事態の急展開があったために、一部に現状と適合しない部分があります。しかし原文を残すことも大切と考えますので、一応8月28日時点での文章をそのまま掲載し、特に訂正が必要と考えられる箇所に、「注記」のかたちで加筆を行うことにしました。この加筆によって、本稿全体の主旨そのものが矛盾をきたすことはないと確信しています。(小浜記)
◆コピペ時代に漂うムード
東京五輪の公式エンブレムが「盗用」であるとして、海外デザイナーが使用差し止め訴訟を起こし、さらにこれをデザインした佐野研二郎氏の他の作品にも盗用の疑いがあるとの指摘が広まっています。この原稿を書いている時点で、五輪スポンサー企業21社のうち、公式エンブレムを利用した企業はすでに13社に上っています(『産経新聞』8月24日付)。
これによく似た問題が一昨年冬から昨年春にかけて連続して起きました。そう、佐村河内問題とSTAP細胞問題です。これらが世間を大いに騒がせたのは記憶に新しいところですね。じつはその折、私は自身のブログに、この問題について一文を載せました(http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/34669f45876b83ec6a74b5aed3dbf49c#comment-list)。
このとき書いた文章に若干脚色を施して要約すると、概略以下のようになります。
2つの事件は共に、現代の高度情報社会の目まぐるしいスピードとその膨大な情報量の洪水の中で生きている私たちすべてに関わる文明論的な問題である。もちろんそれぞれの事件当事者には、その「悪」の程度において相対的な差が認められはするものの、その差についてあれこれ議論したり当事者の「罪」を倫理的に糾弾したりすることにはあまり意味がない。
私たちは一種の「表現中毒」ともいうべき状態にあり、何かを表現せずにはいられないと同時に、他者の何らかの表現を吸収せずにはいられない。これは現代人が、F・ベーコンの指摘した4つのイドラ(幻影)のうち、市場のイドラ(マスコミ情報がその代表)と劇場のイドラ(学問や芸術の権威の独り歩きがその代表)の二つにすっかり染まりきっていることを表している。この2つのイドラこそは、深慮なしの表現の授受を促進する。世はまさにコピペ時代、今日YouTubeなどからいくらでもただで音声や画像を摂取できるように、誰もこの状況から逃れるすべはなく、多かれ少なかれ私たちはこの状況の共犯者である。こういう状況下では、何が真に価値あるものであるかの評価・判断・鑑定の権威が崩壊の危険に瀕する。
しかし考えてみれば、もともと純然たる個人の創造なるものは、理念の上でしか成り立たず、あらゆる創造は、過去の制作物の模倣と継承から始まるのだし、どんな制作も協同と分業の上に初めて成り立つ。明らかにただのコピーであると見破られるような作品は、それだけテクニックが拙劣なのである。人の心を打ち、誰もコピーであることを指摘せず、しかも自分自身にとってもコピーではないと確信できるならば、それは立派な創造物と呼んでよい。「科学的真実」なるものもこれと事情は同じである。なぜなら真実とは、誰もが納得する物語の創造ということだからである。
このたびの騒ぎに絡めて、若干の補足をします。
まず、佐村河内問題の場合ですが、この事件が発覚したときにこれを知った彼の「ファン」の一人が、「涙を流すほど感動していたのに、事実を知ってショックを感じ、白けてしまった」というようなコメントをどこかに寄せていました。私はこれを読んで唖然としました。作者が別人であったことを知って、ショックで白けてしまうなら、この人の感動の「涙」とはいったい何だったのか。まずは自分の耳も偽物だったのかもしれないと疑ってみるべきではないか――受け手もまたまがい物づくりの共犯者であるとはこれを言います。
次に、倫理的な糾弾にはあまり意味がないとはいっても、著作物・制作物に関して「個人の創造」「個人の業績」というフィクションを前提に現代の法体系が編まれているかぎり、その模倣や剽窃の程度に応じて、リーガルな意味での制裁を受けるべきことを否定するものではありません。
私の勤務する大学で、単位認定のためのレポートにネットからのコピペがどうも増えているようだなという疑惑が募ってきたので、1度徹底的に調べていちいちソースを突き止め、相当数の学生を落としたことがあります。それからはテストに切り替えました。この例などはまさに、「拙劣なテクニック」に類するもので、STAP細胞問題における小保方グループの安易で拙速な論文作成にも共通しており、私としても職務上黙視するわけにはいかないのです。ただ肝心なことは、世間全体がそういうムードに支配されていて、そこにはそのような空気をつくる高度情報社会の必然性があるという事実です。
◆パクリとしか言えない作品
さらに、オリジナルとコピーの関係や剽窃問題を問うときに、表現ジャンルによる違いということに注意する必要があります。
たとえば短歌・俳句などの場合、本歌取りということがありますから、字句をちょっと変えただけでも、そのことによって思わぬ興趣が生まれてかえって称賛されることがありえます。ここでは元歌があってこそ表現価値が生きるわけで、剽窃かどうかはそもそも問題になりません。しかし詩の場合だと、連歌、俳諧など集団で次々に詠んでいくという伝統がありませんし、しかも少ない大切な語彙の連なり具合が命なので、これはそうとう剽窃かそうでないかが問題になるでしょう。
小説では、もちろん現代作家の文章をそのまま写したらまずいですが、一方、たとえば芥川や太宰の作品には「羅生門」「お伽草紙」など古典や民話などからのパクリとしか言えない作品がたくさんあります。しかしこれらが非難されたことは1度もなく、むしろ傑作とされています。思うにそのパクり方こそがミソで、芥川や太宰でなければできないような文体、構成、変奏の仕方、思想の盛り方などにその価値が宿っているわけです。
批評では、論ずる素材は必要なかぎり原文を引用し出典を明らかにすることが一応のマナーとされているので、あまり問題はないようですが、それでも自分の考えの表明のうちに先人の思想がほとんどそっくり入ってきてしまうことはままあります。私なども過去に、この種のパクリをやったことが何度かあります。
この場合、引用だと断らずに一連の文章を丸写ししたら問題ですが、そうでないかぎり、その批評作品が全体としてあるまとまった思想表現になっていさえすれば、いちいち厳密な詮索をするのはかえって愚かなことです。なぜなら、批評や思想表現というのは、そもそもある共通の考えを多くの人が共有するために行なわれるので、Aの思想をBがほとんどそのまま継承して伝えることは、むしろ良いことだからです。時折、あいつは俺の考えを盗みやがったなどとムキになっている人を見かけますが、偏狭というほかありません。
音楽の場合だとどうでしょうか。
たとえば、ショパンのピアノ協奏曲第1番の第1主題と都はるみさんの「北の宿から」の出だしとはとても似ています。またサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」と由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」も出だしがそっくりですね。
音楽は、作曲者本人が意図的であったかどうかは別にして、こういう事がとても起こりやすいジャンルだと思います。というのは、なんといっても世界に流布する曲は膨大ですし、その膨大さに比べて、人間の情緒の型はある程度限られているので、人の口の端に上りやすいメロディがどうしても重複してくるだろうからです。こういう場合に、剽窃だ、剽窃だと目くじらを立てるのはどうかと思います。
クラシックに詳しいある友人は、クラシック曲は驚くほどよく聴き分けるのに、ジャズはみな同じに聞こえると言っていました(そんなことはないのですが)。またベートーヴェン以前は、あまり「個人の創造物」という観念が確立していませんでした。バッハやハイドンやモーツァルトら、バロックや古典派の作曲家たちの「芸術家としての個性」なるものは、あとから発見されたというべきでしょう。
絵画芸術の場合はどうでしょうか。この世界では、真贋の鑑定に深い専門知識が要求されるように、本物そっくりの偽物づくりの技術がきわめて発達していて、現に贋作やコピーが横行しています。佐村河内事件の場合と似ていて、同じ感動を呼び起こすなら、偽物でもべつに構わないと私などは思うのですが。
またピカソの「草上の昼食」がマネの同じタイトルの絵のパロディであるように、絵画の世界では、同一主題を別の画家が描くことは盛んに行なわれていますが、誰も文句を付ける人はいません。これは剽窃の問題というのではなく、先に挙げた短歌・俳句や古典に素材を採った小説などの場合と似ていますね。
◆デザインの世界特有の事情
さて問題のシンボルマークやロゴデザインですが、この世界にもこの世界特有の事情があると思います。
1つには、デザインの世界は、抽象絵画やシュルレアリスムやポップアートなど、古典的な美の伝統を壊してきた20世紀以降の美術から生まれた歴史をもっています。そういう経緯もあって、これらのデザインはシンプルなものが好まれるという特色があります。ということは、意識的にも無意識的にもパクられやすいと言えるのではないでしょうか。
いま盗用ではないかと疑われている佐野氏のデザインは5つありますが、五輪のエンブレムを含め、どれも、うーん、意識的な盗用とも言えるし、そうではないとも言えるなあと、正直なところ判断に窮してしまいます。ちなみにこの中でもっとも「盗用」の疑い濃厚なのは、「おおたBITO太田市美術館・図書館」のロゴですね。しかし全体としては、この程度のことは、この世界ではいくらでもありうるのではないか。
ただ問題は、これらが1つのデザイン事務所からこれだけ多数出てきたという点です。このデザイナーおよび事務所のスタッフは、どうもそういう安易な方向に走りやすい傾向をもっている(わりと気にせずにこれまでそうしてきた)とまでは言えそうです。しかしまた、この疑惑の発端が東京五輪というとてつもなく大きな国際的プロジェクトであったからこそ、世界中の視線を集めてことさら騒ぎが大きくなってしまったという面もありそうです。もしかすると、氷山の一角なのかもしれません。
なお、東京五輪エンブレムの審査委員代表・永井一正氏によると、佐野氏の原案にはベルギーの劇場名の頭文字「L」を想起させる右下部分はなかったそうです。その後、組織委と佐野氏とのあいだで他の商標との類似を避けるために協議を重ね、最終的に現デザインに決まったということです。また、世界中の登録商標を調べたがベルギーのものは載っていなかったとも(『朝日新聞デジタル』8月26日付)。8月28日、組織委はデザインの原案を公表したが、その後、どのような修正を経て現デザインになったのか、審査プロセスも含めてすべて公表すべきでしょう。
◆真に価値あるものか
ところで、デザイン制作という領域には、建築デザインなどに典型的なように、これまで述べてきたジャンルにはない厄介な問題があります。それは、依頼主からのオファーやコンペなどがあって初めて制作が開始されるという点です。これは、もともと純粋に自発的・自立的な芸術作品とは言えない面があることを意味します。もちろん、文学や音楽や絵画芸術でも、注文を受けて初めて制作に取り掛かることはいくらでもあります。しかしこれらは、たとえお金がもらえなくとも、強い内発的な表現欲求に支えられて成立することが可能です。それは、これらが、日常生活の実用的な役に立たないということと表裏の関係にあるでしょう。
しかしデザインという領域は、実用性と深く結び付いています。そのことは、その制作過程そのものに独特の条件を課すことになるだけではなく、つねに顧客の意図に合致しなくてはならないという制約を帯びることを意味します。シンボルマークやロゴデザインの場合は、この制約はどのようなかたちをとるでしょうか。それは2つあると思います。
1つは、特定のイベント目的や建造物のイメージに合致しなければならず、それを果たすことによってかなり巨額のお金が動くということです。要するにつねに主人もち、ひも付きという条件のもとに仕事が成立するのです。言い換えると、ある種の政治性がいくらでも介入してくる余地があります。これは、小説や絵画芸術や音楽の作品が結果的に人気を得てお金が儲かるというのとはまったく意味が異なります。
もう1つは、こういう領域の作品は、なるべく多くの大衆に公開されることが原則だという点です。この原則は、単純明快な形態を要求しますから、ユニークで凝ったデザインの追求がしにくいのですね。
以上2つの制約は、あまり芸術的センスなどのない凡人の受けを狙わなくてはならないということでもあり、それは結局、どこかで見たことがあるようなものが生まれやすいことを意味します。ちなみにこの指摘は、けっして佐野氏を擁護しようと思ってのことではありません。あくまで、現代では私たちの集合無意識がそういう風潮、そういうステージに乗せられているという事実を強調したいがためです。
もっとも、老舗であるツムラ(旧津村順天堂)の中将姫やスターバックスのセイレーンなどは、描線の多い複雑なロゴですが、とても印象的でかえって人口に膾炙しやすいですね。また大成建設のロゴはそこそこ複雑ですが、「土建屋」のイメージを払拭したたいへん優雅で斬新なものです。いっぽうアップル社のそれは、逆に単純明快で、誰でもすぐ覚えるものでありながら、なかなか人が思い付かないユニークさをキープしています。
ですから、シンボルマークやロゴデザインにはそれ独特の制約があるものの、本当に真剣に工夫するならいくらでも可能性はあるということもまた言えそうです。
いろいろとまとまりなく述べてきましたが、最後に結論を箇条書きのかたちで出しましょう。
(1)現代のような高度情報社会では、地球規模でイメージの交錯現象が起こり、あちこちでよく似たものが生み出されやすい。このことは同時に、作品が意図的な盗作であるのかそうでないのかの判定を難しくする要因ともなっている。
(2)このようなコピペ時代の流れは抑え難く、今後ますます進展していくだろう。私たちは、このことを前提として著作権の問題を考え直す必要がある。
(3)個人的な考えとしては、明らかな盗用でないかぎり、著作権侵害をあまりに言い立てるのは慎みたい。制作物は過去の作品の模倣と継承によってしか成り立たないからである。人が真似してくれるのは自分の作品が優れているからだという余裕の心も必要である。ただし金銭的利害が絡む法的な問題は、これとは別であるが。
(4)芸術表現に接する場合に大切なことは、「個人の純然たる創造」という観念に固執することではなく、ある制作物が真に価値あるものであるかどうか、その場合の価値の基準とは何かを真剣に考察することである。
(『Voice』2015年10月号より)
◇小浜逸郎(こはま・いつお)批評家
1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)など多数。
◇『Voice』2015年10月号
いよいよ中国のバブル崩壊が現実味を帯びて論じられるようになった。日本経済も何らかの影響を免れない。そこで、10月号は「どん底の中国経済」との総力特集を組み、津上俊哉氏をはじめ、日高義樹氏、古森義久氏、福島香織氏、田村秀男氏、渡邉哲也氏の論考を掲載した。
注目記事は、3本の対談。第95代総理大臣の野田佳彦衆議院議員とパナソニックの津賀一宏社長が「日本の課題」を、地方創生担当大臣の石破茂氏と京都市長の門川大作氏が「地方創生」を、ケント・ギルバート氏と呉善花氏は「韓国問題」を、それぞれ論じた。 今月号も、日本を取り巻く経済や外交、安全保障の近未来を占ううえで不可欠な視点を提供している。ぜひ、ご一読を。http://blogos.com/article/138296/
創造と模倣、これは意外に難しいのでは?
いつの間にか、自分の中で吸収されていて、意識できない場合も起こりうるのでは。
最低、模倣していないのは 自覚は 大事では?
今回の件、模倣の感じを 相当の人が受けるのでは?
再生核研究所声明91(2012.5.20): 創造性についての一考察
そもそも創造とは 人類が知らなかったこと、できなかったこと、考えなかったことを、新たに発見し、できなかったことを可能にし、考えることで、生命作用の多くの部分が創造活動であると言える。創造性の意味については 添付の文献を参照。
例えば、数学界では、微積分の発見とか、日々発表される論文の中の定理などは 顕著な創造活動の結果であるが、芸術作品、文学作品、科学における発見、工業における発明、技術など、広範囲に及び人間の知的活動の殆どに及んでいると言えるだろう。しかしながら、最大の創造とは 出産、育児にあるとも言える。
創造とは 世界史を拡大することである と定義したい。 世界史とは 人類の得た、感じ、知り、想像するすべての情報の総体である。人間存在の原理とは、生存に心がけ、知り、求め、何でも究めようということであるから、豊かな創造性とはまさしく、良く生きることに他ならない。人間として良く生きるこということは、生命の輝きとしての 豊かな創造活動にあると言っても良い。
創造活動の蓄積である、もろもろの科学の進歩が 人間を解放して、世界を拡大し、人間存在の意義を高めていると考えられる。
この声明の趣旨は、如何にして、創造性を高めるか について、省察することである。特に、大事な創造性の観点から、日本の教育の在りようが 改善されるべきではないか という観点に思いを致すことにある。
1) 創造性は情念、感情の中から生命作用として湧いてくるものであるから、感情や情操が大事ではないだろうか。この観点から、日本の教育が 知識偏重、枠に はめすぎではないだろうか。
2) 学術界では 大学院学生や研究者が日々それぞれの分野で研究活動を行っている。そこには流れや、流派のようなものがあって どんどん先へと研究を進めている。 ここで、
a)確立した研究分野の細分、先と 共に 新しい研究の芽 を育てるように絶えず配慮したい、多様性と自由性を尊重したい。
b)真の独創性には、 ゆとりと時間が 必要であるから、成果主義のような成果を追うような環境は、齷齪したような状況は 良くないのではないだろうか。 大学の法人化後の、成果主義、任期制の導入等で大事な若い研究者が、 じっくりと研究を行なえる環境を壊しているのではないか と危惧している。
c) 重要な発見が、 偶然性、 間違い、新奇な現象、にあることに鑑み、 そのような機会を広く展開し、そのような現象を見逃さない態度に留意したい。
d) 特に日本など、 後進国に見られる 顕著な例が、 良い研究や発見が、評価できず、折角の重要な発見を活かせない状況は、 基本的に現在でも変わらない実情がある。 良い研究とは何かが分からずに、先進国に伺いを立てているのが現実ではないだろうか。 これは哲学の軽薄さ、基礎の欠落から来ているのではないだろうか。 良いものとは何かと 絶えず問うべきである。
e) 特に、創造では 新奇な現象、新しい概念、考え方が 大事であることを強調して置きたい。 それらの基礎は、生物繁茂の原理でもある、多様性にある。
f) 特に、価値の創造、すなわち、価値あるのものとは何かの、新しい考え方、 評価の創造性、すなわち、優れているとは何かの考え方の 創造性を 重視して行きたい。
3) 生命活動の発現としての 創造の基は 幼年期、若い時期における人生観の 構成に関していて、小・中・高などの教育の在りようは 大事ではないだろうか。 その大事な人間形成時に 知識偏重の教育は、良くないのではないだろうか。日本の学校教育は 創造性の観点からも 基本的な問題を抱えていると考える(再生核研究所声明 76:教育における心得 ― 教育原理)。
以 上
添付:
創造性とは―選択理論.jp
www.choicetheory.jp/about/about4.html
創造性とは、既に知っている整理された行動と求めているものが得られないときに、新たなアイデアを生み出すために、脳が情報を再整理している状態のことであり、どんな人にも備わっている能力です。
例えば、いつも乗っている電車がトラブルで止まっている時、私たちは「どうしたら目的地に着くだろう?」「どのルートなら間に合うだろう?」と新しい行動を考えます。こうした脳の働きが創造性です。
創造性の重要性 - 日本創造学会
www.japancreativity.jp/juyou.html
創造の定義
________________________________________
1.創造性研究者たちの「創造の定義」
創造性を考える以上、「創造」とは何かを定義しておく必要がある。私は「日本創造学会」会員の方々に1983年に「創造とは何か」のアンケートを出し、83人の方々から回答を得た。ここに、現在も会員の方々の定義をピックアップすると、次のようになる。
【創造とは何か】*掲載は出典記載の順/所属は2002年度名簿より
●伊賀丈洋
「人間の思考状態には受動(感性)と能動(破壊と創造)があり、創造とは能動状態での思索または行動である」
●伊東俊太郎(麗澤大学)
「創造とは、問題を解決する、素材の新しい組み合わせ、新しい理論への変換を可能にする新たな視点の発見である」
●大鹿 譲(福井工業大学)
「人類が神の意志によって地球上で覇を称えるに至った原因たる活動で、同時に人類の滅亡の原因となる活動」
●恩田 彰(東洋大学)
「異質の情報や物を今までにはない仕方で結合することにより、新しい価値あるものをつくりだす過程である」
●岩渕幸雄(情報知識学会)
「創造とは、戦略的発想の原動力である」
●江川 朗(総合経営研究所)
「創造とは、きわめて異質の発想を実現した社会的成果。発想とは諸情報の変形、加工、組合わせによる異質の意味化」
●江崎通彦(朝日大学大学院)
「今よりすぐあとの世界(未来)に夢を実現する」
●金子達也(日立製作所)
「独創とは尽力経歴なり。わがいま尽力経歴にあらざれば、一法一物も現成することなし。経歴することなし」
●川喜田二郎(㈱川喜田研究所)
「なすに値する切実なものごとを、おのれの主体性と責任において、創意工夫を凝らして達成すること」
●國藤 進(北陸先端科学技術大学院大学)
「ある主体にとって既知のことがらを組合わせ、その主体にとって、ある観点からみて有用な未知のことがらを構築すること」
●小島英徳(智無庵コミュニケーションセンター)
「今のやり方を否定しながら、一歩づつ成果をあげる。そのためには、今のやり方に全生命をぶっつけてゆくこと」
●関 博剛((有)若草ホーム産業)
「意識と下意識を含めての全情報を、目的に志向して、機能的に統合運用し、一つの文化を生み出す全人格的所作」
●高橋 浩(現代能力開発研究所)
「質的な変革としてとらえたい。ものなら機能・構造の変革、社会ならしくみやしきたり・やり方の変革など」
●戸田忠良(戸田技術士事務所)
「従来自他の記憶にはなかったシステム、形、物、方法、機構などを新たに考案し表現すること」
●西 勝(明治学院大学)
「平凡に新しいことがら、ものが生まれること。消滅をも含め、全生物に喜ばれ、できれば定義不要にまで自然と」
●比嘉佑典(東洋大学)
「創造とは、個人の中に、事物の中にある古い結びつきを解体し、新しい結びつきにつくりかえることである」
●久田 成
「創造とは、脳梁経由の人間の大脳の左右両半球の情報交換を基幹とした新しい文化を生み出す行為のことである」
●檜山哲男
「創造とは、自己を忘ずる熱中の坩堝の中で、左脳と右脳が調和した瞬間に生まれる閃きである」
●星野 匡(㈱プランネット)
「何らかの価値を有する、新しいアイデア・思想、その表現、あるいは表現としての事物を、意図的に生み出すこと」
●村上幸雄(栄養化学研究所)
「最高の創造は自己創造=自己表現である。これが栄養で大きく影響される可能性についての科学的研究が必要」
●師岡孝次(東海大学)
「現実を理想に近づける活動をいう。対象は"もの"でもシステムでもよい」
●渡辺俊男(余暇開発センター)
「新しい神経回路を開発することによって、未来性に有益な理論をつくりだすことである」
2.私の創造の定義
これらの方々の定義づけを参考にして、私は「創造」を次のように定義した。「創造とは、人が異質な情報群を組み合わせ統合して問題を解決し、社会あるいは個人レベルで、新しい価値を生むこと」である。この内容と創造性の研究領域を重ねると、以下のようになる。
■創造の定義
定義 領域
人が (創造的人間/発達)
問題を (問題定義/問題意識)
異質な情報群を組み合わせ (情報処理/創造思考)
統合して解決し (解決手順/創造技法)
社会あるいは個人レベルで (創造性教育/天才論)
新しい価値を生むこと (評価法/価値論)
(作成・高橋誠) 参照・「創造力事典」(日科技連出版社)
再生核研究所声明147(2013.12.27) 創造性についての 第二考察
創造性については
再生核研究所声明91(2012.5.20): 創造性についての一考察
で広く触れており、もっともなことが書かれていると考えるが、改めて触れたい観点が湧いたので、言及して置きたい。
まず、創造性の意味、定義などの基本的な考察については、上記声明を参照。いずれにせよ、新しく生み出すこと、新しく考え出すこと、作り出すことなど、が創造性の基本的な意味ではないだろうか。しかしながら、これらの意味さえ正確であるとは言えないだろう。アメリカ数学会誌に 数学の論文について、次のように書いてあったことを肝に銘じて、論文執筆について心がけてきた: 論文は
1) 新しい結果でなければならない、
2) 当たり前ではいけない、- 発展する結果の流れで、小さな段階的な結果は これに含まれる、
3) 正しい結果でなくてはならない、
4) 一定の人の興味を惹くものでなければならない - 先生とお弟子さんだけが興味を持つような結果は良くない、
5) 論文の表現が適切でなければならない。
いずれも大きな、深い問題であるが、新しい結果が、創造性に当たるのではないだろうか、すなわち人類史上で、初めての結果でなければならないは、論文の条件である。知られた結果の拡張、一般化、類似、より精密に調べたような研究が 論文の大部分であると言えるが、 難問を解いた、大事な基本的な定理や概念を得たなどは、高度な創造性と考えられるものもある。
そこで、どうしたら、高度の創造性が得られるか、が 世の大きな関心事ではないだろうか。
創造活動としては、芸術、文学、音楽、科学、数学など殆ど 人間の営みの大部分が創造活動にあたり、生命活動の表現とも考えられ、どうしたら、高度の創造性が得られるかは 分野、個性、文化などにも大きな影響を受けるのではないだろうか。
述べたい中枢から、触れよう。創造性、創造活動とは 人間の精神活動の表現、表れであり、創造性を高めるためには 人間の生命活動を健全に活かすことである、その原理は、好きなように、伸び伸びとできる環境を整えることである。
そこで、創造性を高めるいろいろな視点が 声明91 あるいは、そこに挙げられた文献で、広く論じられている。
ここで、触れたいのは、日本の詰め込み方式、受験勉強の過熱が 折角の才能をだめにし、創造性のみずみずしい才能をころしているのではないかという視点である。
我々の脳が、訓練によってどんどん発達するのは 語学、スポーツ、芸術、計算などでもみられる顕著な例である。至る所に現れる歴然とした事実と言えるのではないだろうか。
そこで、知識偏重、センター試験などにみられるような、解答方式の学習をやり過ぎると、全人的な発達が阻害され、一部の特定の部分の発達した、変な人格や、奇人を大量に教育、育成させ、しいては、創造性豊かな人材ではなく、変な人たちによる 変な社会が構成される危険性があるのではないだろうか。― 実際、人生の意義とは何か、人は何故生きているか、など、基本的な問題を問わないで、ただ受験を目標に、ただ知識を集め、問題解きの訓練にうつつをぬかして、大学に進学したら、大学では、既にどうしら良いか分からないような学生になっている状況が 実際多いと考えられる。さらに、大学でも真面目に教育されるように勉強して、大学院から先にうまく進んでも 何時の 間にか、やっていることの 人生における意義をみい出せず、精神的に放浪するような人生を送るのは 世に多い。人生の基礎がおろそかになっているばかりが、創造性の精神さえ乏しく、貧しくなっているのではないだろうか。社会に出ても ふらふら世相に流されて生きていて、人物たる人物は少なく、政治社会でも そのような変な現象は 広く見られるのではないだろうか。
テレビ普及時には 一億総白痴化が危惧され、共通テスト開始時には、そのようなおかしな制度は 教育の根幹に抵触すると 批判が広範に聞かれ、数年で破綻するとされたが、一度出来た制度は 一時代を成すように続いてきたが、流石に、改める風潮が出てきている(再生核研究所声明20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する;「大学入試センター試験」の廃止を歓迎する(佐藤匠徳(さとう・なるとく)(奈良先端科学技術大学院大学(NAIST)バイオサイエンス研究科教授))。
多くの人が、自由を求め、またいわば、社会の上流階級に属そうとする為に、良い大学を目指して、受験体制を乗り越えていこうとの世相には、自然なものがあり、具体的な対応には大きな問題がある。しかし、全人的な教育、創造性を失わずに 人を活かすための教育と受験制度の在りようについては、絶えず検討して、専門化、受験に特化したような教育に成らないように、大学人、教育界に検討をお願いしたい。― 悪い教育に成らない様な 絶えざる努力を求めたい。
以 上
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