2015年10月25日日曜日

米 CO2排出規制の見直し求め 24州が提訴 10月24日 6時31分

米 CO2排出規制の見直し求め 24州が提訴
10月24日 6時31分

アメリカ政府は火力発電所から排出される二酸化炭素の量を大幅に削減する新たな規制を導入しましたが、石炭産業の盛んな24の州は、石炭火力発電所が大幅なコスト上昇か廃業に追い込まれると反発し、規制の見直しを求める訴えを裁判所に起こしました。
アメリカ政府は23日、全米の火力発電所から排出される二酸化炭素の量を2030年までに2005年の水準から32%削減するとする新たな規制を導入し、各州に対して削減目標を達成するための計画をまとめ実行に移すよう義務づけました。
これに対し、石炭産業が盛んな南部ウェストバージニア州やテキサス州、それにアラバマ州など全米の24の州は「石炭火力発電所は大幅なコスト上昇か廃業に追い込まれ、結果的に電気料金が跳ね上がる」と強く反発し、規制の見直しを求める訴えを連邦の裁判所に起こしました。
これについて、ホワイトハウスのシュルツ副報道官は「規制は科学的なデータに基づき、現実的でバランスがとれたものだ」と反論しました。
オバマ大統領は、今回の規制をアメリカの温暖化対策の中心と位置づけ、来月からパリで開かれる国連の会議、COP21でもこうした取り組みをアピールし、議論をリードしたい考えですが、会議を前に国内から反発を受けた形です。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151024/k10010280941000.html

再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上

再生核研究所声明 129 (2013.8.28): 
美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか

(2013.8.22 零時頃 新しい声明案が湧き、大いに気に成る。良い社会を築く問題点である。)

再生核研究所は 今の世の中 おかしいのではないか として、美しい社会を築くにはどうしたら良いかと考察し、始めに再生核研究所声明1で 次のように述べている:

(最近の世相として、不景気・政界・財界・官界・大学の不振、教育の混迷、さらにニューヨークのテロ事件、アフガン紛争、パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。
一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。)

そこで、上記 閃きにしたがって逆の立場から、考察、補充して置きたい。
まず、大きな権力と影響を与える政治家の立場から、考察しよう。
政治家は地位を得るのに汲々として、公正な行為がとれない本質的な問題を抱えているのが、民主主義の制度ではないだろうか。絶えず、地位が侵される立場であるから、まずは、自己の立場、権力の維持、したがって自分と仲間の視点を重視せざるを得ないのは、深刻な 当然の、本質的な問題である。古くは論功賞、ご恩と奉公はそれらの基礎である。民主主義には選挙過程と政治家の地位保存で膨大な労力を費やし、公正の原則や在るべき政策以前で終わってしまうような状況が有るのではないだろうか。安定した王政や貴族政、世襲制の方が良いという面が多いのではないだろうか。将来の大きな問題として提起しておきたい。次も参照: 再生核研究所声明 33:民主主義と衆愚政治

権力者が、在るべき社会の在りようを無視して、狭い意味での自己の利益を優先させる事である。明治初期には 国家の指導者たちが、相当に公や国家を論じて、義を重んじ 常に公を心にした高い志が 日本国の輝かしい時代を築いた原動力ではなかったかと評価、追想される。
それは政治家ばかりではなく、大学や学会などその他至る所でも 公の地位を利用して、自己の都合の良いように行うのは 世界的に見られる恥ずべき現象である。公の立場と個人的な利益の混同は 常に批判して、何時も人格の高潔さに思いを致すべきである。
政治的な面は、お金と権力に結び付き易いから、政治性に興味を抱く者、政治家などでは、始めから いわゆる野心家がいて、自己の利益追求を考えている者が多い現実に注目して 新しい制度の在りようの検討とともに大いに警戒すべきである(再生核研究所声明 52: 政治家や組織の代表者の選出における留意事項)参照。
公正と正義となれば、それらを守らせるのが、裁判官、検事などの役割で 国家の基本であるから、それらに圧力を掛けたり、また圧力に屈していると見られるようでは 共に卑劣、言語同断 それこそ、昔の武士道では切腹者である。公正な真実の報道を魂とし、社会正義を志すマスコミ関係者も同じように聖職者であり、同じような厳しさが求められるのは 当然である。
日本では、大事な、政治家、司法関係者、マスコミ関係者、多くの権力者たちが上記、公の立場をないがしろにして、自己の利益を図ったり、あるいは圧力に屈しているように見えるのが、当初に述べているおかしな社会にならしめている 元凶ではないだろうか。そこで、再び公正の原則を確認して、公の立場に従って行動できるように、行動させるようにお互いに自戒して行くように心掛けたい。それが帰するところ、美しい社会の実現の第1歩、基礎であると考える。
そこで、モラルの面で、いわゆる社会の上層部、指導者たちが高い学歴を有しているのは 普通であるが、いわゆる中国の科挙制度が おかしな、厳しい試験制度を永く続けたため、その制度の弊害で良き人材が現れず、中国が衰退の道を歩んだとの説もあるが、日本でも知識偏重で 人物たる教育の面が疎かになっているようなことはないか と大いに気に成る。それは 頭ばかりが大きくて 心が貧しいと表現されるだろう。

以 上

追記: 稲村和夫氏 などを 全国紙の論説主幹などに登用できる文化力が日本に有れば、日本は どんなに素晴らしい国になるだろう。人材の登用がおかしいのでは? 2013.8.24.10:45

再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)

世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:

平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました. 
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか. 
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか. 
3) それはみんなに受け入れられるか.  
4) それは安定的に実現可能か. 
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる. 
(再生核研究所声明1)。

相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。

以 上

再生核研究所声明245(2015.9.8) 天才動物から学ぶ ― 新しい政治体制、指導者たち

人間はおろか 動物の脳は、脳及び精神の在り様、活動は 未だ医学や科学が立ち入れない程 複雑な存在であるように見える。動物についての不思議な経験から想い起こしたい。
小学生の頃の経験であるが、あまりにも面白かったので 50年を経過しても 昨日のことのように想い出される。 燕が繰り返し、猫の前を飛び、その都度 猫が飛びかかる眺めである。 繰り返し、猫の直前、しかも安全な範囲を飛んでいるのであるから、燕は まるで意図的に猫をからかっていると はっきり感じられ、強い興味を抱いた。次は、インターネットで画像が広く公開されたので 相当の人が見ているのではないだろうか? イルカと猫が繰り返し ほおずりするような極めて愛しい情景である。確かにお互いに情が通じているような様である。 犬が繰り返し、滑り台で滑って遊んでいる情景、楽しい、面白いと感じている様、自画像を書いている象の姿である。上手く筆が動くか、目つきと耳の動きが慎重さとともに愛しい。昨年は 2度目の燕の巣立ちの直前、5羽のひなが蛇に飲み込まれ、発見したときは 立ち去る直前で、蛇は 確かに上手く行きました、ごめんなさい と言って まるで挨拶するような目つきで去っていった蛇。 犬や猫など、賢さは いたるところで報告され、経験されているのではないだろうか。
これらの行動は 特殊な動物の脳に ある種の進化が部分的にあり、高度な精神活動をさせているのではないだろうか。脳の一部の進化、変化である。
このような例は 人間の間にも多々存在するのではないだろうか。 天才数学者の発想や論理など どうしても理解できず、ある特殊な感覚を有しているのではないかと感じられる事は多い。そのようなとき、我々は感じるだろう、我々の精神は ぼんやりしていて、その状況がよく見えないと。理解しようとする者は、まるで薄明かりの中で、先を良く見ようとして必死に精神を集中させ、想い巡らすだろう。 特殊な才能として、有名なモーツアルトなどの音楽家なども想起される。
天才とは言えなくても 多様な分野で 特殊な才能を有する人は世に多い。
この声明における趣旨、述べたいことは、人間を平等と 考えたり、多数の意思を尊重して決定する民主主義の有り様に疑念を抱き、 特殊な才能を有する者の重用、役割を大きくすることである。民主主義と言えば 逆に衆愚政治の危険性がいつでも高いという事実である。 言及しようとしているのは 大きな 重い課題であるので、まずは 方向性と問題点を指摘したい。
その心は、人類の愚かさを全体的に理解して、人生や生命の意味を観、生命の在りよう、意味が理解できるような進化した人間 に大きな役割を、中心的な役割を委ねたいということである。そのような人物として、まずはお釈迦様を回想するだろうが、しかし、大事な観点はそのような人物は 結構、庶民の中にも存在しているということである。
王政や貴族制の方向をとり、優秀な人材による政治活動などを大きくすることである。民主主義の問題は、権力者の選出に手間と労力がかかり しかも適切な人材を選べない状況である。さらに権力者は 自分の権力の維持やいわばいつも人気取りに気を配らざるを得ず、多くは最も大事な政治に時間さえ割り当てられず、本末転倒の有り様になりがちであるという実態である。 歴史上でも権力争いが 政治の中枢のように見える。王政の観点では 江戸幕府等は 身分制の問題や血統主義 閉鎖的な思想が問題であるが、改めれば、民主主義より優れた面は存在するのではないだろうか。 ここにおける最大の問題は、誰が優秀な人材と評価して、それらの決定に如何にして権威付けるかである。 この観点で親政や王政を基礎に 優秀な人材を集めて組織作りを考えるは 検討の余地があるのではないだろうか。
世に、民主主義を超えた、政治や社会の在りようの検討を 呼びかけたい。鍵は優秀な人材の活用による適切な在り様である。
明治政府、江戸幕府など 参考にできるのではないだろうか。 それらにおける問題は陰気な権力闘争を避け、公正の原則に従い、多くの人が納得できるような有り様である。 正当化に都合の良い 大統領制を考えれば、既に問題が起きているように選出過程の複雑さと労力の大きさ、人材の選出の難しさにある。― ドイツやフランス、ポルトガルなどヨーロッパの多くの国では 上手くいっていると言えるだろうか。既に、相当に進化しているように感じられる。流石は先進国と言われるだけのことがあると感じられる。さらに、政治は大きな世界であるから、少数で社会は動かず、大きな官僚機構における人材、公務員たちの賢明さが 結局その国の政治の在り様の質を定めることになるだろう。それゆえに 結局はその国の文化力が 逆に政治を定めるとも言えるだろう。そこで、再び、上記先進国には 敬意の念が湧いて来る。
以 上








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