2016年10月9日日曜日

中学校の制服、安くできないか 学校の実情・取り組みは

中学校の制服、安くできないか 学校の実情・取り組みは

価格の面から取り上げてきた中学校の制服の記事、そして今回のシリーズに対し、教職員や制服メーカー・販売関係の方々からメールや手紙が届いています。きょうと明日に分けて学校関係者の声と、制服を作り、売る人たちの声をたどります。まずは、先生たちの制服に対する見方と、学校の取り組みを紹介します。
 二つの中学校が統合して昨年度に開校した大阪府守口市立樟風中学校から便りが来ました。
 同校は、制服価格を安くしようと統合の前に校長や生徒指導担当の教員、PTA関係者らによる「制服検討委員会」を設置。1年以上かけて会議を重ね、制服が必要かどうかという議論から始めました。
 吉本卓校長は制服のない海外の日本人学校での勤務経験があり、制服は必ずしも必要ではないと考えたそうです。ただ、教員から「私服だと服装指導に時間を取られる」、保護者から「私服を買うより安い」との意見が多く、導入を決めました。
 校区内の4小学校の全保護者にアンケートでデザインなどの意向を尋ね、紺色のブレザータイプを選びました。ベストやセーターは希望者のみの購入とし、女子の制服はパンツも選べるようにしました。
 競争入札では、安価で複数の販売店で購入できることなどを条件に公募し、メーカー5社から提案を受けました。最終的に価格が安く、学校の要望に迅速に対応できると評価した会社の制服に決めました。
 ブレザーはウールとポリエステルの比率を変えた2種類を設け、男子が税込みで1万5920円と1万7920円、女子は1万4820円と1万6820円に設定。吉本校長が勤めた統合前の学校より3千円近く安くなりました。学校は安い方を推奨しています。2種類とも見た目には区別がつかないそうで、生徒間で問題は起きていないそうです。
 シャツについては、意見は割れました。色を指定したシャツも検討した末、生地が良くてフォーマルな形のニットシャツに決めました。ほかに、体操服や卒業アルバムも競争入札にするなどして、それぞれ数千円安くなったそうです。
 話し合いを経て、夏冬の新制服一式の値段(長袖半袖のシャツ2枚ずつ含む)は、推奨ブレザーの場合に女子がスカートで4万6220円、男子が4万5520円になりました。
 制服価格が高いと言われる理由について吉本校長は「学校側の前例主義が大きい」と言います。修学旅行は数年ごとに担当会社を見直しますが、制服は見直す機会が少なく、業者主導になりやすい。「保護者は子どもを学校に預けており、不満があっても本音を言えない場合がある。だからこそ、学校が保護者目線で負担軽減を進めることが大事」と話しています。(石原孝)
■対策、学校だけでは限界
 「学校独自でやれることは限られる」。制服の価格を抑える方策について、東京都足立区の、ある区立中校長はこう言います。「学校は業者の言い値で高く買わされている、と批判があるのは知っている。でも誤解を恐れずに言えば、言い値じゃない買い方ってあるでしょうか」。学校独自のデザインで、買える店は限られるため、「価格を比較できるものがない」と話します。
 不要になった制服をリサイクルし、小売店に「お直し」のサービス向上を交渉するなど、学校でできる努力はしてきたそうです。ただ、原材料費も上がるなか、デザインも素材も変えないまま学校が値下げ交渉をすることは極めて難しいと言います。「小売店だけでなく、卸業者や製造元も含め業界全体でどのくらいコストダウンが可能か、という話になってくる。学校単体で対応できる話ではありません」
 こうしたなか区教育委員会は昨年度から今年度にかけて、制服や体操服など入学時に保護者が買いそろえるものの価格を、36ある区立中から聞き取りました。こうした調査は全国でも珍しいそうです。杉岡淳子・教育政策課長は「学校間の価格差を把握し、保護者の負担を軽くする方法を検討するため」と説明します。
 調査の結果、制服上下、ワイシャツやブラウス、ネクタイなどの合計は、約2万5千円から約4万円と学校によって開きがありました。通学バッグや体操服なども合わせると平均で約6万4千円だったそうです。
 杉岡課長は「各校の制服には地域の方々の意見も聞きながらデザインを決めた経緯や、学校と指定店との関係もある。すぐに価格を見直すことは難しい」とした上で、「地域の方や校長らの意見も聞き、購入先の選択肢を増やして利便性を高めるなど、保護者の負担を減らす具体策を考えていきたい」と話しました。(三島あずさ)
■教職員の声は
 アンケート「中学校の制服、どう思う?」に寄せられた、「教職員」の声です。
●「日本で教師経験があり、現在米国在住の教師。日本の学校における制服の意味を見直すべき。学校と制服で利益を得ている指定業者との関係も見直しが必要。米国の学校で使用されているような、動きやすく洗濯もしやすく、店にこだわらず簡単に手に入るガイドラインに沿った色やスタイルのパンツ、スカート、シャツで十分。成長の激しい時期だからこそ、着やすく入手と買い替えが楽なものに」(海外・50代女性)
●「制服無しでうまく行っている公立中はあるのか? 制服をなくしたら荒れて、復活させたら落ち着いたという話なら聞いたことがあるが……」(東京都・40代女性)
●「私は私立に勤めているが、裕福な家庭でも知り合い間で制服の譲渡は日常的に行われており、物を大切に扱うという観点からも、制服をお下がりすることを美徳として受け止める風潮を作ることも大切ではないかと思う」(東京都・30代女性)
●「現場では、服装を正しく着こなすことの意義を指導しているが、自分たちのやっていることに、疑問がないわけではない」(愛知県・40代男性)
●「中学校として、家庭で洗濯しやすい素材のものに変えたり、袖口のボタンが無いタイプのものに変えたり、スカートのひだの数を減らして安価なものに変えたりしている。夏服の上はポロシャツのみ。ワイシャツやブラウスは採用していない」(北海道・40代女性)
●「何を着るかはその人自身が決めるのが当然です。そのことを否定するに足りるだけの強力な根拠は示されていないように思います。制服は、子どもたちを支配するのに都合がいいだけのものと考えます」(群馬県・50代男性)
●「『制服』を望んでいるのはだれか、保護者であり、家庭であり、地域である。これは厳然とした事実である。『中学生になったら制服がある』というのは、何だかんだ言われようとも『日本という国の風土』なのであり、人々にすりこまれている。このことを私たちはまず認識すべきである。学校批判、教育制度批判をするなと言いたい」(千葉県・50代男性)
●「教師です。この国においては、『常識』的な服装が求められる場面が多く、その場の『常識』に自分の外見を落とし込んでいくことに慣れていかねばならないのが現状です。ひとつの指標として、制服を『正しく』着る指導は、現状にかなっていると言わざるをえません」(兵庫県・30代女性)
●「制服を着たい着せたいという生徒・保護者が多くを占めるから制服なのです。生徒に制服をキチンと着させろという地域社会があるから学校は指導するのです。形式的に学校に裁量があるように見えますが、実質的には学校に選択肢はありません。世論調査の手法で多数派の意向を調べるとハッキリわかるハズです。学校指定の品物をどこで買わせるかは、教育問題ではありません。地域社会を支える中小商店や学校の需要に支えられた制服業者と、中学生を持つ家庭の経済問題のバランスをどう考えるかという行政の問題です」(東京都・50代男性)
■「経済的負担、留意を」文科省通知
 文部科学省は、制服について「各校の規則などに基づくもの」と、基本的に学校や教委に任せています。しかし最近、制服や学用品の価格に保護者らの関心が高まっていることは認識しています。
 9月23日、経済的に困難な家庭の小中学生に支給する、就学援助関連の補助金事務に関する局長通知が出されました。この中に「通学服等の学用品等の購入等に関して、保護者などの経済的負担が過重なものとならないよう留意すること」という一文を初めて入れました。制服などの価格に配慮するよう求める狙いがあったそうです。http://www.asahi.com/articles/ASJB65QF2JB6UPQJ009.html
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
                                            
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 722011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上

再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。

言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。

以 上再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。

以 上

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