2016年10月17日月曜日

「多数決」を信じてはいけない:『「決め方」の経済学』坂井豊貴が語る、選挙・民意・制度設計の科学

「多数決」を信じてはいけない:『「決め方」の経済学』坂井豊貴が語る、選挙・民意・制度設計の科学

小学校のクラスの係決めから、国会議員や大統領選挙に至るまで、ぼくらの生活に何ら疑問もなく溶け込んでいる「多数決」。現在発売中の雑誌『WIRED』日本版Vol.25にて「多数決を使う覚悟」を問うた慶應義塾大学経済学部教授の坂井豊貴が、その多数決の欠点を如実に表す選挙制度の問題点、そして、いまの日本に必要な「オルタナティヴな選挙方式」を語る。
──坂井先生は、今年新刊『「決め方」の経済学』でテーマになさった選挙や投票といった「社会選択」の領域と、経済学の注目の分野といわれている「マーケットデザイン」の領域、それぞれにおいて先端的な研究・執筆活動をされてきています。そもそもこの2つは、坂井先生のなかでどういう位置づけにあるんでしょうか?
わたしたちが暮らす社会では、主に2種類の「大きな計算箱」を使っています。そのひとつが「投票」で、もうひとつが「市場」です。どういうことかというと、「投票」は、投票用紙を入れたら、選挙結果が出てくる計算箱。「市場」は、需要や供給をインプットしたら、資源配分がアウトプットとして出てくる計算箱、ですね。両方ともたくさんの個人の情報を入力して、ひとつの「社会的決定」を出力する「計算箱」です。そう捉えると市場も投票も、同一の数理モデルで扱うことができます。
ぼくはミクロ経済学から派生した学際領域である「メカニズムデザイン」を専門にしています。メカニズムとは「計算箱」のことだと思ってください。その設計をするのがメカニズムデザイン。投票や市場はメカニズムの一種です。もちろんよいメカニズムを設計したいのですが、「よさ」の基準はさまざまです。例えば投票だと人々の意思を上手く反映させること、市場だと効率や収益を高めることが、よさの基準になります。
粗い言い方ですが、メカニズムデザインの知見や方法論で投票制度の設計を考察すると「社会的選択理論」になるし、市場制度の設計を考察すると「マーケットデザイン」になります。ぼく自身は、近年は社会的選択理論に軸足を置いて、研究や活動をしています。
──「社会的選択理論」は学問上、どの分野に分類されるんですか?
社会的選択理論はミクロ経済学を出自としますが、投票を扱うという性質上、政治学とのつながりは深いです。法学や社会学、社会心理学に関わる人のなかにも、この学問に関心をもっている人は多くいます。どの分野かという問いに対しては、社会科学だとお答えしたいです。

社会を数学で解く、「コンドルセ」の遺産

──先生が『多数決を疑う』や今作でテーマとされてきた、適切な選挙制度の問題というのは、歴史的にどのような人に議論されてきたのでしょうか?
選挙制度の設計を初めて数理的に分析したのは、18世紀後半に活躍したフランス海軍の学者ボルダです。彼はいわゆる「票の割れ」を指摘したんです。2000年アメリカ大統領選でブッシュとゴアが競るなか「第三の候補」ネーダーが登場し、ゴアの票を喰い共倒れして、ブッシュが漁夫の利で勝利をおさめた、というような例がありますね。そこで、ボルダは代替案として「1位に3点、2位に2点、3位に1点」と配点する方式「ボルダルール」を考案しました。
ボルダがその研究を科学アカデミーで発表したのが1770年です。ただし当時その研究は、あまり注目されませんでした。その後1785年に、コンドルセという科学アカデミーの中心的な学者が『多数決論』という大著を出版し、そこで投票の数理分析が本格的に始まります。1789年にはフランス革命が勃発しますから、時代の必然だったのかもしれません。なおボルダとコンドルセの共通点は、いまでいう応用数学者だということです。
コンドルセは数学を使って社会制度を分析する「社会数学」を構想していましたが、『多数決論』はその先駆けです。いまでは経済学が典型的なように、社会科学の諸分野で数学が使われるのは当たり前になってきています。しかしコンドルセの時代には、それは斬新なことでした。
──コンドルセの名前を日本で耳にすることはあまりありませんが…。
そうですよね。たぶん他国でもコンドルセはそんなに有名というわけではないと思います。ぼくが知る限り、そもそも『多数決論』は英訳すら出ていません。もちろん和訳もないです。でも自分の交流範囲でいうと、フランス人の社会的選択理論家は、コンドルセに深い敬意を抱き、また誇りに思っている人が多いように感じます。
ルソーが1762年に『社会契約論』で人民主権論を展開し、これで民主主義の理論が整います。コンドルセは、ルソーが構想した人民主権の社会を「実際どうやったらつくれるのか」とかなり本気で考えていました。フランス革命後の動乱期には『社会契約論』が聖典のように扱われ、さまざまな憲法草案が出されるのですが、コンドルセも平等主義の色彩が強い憲法草案を起草しています。詳細は省きますが、そこにはいまの学術水準から見ても非常に高度な「議員の選出方法」なんかも記されています。
──でも、実際には採用されなかった。
そうなんです。そこが歴史の惜しかったところですね。コンドルセも騒乱に巻き込まれ、1794年には欠席裁判で死刑判決が出されて逃亡するものの、捕まって命を落とします。

「選挙で勝った=民意」の嘘を暴く

──ある意味、そのコンドルセの遺志を継ぐようなかたちで、先生は『多数決を疑う』や『「決め方」の経済学』を書かれているかと思うんですが、それはどういう動機からなんでしょう?
一部の政治家による「選挙で勝った=自分の考えが民意」といった傲慢や、「選挙で勝った自分のやり方がいやなら落とせばいい」といった開き直りが気にかかっていました。そうした違和感を覚えつつも何となく納得したり、上手く反論できず黙ってしまう人はぼく以外にもたくさんいるはずです。それに抗する言葉を用意すること、そして未来を変えうるヴィジョンを描くことを『多数決を疑う』では目指しました。思想や学史にも立ち入っており、自分なりにですが、細分化された学問の統合を試みています。
一方『「決め方」の経済学』は、より実用を目指しています。扱うテーマも、マンション自治会での決定や、国会での安保法案の採決など、具体的ですね。世論調査の新しいやり方も提案しています。選挙の前に大手メディアは必ず世論調査を行ないますよね。例えば先の都知事選だと「小池、増田、鳥越のうち誰を支持しますか?」と質問されますが、これは「誰を1位に支持しますか」と聞くようなものです。2位以下がわからない。せっかくだからもっと聞こうよと。例えば「1位は誰? 2位、3位は?」というように、順序を聞いてみる。そのほうが人の真意がわかるし、民意と選挙結果とのズレが明確にわかるようになります。これは重要なことなので、あえて「後書き」に書きました。本編を最後まで読まない人でも後書きは読んでくれるだろうと思ったからです(笑)。
──あはは。実際、後書きを最初に読む人も多いでしょうからね(笑)。やはり「誰を支持するか」と1人だけを聞いても細かなことはわかりませんか。
そうですね。「計算箱」でいうとインプットが少なすぎるんです。「誰を1位に支持するか」だけでなく、「その次に誰を支持するか」までインプットする。インプットが豊かだと、豊かなアウトプットが出せるんです。例えば「決戦投票付き多数決」なら誰が勝つか、順位に配点する「ボルダールール」なら誰が勝つかなんてこともわかる。選挙方式によって当選者が変わりうることも、世論調査でわかってきます。
──ほかにもインプットを増やす聞き方とかはありますか。
以前デンマークで、ある調査会社がこんな聞き方で世論調査をしたことがあります。3人の首相候補への支持を調べたときです。都知事選でいうと「小池と増田だとどちらを支持するか」「増田と鳥越だとどちらを支持するか」「小池と鳥越だとどちらを支持するか」のように、ペアごとの比較で対決させたんですね。この調査がインプットです。アウトプットの結果はどうなったかというと、「小池が増田に勝ち、増田が鳥越に勝ち、鳥越が小池に勝つ」というような“三すくみ”が起こっていました。
──グーがチョキに、チョキがパーに、パーがグーに勝つみたいに、ジャンケンのようですね。
そうなんです。こうなるとどの候補がいちばん人気かなんてことは単純にはいえない。そのことが調査結果としてわかります。
いま自民党一強と言われていますが、自民党対公明党の一騎打ちで世論調査をやって、あなたどっちが好きですか?と訊かれたら、結果がどう出るか案外わからないと思うんです。野党の支持者は、公明党のほうを支持する人が多いのではないかと思います。一方で、公明党と民進党で一騎打ちをしたら、民進党が公明党に勝つかもしれない。で、最後に民進党と自民党とで一騎打ちをしたら、きっと自民党が勝つでしょう。もちろんこれは、やってみないとわからないのですが。いずれにせよ「人々の支持を真に受けている政党はどれだ?」という問いは、見かけよりずっと複雑なものです。この問いは、「いまの議席数の分配はこれで適切なのか」という問いにも直結しています。

日本の選挙を考える

──日本の選挙制度に関していうと、もっとこうした方がいいとかお考えありますか。
少なくとも小選挙区の選挙では「決選投票」をつけるべきだと考えています。本当はボルダルールのように、もっと本格的な代替案のほうがベターです。しかし現行の1回だけの多数決を2回やるのが決選投票だから、有権者も受け入れやすいのではないでしょうか。2回やるぶん、有権者や選挙管理の手間は増えますが、それは民主主義のコストですし、十分に許容可能なコストでしょう。もうちょっと手間暇かけようよと。
──初回の多数決で1位が過半数の票を取れなかったら、2度目の多数決で2位と一騎打ちさせると。
そうです。フランスでは大統領選と下院選でやっています。世界的にも決選投票は珍しくはない。自民党の総裁選や、民進党の代表選などでも決選投票は使われています。いまの自民党の安倍総裁も、旧民主党の岡田代表も、初回の多数決では2位でした。
──現状の選挙において感じるのは、複数人の候補のなかからベストの1人を選ぶっていうのが、どんどん困難になってきてるな、ということです。むしろいまの選挙って減点法で選ぶみたいなことの方が実際の感覚には近いじゃないですか。コイツと比べりゃこっちの方がマシ、といった感じで。でも、その襞というかニュアンスはすくい上げられることなく、結局1票は1票になっちゃう。消極的1票も、積極的な1票も、変わらぬ1票。
ニュアンスを表明させる方法も開発されてはいるんです。バリンスキとララキという研究者が考案した「診断法」といって、各有権者は候補たちに、成績評価のようなことをします。この候補は「まるでダメ」、あの候補は「わりとよい」といったように、投票用紙に成績をつける。それに基づき、各候補への全体的な評価を判定します。バリンスキとララキはメディアと協力して、フランス大統領選でそのやり方で世論調査を実施しています。これでもの凄く色んなことがわかった。例えば決選投票つきの多数決でもあまり上手く選べないことがわかりました。

公職選挙法の「設計ミス」

──そう考えると現行の選挙制度って、とにかくきめが粗いですよね。
単なる1回だけの多数決ですからね。手間暇はいちばんかからないんですよ。そのメリットのためだけに、ほかのメリット、とくに人々の意思を丁寧にすくい上げることを、すべて犠牲にしている。こんなに原初的なやり方が使われているのは、選挙だけではないでしょうか。株式や金融証券なんて、かなり昔からオンラインで複雑な取引が高速でなされています。数年に一度、投票所に足を運んで、投票用紙に1人だけの名前を記入するなんて、21世紀の出来事とは思いがたい。
電子投票の導入を毛嫌いするのも、合理的ではありません。この間の選挙でも、みなさん投票用紙に名前を書きますよね。でも名前の読み取りは、大抵、自動読み取り機で読み取っています。この機械は非常に高価ですがマークシートにすれば、有権者が「1位は誰、2位は誰、3位は誰」と表明するのも簡単ですし、ボルダルールの得点を計算するのも一瞬でできます。もちろんバリンスキとララキの「診断法」だって使える。代替案はたくさんあるので、現行制度をいたずらに有り難がってはいけない。有権者は現行制度に慣れているというより、飼い馴らされているんです。
──いろいろとオルタナティヴな選挙方式が世には存在しているのに、それが採用されず、古色蒼然たる制度がいまもって存続しているのってなぜなんでしょうね。何か明確な理由があるんですか?
主な理由は、2つあります。ひとつは、小学校で当たり前のように多数決を使ったり慣れさせたりして、オルタナティヴを教えない。先生方もそれは詳しくないだろうから、知識の普及に努めるのが大事だと思っています。もうひとつ、政治家は現行制度を変えたがらない。なんせ自分を当選させてくれた制度ですから。特に、与党を構成している議員たちが、変えたがらないのは当然のことです。変えられるとしたら、現行制度で不利な野党が、選挙制度の改革を争点化することに成功したときだと思います。
何にせよ、選挙制度を変えるには、公職選挙法を変える必要があります。そして、国会は唯一の立法機関であると憲法41条で決まっているので、公職選挙法を変えられるのは国会議員だけ。でもそれは、なかなか実現しない。
──たしかに。そりゃそうですよね。しかし、これ、大問題じゃないですか。
おっしゃる通り、大問題です。これは統治機構の「設計ミス」だと考えています。世界中の多くの「民主主義国」で起きている設計ミス。この修正案が必要ですが、公職選挙法という特別な法律をつくる権力をどこに置いて、その権力をどう管理するかという国制の根本に関わる問題だから、憲法マターでしょうね。
とはいえ、ぼくは「制度」の研究者ですが、制度に諦めている部分も多くあります。何でもかんでも制度で解決するのには、やはり無理がある。経済学者はよく「制度を憎んで人を憎まず」と言います。物事がうまくいかないときには、人というより、人にそうさせる制度のほうに問題があるといった意味です。この観点はとても重要です。でもそのうえで「制度を憎んで人も憎む」とぼくは言いたい。権力をどう分散管理するかなんてのは、やはりどうやったって難しくて、よい回答はなかなか見つからない。そうすると権力をもった「人」自体が、ちゃんとやってくれないとどうしようもない。これは主権者たる国民一人ひとりについてもそうです。

投票で決めていいこと、悪いこと

──主権者も権力者のひとりだからということですか。
投票で決めていいこと・いけないことを、きちんと考えることは特に大切です。『「決め方」の経済学』では、安部公房の『闖入者』という短編小説を引用していますが、それはこんな話です。ひとり暮らしの男のアパートの部屋に、侵入者たちがいきなりガーッと家に入ってくる。そして「いまからこの部屋は誰のものかを多数決で決める」と言い出すんです。もちろん侵入者たちの賛成多数になって、男の部屋は無理やり乗っ取られちゃう。
これは、明らかな人権侵害ですね。でも多数決で人権侵害とか、もっとあからさまな暴力をふるうことはできる。例えば2002年に国連安全保障理事会では、イラクへの「無条件かつ無制限の大量破壊兵器の査察の受け入れ」を、15カ国の満場一致で可決しました。決議1414というのですが、これは非常に厳しい要求で、イラクはもちろん守りきれません。翌年の米英によるイラク侵攻は、この決議への違反を主因のひとつにしていました。多数決と暴力との間に違いを見つけるのは案外と難しいのです。
多数決をする前に、それって多数決で決めていいんだっけ、と考えるのは重要です。制度を使う人間には、そこで賢慮が求められる。そういうメッセージを自分の本には含ませたつもりです。
──憲法改正の国民投票が現実味を帯びていますが、どうお考えですか?
憲法改正の国民投票は、まさしく有権者に賢慮が求められる多数決です。国会は多数決で法案の採決をするわけですが、法律が侵してはならない人権の領域は、あらかじめ憲法で保護してあるわけですね。立憲主義の抑制が、制度としてかかっている。でも憲法改正に関する国民投票は、その抑制そのものを対象にできる。だから、仮にものすごく人権否定的な改憲案が出されたとしても、それを阻止する制度の防波堤はない。では防波堤となるものはどこにありうるかというと、これはもう人間の心のなかに求めるしかない。
──なるほど。怖い話です。
怖い話なんです。そしてこの怖さは、人間への怖さですよね。極めて凡庸な結論として、人間には徳や倫理が必要です。制度設計の研究者としては、自分がこんなことを大真面目に言うことに、当惑してしまいます。でも、もっとみんな当惑したほうがいいんじゃないか、投票には怯んだほうがよいのではないか、とも思っています。わたしたちは投票で何かを試すのではなく、投票に試されるのです。http://wired.jp/2016/10/15/toyotaka-sakai/
再生核研究所声明 502011.2.24):  日本における 民主主義の脆さ、危うさ
                     
民主主義は 衆愚政治に近いものであり(声明 33:民主主義と衆愚政治)、日本は既に衆愚政治の状態ではないか との危惧を表明している(声明 49:アジアの愚か者、アジアの野蛮性)。しからば、どうして、このような状態に至ったかを考察して、日本国の弱点を克服して、少しでも歴史を進化させるように努力したい。
はじめに、民主主義は 日本の国民性に合っておらず、本質的な問題を抱えていると言えるのではないだろうか。 先ず、大多数を占める一般庶民を見ると、

1)政治に興味が無い、関心が無い、政治に嫌気がさしている、政争を好まない、政治論争も嫌いである、あるいは政治に絶望している。
2)政治を語ると 変な偏った思想の持ち主であるかのように感じられる風土、文化、和の精神で、表に出さず、内緒に政治に関与したい。 みんなで連なっていたい文化背景を有しているように考えられる。
3)日本のあるべき形や、組織のあるべき姿など 真剣に考える余裕も無く、認識が、理解が薄いので、多分に感じやムード、評判などで、判断内容の質は 相当に悪く、あれも霞と民主主義 のレべル を越えているようには見えない。
4)公の選挙でも、地縁、など まるで、ある勢力の争いのような雰囲気で、政策や政治理念、政策以外で、選挙に参加するのは よく見られる情景である。多くの場合、社会を良くするには、国を良くするには の観点より、勢力争いに費やしている方が主になっている。
5)本質的な問題としては、日本では、個、個人が確立しておらず、ふらふら仲間のムードで動いている、生きている、意思表示しているような背景がある。
近年に見られる背景は、
1)真面目に社会や、国の在りようについて考える、時間的な、精神的な余裕が無い、国防や税の問題、経済、福祉など、難しすぎて、真面目に検討できない
2)政治社会は あまりにも大きな世界のために、個人の空しさを感じて、絶望的になってしまう。 諦めてしまう
3)醜い政争、あるいは公約違反などを見て、うんざりして、諦めてしまう、信じられる政党も、政治家も、人物もいない
などの理由で、政治に無関心な層が増加していると考えられる。
それらのために 投票しても、質が低く、変な投票結果すら、出していると考えられる。これこそ、衆愚政治に陥っている ということの、その背景ではないだろうか。
多くの人が政治に関心を持ち、日ごろ議論などして 高い見識を維持することは 不可能である。 そこで、言論界やマスコミなどが 建設的な意見や、あるべき姿について見識ある見解を表明して、多くの国民がそれらを参考にして、選択するというのが、民主主義のあるべき実体である、 実相であると考える。 そこで、マスコミや言論界がしっかりしていれば、民主主義は 国民が最終的な、総合的な判断をするという意味で、うまく機能すると、民主主義制度を高く評価できる。ところが、日本で重大な問題が起きていると危惧している。日本の言論界、マスコミが誠に低級で、偏っているという、判断である。そのために、国民は混乱させられ、政局は混乱し、全体として衆愚政治に陥っているという、判断である。
マスコミが 不偏不党、法と社会正義を守り、客観的な報道を行なうのは、当然であると考えられてきたが、公然と偏向報道を行い、法や道理を自ら破ぶっているように見える。 国家の在り様についての見識も、低級であると判断される。具体例を挙げると、検察が徹底的に調べて、不起訴処分を決定している者を、あたかも有罪判決を受けた者のように、大騒ぎさせて、日本の指導的な政治家を 政治的に抹殺しようとしている事実は 顕著ではないだろうか。推定無罪の原則など、法治国家の常識ではないだろうか。ようやく実現した政権交代を散々攻撃して、政権交代を空中分解させている。 健全にマスコミが機能していれば、このように混乱した状況は 起きなかったものと考えられ、誠に残念である。更に、国家の在るべき姿に対しても アジアに緊張を起こし、軍拡を煽り、アジアの愚か者を 扇動する浅ましさが目立つ。
更に信じられない事件は、検察の政治介入である。これには繰り返し述べてきたところであるが、公然と与党幹事長や首相になろうという人に 政治的な弾圧を加えていると理解されるということである。 これは、民主主義に対する官憲による政治介入に繋がるので、極めて重要な問題を含んでいる。 関係声明を参照して頂きたい:

再生核研究所声明 23: 秘書の逮捕、起訴事件における検察庁の対応と公正の原則
再生核研究所声明 30:  検察庁の暴走と民主主義の危機 - 広い視点
再生核研究所声明 31: 法の精神と - 罪と罰
再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判

マスコミも検察も終戦に当たって、大きな反省をした筈であるが、何を学習したのだろうか。 国民のレベルも戦前以下であり、日本国の民主主義に危うさ、危惧の念を抱いている。 それらは、平和の問題に直結している、日本国の大事であると考える。
                                    以 上

欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 


小沢氏「既存メディア」不信? フリー記者らに積極露出

小沢氏だけでなく、多くの人が、日本のマスコミが、法を尊重せず、公正でもなく、不偏不党でもないとは感じておられると思います。
政治に関心のない・真面目な研究者が、日本のマスコミは外国誌のようだ、小沢氏をたたいている、おかしいと言っていたのは、日本の常識を言っていると思います。首相になろうという人に疑いをかけて、さんざん騒ぎ、政治家失脚のように追い詰めて、結局不起訴を決めた、検察の重大な過失、その事実だけで、検察の責任は、民主主義への本質的な挑戦ではないでしょうか。 
健全なマスコミならば、そのような経過を許さず、また検察の責任を追及するのが正義と法を守り、民主主義を守るマスコミの使命ではないでしょうか。 マスコミ・検察・政治家が団結して、小沢氏をいじめているように見えますね。 おかしな日本。 法も道理も義もないのかと怒りを覚えます。

何故マスコミは乗っ取られたのか?

何時の世にも宣伝は大事であり、権力者ばかりではなく、多くの人が、マスコミを利用しようとするのは、普遍的な事実ではないでしょうか。
そこで、そのような圧力に対して、社会正義や世界のための大きな視点を失って、圧力で動いていれば、それはマスコミの役割を放棄し、信頼を失い結局衰退するのではないでしょうか。 
いつでも信頼の上に成り立つものは世に多いですね。
マスコミは、公器なので、社会正義や不偏不党などの条件が有ると考えますが、アメリカ流の考えによれば、いまや電波や情報は広く拡散できますので、新聞社は、勝手に商業紙の様に自由に書いても良いという考え方があるようです。 ですから、新聞内容を丸呑みしないで、いろいろな情報と比較したりして 批判的・理解する態度が必要ではないでしょうか。
日本の新聞など、外国の圧力で書いているようなところが多く、商業紙のようで、論説記事なども批判的に見る態度が大事ではないでしょうか。 実際、日本のマスコミには、日本を衆愚政治に導いていて、法や道理を無視しているようなところがありますね。 小沢氏の問題などに顕著に現れていると思います。 検察が小沢氏の問題について、不起訴処分を決定したという、重い事実など無視して、政治と金などのキャンペーンを繰り返していますね。 検察の政治介入の巨悪を追及すべきところ、検察とマスコミの癒着では、マスコミの腐敗は深刻ではないでしょうか
平成暗黒時代の演出者として、やがて世界史の厳しい批判を受けるのではないでしょうか。

再生核研究所声明41(2010/06/10):世界史、大義、評価、神、最後の審判

日本のマスコミは、どの部分を改善したら、素晴らしくなるでしょうか

日本のマスコミについて、果たして自分たちの良心と社会正義観から、政治問題や防衛問題を 真面目に考えているようには見えず、外圧によって、偏向報道をやっているように思われ、報道の信頼が揺らいでいるのは根本的な問題ではないでしょうか。 
編集者の責任は、重大ではないでしょうか。
政治以外の文化面その他の多くの記事が素晴らしくても、大事な政治で偏向・社会正義について信頼を失えば、新聞全体の評価は、著しく下がるのは当然ですから、関係者が内部から、絶えず、社会正義を追求すべきでは。 特にいろいろな意見や反対意見を幅広く取り上げ、いろいろな視点から、幅広く読者が判断できるように、情報を提供すべきではないでしょうか。 
良い意見を広く採択でき、紹介するためには、編集者の高い能力と公正な判断能力が求められるのではないでしょうか。


GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義レディーファーストの思想に反するではないか」と反論した。
格好良すぎるぞ。升田幸三!

名人に香車を引いた男升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
天野宗歩


日本の政党は「腐敗している」80%(独NGO調査)
「政治家信用せず」80%、17、18歳に政治家不信の傾向浮き彫り

国の借金1000兆円を突破 6月末時点
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
 (;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん


自民が勝つ
民主が負ける
俺たちが笑う
日本が元気になる

それでおk 

惜しい 途中までは合ってるけど最後が少し間違ってる

自民が勝つ

民主が負ける

お前らが笑う

自民が日本を終わらす

お前らが騙されたと気づく 


五輪決定圧勝劇の裏 北朝鮮が「4票」に協力 - 東スポWeb
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/181725/

再生核研究所声明 33 (2010/04/02):  民主主義と衆愚政治
民主主義( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、問題点を露にし、より良い政治、決定が行われるように注意を喚起したい。
まず、このような方法をとる原理は、重要決定について 関係者がすべて平等に固有なる権利を有するから、その固有の権利の行使として、一般選挙を行い、選出された代表者も同じような考え方から、多数で決定すること、及びそのような過程、方式で多くの意見を基に討論して、みんなで決定する考え方である。この際、少数意見でも適切な意見である可能性があるから、それらを尊重して議論し、最終的には多数決で決定する(少数意見の尊重)というところも 民主主義の重要な点である。現在世界的に考えられている政治権力の決定方式である。それに対して、中国古代で考えられた いわゆる天子様による政治は、絶対権力を有する天子様が一部の人の意見を参考にして、決定していく方式であるが、多くの王政も日本の幕藩体制も大体同じような政治体制と考えられよう。これらの問題点は、権力者のいわば大義名分、すなわち、なぜ、天子や王や将軍が権力を有するのかという理由付けに難しい点がある。また、そのような権力者の決定に本質的な問題がある。しかしながら、そのような大義名分の問題があるものの、良き天子や王の下で、理想的な政治が行われた時代は 世界の各地で見出される。
民主主義の問題点は、まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかることである。 そこで、多くの政治家、代表者は選出されるために膨大な労力を使い、本来の政治や仕事に取り組むためのエネルギーを費やしている。 また、有権者の支持を取り付けるために、構成員のためにならないようなことであっても、約束するような状況が多々起こり得る。 顕著な例として、日本国における膨大な借金と慢性的な財政赤字が挙げられよう。国民の支持を取り付けるために、必要ではあるが、課税を強化できない状況をもたらしている。このようなことを続ければ、国家破産を迎えるのは必然ではないだろうか。民主主義の失敗例に 日本国の場合が記録される可能性を有する ゆゆしき問題である。
民主主義の問題点は、投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が 高いという、事実にある。 また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちである。また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうことなどは、よく有りがちである。しかしながら、選んだのであるから、それは選出者の責任であるという観点は 良く理解できる大義名分である。
みんなで、選出し、みんなで決めたことであるから、如何なる決定でも納得できるは 確かに大事な大義名分であるが、これを誤解すると何でも多数をそろえて、いわば多数の力で、政治その他を推し進めようとなりがちな弊害を生むことになる。多くの会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために   言わば数の結果で悪い決定がなされるのが むしろ多いのが現状であろう。これは原理的にも本質的にそうなる傾向がある。一般に良いものから順に並べれば、多数の決定とは 中間くらいの決定になるのが世の法則だからである。多数による決定とは 決定の便法であり、適切とか、公正とが、正しいという種のものではないことに留意しておく必要がある。( 数学のゼミナールで討論すれば、議論している数学の結果に対する真偽を多数決で決めるのは 何の意味もなく、誰が真実を述べているかによって、自ずから客観的に決定するのとは大きな違いがある。)
さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点も大事である。 沖縄返還に伴う外交問題で、いろいろ密約をしていた状況が露になったが、状況を露にすると国民の反対が出て外交がうまく行かないという、高度な政治判断が行なわれたのは顕著な例である。 憲法改正や、国防の在りようなども同じように難しい問題がある。それらを素人の多くの国民に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるという面も有する。
次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、具体的に運用の在りようについて提案したい:
 1)いわゆる代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票しても貰うのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。( 高校時代の世界史の 尊敬する先生の 授業中に述べられた ひっとした言葉が 今鮮やかに蘇り、ここに成文化したい: 私は、よくよく考えて 1票を投じているのに、よく考えないで投票する人と 同じ1票かと思うと 考えてしまう という嘆きの言葉です。)。
2)代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3)代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4)代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5)特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 次の報道の5原則にいつも留意すること:
 (2010年01月31日)                                              
原則1「推定無罪の原則」
…….(最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと)
原則2「公正な報道」
…… (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること))
原則3「人権を配慮した報道」
…….(他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)
原則4「真実の報道」
……(自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)
原則5「客観報道」
…… (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること)
                                         

                                                          以 上

注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。

欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 

GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!
名人に香車を引いた男升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
升田 幸三 (著) 

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