数学者の岡潔先生は、数学理解の道筋は、簡単で解かることから始めて、1つひとつ確実に段階を登ってゆく性質をもった勉強であるということ、それぞれの階数は段差はたいしたことはないが、1つでも踏みはずすと先には絶対に正しく進めないし、ふっ飛ばして登ってゆくこともできないこと、このことを肝に命じて教育したり研究しなければならない、と述べている(497号に関連)。
県内の小学生が県庁見学にみえることがあり、その際に何をいま習っていて、どんなことが難しいのか聞いてみることがある。そうすると、分数がむずかしいという答えが何度か返ってきたように思った。全国の学力テストの結果をみても、分数の考え方に関連した問題が正答率を下げていることも、あわせて情報として聞いている。
分数は小数よりも直感的に意味や大小関係が分かりにくい。通分や分数どおしの掛算あたりまでならまだいいが、割り算になって来ると、具体に頭に浮べる観念の方があいまい化する。結局、割り算は分母と分子を逆にして掛算すれば答えが合うのだと一種の経験論として教え、割り切ってこれで先の単元に行くのが子供たちの体験であろう。要するに計算問題のドリルの一種にすぎないという受けとめになる。
自分の小学生のときの変な想い出の一つに、小学5年生のときの分数のテストのことがある。当り前のごとくノートには横に罫線が等間隔に印刷されている。分母・分子の間の横線をいちいち書くのは無駄なことだと生意気に思って、分数のこの線をすべて省略して、罫線の上下に数字を書いて×や÷だけを付けて答案を出したのである。先生から、こんなものは分数ではない、手を抜くとはとんでもない、と大きな目玉つまり零のマルを頂戴したのである。
かのごとく子供にとっては、分数の加減乗除の意味などは気にもかけないで学習していくので、最近の「みずから考える」式の学力テストに直面すれば、たちまち子供たちは分数の観念が背後にあるひねった問題は落し穴にはまって、出題者の期待どおり間違うことになると思うのである。
たとえば4/9÷2/3 の計算方法は、学校教育ではこれを理解させる手順は様々にあるのだろうが、結局は4/9×3/2=2/3と逆数の掛算で解消する方法を教えられる。昔のことは憶えてはいないが、そう計算しているから子供の頃にそのように教えられたのだと思う。
では、この同じ問題を4/9÷2/3=(4÷2)/(9÷3)=2/3というように、分子と分母をそれぞれ割っていかにも子供がしでかす失敗の典型のように、割り算のまま幼稚に実行して、同じ答えを出したらどうすべきか。こちらの方が割り算のままだから、数学的にいわゆるエレガントであり統一感があってわかりやすい。ではこうしてもよいということを、アルキメデスの風呂と王冠のごとく、どうやってハッキリ子供に悟らせることができるであろうか。
4/9×2/3=(4×2)/(9×3)=8/27だから、割り算の方だって同じように割ればいいことだよと、何故教えられないのか、突っこんで表現するならば、何故そうなるのかと教えられないのか、という疑問なのである。
分数の割算は、比率どうしの比率はいくつか?ということであり一種の抽象の世界に入る。つまり掛算においては×2/3は被乗数(4/9)を2倍して、さらに1/3にするのだからわかる。割り算の方は(÷2/3)について、被除数(4/9)を半分(÷2)にして、さらに3倍(÷1/3)にするだけだから分子と分母どおしをそのまま割ればよいのだ、ではたして子供の腑に落ちるや否や?
さらに4/9の中に2/3がいくつあるか、ということだから2/3を1としたとき4/9がどんな大きさになるかと同じことであり、4/9÷2/3=(4÷2)/(9÷3)÷(2÷2)/(3÷3) ここまでは比率が変らないので等しいまま、そして(4÷2)/(9÷3)÷1/1=2/3÷1で2/3 になる、ではまたして腑に落ちるや否や?
なお一般にすぐに割れない場合、たとえば2/3÷4/9=(2/4)/(3/9)=(1/2)/(1/3)=1/2÷1/3ここで1/2を3倍することだから (答)で同じ、でわかるかどうか。http://www.nishikawa-issei.com/essay1097
県内の小学生が県庁見学にみえることがあり、その際に何をいま習っていて、どんなことが難しいのか聞いてみることがある。そうすると、分数がむずかしいという答えが何度か返ってきたように思った。全国の学力テストの結果をみても、分数の考え方に関連した問題が正答率を下げていることも、あわせて情報として聞いている。
分数は小数よりも直感的に意味や大小関係が分かりにくい。通分や分数どおしの掛算あたりまでならまだいいが、割り算になって来ると、具体に頭に浮べる観念の方があいまい化する。結局、割り算は分母と分子を逆にして掛算すれば答えが合うのだと一種の経験論として教え、割り切ってこれで先の単元に行くのが子供たちの体験であろう。要するに計算問題のドリルの一種にすぎないという受けとめになる。
自分の小学生のときの変な想い出の一つに、小学5年生のときの分数のテストのことがある。当り前のごとくノートには横に罫線が等間隔に印刷されている。分母・分子の間の横線をいちいち書くのは無駄なことだと生意気に思って、分数のこの線をすべて省略して、罫線の上下に数字を書いて×や÷だけを付けて答案を出したのである。先生から、こんなものは分数ではない、手を抜くとはとんでもない、と大きな目玉つまり零のマルを頂戴したのである。
かのごとく子供にとっては、分数の加減乗除の意味などは気にもかけないで学習していくので、最近の「みずから考える」式の学力テストに直面すれば、たちまち子供たちは分数の観念が背後にあるひねった問題は落し穴にはまって、出題者の期待どおり間違うことになると思うのである。
たとえば4/9÷2/3 の計算方法は、学校教育ではこれを理解させる手順は様々にあるのだろうが、結局は4/9×3/2=2/3と逆数の掛算で解消する方法を教えられる。昔のことは憶えてはいないが、そう計算しているから子供の頃にそのように教えられたのだと思う。
では、この同じ問題を4/9÷2/3=(4÷2)/(9÷3)=2/3というように、分子と分母をそれぞれ割っていかにも子供がしでかす失敗の典型のように、割り算のまま幼稚に実行して、同じ答えを出したらどうすべきか。こちらの方が割り算のままだから、数学的にいわゆるエレガントであり統一感があってわかりやすい。ではこうしてもよいということを、アルキメデスの風呂と王冠のごとく、どうやってハッキリ子供に悟らせることができるであろうか。
4/9×2/3=(4×2)/(9×3)=8/27だから、割り算の方だって同じように割ればいいことだよと、何故教えられないのか、突っこんで表現するならば、何故そうなるのかと教えられないのか、という疑問なのである。
分数の割算は、比率どうしの比率はいくつか?ということであり一種の抽象の世界に入る。つまり掛算においては×2/3は被乗数(4/9)を2倍して、さらに1/3にするのだからわかる。割り算の方は(÷2/3)について、被除数(4/9)を半分(÷2)にして、さらに3倍(÷1/3)にするだけだから分子と分母どおしをそのまま割ればよいのだ、ではたして子供の腑に落ちるや否や?
さらに4/9の中に2/3がいくつあるか、ということだから2/3を1としたとき4/9がどんな大きさになるかと同じことであり、4/9÷2/3=(4÷2)/(9÷3)÷(2÷2)/(3÷3) ここまでは比率が変らないので等しいまま、そして(4÷2)/(9÷3)÷1/1=2/3÷1で2/3 になる、ではまたして腑に落ちるや否や?
なお一般にすぐに割れない場合、たとえば2/3÷4/9=(2/4)/(3/9)=(1/2)/(1/3)=1/2÷1/3ここで1/2を3倍することだから (答)で同じ、でわかるかどうか。http://www.nishikawa-issei.com/essay1097
奈良女子大、岡潔賞を創設 「異才の数学者」 |
0/0、1/0は幾つでしょうか
読んでためになりました:
再生核研究所声明325(2016.10.14) ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における初歩的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の初歩的な部分の期待される変更は かつて無かった事である。ユークリッドの考えた空間と解析幾何学などで述べられる我々の空間は実は違っていた。いわゆる非ユークリッド空間とも違う空間が現れた。不思議な飛び、ワープ現象が起きている世界である。ゼロと無限の不思議な関係を述べている。これが我々の空間であると考えられる。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、ゼロ除算の教育、研究は日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の協力、参加をお願いしたい。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。数学はより美しく、完全であった。さらに、数学の奥深い世界を示している。ゼロ除算を含む体の構造、山田体が確立している。その考えは、殆ど当たり前の従来の演算の修正であるが、分数における考え方に新規で重要、面白い、概念がある。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童・生徒たちにも歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。応用する。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直交座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。三角関数や初等関数でも考え方を修正、補充する。直線とは、そもそも、従来の直線に原点を加えたもので、平行線の公理は実は成り立たず、我々の世界は、ユークリッド空間でも、いわゆる非ユークリッド幾何学でもない、新しい空間である。原点は、あらゆる直線の中心になっている。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の発展の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し ― ゼロ除算算法、広範な応用を展開する。最も顕著な例は、tan 90度 の値がゼロであることで、いろいろ幾何学的な説明は、我々の空間の認識を変えるのに教育的で楽しい題材である。特に微分係数が正や負の無限大に収束(発散)する時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。新しい、関数の素性が見えてくる。
複素解析学において 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点自身では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学的な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円に関する鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考え方の修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上における大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。これはアリストテレスの世界の連続性の概念を変えるもので強力な不連続性を示している。 ― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響があり、さらに哲学、宗教、文化への大きな影響がある。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、数学者ばかりではなく、人類の名誉にも関わることである。実際、ゼロ除算の歴史は 止むことのない闘争の歴史とともに人類の恥ずべき人類の愚かさの象徴となるだろう。世間ではゼロ除算について不適切な情報が溢れていて 今尚奇怪で抽象的な議論によって混乱していると言える。― 美しい世界が拓けているのに、誰がそれを閉ざそうと、隠したいと、無視したいと考えられるだろうか。我々は間違いを含む、不適切な数学を教えていると言える: ― 再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判 ―。
地動説のように真実は、実体は既に明らかである。 ― 研究と研究成果の活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。 研究課題は基礎的で関与する分野は広い、いろいろな方の研究・教育活動への参加を求めたい。素人でも数学の研究に参加できる新しい初歩的な数学を沢山含んでいる。ゼロ除算は発展中の世界史上の事件、問題であると言える。
以 上
追記:
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf DOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
*156 Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and
Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China.
(Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177) Sep. 2016 305 pp. (Springer)
Paper:Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Dear Prof. Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
With reference to above, The Editor-in-Chief IJMC (Prof. Haydar Akca) accepted the your paper after getting positive and supporting respond from the reviewer.
Now, we inform you that your paper is accepted for next issue of International Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue 1, 2017),
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
再生核研究所声明327(2016.10.18) 数学教育についての提案
次で、数学教育の重要性、効用性について触れている:
再生核研究所声明313(2016.08.01) 良い数学教育の推進を
― 数学を通して、人類が交流でき、世には道理、秩序が 存在すると理解できるだろう。分かり易いスポーツを通して、ドラマを見て、芸術を通して理解するは 世に多いが、数学の効用をここでは強調したい。道理、秩序に対する認識には 数学の効用は大きく、上記 公正の原則の理解にも 大きく寄与するのではないだろうか。数学教育の充実を国際的な視点で提案したい。その留意点を纏めて置きたい:
1) 世には共通の論理があることを理解し、論理的な思考を学習する。
2) 数学の論理的な面には、美しさとuniverseの、世の秩序を述べていることを学ぶ。
3) 非ユークリッド幾何学の出現過程を良く学び、真理を追求する精神と感情と論理の関係を学ぶ。批判精神、理性、客観性について学ぶ。予断と偏見、思い込み、囚われやすい人間の精神を掘り下げる。
ここで、数学教育の充実とは、いわゆる数学の学力、問題解決に重点をおいた従来の学習ではなく、上記のような数学教育を通して身に付く数学の精神に重点をおいた教育である。他方数学の学力を付けることに偏りすぎたり、学力を競争させたりして 世に多くの数学嫌いな人たちを育てていることを大いに反省したい。数学の美しさ、楽しさを教えることが第一であると心がけなければならない。
数学愛好者の増大は かつて和算が広く民衆に普及していたように、環境にも優しく、人間の修行にも、精神衛生上も、また創造性を養い、考える力を育成するにも大いに貢献するのではないだろうか。囲碁や将棋、歌会、俳句会など良い趣味集団を構成しているが、数学愛好者クラブなど大いに進められるべきではないだろうか。新聞やテレビ、マスコミ、週刊誌などでもどんどん話題を取り上げ、また奨励されるべきではないだろうか。社会の浄化と低俗化防止にも貢献するのではないだろうか。―
と述べた。古くはプラトン学派の門に、幾何学知らざる者この門をくぐるべからず、ナポレオンが軍隊を強くするには数学の教育が大事であると述べていることや、現中国政府の数学重視の姿勢も注目される。
ここでは、明確な提案が閃いたので纏めて置きたい。まず現状の分析と問題であるが、数学は選別、能力を評価する重要な科目になっていて、受験勉強の強い枠に縛られてカリキュラムは相当に厳格に範囲が定められている。そのため限られた範囲での特訓の要素が強く、現実には理想的な教育の有り様からの乖離が甚だしい状態と言える。標語的には、ゆっくり面白いところを追求しようとすれば、そんなことでは、時間内に解答できない、そのようなものは型として、このように対応すれば良いと、薄っぺらな教育内容になり、多くの場合才能ある学生の みずみずしい知的好奇心 を失なわせ、薄っぺらな学習で数学そのものを嫌う学生を多く育てている現実があると考えられる。これは創造性や好奇心を育てる教育と いわゆる学力をつけるための勉強の乖離の問題である。さらに顕著な事実として、高校までの数学と大学での数学の大きな乖離は 相当に広く認められる現象ではないだろうか。多くの高校生は、大学に入って、数学とはそんなに広く、深く、雄大なものであるかと知って驚くのではないだろうか? また、教育現場の感じも相当に違う感じを受けるだろう。
― このような乖離は、研究成果と学部教育の内容についても言えることに注意しておきたい ―。
背に腹は変えられない、受験勉強は無視できない現実であるから、この問題を改善する具体的な提案として、例えば、週1時間とか、月1時間、カリキュラムにとらわれない数学の時間を用意して、カリキュラムに関係する素材や、新しい話題、面白い歴史的な話題から題材をとり、本来数学の教育に求められるような方向での教育を行うようにする。このような時間は、先生の新鮮な研究、研修にも繋がる面があって 先生の柔軟な精神の涵養にも良いのではないだろうか。さらに視野を広げるためにも、いろいろな講演会の企画なども良いのではないだろうか? 提案したい。数理科学の文化の裾野を広げる努力をしたい。近年は教育・研究環境の厳しさと専門の深さ、困難さで、専門的に深くなりすぎて、数理科学など幅の広さや基礎への関わりが薄くなっているように感じられる。その様な事情を反映させて、教育が疎かになる傾向にもなっているのではないかと危惧される。成果が数字に表されるような貧しい教育である。
数学の教育については、下記も参照:
再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学
再生核研究所声明283 (2016.2.8) 受験勉強が過熱化した場合の危惧について
再生核研究所声明260 (2015.12.07) 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
再生核研究所声明 187 (2014.12.8)工科系における数学教育について
以 上
再生核研究所声明316(2016.08.19) ゼロ除算における誤解
(2016年8月16日夜,風呂で、ゼロ除算の理解の遅れについて 理由を纏める考えが独りでに湧いた。)
6歳の道脇愛羽さんたち親娘が3週間くらいで ゼロ除算は自明であるとの理解を示したのに、近い人や指導的な数学者たちが1年や2年を経過してもスッキリ理解できない状況は 世にも稀なる事件であると考えられる。ゼロ除算の理解を進めるために その原因について、掘り下げて纏めて置きたい。
まず、結果を聞いて、とても信じられないと発想する人は極めて多い。割り算の意味を自然に拡張すると1/0=0/0=z/0 となる、関数y=1/xの原点における値がゼロであると結果を表現するのであるが、これらは信じられない、このような結果はダメだと始めから拒否する理由である。
先ずは、ゼロでは割れない、割ったことがない、は全ての人の経験で、ゼロの記録Brahmagupta(598– 668?) 以来の定説である。しかも、ゼロ除算について天才、オイラーの1/0を無限大とする間違いや、不可能性についてはライプニッツ、ハルナックなどの言明があり、厳格な近代数学において確立した定説である。さらに、ゼロ除算についてはアインシュタインが最も深く受け止めていたと言える:(George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} :Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.)。
一様に思われるのは、割り算は掛け算の逆であり、直ぐに不可能性が証明されてしまうことである。ところが、上記道脇親娘は 割り算と掛け算は別であり、割り算は、等分の考えから、掛け算ではなく、引き算の繰り返し、除算で定義されるという、考えで、このような発想から良き理解に達したと言える。
ゼロで割ったためしがないので、ゼロ除算は興味も、関心もないと言明される人も多い。
また、割り算の(分数の)拡張として得られた。この意味は結構難しく、何と、1/0=0/0=z/0 の正確な意味は分からないというのが 真実である。論文ではこの辺の記述は大事なので、注意して書いているが 真面目に論文を読む者は多いとは言えないないから、とんでもない誤解をして、矛盾だと言ってきている。1/0=0/0=z/0 らが、普通の分数のように掛け算に結びつけると矛盾は直ぐに得られてしまう。したがって、定義された経緯、意味を正確に理解するのが 大事である。数学では、定義をしっかりさせる事は基本である。― ゼロ除算について、情熱をかけて研究している者で、ゼロ除算の定義をしっかりさせないで混乱している者が多い。
次に関数y=1/xの原点における値がゼロである は 実は定義であるが、それについて、面白い見解は世に多い。アリストテレス(Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)の世界観の強い影響である。ゼロ除算の歴史を詳しく調べている研究者の意見では、ゼロ除算を初めて考えたのはアリストテレスで真空、ゼロの比を考え、それは考えられないとしているという。ゼロ除算の不可能性を述べ、アリストテレスは 真空、ゼロと無限の存在を嫌い、物理的な世界は連続であると考えたという。西欧では アリストテレスの影響は大きく、聖書にも反映し、ゼロ除算ばかりではなく、ゼロ自身も受け入れるのに1000年以上もかかったという、歴史解説書がある。ゼロ除算について、始めから国際的に議論しているが、ゼロ除算について異様な様子の背景にはこのようなところにあると考えられる。関数y=1/xの原点における値が無限に行くと考えるのは自然であるが、それがx=0で突然ゼロであるという、強力な不連続性が、感覚的に受け入れられない状況である。解析学における基本概念は 極限の概念であり、連続性の概念である。ゼロ除算は新規な現象であり、なかなか受け入れられない。
ゼロ除算について初期から交流、意見を交わしてきた20年来の友人との交流から、極めて基本的な誤解がある事が、2年半を越えて判明した。勿論、繰り返して述べてきたことである。ゼロ除算の運用、応用についての注意である。
具体例で注意したい。例えば簡単な関数 y=x/(x -1) において x=1 の値は 形式的にそれを代入して 1/0=0 と考えがちであるが、そのような考えは良くなく、y = 1 + 1/(x -1) からx=1 の値は1であると考える。関数にゼロ除算を適用するときは注意が必要で、ゼロ除算算法に従う必要があるということである。分子がゼロでなくて、分母がゼロである場合でも意味のある広い世界が現れてきた。現在、ゼロ除算算法は広い分野で意味のある算法を提起しているが、詳しい解説はここでは述べないことにしたい。注意だけを指摘して置きたい。
ゼロ除算は アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。と述べ、大きな数学の改革を提案している:
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
以 上
0 件のコメント:
コメントを投稿