2016年10月9日日曜日

「東京一極集中は弊害か否か」の論点整理

「東京一極集中は弊害か否か」の論点整理

先月、私は「「東京一極集中」が経済成長をもたらすという証拠はない?」(2016/9/11)と題したtogetterをつくった。これは昨年、東京都が発表した都民経済計算(2015/12/21)の資料に、東京都の実質経済成長率は全国よりも低い、ということが書かれていることなどをまとめたかなりマニアックなtogetterなのだが、それでもPV数は2万を超えて、それなりの関心を集めたようである。おそらく今から2年前(2014/9/3)の第2次安倍政権が発足した時に掲げられた「地方創生」(ローカル・アベノミクス)政策とその直前に出版されて大ベストセラーとなった増田寛也著『地方消滅 東京一極集中が招く人口急減』(2014/8/22)などに端を発した一連の議論(賛否両論)がその関心の背景にあるのではないかと思われる。だが、そこでの議論は、例えば2014/4/9の読売新聞が朝刊の一面のトップに「東京はブラックホール」と題した記事を掲載したように、日本の「人口減少」問題がいつも主な論点となっているように思われる。しかし、論点はそれだけではない。

まず先に、その読売新聞の記事について簡単に説明しておくと、東京が抱えている問題とは、毎日のように報じられている「待機児童」や「保育所建設断念」などのニュースから読みとれるように、東京は子育てには不向きで、出生率が低すぎで、まじで危険水域レベルにあるということである。よって、その読売新聞の記事から引用すると、「地方から首都圏へ若者が移っても、そこで多くの子供を育めば、日本全体として人口減にはならないはずだが現実は違う」、つまり、東京は人口を再生産しないので、「東京は、なおも全国から若者を吸収して地方を滅ぼす。人材供給源を失った東京もまた衰退していく――人口ブラックホール現象だ」ということになるわけだ。これは確かに重大な問題である。

そして、日本の「人口減少」と双璧をなすように問題視されているのが日本の「高齢化」である。実は「人口減少」よりも「高齢化」のほうがはるかに深刻な問題である。なぜなら、高齢者の介護・医療には膨大なコストがかかるからである。現在、日本の地方は「人口減少」のフェーズにあって、例えば先月末にNHKスペシャル「縮小ニッポンの衝撃」(2016/9/25)が放送されて視聴者の多くが阿鼻叫喚したように、これは確かに大問題なのだが、一方では、地方は「人口減少」よりもはるかに深刻な「高齢化」のフェーズは終えつつある、潜り抜けつつあることを意味している。それに対して東京はこれから深刻な「高齢化」のフェーズを迎える。地方と東京でこのような“時間差”が生じているのは戦後、日本は傾斜生産方式を選択して東京に若い人を全国からたくさん集めたからである。それによって東京は発展した(地方は衰退した)わけだが、この先、ついにその時の“若い人”たちが一斉に高齢者となるフェーズに突入する。いわゆる「2025年問題」である。その時、東京の介護・医療システムは崩壊して、大パニックに陥るとも言われているが、いずれにせよ、東京は戦後の偏った人口移動(東京一極集中)のツケをこれから払うことになるだろう。その一方、地方は、経済学者の松谷明彦氏の『東京劣化――地方以上に劇的な首都の人口問題』(2015/3/14)によれば、2020年頃に「高齢化」のフェーズを終えて経済成長率は上がると予測されている。

以上の「人口減少」と「高齢化」の2つが「東京一極集中」(及び地方創生)の賛否に関する議論の主な論点と思われる。前者の「人口減少」に関しては、東京の出生率を上昇させるための地に足のついた着実な取り組み(東京を子育てがしやすい都市環境に改造する)などが今後も必要なのだろう。後者の「高齢化」に関しては、例えば(前述の大パニックを未然に防ぐために)東京から地方への高齢者の移住を促す政策などがすでに検討されている。「人口減少」と「高齢化」の2つの重大な問題は、現在の「東京一極集中」化の流れは決してサステイナブル(持続可能)ではないことを私たちに教えている。ある時代までは経済成長の原動力となっていたかも知れないが、今後も続くだろうと楽観視するのは容易ではないし、今こそ何らかの価値転換が求められているタイミングなのではないかと私は思っている。これまでの人口移動の流れを強引にでも継続させようとしたら「移民」をたくさん受け入れる以外の選択肢はもはやないだろう。私は「移民」の受け入れには基本的には賛成なのだが(私は政治的にはリベラルなので)、現在のEUの「難民問題」による大混乱ぶりをニュースで見るたびにこれは相当、難易度が高いなと思わざるをえない。よって、都市人口を増加させることで経済成長させることはもう断念して、別の道を選択すべきだろう。そもそも経済成長の原動力はイノベーションである。イノベーションを促すための統計的に最も有意である方法は(産業を集積させることよりも)一人ひとりの質を高めること、すなわち「教育」環境を充実させることであると都市経済学者のエドワード・グレイザーはCity Journalの「Wall Street Isn’t Enough」(2012年春)の記事で論じている。よって、私はこのような「量から質へ」の価値転換がこれからの日本には必要であると考える。(先日、ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典氏が記者会見(2016/10/3)で、現在の日本の研究環境の悪化を憂いていた(研究予算の削減が続いているので)のが記憶に新しいが。)

さて、ここまででずいぶん長文になってしまって大変に申し訳ないのだけど、ここまでは「東京一極集中」の賛否に関するいわゆる“一般的”な話である。というか、とりあえずそのいわゆるな話を簡潔にまとめて整理しておこうという意図から書いたので、まぁ、そういうことであるのだが、ここから先は「東京一極集中」の賛否に関するそれとは少し異なる論点を提示してみようと思う。http://blogos.com/article/193326/

再生核研究所声明 692011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考

(背景: 2011/09/22  宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)

単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。

まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67  脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。

相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。

次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。

上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。

1)絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2)その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3)みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4)特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5)世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6)一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7)くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8)ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。

これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。

なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上
再生核研究所声明260 (2015.12.07) 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害

進路の相談を受けて、数日、大学受験について余計な危惧が心に広がって気になって来たので書き留めて置きたい。良く状況を調べた訳ではないので、軽く考えて頂きたい。
受験勉強が過熱化した場合の弊害のことである。ある相当有名な国立大学では、 東京出身者が入学者全体の85%を超えたということ、同じように日本の代表的な国立大学の入学者が特殊な高校や予備校で特訓を受けた生徒の入学者が大きな割合を占めているという。 また、かつて受験指導で有名な教授に伺ったところによれば、地方で普通の教育を受けた者が有名大学に入るのは至難なことと、組織を含めた自らの持つ情報の優秀さと指導のコツの良さに言及していた事が奇妙に気になる。要するに、今や、特殊な教育を受けた者でないと有名大学に入学できない状況があるように見える。― これは経済力や環境の良さも大きく左右しているものとも言える。 しかし、これに対しては、どんな入試でも優秀な者は良い大学に入れるから何も心配ないとの羨ましい人の言葉もある。
そこで危惧とは、

1)   みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2)   創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、
入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3)   優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4)   特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5)   厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6)   入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7)   危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、

等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。 もちろん、修行の時代が有っても良いだろうが。 教育については下記も参照:

再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明17:教育界の改革を求める
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明 44:梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明 60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明91(2012.5.20):創造性についての一考察
再生核研究所声明102(2012.10.10):成果主義の弊害について
再生核研究所声明147(2013.12.27):創造性についての 第二考察
再生核研究所声明152(2014.3.21):研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
再生核研究所声明173(2014.8.6):愛が無ければ観えない
再生核研究所声明187(2014.12.8):工科系における数学教育について
再生核研究所声明218(2015.3.19):興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254 (2015.11.2):愛が無ければ観えない ― について、 更に

以 上

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