2015年10月12日月曜日

記事 赤木智弘2015年10月10日 19:39店舗には補助犬を受け入れる法的義務がある

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赤木智弘2015年10月10日 19:39店舗には補助犬を受け入れる法的義務がある


阪急百貨店うめだ本店内の喫茶店で、聴覚障害者の女性が聴導犬の同伴を立て続けに断られていたことが明らかになった。
 当日は、その喫茶店と同じフロアで補助犬啓発のイベントが行われており、聴覚障害者の女性はNPO法人「日本補助犬情報センター」の事務局長らと喫茶店に入ろうとしたが拒否され、さらに阪急百貨店の社員が説明しても、喫茶店の従業員は聴導犬の入店を断り続けたという。(*1)

 阪急百貨店を運営するエイチ・ツー・オー リテイリング株式会社の活動報告に、当日行われたイベントの様子が記述されている。(*2)  まさに「一番困っていることは補助犬と一緒だとお店や病院などでは、利用を断られるときがある」という話をイベントでした直後に、そのイベントを行ったすぐ近くの喫茶店で、2店立て続けに入店を断られるという問題が発生したのである。啓発活動を行っている当事者たちの心労、もしくはガッカリ感はいかほどのものだろうか? 

 まずこの件を考える上で、大前提としてハッキリと理解しておくべきことは、飲食店が盲導犬や聴導犬といった補助犬を受け入れることは「法的な義務」であるということである。
 平成14年から施行されている身体障害者補助犬法の第九条には「不特定かつ多数の者が利用する施設を管理する者は、当該施設を身体障害者が利用する場合において身体障害者補助犬を同伴することを拒んではならない」と記されている。(*3)
 しかし、法的に義務があるとしても、それを理解している人は少ないようだ。入店を拒否した飲食店の店員はもちろん、ネット上でも断られた側に対する安易な批判が飛び交っている。
 一番分かりやすい批判が「衛生面を考えて、犬を入店させてはならない」というものである。また、他にも「犬アレルギーの人もいる」「ペットと区別がつかない」といった批判もある。
 しかし衛生面に関して言えば、補助犬の衛生はガイドラインによって厳しく管理されている。(*4)
 親の言うことを聞かず、バタバタ店内を走り回ってホコリをばらまきまくる子供が、飲食店に普通に入店していることを考えれば、利用者の支持がなければおとなしく座っているように訓練されている補助犬の衛生面を心配する必要がないことも理解できるだろう。
 また、アレルギーの人に対しても、訓練された補助犬がわざわざ他人に近寄ることはしない。入店の際にアレルギーの人がいないか確認し、できれば離れた席に案内すればいい。
 ペットとの区別についても、補助犬は普段から「介助犬」や「聴導犬」などと書かれた、それと分かる格好をしているほか、補助犬を連れた人には「認定証(使用者証)」の携帯が義務付けられている。店舗側は認定証の提示を求め、提示がなければ補助犬としての同伴を認めなくても良い。 

 以上のことから、補助犬を店舗に同伴させることの批判点は、知っていれば普通に解決できることばかりである。
 だが、結局これらのことは知られていなければ意味が無い。
 また、今回の問題では、店員の側が補助犬利用者側の説明を拒絶したり、阪急百貨店側の人間が間に入ってすら、拒否の態度を撮り続けたという問題もある。
 もちろん、店側には同伴を認める義務があるが、それを補助犬の利用者が店舗側にやんわりと伝えることは難しく、法律を持ち出せばどうしても強行的な態度に出るしか無くなってしまう。
 だから、補助犬同伴の要求は、どうしても補助犬利用側からの「お願い」の形をとることになるのだが、お願いでは「動物を飲食店の中に入れてはいけない」という、強固な規範意識を取り除くことはできず、事なかれ主義としての「拒絶」に至ってしまい、補助犬利用者が泣き寝入る結果に至る。
 そこには、メニューの取り方やレジの打ち方は教えても、飲食を営む上での法令上の問題をちゃんと教えない、飲食店の教育不足の問題がある。また、たとえ飲食店の中核を担うアルバイトの店員に対する権限譲渡が適切に行われておらず、例外的なことを全く判断することを企業側がさせなくしているという問題もある。
 だが、それらの複雑な問題を踏まえるにしても、まずは最初に、飲食店には補助犬の同伴を認める法的義務があるということ。そして、補助犬を店内に入れるときにパッと思いつくような問題は、ほんの少しの知識や気遣いで解消できることばかりであるということ。この2点を、より多くの人が知ることが重要である。
 今回の問題が報じられたことが教訓となり、補助犬に対する理解が進み、補助犬を利用している人や必要とする人の心労が、少しでも取り除かれる社会に変化していくことを望みたい。 

*1:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151009-00000050-mai-soci<聴導犬>同伴の入店拒否 阪急百貨店梅田内の2飲食店(毎日新聞)
*2:10月3日(土)のチャリティートークイベントのご報告(H2Oサンタホームページ)
*3:身体障害者補助犬法(e-gov)
*4:身体障害者補助犬の衛生確保のための健康管理ガイドライン―ほじょ犬|厚生労働省http://blogos.com/article/138522/

それは言い過ぎでは? みんながみんな設備を整えるなど、非現実であり、実情を考えて、善処するが良いのでは?


再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙

(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)

猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。

何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:

再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること

言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上

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