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赤木智弘2015年04月11日 10:18もはや必要がなくなってしまった運動の末路
ペットボトルのキャップを集めて、世界の子供たちにワクチンを届けることを全面に押し出して活動をしていた、NPO法人「エコキャップ推進協会」が、1年半にわたりワクチン代の寄付をしていなかったことが、寄付先であった団体からの告発により分かった。(*1)
これに対してエコキャップ推進協会は「使い道の方向転換を図った事実を連絡しなかったことが誤解を招いた」と表明している。(*2)寄付は寄付先団体の目的に応じて、寄付者が賛同することにより行なわれるものであり、決して寄付先団体に対する寄付者による信任ではない。当然、使途を偽って寄付を募るというのは論外であり、誤解も6回もないと言う他ない、実に呆れた話である。
そもそも「ペットボトルキャップのリサイクル」という事自体も、極めて効率が悪く、輸送などによって環境に悪影響を与える行為であると批判する人も少なくない。ネット上でも今回の問題に対して、そのような批判が沸き起こっている。ただ、1つだけ理解して欲しいのは、少なくとも僕が子供の頃においては、こうした活動にも意味があったということだ。
かつて、日本にペットボトルの飲み物というものはなく、外出先などで気軽に飲むという今のペットボトル飲料の役割を、缶飲料が果たしていた。 缶飲料は今でこそ、缶から離れないプルタブだが、昔は飲料用の缶でも「プルトップ」という、缶から外れるフタが使われていた。
これが実に厄介な代物で、今のペットボトルであれば、一度外したフタも再びフタとして使えるのだが、プルトップはもとに戻すこともできず、ただ邪魔な存在であった。
僕などは、取ったプルトップを缶の中に入れてから飲んでいたが、わずながらも誤飲の可能性のある危険な方法であった。しかし、そうでもなければ、その場で捨てるか、指に指輪のようにはめておくことしかできない。だから、多くの人はその場で捨てることを選んだ。昔は、道端をちょっと見渡せば、どこにでもプルトップは落ちているものだった。
この町を汚す厄介者であったプルトップの清掃と、金属の売却益による寄付という、一挙両得を目指したのが、今のペットボトルのキャップや、プルタブを集める運動の原型である。
まぁ、当時からその利益性は疑問視されることもあったが、実際に町中の清掃になることや、当時のリサイクルのブームも追い風になって、学校などを中心に、多くの支持を集めていた。
しかし、プルトップはプルタブになり、缶から外れなくなったことにより、プルトップのポイ捨ては無くなった。また、ペットボトルというフタが金属ではなく、フタとして再利用できる容器が登場した。町中の清掃という意味ではこれらの運動の必要性は無くなったが、これらの運動を必要とし続ける人は存在し続けた。それは、支援を受ける人達ではなく、こうした活動に関わっている人達である。この活動に専従している職員はもちろん仕事を失うわけには行かないし、また活動を成り立たせてきたボランティアの人達にとっても、日々の活動を辞めることができなかった。
その結果として、「大したお金にならないペットボトルのキャップを集める」とか「プルタブをわざわざちぎって集める」という、意味の分からない極めていびつな形で、これらの運動は存続してしまったのである。
かつては正しかった運動も、時代の変化を経て、必要のないものになってしまった。しかしそうそう人は自分たちの生活を切り替えることができない。そのひずみが今回はこうした形で噴出してしまった。
リサイクルは「いいこと」には違いないし、寄付も「いいこと」である。
しかし、その実態としては成立していないものを、無理に成立させているフシがあった。この団体と同様の活動をしている団体も多いが、今回の問題を期に、そうした団体が適切に運営されているかのチェックが必要だろう。ましてやそれが個人ではなく「NPO法人」という法人格の団体であれば尚更である。
ちょうど先週に「いいこと」の話(*3)をしたばかりであるが、これもまた、いいことであるがゆえに、社会から寛容な態度で受け入れられてしまい、正しく淘汰されなかった運動の虚しい末路であると言えるだろう。
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