テーマ:社会
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門田隆将2015年04月03日 13:51「高野連」ってナニモノなのか?
敦賀気比高(福井県敦賀市)が北陸勢初の甲子園制覇を果たした。昨夏は準決勝で、優勝した大阪桐蔭に乱打戦の末に敗れ去ったものの、今大会では優勝候補の筆頭と見られていた通りの「堂々の初優勝」だった。
平沼翔太投手は、2年生だった昨夏も、落ち着いた語り口で、試合後、鋭くその日のピッチングについて振り返ってくれるクレバーな投手だった。北信越勢が大躍進したその昨夏の大会で、「来年は全国制覇か」と思わせてくれるナンバー・ワン投手だったと言える。
今大会では、準決勝で「満塁弾2発」、決勝戦では「決勝2ラン」を放った松本哲幣選手の目を見張る打棒と共に、圧倒的な力を見せつけた。また、あわや「北海道勢の初優勝か」と思わせた東海大四高の大澤志意也投手の緩急をつけた絶妙のピッチングも圧巻で、間違いなく“歴史に残る決勝戦”だったと思う。
しかし、北陸勢初の優勝に湧く福井県では、敦賀市内で選手の凱旋パレードも許されないのだそうだ。地元紙の報道によれば、「日本高野連は過度な祝賀行事の自粛を要請しており、選手が帰郷した2日、河瀬一治市長らが会見で市民に理解を求めた」(福井新聞)のだそうだ。
昭和53(1978)年に福井商業(福井市)が準優勝した際にはパレードがあり、約3万5千人が福井駅から福井市体育館までを埋め尽くし、偉業をたたえたという歴史を踏まえた上で、記事は、こう指摘している。
「日本高野連は“出場校の手引”の中で、▽華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける ▽ファンの熱狂が無統制を招き思わぬ事故を誘発する―と、行きすぎた祝賀行事の自粛を学校に要請。日本学生野球憲章も、学生野球を商業的に利用することを禁じている。このため同校も自粛方針を市民に伝えている」
記事は、さらにこうつづいている。「河瀬市長はこの日の定例会見で『祝賀行事をしないことに市民からおしかりもある。経済も原発停止で冷え切っている中、盛り上げたい気持ちもあるが、学生スポーツであり行事やセールの自粛は仕方ないこと』と理解を求めた」
過度な祝賀行事の自粛って、何だろう。「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」って、それは、どういうことだ。一体、どの口が言っているのか、私は不思議でならない。
なぜなら、それは、高校野球が何で成り立っているか、という根本がわかっていないからである。高校野球がこれほどの人気を誇っているのは、「郷土愛」が大きい。
わが郷土、わが県、わが町の学校を必死で応援し、卒業生も一体となって熱をこめて応援するのは、根本に「郷土愛」があるからである。単にその「高校」だけの「栄光」に終わらないところに、戦前の中等学校優勝野球大会から始まって、これほどの「長い歴史」を有する秘密がある。
オリンピックは、その「郷土愛」が「国」のレベルに引き上げられたもので、高校野球はその基(もと)の「郷土愛」というものなのである。
優勝パレードは、甲子園に行くことができなかった応援してくれた人々への感謝をこめた御礼の意味を持つもので、いわばお世話になった人々、応援してくれた人々への「報恩感謝」という「高校野球の根本」に当たるものとも言える。
しかし、それを「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」という「間違った心情」を持つ高野連に、私は呆れる。
40年前の昭和50(1975)年、私は、地元の高知高校が原辰徳を擁する東海大相模を延長の末に倒して初優勝し、高知市での優勝パレードに行った。それは、「高知にこれほどの人がいたのか」というほどの人手だった。「ありがとう! ありがとう!」という感謝の言葉で、通りは埋め尽くされていた。
高校野球は、そこに本質がある。すなわち「ありがとう!」なのである。郷土の名誉のために、母校の名誉のために、そして自分自身のために、死力を尽くして闘う球児たちへの「人々の思い」が、高校野球の長い歴史を支えてきたのである。
その根本を忘れた高野連の「祝賀パレード自粛要請」に、私は溜息しか出てこない。それは、そもそも高野連の歴史そのものが、「高校生を英雄扱いし、スターをつくって人気を煽ってきた」歴史ではなかったのか、ということでもある。
高野連の職員を構成する元新聞社の社員たちが、表面上の「高校生らしさ」を謳い、それでいて、ひたすらヒーローづくりに励んできたのが、高野連の歴史だ。あなた方は、一体なにを勘違いしているのか、と問いたい。
なぜ、それほどまでに高野連は、さまざまな介入をおこなうのか。それは、霞が関の官僚社会と似ている。「介入」、すなわち「規制」は、それをする者にとって、不可欠なものだからだ。
「バスの停留所を移動させるのにも認可が必要だった」という霞が関の有名な「規制」の問題がある。世界に冠たる“官僚統制国家”である日本は、「規制」によって、官僚が自らの権力を維持し、天下り先を確保してきた歴史がある。
そういう規制に対する許可をスムーズに受け入れるためには、官僚の天下りを受け入れることが最も重要だったからだ。やっとこの“官僚統制国家”からの脱却を進める日本で、それと全く同じやり方を続けているのが高野連だ。
数年前まで、日本全国を講演して歩く高野連の理事がいた。さまざまな県が、その理事を「招聘」し、「接待」し、「講演」をしてもらって、最大限に持ち上げて機嫌よく帰ってもらうということを繰り返した。
それは、高野連に「睨まれたくないから」である。「規制」と「介入」というのは、それほど大きい。現に、地元の人が「ありがとう。よく頑張ってくれた!」という声をかけることのできる場は、「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」という実に短絡的で単純な「高野連の論理」によって、福井県では“奪われた”のである。
私は、当ブログで「単純正義」という言葉を使って再々、述べさせてもらっているが、高野連には、新聞メディアが陥っているその本質に目を向けない「単純正義」が漂っているような気がする。言葉を換えれば「偽善」である。
今大会の開会式で、奥島孝康・高野連会長は、かつての「野球害毒論」について触れるスピーチをおこなった。私は、これまで何度もこの野球害毒論について指摘させてもらっているが、これを唱えたのは、ほかならぬ「朝日新聞」である。
明治44(1911)年、朝日新聞は、「野球という遊戯は悪くいえば巾着(きんちゃく)切りの遊戯である」「野球は賤技なり、剛勇の気なし」「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う」……等々、新渡戸稲造や乃木希典まで登場させて、全22回にもわたる野球への大ネガティブ・キャンペーンを張った。
朝日新聞のこの野球攻撃は、新聞の間で激しい論争を巻き起こすが、そのわずか4年後の大正4(1915)年に、朝日新聞は一転、全国中等学校優勝野球大会(現在の「全国高等学校野球選手権大会」)を開催し、当時の村山龍平社長が第1回大会で始球式をおこない、その“変わり身の速さ”にライバル社は唖然とさせられた。
今年は、その年から100年目にあたる「高校野球100周年」である。同時に、この事実は、朝日新聞の今に至る「変節の歴史」を示す貴重な1ページとも言える。
新聞販売のために高校野球を利用し、できるだけ話題になるようにヒーローをつくってマスコミに大々的に報道させ、商業的に利用してきた高野連をはじめとする大人たち――「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」などと、見当違いなことを言っている自分自身の胸に、一度、手を当ててみたらいかがだろうか、と思う。http://blogos.com/article/109337/
高野連の抑制姿勢は 評価して良いのでは?程々が大事では?
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。
以 上
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・
門田隆将2015年04月03日 13:51「高野連」ってナニモノなのか?
敦賀気比高(福井県敦賀市)が北陸勢初の甲子園制覇を果たした。昨夏は準決勝で、優勝した大阪桐蔭に乱打戦の末に敗れ去ったものの、今大会では優勝候補の筆頭と見られていた通りの「堂々の初優勝」だった。
平沼翔太投手は、2年生だった昨夏も、落ち着いた語り口で、試合後、鋭くその日のピッチングについて振り返ってくれるクレバーな投手だった。北信越勢が大躍進したその昨夏の大会で、「来年は全国制覇か」と思わせてくれるナンバー・ワン投手だったと言える。
今大会では、準決勝で「満塁弾2発」、決勝戦では「決勝2ラン」を放った松本哲幣選手の目を見張る打棒と共に、圧倒的な力を見せつけた。また、あわや「北海道勢の初優勝か」と思わせた東海大四高の大澤志意也投手の緩急をつけた絶妙のピッチングも圧巻で、間違いなく“歴史に残る決勝戦”だったと思う。
しかし、北陸勢初の優勝に湧く福井県では、敦賀市内で選手の凱旋パレードも許されないのだそうだ。地元紙の報道によれば、「日本高野連は過度な祝賀行事の自粛を要請しており、選手が帰郷した2日、河瀬一治市長らが会見で市民に理解を求めた」(福井新聞)のだそうだ。
昭和53(1978)年に福井商業(福井市)が準優勝した際にはパレードがあり、約3万5千人が福井駅から福井市体育館までを埋め尽くし、偉業をたたえたという歴史を踏まえた上で、記事は、こう指摘している。
「日本高野連は“出場校の手引”の中で、▽華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける ▽ファンの熱狂が無統制を招き思わぬ事故を誘発する―と、行きすぎた祝賀行事の自粛を学校に要請。日本学生野球憲章も、学生野球を商業的に利用することを禁じている。このため同校も自粛方針を市民に伝えている」
記事は、さらにこうつづいている。「河瀬市長はこの日の定例会見で『祝賀行事をしないことに市民からおしかりもある。経済も原発停止で冷え切っている中、盛り上げたい気持ちもあるが、学生スポーツであり行事やセールの自粛は仕方ないこと』と理解を求めた」
過度な祝賀行事の自粛って、何だろう。「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」って、それは、どういうことだ。一体、どの口が言っているのか、私は不思議でならない。
なぜなら、それは、高校野球が何で成り立っているか、という根本がわかっていないからである。高校野球がこれほどの人気を誇っているのは、「郷土愛」が大きい。
わが郷土、わが県、わが町の学校を必死で応援し、卒業生も一体となって熱をこめて応援するのは、根本に「郷土愛」があるからである。単にその「高校」だけの「栄光」に終わらないところに、戦前の中等学校優勝野球大会から始まって、これほどの「長い歴史」を有する秘密がある。
オリンピックは、その「郷土愛」が「国」のレベルに引き上げられたもので、高校野球はその基(もと)の「郷土愛」というものなのである。
優勝パレードは、甲子園に行くことができなかった応援してくれた人々への感謝をこめた御礼の意味を持つもので、いわばお世話になった人々、応援してくれた人々への「報恩感謝」という「高校野球の根本」に当たるものとも言える。
しかし、それを「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」という「間違った心情」を持つ高野連に、私は呆れる。
40年前の昭和50(1975)年、私は、地元の高知高校が原辰徳を擁する東海大相模を延長の末に倒して初優勝し、高知市での優勝パレードに行った。それは、「高知にこれほどの人がいたのか」というほどの人手だった。「ありがとう! ありがとう!」という感謝の言葉で、通りは埋め尽くされていた。
高校野球は、そこに本質がある。すなわち「ありがとう!」なのである。郷土の名誉のために、母校の名誉のために、そして自分自身のために、死力を尽くして闘う球児たちへの「人々の思い」が、高校野球の長い歴史を支えてきたのである。
その根本を忘れた高野連の「祝賀パレード自粛要請」に、私は溜息しか出てこない。それは、そもそも高野連の歴史そのものが、「高校生を英雄扱いし、スターをつくって人気を煽ってきた」歴史ではなかったのか、ということでもある。
高野連の職員を構成する元新聞社の社員たちが、表面上の「高校生らしさ」を謳い、それでいて、ひたすらヒーローづくりに励んできたのが、高野連の歴史だ。あなた方は、一体なにを勘違いしているのか、と問いたい。
なぜ、それほどまでに高野連は、さまざまな介入をおこなうのか。それは、霞が関の官僚社会と似ている。「介入」、すなわち「規制」は、それをする者にとって、不可欠なものだからだ。
「バスの停留所を移動させるのにも認可が必要だった」という霞が関の有名な「規制」の問題がある。世界に冠たる“官僚統制国家”である日本は、「規制」によって、官僚が自らの権力を維持し、天下り先を確保してきた歴史がある。
そういう規制に対する許可をスムーズに受け入れるためには、官僚の天下りを受け入れることが最も重要だったからだ。やっとこの“官僚統制国家”からの脱却を進める日本で、それと全く同じやり方を続けているのが高野連だ。
数年前まで、日本全国を講演して歩く高野連の理事がいた。さまざまな県が、その理事を「招聘」し、「接待」し、「講演」をしてもらって、最大限に持ち上げて機嫌よく帰ってもらうということを繰り返した。
それは、高野連に「睨まれたくないから」である。「規制」と「介入」というのは、それほど大きい。現に、地元の人が「ありがとう。よく頑張ってくれた!」という声をかけることのできる場は、「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」という実に短絡的で単純な「高野連の論理」によって、福井県では“奪われた”のである。
私は、当ブログで「単純正義」という言葉を使って再々、述べさせてもらっているが、高野連には、新聞メディアが陥っているその本質に目を向けない「単純正義」が漂っているような気がする。言葉を換えれば「偽善」である。
今大会の開会式で、奥島孝康・高野連会長は、かつての「野球害毒論」について触れるスピーチをおこなった。私は、これまで何度もこの野球害毒論について指摘させてもらっているが、これを唱えたのは、ほかならぬ「朝日新聞」である。
明治44(1911)年、朝日新聞は、「野球という遊戯は悪くいえば巾着(きんちゃく)切りの遊戯である」「野球は賤技なり、剛勇の気なし」「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う」……等々、新渡戸稲造や乃木希典まで登場させて、全22回にもわたる野球への大ネガティブ・キャンペーンを張った。
朝日新聞のこの野球攻撃は、新聞の間で激しい論争を巻き起こすが、そのわずか4年後の大正4(1915)年に、朝日新聞は一転、全国中等学校優勝野球大会(現在の「全国高等学校野球選手権大会」)を開催し、当時の村山龍平社長が第1回大会で始球式をおこない、その“変わり身の速さ”にライバル社は唖然とさせられた。
今年は、その年から100年目にあたる「高校野球100周年」である。同時に、この事実は、朝日新聞の今に至る「変節の歴史」を示す貴重な1ページとも言える。
新聞販売のために高校野球を利用し、できるだけ話題になるようにヒーローをつくってマスコミに大々的に報道させ、商業的に利用してきた高野連をはじめとする大人たち――「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」などと、見当違いなことを言っている自分自身の胸に、一度、手を当ててみたらいかがだろうか、と思う。http://blogos.com/article/109337/
高野連の抑制姿勢は 評価して良いのでは?程々が大事では?
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。
以 上
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・
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