2016年5月31日火曜日

記事 PRESIDENT Online2016年05月28日 12:00「姥捨てされた」と親が感じない、介護施設入所のすすめ方

記事
PRESIDENT Online2016年05月28日 12:00「姥捨てされた」と親が感じない、介護施設入所のすすめ方




フリーライター 相沢光一=文

介護施設入所を説得することの難しさ
前回は虐待などの問題がない介護施設の見分け方について書きましたが、そうした施設を探し出したとしても、家族にはもうひとつ乗り越えなければならない大きなハードルがあります。

施設への入所を老親にどう切り出し、それを納得してもらうか、です。

元気なうちは「要介護になったら、お前たち家族には迷惑をかけたくないから、老人ホームの世話になるよ」といった話をする人がいます。ところが、実際に要介護になると自分からすすんで施設に入る人はほとんどいないそうです。

介護現場の事情をよく知るケアマネージャーのFさんによると、「私の経験では、施設入所の話が出ると、9割以上の方が拒絶し、それが元で修羅場になることが少なくありません」。

要介護者本人にとって一番安心できる場所はやはり自宅。また、家の「主体」は自分であって、子は面倒を見るのが当然という意識も多かれ少なかれあります。その子どもが「施設に入って」などと言うのは親よりも自分の生活を優先するような気がして許せない。つまり「捨てられる」という被害者意識に陥るのです。

認知症の方であっても拒絶は同様だと言います。

「認知症によってわけのわからない言動をしたり、会話が成立しなくなっても、こういうことはわかるんです。むしろ認知症の方の方が敏感に反応し、泣き叫んだり暴れたりということが多いようです」

具体的にはどのような修羅場があるのだろうか。

「たとえば要介護の親御さんと息子さん夫婦が同居している家庭。息子さんは仕事などを理由に、奥さんに介護を任せてしまうケースが結構多いんです。奥さんは大変ですよ。肉親じゃないから情の結びつきは薄いし、そもそも姑、舅とは折り合いが悪いもの。その相手を介護しなきゃならないんですから耐えられないものがある。で、“もう無理。施設に入れて!”ということになる。でも、息子さんの方は情があるもんだから同意できない。夫婦仲は冷え切るわけです。また、事情を聞きつけた息子さんの兄弟など親族がやってきて、「なんて嫁だ」と。そんなこんなで家庭は崩壊へ向かう。その限界寸前で施設に入れることが具体化するから、本人の意志など確かめてはいられません。“病院に行く”などといった理由でクルマに親御さんを乗せて、そのまま強引に施設に入れてしまうようなことがあるんです」

これでは「棄老」(=姥捨て山)といわれても仕方がありません。

介護施設に入りたがらない老親の「正当な理由」
なお、Fさんのような在宅ケア専門のケアマネージャーは利用者に施設入所を勧めることはほとんどないそうです。当然ですが、在宅でのケアの充実を第一に考えているからです。ただ、認知症による徘徊の度が過ぎた方がいる家族には施設入所を勧めることがあるそうです。

「行方不明になってしまう方がいるんです。最近は徘徊の果てにクルマや電車にひかれて亡くなるというニュースが多いですよね。冬の寒い時期に家に帰れなくなったら凍死の危険もある。命にかかわることですから、外出できない環境にある施設の入所を勧めます」

緊急避難的な入所ですから、この際も強引に連れていくケースが多くなります。しかし、このような入所は家族に罪悪感を与え、心の傷になることがある。できることなら説得し、本人がある程度納得したうえで入所する方がベターです。

そのためには、どうしたらいいのでしょうか。

「拒絶する要因のひとつに、施設がどんなところで、どのような扱いを受けるのかわからない不安があります。これを取り除くには、施設での介護を体験し、慣れてもらうことだと思います」

デイサービス(通所介護)やショートステイ(短期入所生活介護)を利用する機会を作り、その利用体験から施設に対する抵抗感を少なくしていくことがひとつの方法として考えられます。

ただ、実際にはデイサービスでさえ「行きたくない」と拒絶する人は少なくありません。そこを何とか説得して行ってもらっても拒絶感から「あんなところは2度と行かない」という人もいます。これでは逆効果です。

しかし、ここで引き下がったら施設に納得したうえで入所してもらうことはできません。強引に入所させるという悲劇を避けるためには、時間をかけて粘り強く話をして、介護施設というところを受け入れてもらうしかありません。

この時、大事なのは家族サイドの都合を語らないことだそうです。

「この日は仕事があって面倒見られないから、デイサービスに行ってもらうよ」
「疲れているから、たまにはショートステイに行って楽をさせて」

といった語りかけです。

これではまるで要介護者は家族に迷惑をかけている厄介者。プライドが傷つけられ、ますます意固地になって拒絶してしまうわけです。

親が傷つかない介護施設入所の促し方の「奥の手」
主体はあくまで要介護者である親であることを心がけて語りかける。

「仕事の関係で、どうしてもこの日はお父さんのそばにいられないんだ。辛い思いをさせてごめん」

「自分がいない時も、不自由な思いをさせたくないんだ」

といったふうに。

施設に頼るのは、結局は家族の都合なのですが、介護者本人のためを思って、という話の方向性と低姿勢を見せることで、ご本人の気持ちを和らげるのです。

また、行った施設で嫌なことがあったようなら、どんなところが嫌だったのかを聞き「そういう問題があるところにはもう絶対行かせない。ケアマネさんにも、それを伝えておくよ」と気持ちに寄り添うようにする。そうした語りかけを根気よく続けることで、施設に対する抵抗感を少しずつなくして行っていくことが大切だそうです。

とはいえ、実際の在宅での介護現場は言い争いは当たり前、場合によっては虐待もある刺々しい空気が漂っているもので、なかなかこうした穏やかな語りかけはできないものですが、施設入所を納得してもらうには、こんな配慮も必要なのです。

Fさんは、老健(介護老人保健施設)への入所によって施設に慣れてもらうのもひとつの方法だといいます。

「老健は病院と介護施設の中間的施設。医師や看護師もいて医療処置が充実しています。リハビリなどを行い体の不調を改善して、自宅に戻ることを目的とした施設です。長期入所は難しいですが、“体を良くして自宅で暮らす”という前向きな方向性があるんです。要介護者はどこかしら不調がありますし、施設と違って病院なら入ることに抵抗感は少ない。“元気になって戻ってきて”と説得すれば入所を納得してもらえる可能性は出てくるでしょう。入所対象者は原則として65歳以上で要介護1以上(40~64歳でも特定疾病に認定された場合は入所可能)。老健も入所待ちはありますが、特別養護老人ホームと比べれば待機者は少ないので、利用を考えてもいいのではないでしょうか」

「医療の必要性」が施設入所の拒絶感を取り除くことにつながるというわけです。

同様に医療を通じた、もうひとつの奥の手があります。

かかりつけ医(主治医)に現在の状況を説明し施設入所を勧めてほしいと頼むのです。要介護者は家族の説得には応じなくても、いつも診てもらっている医師への信頼感はある。その医師に言われれば納得するわけです。医師のなかにはそうしたことには介入したくないという人もいますから、思惑が外れることもありますが。

要介護者に納得してもらったうえで施設入所させることは家族にとって難問であることは確かです。

ともあれ在宅介護に限界が来て、切羽詰った状態で入所を考えるのは本人にも家族にとっても辛い思いをすることが多くなる。なかなかできないことではありますが、親が要介護になった時点で施設入所を視野に入れ、本人との相談も含めて、根気よくその環境づくりをしておいた方がよさそうです。http://blogos.com/article/177240/

再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙

(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)

猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。

何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:

再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること

言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上


再生核研究所声明35(2010/04/23): 社会と個人の在りよう―細胞の役割

声明 33:民主主義と衆愚政治 の中で、民主主義

( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )

の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、民主主義の問題点を考察した。 そこで、(1)まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかること。(2)投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が高いこと。(3) また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちであること。(4)また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうこと。(5)何でも多数をそろえて、政治その他を推し進めようとなりがちなこと。(6)会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために言わば数の結果で悪い決定がなされる。(7)さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点。 難しい問題を素人の多くの人に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるということ。

として、次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、運用の在りようについて:

1) 代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票して頂くのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。
2) 代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3) 代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4) 代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5) 特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 報道の5原則にいつも留意すること。

とした。そして、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して  より良い政治の下で良い社会を築いて行こうと呼びかけている。
上記考察のうちで、政党政治の形をとるのが 民主主義の必然的な形態と考えられるが、政党政治は本来もつべき国家や社会についての大きな視点から、 往々にして、政党間の競争、あるいは無用の権力闘争に陥り易い弊害があることも指摘されなければならない。 本来考えるべき国家や社会の問題をないがしろにして、権力闘争に明け暮れるさまは 戦国時代と何ら本質的に変わらない形相と云える。 いわゆる派閥や仲間を作り、公の立場よりも、そのような派の利害を優先した行動がとられ、民主主義が空洞化してしまうのはよく見られる現象である。 また、公人を選出するのに 自己の利益や自己の所属する集団の利益の観点から、代表者を選出しようとするのは、本質的な間違いであるのに 多くの人はそれすら克服できない恥ずかしい状況にあると言える (衆愚政治とは、有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。)  さらに、各個人の属する社会の中での 自己の立ち場に対する配慮 (保身) から、あるいは無気力や自分の専門や仕事に 埋没した多くの人が、自己の意見を表明せず、民主的な多数の意思が、実際には多数の意思を反映せず、一部の強い意見がまかり通ることが結構多いと危惧される (アビリーンのパラドックス)。  バブル崩壊後の新しい特徴として、社会の厳しさが、生活や生きていくことの困難性を生じせしめ、社会や国家について深く想いをめぐらす余裕を失ない、 国家や社会についての理解や論調が 軽薄になっているとみられる。

そこで、国家と個人は、社会と個人は 如何にあるべきかについて、 2010年4月18日 朝、
人体と細胞のように在るべきである
という考えを抱いた。 国家や社会は人体のように全体として、統一のとれた主体的な存在であるが、個人は細胞のようにそれぞれの役割をもって、国家や社会に調和する存在であるべきであるという考え方である。 個々の意思は中枢に反映され、中枢の指示は個々に反映される。 それは細胞のなす、おのおのの器官を通して 全体に調和する形でなされなければならない。 この理念を社会に活かすには、人はそれぞれに希望する形で社会に参加して、1)項のように 強制的でなく、 自発的、自由な意思での参加方式をとるのがよいと考える。
これは社会が複雑になり、人びとの関心と興味が多様になり、一律全体が との形が 逆に大きな弊害をもたらす事実をさけて、 いろいろな役割によって全体に参加することにしようと提案しているものである。 中枢の個々への指示は明瞭であるが、個々の中枢への意思の表示については尚検討の余地があるが、現状の在りようで基本的にはよいと考える。 この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 
実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
以 上


再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:

現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。 
その理由は:

1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。

2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。

3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。

4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。

5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。

6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。

7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。

8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。

国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。

欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 

高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10114138890


【仏国ブログ】日本のいじめ「単一民族社会が生み出した副産物か」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0915&f=national_0915_086.shtml
【台湾ブログ】素晴らしい日本、でもいじめなどの厳しい問題もあり
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0531&f=national_0531_241.shtml
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
http://www.cnn.co.jp/business/35035799.html

国の借金1024兆円=国民1人当たり802万円―11年度末見込み
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111028-00000162-jij-bus_all


日本の財政を考える  より
http://www.zaisei.mof.go.jp/










0 件のコメント:

コメントを投稿