2016年5月29日日曜日

日本が世界一の「研究捏造大国」になった根因 「カネ取れなければダメ」が不正生み出す 東洋経済オンライン

日本が世界一の「研究捏造大国」になった根因 「カネ取れなければダメ」が不正生み出す
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STAP細胞は組織ぐるみの不正にはなりえない性格の研究だった(撮影:ヒラオカスタジオ)© 東洋経済オンライン STAP細胞は組織ぐるみの不正にはなりえない性格の研究だった(撮影:ヒラオカスタジオ)
 輝かしいノーベル賞受賞の一方で、科学者たちは時として「研究不正という暗い影を生み落としている」という。『研究不正 科学者の捏造(ねつぞう)、改竄(かいざん)、盗用』を書いた東京大学の黒木登志夫・名誉教授に、詳細を聞いた。

 ──日本人が研究不正で「世界トップ」なのですか。

 2014年まで11年間の撤回論文数のワーストワンは日本人、ワースト10に2人、30位内に5人も名を連ねている。撤回数を国別に見ると、いちばん多いのから順にインド、イラン、韓国、それから中国、日本、米国と続く。日本は捏造が多く、ほかの国は盗用が多い。また3分の1は間違いが理由。それも不名誉なことには違いない。

 研究不正は2000年まで日本では目立つものはなかった。2000年に麻酔科医が摘発されて以降、次から次へと出てきている。撤回論文を俎上に載せたブログ「リトラクションウオッチ」によると、この麻酔科医の撤回した論文は20年間分で183を数え、世界一。ものすごい「才能」だ。何しろ英文で論文を仕上げ、一流ジャーナルの審査にパスする。しかも掲載されるにはその時々に何が問題テーマか理解していなければならない。実は世界にはそれができる人物はいっぱいいる。

 ──この本では42例が特筆されています。

 データの改ざん、成果の捏造、盗用など、欧米や日本、中国、韓国などを揺るがした重大不正事例を抜き出した。

 ──なぜ日本で今世紀に入る前後から多くなったのですか。

 大学、研究機関が経済的に苦しくなって、自らおカネを取ってこなければ研究ができない。任期が不安定化し、腰を落ち着けることも簡単にはできない。そういう研究の競争社会入りがバックにある。

 この本に現れた不正は氷山の一角で、東芝の会計不正、フォルクスワーゲンや三菱自動車はじめ、企業にも社会一般にも不正はたくさん見られる。企業の場合は縦社会だから組織ぐるみになってしまう。大学や研究者は縛りが緩やかだから、むしろ一人ひとりが勝手にやっているところがある。

 ──単独不正だと?

 STAP細胞事件の理化学研究所の場合には組織ぐるみでないかという見方もあったが、組織ぐるみにならない性格の研究だった。STAP細胞の場合は社会的に関心を引きすぎた。STAP細胞よりノバルティス ファーマのほうが罪は大きい。

 ノバルティスはスイスに本拠を置く世界的な大企業で、米『フォーチュン』誌によると最も尊敬される製薬会社に該当していた。その日本法人がやってしまった。本部長クラスが立案し、10年かけ計画的にマンモス降圧剤に仕立て上げた。年商1000億円計画の下で、いい効能のデータを出し、いいジャーナルに載せる。社員が大学に非常勤講師で入り、データ作りを筒抜けにさせた。

 まさに日本の臨床医学の弱点を突いた。

 ──同じ分野の薬剤で武田薬品工業は京都大学医学部に「奨学寄付金」の供与をしていましたね。

 ノバルティスから5大学に渡った総計11億円も奨学寄付金だった。しかし、この額に驚いてはいけない。武田薬品と京大とで行った降圧剤の臨床研究で京大が受け取った寄付金は、5年間で20億円。しかもこれには症例検討に必要な経費は含まれていない。そこでの都合のいいデータを武田は広告に使い、問題になって引っ込めた。

 ──降圧剤分野は儲かる?

 一度飲み始めるとずっと飲み続けることになる。常用する人口も多い。武田はこの分野の研究で先陣を切っていた。

 ──実際、不正を現場近くで見られた経験もありますね。

 東京大学分子細胞生物学研究所の事例だ。スター研究者の教授がこういう結果のデータを出せと最初から指示した。初めにシナリオありき。大阪地検特捜部による厚生労働省の事件と似ている。

 ──課題設定に無理がある?

 おカネを取ったら取ったで成果が求められる。それがプレッシャーになる。大事なのは風通しのいい、研究の運営だ。みんなが自由にものを言える雰囲気がないといけない。

 ──研究不正は医学、生命科学に多い?

 数学のように厳密にロジックを考える分野は下手なことをすればバレる。医学、生命科学における現象データの場合は追求されても、そのときはこうなったと言えば通るところがある。STAP細胞にしても、「できます」と言えば通ったところがあった。

 ──視界を世界に広げれば、希代の「論文泥棒」は米国人のエリアス・アルサブチ氏ですか。

 東京大学医科学研究所が被害を受けたときの助教授だったのでよく覚えている。医科研の英文ジャーナルに盗作論文が掲載されてしまった。こんなことをしてもしょうがないと思ったのだが、すぐにバレるようなことを平気でやる。病的な人もけっこういる。不正をやっているうちに自分を信じきってしまうのだろう。

 ──ジャーナルの審査は確かなのですか。

 ノバルティスでの論文が通ったのを見ても、だいぶお粗末になってきているのかもしれない。研究は、英文論文として一流のジャーナルに発表することで一応完結する。今や、ネットのジャーナルもいっぱい出てきて、これもいいかげんなものが少なくない。投稿料目的でやっているものもある。

 ──ところで、岐阜大学の「落下傘学長」をされました。

 法人化前の3年から法人化後4年までの7年間だ。工学部長と病院長が対立して、皆嫌気が差し、第3の候補者として指名された。当初から知っている教授は4人しかいなかった。中堅規模の大学だけにずいぶん改革ができた。法人化して大学の定員がなくなり、予算をどう使うかは大学次第。給与をポイント制にして、工学部には4000点とかを配付した。東大はじめほかの大学も取り入れるようになったが、このポイント制給与は小生が始めたものだ。

 大学施設の他大学への貸与や、さらには入試過去問題活用宣言をして、ほかの大学の過去問を使う入試も始めた。職員組合から「思いつき学長」と揶揄されたが、予算や、参加するプログラムをきちんと取ってくる。いろいろ経験した。

 ──研究不正は犯罪ではない?

 重大な研究不正の底辺には不注意なもの、軽微の不適切な研究行為などがいっぱいあって、そうしているうちに改ざんなどに手を染めてしまうのだろう。研究不正は犯罪ではない。倫理規範違反。ただし、おカネが絡むと返還が問題になる。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%80%E3%81%AE%EF%BD%A2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%8D%8F%E9%80%A0%E5%A4%A7%E5%9B%BD%EF%BD%A3%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%A0%B9%E5%9B%A0-%EF%BD%A2%E3%82%AB%E3%83%8D%E5%8F%96%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%83%80%E3%83%A1%EF%BD%A3%E3%81%8C%E4%B8%8D%E6%AD%A3%E7%94%9F%E3%81%BF%E5%87%BA%E3%81%99/ar-BBtzUpt?ocid=UP97DHP#page=2

再生核研究所声明298(2016.05.20) 根無し草

ある存念が湧いて、言葉が先に自然に湧いたのであるが、言葉を元に少し述べて置きたい。
先ず言葉の意味を確認して置こう:ねなしぐさ【根無し草】の意味 - goo国語辞書
ねなし‐ぐさ【根無し草】
1地中に根を張らず、水に浮いている草。浮き草。
2浮き草のように漂って定まらない物事や、確かなよりどころのない生活のたとえ。「行方も知らぬ―の旅」

世間では上記2のような意味、基礎がしっかりしないでフラフラした存在で、大地にしっかり根をはった大木の逆の言わば弱い、悪い意味で表現されるのではないだろうか。また、根が無ければ、短命で儚い存在を示すと考えるのは自然ではないだろうか。
しかしながら 万物流転や世の無常の思想があるように 本質的には人間の存在も根無し草のような存在であるとしっかり捉えることが大事ではないだろうか。しかし、そのようにしっかりと存在を捉えている者は 人物であり、根無し草のような存在とは誰も思わないだろう。
批判的に根無し草を表現すれば、軽薄な存在であることも示しているのではないだろうか。人間性としては自己中心、短絡的で、軽薄、無責任な存在とも言える。
永遠性を求める人間の心は、本質的に神性を有しており、永遠的なものや哲学的に深い存在を希求しているのではないだろうか。考えの基礎があり、大局的な視野を持った、深い存在である。― 日常的な生活に追われ、マンネリ化した生活を送れば 人生の深い想いを求めるのは難しく、軽薄な存在に陥入り易いと言える。
根無し草の存在の逆を考えてみたい。
考え方の基礎と展開がしっかりしている。視野が広く、思索が深い。永続的に考えられる。
世界に対する認識がしっかりしている。このように考えると、根無し草の存在の逆は、哲学者的な存在や宗教家の存在よりは、世に言う、人物たる存在であると短く本質を表現できるのではないだろうか。
世の指導者、権力者、評価する者、上に立つ者 世の教師たち等、それらはそのような意味で人物たる人物であって欲しいものである。
公金を私用したり、仲間の利益で動いたり、仲間意識で評価する者は 根無し草のような無責任で、短期的な視野を持った浅ましい存在ではないだろうか。

以 上


再生核研究所声明299 (2016.05.21) いろいろ ちぐはぐな社会

人間社会は機械や計算機の世界のように きちんと行く道理は 生命現象としても有り得ず、いろいろ矛盾した多様で複雑な形相を本質的に持っているものであると考えるべきである:

再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える。

あまりにきちんとしていれば、社会は逆に窮屈になり、息苦しいものになるだろう。戦時や独裁者国家などによく現れていると言える。もし、法でも、道徳律、習慣でさえ程よく幅をもち、反社会的と評されるものでさえ、存在して娑婆の面白みと言える面が有るのではないだろうか。それらは多様性のある豊かな社会の大事な要素ではないだろうか。
しかしながら、本末転倒、あべこべが行き過ぎるとこれもまた、おかしな社会になってしまう。そこで、行き過ぎた ちぐはぐな存在に見える、感じられることに言及して、省察、有り様について 注意を換気させたい。
最近の例だと高齢者に3万円を 苦しい財政状況の中で、ばらまいているが、国家はもっともっと、資金援助、充実させる配布先はないのであろうか? 誠に奇妙な政策と言える。多くは退職者の年齢であろうが、現役の若者たちは将来の生活の設計、やり繰りで苦労されているのではないだろうか。大学の予算不足なども大いに心を痛められる。
憲法改正の考えや軍事費の増大もこの観点では奇妙に見える。日本が自ら緊張関係を生み出して、軍拡競争を煽っているように見える。国防と安全を考えるは国家の基本であるが、新しい国防観による、平和の建設に対して、時代遅れの思考で対応を考えているように見える。今後の平和と安全の有り様を軍事費増大ではなく 異なった方向での対応を思考すべきではないだろうか。軍事、平和の問題は 創造的に先取の精神で取り組むべきことが 世界史の教えるところである。
人を適材、適所に配置するは 社会の有り様、活力を維持する基本であるが、それらの基になる、教育全般、大学入試、大学教育、就職の有り様、評価の有り様など相当にちぐはぐで、上手く人事が行っていないようなことはないだろうか。いわゆる職業選択におけるミスマッチの問題である。人材を発掘できない状況、活用できない状況など大いに気になる。例えば、公務員は人気があって、優遇される状況があるように感じられるが、公務員は公僕であり、多くは決まった安定した仕事が多いことに鑑み、優秀な人材を生きた社会で生かすような大勢は大事ではないだろうか。もちろん、国家や組織で大事な役割を果たす職種で優秀な人材の登用は古来重要である。公僕の精神を忘れて公務員が社会の優雅な人たちの層を今やなしてはいないだろうか。政治家の選択も民主主義の政治の中で、上手く機能せず、日本の政治家はEUなどの諸国に比べて少しお粗末な政治家が多いように感じられる。公や国家のことより、政争、利害対立に明け暮れている様が見えないだろうか。
研究、教育、人事、評価なども大学法人化後、特に相当に混乱していて、日本の将来には危惧の念を抱かざるを得ない。行き過ぎた過重な受験競争、成果や評価に縛られ汲々とした教育と研究の場、意図的に作られた雑用の多さ、教育と研究の乖離、形ばかりの成果にとらわれ過ぎて真に研究に値しないような小さな研究課題に細分化する傾向が進んでいるのではないだろうか。軍事と同様、研究は創造性ある新規、開拓の精神が最も重視されるべきところ、確立した分野の末梢の研究課題が重視されるような風潮はないだろうか。あらゆる研究の初期の状況を省みたい。
日本のテレビ曲の、ドラマ制作力、音楽、芸術、スポーツ関係の充実ぶりは素晴らしいものと高く評価されるが、ニュース、政治などの番組は相当に質が落ちている面はないだろうか。マスコミ、新聞などの国際評価が驚く程低いことに大いに注意しておきたい。個人の犯罪や問題など騒ぎすぎで、質を落としているような面はないだろうか。民間テレビ局などでは、科学、工科系の番組は極端に弱く、如何にも文系、芸能関係、スポーツ関係者のもののように偏っているように見える。

この声明は題名からして、世相に対する印象のような形になってしまった。

以 上

再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)

世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:

平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか. 
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。

相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。

以 上








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