2015年12月23日水曜日

記事 奥山真司2015年12月20日 16:13なぜわれわれは一人の人間にしか感情移入できないのか

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奥山真司2015年12月20日 16:13なぜわれわれは一人の人間にしか感情移入できないのか




今日の甲州は朝から晴れて快晴ですが、気温がかなり低めです。

さて、先週の放送(http://live.nicovideo.jp/gate/lv244148252)でも紹介したNYタイムズ紙の記事ですが、その内容が極めて示唆に富むものであったので、あらためてここで紹介します。

内容は「なぜ人間は相手が一人だけだと感情移入することができるのに、複数の人間の場合には関心が薄れるのか」という根本的な心理学の問題について切り込んだもので、大変興味深いテーマについての最近の知見を元にしたものの要約です。

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哀れみの算術
by スコット・スロヴィック&ポール・スロヴィック

http://www.nytimes.com/2015/12/06/opinion/the-arithmetic-of-compassion.html?_r=0

●われわれは「一人の死は悲劇だが、百万人の死は単なる統計上の数字でしかない」という言葉に共感できるかもしれない。他人の苦しみや悲しみに対する同情というのは、犠牲者の数が増えたとたんに減少するものだ。

●1950年代に精神科医のロバート・ジェイ・リフトンは、広島と長崎の原爆投下で生き残った人々について調査して、彼らが精神的トラウマを耐えぬくために身につけた精神状態を「精神的無関心」(psychic numbing)となづけている。

●リフトン氏の研究を受け継いだ心理学者たちは、この「精神的無関心」が他の状況、つまり難民危機の情報や動植物の絶滅、それに気候変動にまで応用できると考えて研究を行っている。

●このような情報というのは、それが抽象的になればなるほど、人間を鈍感にさせていくようだ。われわれは犠牲となる側の数が増えれば増えるほど、その対象に対して同情や共感をおぼえなくなるからだ。詩人のズビグニェフ・ハーバードはこの現象を「哀れみの算術」と名付けている。

●では人間の心の中で犠牲者への同情が無関心へと移り始める数というのは、具体的にどのくらいの数値なのだろうか?研究の結果として判明したのは、その数はそれほど大きくないということだ。

●たとえば最近トルコの浜辺に打ち上げられた、シリアの子供の死体の写真の例を思い出してもらいたい。この子が浜にうつ伏せになって打ち上げれていた写真は世界の注目を集めることになり、アメリカを含む、はるか遠くの国々の難民政策を即座に変える結果を生み出したほどだ。

●ところが翌日のエーゲ海では、シリアの子供が14人も溺れて死んでいたことは知られていないし、われわれもそこまで関心を持っていない。しかも14人という数は、われわれを無関心にさせるだけの数よりもはるかに多いのだ。

●本稿の著者の一人は、去年発表された共同研究論文の中で、このような現象を「同情の減退」(compassion fade)と呼び、これはある事件の被害者の数が、なんと二人になっても起こると結論づけている。

●この研究の中の実験で、被験者たちは実際・仮定の両方の状況で、恵まれない子供たちのプロフィール付きの写真を見せて寄付金を与えようと感じたかどうかを聞かれている。

●その時に結果として出てきたのは、寄付対象が一人の場合と比べて、二人以上の複数の集団になると、被験者たちの「寄付をしよう」という意欲や実際に寄付される金額そのものものが大きく減少するということだ。

●「精神的無関心」に加えて、「似非無効性」(pseudo inefficacy)という心理学的な作用も働いている。これも同じく本稿の著者の一人が参加した、今年発表された寄付金に関する研究で判明したものだ。

●この研究では、人間というのは恵まれないたった一人の個人のためであったら送金をするが、二人目の恵まれない人間がいて、しかもそれを助けられないことが判明すると、そもそも最初の一人にも送金しようという気が起こらなくなるというものだ。なぜならその送金にはそもそも効果がないと感じられてしまうからだ。

●同様に、自分の行う寄付や献金があまり効果を発揮せず、まるで自分の貢献が「大海の一滴」であるように感じられた場合には、その救済プロジェクトの規模や狙いが大きくても、その動機は薄れてしまう。

●ここからわかるのは、われわれはどうもたった一人の人間を助けるようにしかつくられていない、ということだ。

●さらにいえば、「助けられない他人がいる」と感じると、われわれはそもそも寄付する気さえ怒らなくなるのだ。

●他にも「目立ち効果」(prominence effect)という心理学的な現象がある。これはなぜ豊富な手段を持つ人々(や政府)が、民族虐殺をはじめとする大規模な虐待を阻止するために介入することができないのかを説明するものだ。

●「目立った」行動や目標というのは、つまりわれわれの公式な社会価値の基準に合致しないかもしれないが、それでも簡単に正当化しやすいものである。たとえばそれは、国家安全保障を守るための決断であったり、短期的にわれわれの気持ちや利便性への要求を和らげてくれるものであって、それらは容易に正当化しやすい。

●このような選択肢は、人間の集団全体や環境のような規模の大きな全体的な(種や生息地、地球の機甲全体)危機についての選択に打ち勝ってしまうものだ。なぜならそのような規模はあまりにも大きすぎるために縁遠く、極めて抽象的なものとしか感じられなくなってしまうからだ。

●ではわれわれには他に選択肢はないのだろうか?無意識に行われている「精神的無関心」「似非無効性」「目立ち効果」のような、心の動きを変えることはできないのだろうか?

●心理学者のロバート・オルンスタインと生物学者のポール・エーリッヒは、数十年前に『新しい世界、新しい思考』(New World New Mind)という著書の中で、人間の頭脳は実質的にまだ洞穴に住んでいる時の状態と変わらないのに「核兵器による消滅」のような現代的な問題に直面していて、そもそも根本的にそのような問題に適応しきれていないと論じていた。

●彼らはそれを受けて、人間が現代世界の情報プロセスの仕方において「意識的な発展」、つまり意図的にわれわれの認識の癖を修正すべきだと説いたのである。

●われわれは「精神的無関心」「似非無効性」「目立ち効果」が、自分たちが目指す価値観とは正反対の行動を促すことにもっと注意しなければならない。そしてもしこれができるようになれば、われわれは複雑で混乱した世界の情報に対する反応を改善させることができるからだ。

●気候変動や大規模テロ攻撃、そして難民危機のような大災害の問題というのは、われわれの「哀れみの算術」を生み出す思考について折り合いをつけることができない限り、それに対する解決法は見えてこないのだ。
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いやはやこれは面白いですね。人間が何かに共感を覚えるためには、その対象の「個人の顔」が見えないといけないということになります。

そうなると、たとえば選挙キャンペーンなども個人との戦いとして描く方が国民や民衆の関心を呼びやすくなりますし、CMなどでも複数の人間よりは誰か特定の人間を使ったほうがいい、ということにもなります。

また、逆にいえばその問題からみんなの関心をそらさせたい場合には「顔の見えない集団」として描けばいいということにもなり、立派にプロパガンダとして使えることにもなります。

もちろんこのような知見は純粋に心理学的な問題から導き出されたものとしてとらえることもできますが、そのロジックがわかれば逆に活用することもできるわけですね。

色々と類推や連想ができるという意味で、実に味わい深い研究です。http://blogos.com/article/150872/

これは面白い、心理ですね。考察を進めてみたい。

再生核研究所声明 265(2015.12.24): 全ての願いが叶えられたとき ー 自由な境地 ― その時人間は
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば という藤原道長の歌や 柔道の田村亮子選手のオリンピックにおける金メダルを得た時の喜びの表情などに 全ての願いが叶えられたときの印象を感じとることができる。そのような喜びの感情は永くは続くものではないといえよう。そのようなときは、自由な時とも表現できるだろう。しかしながら、そのような境地、自由な時は 思えば結構多く存在するのではないだろうか。乳を飲んでいる赤ちゃんが全て満足してニコニコご機嫌良い表情は結構多い、92歳を越えた人に心境を伺ったところ、美しい風景を見ながら、食べることにも拘らず、悩みも、心配も無く、にこやかに微笑んでいる姿に接して 自由で、花が存在しているのと同じような情感が感じられる。育児で大変な時期でも いろいろ家事をこなして、子供がにこやかに休み、一息いれている時も 完全に自由で、そのときは満足して、いろいろな欲求等その時は わかないのではないだろうか。 仕事が順調に行き、進んでいるとき、家庭も上手くいっていれば 相当に満足しているような状況ではないだろうか。
願いが叶うは 現状と欲求のバランスが取れている状況であるから、いわゆる道理の心があれば 現状を認め、受け入れ、精神は安定して、自由な境地に到れるということではないだろうか。分以上の法外なことを望ます、求めず、分を弁えれば 自由を得て、幸せさえ 実現できるのではないだろうか。
仕事を持ち、義務的な仕事に縛られる時期は 結構永いが、退職などして仕事から解放されると、相当に自由になり、自適の生活を楽しめる機会が結構多い社会が実現している。上記92歳の方のようには言い切れなくても、 相当に満足して人生を考えている人は世に多いと言える。
科学技術が進み、自由な時間が増大して、自由な時間を如何に過ごすかが 今後大きな社会問題になるだろう。動物的な本能、社会的な要求、それらが、相当満たされたとき、 人は何をなすだろうか、何をなすべきと 人間は作られているのであろうか。そもそも、人間は究極何をなすべきか。どのように作られているだろうか。 多くの人間が 良い家庭に、生活に恵まれて、社会的にも存在感がすれば、相当に満足しているように見えるが、それらの情景は 動物たちが家族とともに仲良く、安全に過ごしていれば満足で 時々、遊んでいる情景と 殆ど変わらないように見える。 人間の生態は、動物と殆ど変わらないと 本質を見れば、見えて来る。
このような視点で、気になる面白い現象がある。8才の少年が巨大素数の構造に興味があると言った事件である(再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える)。どうしてそのようなことに関心を懐くかである。多くの純粋数学者も いわば社会とは何の関係もないようなことに美観や、関心を抱き、研究しているのは 誠に興味深いと考えられる。そこまで行けば、いろいろな学問、芸術、求道など何でも 人間が動物や生物の存在を超えて、いろいろ志向しているのは 誠に興味深い。 人間とはそれでは、究極何を求めているのだろうか。人間は 究極的に何を求めているかと問うている。 人生の意義は 感動すること にある、 これはそれでよいが、その先を求めている。人間は、それぞれ好きなことを いろいろ求めています、では、物足りない結語になるだろう。 そこで、人生の目標を下記のように表現したい:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
人間は何でも知りたい、究めたい、それが本能である。
これを砕いて言えば、人間は森羅万象の様、原理、自分の存在している意義を知りたいということである。
以 上










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