2016年5月30日月曜日

「核なき世界」の実現にはどれくらい時間が必要か

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THE PAGE2016年05月29日 16:25オバマ大統領が広島訪問 「核なき世界」の実現にはどれくらい時間が必要か


伊勢志摩サミット終了後の27日夕方、アメリカのオバマ大統領が広島市の平和記念公園を訪れた。原爆投下から約71年。現職の米大統領による被爆地訪問や献花は間違いなく歴史的な瞬間であったが、オバマ大統領が就任当初から取り組んできた世界規模の核軍縮や核不拡散は紆余曲折したままだ。アメリカ国内の核兵器保有に関する世論の変化や、オバマ政権の核軍縮の実情についてリポートする。(ジャーナリスト・仲野博文)

100か所以上で検問「厳戒態勢」の広島市内
 アメリカのオバマ大統領が平和記念公園を訪れるため、27日の広島市内は朝から市内各所に多くの警察官が配置され、平和記念公園周辺では100か所以上で検問も行われた。「これまでにも広島を訪れた外国の政治家はたくさんいましたが、こんなに凄い警備を目の当たりにしたのは初めてです」、と苦笑しながら語るのは市内のタクシー運転手の男性。27日正午過ぎのことだ。市内ではパトロールなどを行う警察官の姿が随所で確認でき、制服から兵庫県警や熊本県警から派遣されてきたこともわかる。広島県警は11の都府県から約2000人の応援を得る形で、約4600人の警察官を動員して、オバマ大統領の到着に備えた。

 27日正午までは平和記念公園への入場に規制がかけられなかったため、多くの人が平和記念公園を訪れていた。海外からの観光客や、海外メディアの関係者も少なくない。オバマ大統領を一目見ようと平和記念公園を訪れたというアメリカ人男性に話を聞いた。

「とてつもなく悲劇的なことですね。個人的には開発した原子爆弾が本当に使えるのかを確認するための実験的な意味合いもあったのではないかと思いますが、人それぞれで見方は異なると思います。どのような理由であれ、原爆の使用は人道に対する犯罪だったと思います」

 アメリカ人男性は原爆についての見解を語ってくれたが、今でもアメリカでは原爆使用は戦争を終結させて多くのアメリカ人兵士の命を救うために必要だったという考えが根強く残っている。同時に「抑止力としての核兵器保有」を正当化する声もまだまだ根強い。しかし、核に対する考えでは世代間ギャップも生じているようだ。

原爆使用の是非めぐり70年で変化した米世論
 オバマ大統領が1期目から自らに課した大きなタスクの一つが、核軍縮と核不拡散の推進だ。しかし、「核兵器を無くす」という考えにはアメリカ国内でも世論が二分している。CNNが2010年に実施した世論調査では、回答者の49パーセントが「アメリカを含む数か国は、他国の攻撃に備えて核兵器を保有すべき」と答えている。同様の調査が行われた1988年、回答者の56パーセントが「世界中からすべての核兵器を無くすべき」と答えていたが、冷戦終結後の現在の方が核兵器保有を支持する声が多いのは皮肉な話だ。核兵器を巡る世論調査には、第二次世界大戦末期に広島と長崎における原爆投下の「正当性」に関するものもある。こちらに関しては、時間の経過とともに原爆投下に否定的な見方をするアメリカ人が増えてきているが、「原爆を使用しなければ、より多くのアメリカ人が戦地で命を落としていた」という考えはアメリカ社会に根強く残っている。

 1945年にギャラップ社が実施した世論調査では、回答者の85パーセントが広島への原爆投下を支持したが、それから70年後の2015年にピュー・リサーチ・センターによって行われた世論調査では、広島と長崎に対する原爆投下を支持するアメリカ人は56パーセントにまで減少していた。70年の間にアメリカ人の原爆投下に対する意識の変化が徐々に生じているように思えるが、原爆投下に対する見方には世代によって温度差が存在し、1980年代から2000年代初頭に生まれたいわゆる「ミレニアル世代」においては原爆投下に対する否定的な意見がより顕著になっている。調査に携わったピュー・リサーチ・センターのブルース・ストークス国際経済世論調査部門ディレクターが、調査結果から垣間見えるアメリカ国内の世論の変化について語る。

「原爆投下に関する世論調査で、原爆投下は正しい判断だったとする声が、なぜこれだけ減少したのかを完全に知りうることは不可能ともいえる。ただ、一つの要因として過ぎ去った時間の存在を挙げることは可能であろう。広島での原爆投下や第二次世界大戦はそれぞれ『歴史』の中に消えてゆき、戦争体験者の数も減少傾向にある。高齢のアメリカ人と比較した場合、アメリカの若い世代の間では、原爆投下を正当化しようと考える人の数が少ない。我々の調査では、65歳以上のアメリカ人の70パーセントが原爆投下の正当化を支持しているが、18歳から29歳までの若い回答者になると、原爆投下の正当化への支持は47パーセントにまで急落する」

 調査結果からは、原爆投下に対する日本とアメリカのギャップが少しずつ埋まりつつある傾向も見える。再びストークス氏が語る。

「(2015年に行った)調査では原爆投下に対する日本とアメリカにおける見解のギャップが狭まってきたことを確証するものはなかった。しかし、より多くのアメリカ人が原爆投下の正当性に否定的な見解を示すようになり、その点では日本人が長年にわたって抱いてきた思いに近づいているとも言えるだろう」

 米ランド研究所のアジア太平洋政策センターでアソシエイト・ディレクターを務めるスコット・ハロルド氏は、オバマ大統領の広島訪問によって日米間の原爆使用を巡る認識のギャップが埋まるという考えには否定的であったが、広島訪問が世界に向けて大きなメッセージを発信すると確信している。

「オバマ大統領の広島訪問によって日米間のギャップが縮まるとは思えない。なぜならば、今回の訪問は戦争被害に苦しんでこられた方々に敬意を表し、同時に世界の核保有国に対して被爆地の広島からメッセージを送る目的で計画されたからだ。アメリカはロシアや中国、パキスタンやイランといった国々、さらには北朝鮮に対して、核兵器の配備や使用を決して行ってはならないという姿勢を打ち出す必要がある」

広島にも持ち込まれた「フットボールとビスケット」
 27日夕方に広島市の平和記念公園を訪れたオバマ大統領は、17分間の演説の中で「核なき世界」を目指そうと、世界に向けてメッセージを発信した。また、現職の米大統領が広島を訪れ、平和記念公園内で献花を行い、被爆された方と抱き合ったシーンは歴史的な瞬間として各国のニュースで取り上げられた。一方で、核軍縮や核不拡散を具体的にどう進めていくのか、アメリカがどのくらい本気でその問題に取り組もうとするのかという点には疑問が残ると言わざるを得ない。

 米英の複数のメディアは、「核のフットボールとビスケット」の存在を取り上げ、これらがオバマ大統領の広島訪問の際にも現地に持ち込まれていたと伝えている。「核のフットボール」とは、黒皮に包まれた重さ約20キロのアタッシュケースをさす俗称で、中には米大統領が核兵器の使用を許可するための通信機器が入っている。大統領がホワイトハウスを離れる際には、このアタッシュケースを持った軍事顧問が必ず大統領に同行する。大統領は「ビスケット」とよばれる特別なカードキーを常時携帯しており、アタッシュケース経由で米軍に核兵器使用を許可する場合に、カードキーを使って大統領本人であるという認識作業が必要になるのだという。

 「核のフットボール」はキューバ危機に直面したケネディ政権から本格的に使われるようになった。カードキーをスーツのポケットに入れっぱなしだったカーター大統領が、誤ってカードキーの入ったスーツをドライクリーニングに出してしまったという話や、暗殺未遂事件の際に病院に運ばれたレーガン大統領とアタッシュケースを持った軍事顧問が離れ離れになってしまったというエピソードが残っているものの、基本的には米大統領の近くには「核のフットボール」を持った軍事顧問が常にいる。それが広島であっても。

 「核のフットボール」は核保有国アメリカを象徴する代物だが、アメリカ国内における核兵器に関連した政策に目を向けても、オバマ大統領が世界に向けて発信した「核なき世界」の実現化はまだまだ遠い先の話のようだ。米軍は昨年から新型核爆弾「B61 12型」を飛行中の爆撃機から投下する実験を開始し。1966年から現在までに3000発以上の「B61」が配備されてきたが、現在開発中の12型にはより多くの電子機器が組み込まれ、精密爆撃が可能になるとニューヨークタイムズ紙は今年1月に伝えている。新型核爆弾の実験は、今後30年で1兆ドルを投じて行う核兵器性能改善計画の一環で、新型のミサイルやステルス爆撃機などの開発や配備も同時に進められていく予定だ。国内の政治的な駆け引きでオバマ大統領が譲歩せざるをえなかったという指摘もあるが、対外的なメッセージとして「核なき世界」を声高に叫ぶオバマ政権が、自国の核兵器の削減に及び腰では批判を受けるのも当然だ。

 加えて、オバマ政権下で実際に削減された核兵器の数が、冷戦後の歴代政権の中で最も少なかった事実も判明している。ブッシュ政権下(2001~2008年)で約5300発の核兵器が削減されたのに対し、オバマ政権下で削減された核兵器は約700発に過ぎず、2013年に米国防総省から議会に提出された報告書に記された削減可能数よりも少ない。ロシアとの関係悪化などが原因で、オバマ大統領が就任当時に描いていたような形で自国の核兵器削減を推し進められなかったとする指摘も存在するが、オバマ大統領の核軍縮ビジョンは現時点で「有言実行」と言えないのも事実だ。原爆投下に対するアメリカの世論が少しずつ変化を見せるまでに70年を要したが、「核なき世界」の実現にはどのくらいの時間が必要なのだろうか?
http://blogos.com/article/177339/


再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点

ここでは、反省の意味を込めて、あるいは教訓として 人類の愚かさについて、ふれたい。 この辺は間もなく克服されて、人類は少し、進化できるのではないだろうか。

1)死の問題、死を恐れる気持ち: これはきちんと死を捉えれば、死は母なる古里に帰る様なもの、また、生まれる前のようであるから、本来、一切の感覚の離れた存在であり、恐れる存在ではなく、人生で、別次元の問題であり、生きるのも良く、終末も良い が在るべき在り様である。これで、人間は相当に自由になり、人生は明るいものになるだろう。 2000年以上前のソクラテスの弁明には 既にそのような観点が述べられていることに注目したい(再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道; 再生核研究所声明47:  肯定死; 再生核研究所声明63: 解脱、神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 再生核研究所声明68: 生物の本質 ― 生きること、死ぬること; 再生核研究所声明99: 死の肯定、在りよう、儀式、将来への提案; 再生核研究所声明118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、と言える面もある ― ; 再生核研究所声明175:人間の擁く 大きな虚像)。
2)神、宗教の問題: 神も、宗教も本来、自分の心の有り様にあるのに、いろいろ歪められた、教義などにこだわり、多くは虚像を求めたり、虚像に頼ったりしている愚かさ(再生核研究所声明175: 人間の擁く 大きな虚像)。その辺の理解には、さらに多少の時間が掛かるのではないだろうか。― 愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― しかしながら、神や宗教が祭りや文化、習慣に強い影響を与えているので、そのような観点からも、古い概念も尊重、大事にして行きたい。
3)争いと競争: 世には、スポーツ界などのように、競争など古い生物的な本能に基づくものは確かにあるが、世界史に見られる多くの戦争や、紛争、争いの多くは、あまりにも馬鹿げていて、和や共存,共生で 賢明な有り様が多く、このまま世界史を閉じれば、世界史は 人類の恥の歴史と見える程ではないだろうか。しかしながら、賢明な有り様に目覚めるのは 時間の問題ではないだろうか。これは人間関係についても言える(再生核研究所声明53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に; 再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)。
4)民主主義: 多様な意見を出して、いろいろな視点から、在るべき姿を考えるのは、物事を考える基本であるが、多数決での決定は、根本的な間違いである。進化した数学界などでは考えられないことである。数学界では一人の意見でも議論して、討論して、検証して、相当に少数でも、正しいと判断されれば、それは受け入れられるだろう。 政治の有り様に どんどん科学的な決定方法が導入され、いわゆる多数決による政治的な決定は どんどん小さくなって行くだろう。多数の決定は 本末転倒の衆愚政治や 無責任政治を蔓延させている(再生核研究所声明33: 民主主義と衆愚政治)。例えば、安倍政権は経済政策の是非を問う、解散、総選挙だと言っているが、経済政策の有り様など 国民には判断できず、真面目にそう受け止めるならば 投票はでたらめになってしまうだろう。これは、何か大事なことを隠しているとしか理解できないのではないだろうか。
5)天動説が地動説に変わる時の愚かさ: 新しい学説、地動説に対して、大きな反対が出たのは、世界史の恥ではないだろうか。 真面目にきちんと考えれば、簡単に受け入れられる事実ではなかったろうか(再生核研究所声明105: 人間の愚かさ、弱点について)。
6)非ユークリッド幾何学の出現に対する拒否反応: これは 5)と同じように モデルなど真面目に考えれば、ほとんど明らかな数学であるにもかかわらず、根強い反対に会った、苦い歴史から、人間の思い込みに対する愚かさに反省、教訓を学びたい。
7)ゼロ除算の理解: ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで, 世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。
数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって、例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できたと言える。
ゼロ除算100/0=0,0/0=0 については 5),6)と同じような過ちをおかしていると考える。何時、5)、6)のように ゼロ除算は 世界の常識になるだろうか:
数学基礎学力研究会のホームページ:http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku

この声明は、次と相当に重なる部分も有しているので、参照: 再生核研究所声明172: 人間の愚かさについて
以 上

安倍首相がアメリカから5年で30兆の武器買う約束してることが判明 (1年で6兆円)
http://foreignpolicy.com/2015/07/16/japans-expanding-military-role-could-be-good-news-for-the-pentagon-and-its-contractors/

米国の2016年度国防予算、日本が安保法制を制定することが前提に組まれている
Published: May 13, 2015
US defense budget already counting on Japan self-defense plan
http://www.stripes.com/news/pacific/us-defense-budget-already-counting-on-japan-self-defense-plan-1.346012


再生核研究所声明181(2014.11.25) 人類の素晴らしさ ― 7つの視点

ここでは、人生、世界の賛歌の形で、人類の明るい面、素晴らしさに焦点を合わせてふれて,  生命の、人生の素晴らしさを確認し、希望と勇気を奮い立たせたい。

1)神、信仰: 人間がユニバースの創造者の概念を懐き、神の概念を得て信仰のレベルに達したのは素晴らしく、人間の根源的な才能であると評価したい:― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
2)求道: 人間が 己が何ゆえに存在しているのか、私は何者かと問い、存在の意味を求めて、修行し、在るべき有り様を真摯に追求している姿は、真に人間として尊いと言える。
3)愛: 愛とは共生感に基づく喜びの感情であるが (声明146)、多くの愛は人間社会の喜びの源泉と生きる力である(再生核研究所声明134: 私の命よりも 大事な 私 ― 人間の崇高さ、素晴らしきかな 人間)。
4)言語: 言語を使用して、交流でき、意思疏通ができ、あらゆる生命活動について、共感、共鳴できる人間の素晴らしさ。愛の基礎ばかりではなく、精神面での生命の伝播、記録、共有さえ可能にしている。
5)芸術: これは、絵画、音楽、歌、文学、スポーツ、技巧、あらゆる人間の創造的な活動の文化活動の営みを挙げることができる。これには、いわゆる名人芸、技術、芸能など、 芸術で捉えられる分野は広く、深く広がっている。
6)科学: ニュートン力学やアインシュタインの理論、電磁波の発見や応用、数学ではオイラーの公式や微積分学の発見など、近代科学の素晴しさはそれこそ、神の意思を真摯に追求しているものとして高く評価される。これは医学や工業技術など近代科学などを広く捉えることができる。
7)義: これは世界史に多く記録される、大義のための自己犠牲の精神であり、個人を超えた大きな存在に対する帰依の精神である。この大義は、実に様々に捉えることができるが、己の命を超えた存在に対する、自己犠牲の精神である。

人間の素晴らしさは 全て、 感動にすること に結びつくだろう(再生核研究所声明 12: 人生、世界の存在していることの意味について )。
以 上

再生核研究所声明301 (2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ

再生核研究所では、もちろん、人間、社会、人生についていろいろな視点から意見表明をしてきている:
再生核研究所声明172(2014.8.5) 人間の愚かさについて
再生核研究所声明 180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点
再生核研究所声明 273 (2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
作られた人間が、相当に運命づけられているのは歴然である。しかしながら、作られた存在で、定められていても それらに従う、 自分の様を反省して、やがて自分たちの存在、営みそのそのものが 愚かしいことと気づくようになるだろう。人間の基本的な有り様とは、本能原理によって、生きること、家族をもち、育児を行うこと、などが基本であるが、それらを可能にして、保証するために、健康維持の観点から、食、住、環境の整備、恋の問題や、愛の問題、社会内存在を安定させるために仕事や地位を確保、生活を軌道にのせるなど基本的なことに追われる生活を余儀なくされる。自由の存在であると言える状況は 中々難しく、人生で束縛された生活が永く続いているのではないだろうか。現在でも、自由な存在よりも、生きることに精一杯の状況が多いと言える。
円熟期に入って、退職などすれば、相当に生活環境が変わり、関心の対象も大きな変化を受ける。言わば夢中で環境の中で生きてきた過去が、ただ夢中な存在で、何をしていたのかと反省させられる。しかしながら、一途に真面目に生きてきた者は自らをいじらしい存在として、評価もでき、回想できる余裕が出てくるのではないだろうか。
恋も、仕事も、志も 思えば、愚かしいこと、人間の営みと表現しようとしたが、書き始めるや、そのような発想は良くなく、表現を変える必要性を感じてきた。作られた人間が、造物主の意思に逆らえず、造物主の意思に従って生きざるを得ない自らの定めを自覚して、人間は人生の大部分を夢中で生きるだろう。しかし、やがて、そのような存在に飽き飽きして、造物主の意思を超えて、自らの存在、本能をも否定できるようになれば、それは一種の解脱、超越、悟りのレヴェルに至る完成の域に達していると言えるのではないだろうか。人生を諒として、超越して行けるからである。そのときは、本能や人間存在の本質さえ、返上できる心境だからである。神と自然を超えた存在の域に達していると言える。
そもそも生物とは遺伝子の乗り物であるという現実を知って、生物は真剣にその使命を果たすように運命づけられている切ない存在であるが、それを知って、定めにしたがっている存在が人間の賢さであると言える。
この声明は始めに意図したものとは全然違う趣旨のものに ひとりでになってしまった。
以 上









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