2017年1月31日火曜日

「チョイ乗り」需要は長期低落業界を救うか 都心タクシー初乗り1km410円に

「チョイ乗り」需要は長期低落業界を救うか 都心タクシー初乗り1km410円に
 
東京都23区および武蔵野市、三鷹市のタクシー運賃が30日、これまでの初乗り2.0km730円から同1.052km410円に変更されました。通院や買い物など短距離の移動に利用する「チョイ乗り」需要の喚起によって、需要の長期低落傾向に歯止めをかけたいというのがタクシー業界の狙いですが、ここに至るまで業界内では異論もあったようです。「都民へのインパクトも大きいと期待している。ぜひ、通院や買い物の足、子持ち世代の足としてタクシーをご利用いただければ」と、27日の記者会見で、タクシー業界団体である東京ハイヤー・タクシー協会の川鍋一朗会長(日本交通会長)は訴えました。

業界側は、運賃の変更による「チョイ乗り」需要に期待するとともに、海外より高いとされる初乗り運賃を下げて、訪日外国人にリーズナブルさをアピールしたい考えです。運賃変更の背景には、長期低落傾向にあるタクシー需要への危機感があり、タクシーを使いやすくして、なんとか需要を増加させたいとの思いがあります。今回の運賃変更では、初乗り運賃と距離を引き下げるとともに、初乗り距離が過ぎた後に加算される運賃は、従来の280mごとに90円(時速10km以下の場合は105秒ごとに90円)から、237mごとに80円(同90秒ごとに80円)と、加算される間隔を縮めました。これにより、約2kmまでの運賃はこれまでよりも低くなりますが、約2kmから約6.5kmまではほぼ変わらず、約6.5km以上になると高くなります。短距離利用客からの運賃収入の減収を、中長距離利用客の運賃を引き上げてカバーし、業界全体として運賃収入がプラスマイナスゼロにしています。同協会で過去の運送データをもとにシミュレーションした結果、今回の運賃の形が生まれました。今回の変更を、業界では「運賃の値下げ」と言わず「運賃の組み替え」と称しています。

値下げでもあり、値上げでもある「運賃組み替え」が生まれたのはなぜか。タクシー業界誌の編集長(49)によると、2〜3年前に初乗り距離短縮の話が浮上した時は、事後運賃はそのままで初乗り運賃だけを下げるという案でした。
これに対し、比較的短距離の利用客が多いタクシー事業者やタクシー乗務員は「減収になる」などと猛反発。協会内で検討を重ねた結果、今回の形に落ち着きました。短距離客の多いタクシー事業者はそれでも減収になる公算が大きいですが、初乗り運賃を下げて需要を喚起しようという業界全体の流れのなか、承知したようです。 川鍋会長は、乗務員の営業収入に影響が生じる可能性を認識。「(初乗り運賃は値下げになるが)輸送回数は増えるはず。より多くのお客様に乗っていただいて全体としてプラスになれば良いと考えており、乗務員にはデータを整理して訴えたい」と話します。

新宿や六本木など山手線の西側でおもに営業するという男性乗務員(58)は「駅の乗り場のなかには初乗り運賃の利用客が7割か8割を占めるところがあり、それらで営業するタクシーは影響を受けるはず」と乗り場への入構を控える乗務員も現れるのではないかと予想。この度の運賃変更については「うまく需要が増えてくれるとありがたいのだが」と心配げに話していました。輸送回数が増えるかどうかは、利用客次第です。30日昼、新宿西口地下タクシー乗り場でタクシーを待っていた目黒区在住の30代の女性会社員は「ありがたい。2km以内の移動にタクシーをよく利用するので」と運賃変更を歓迎。一方、杉並区の男性(80)は「初乗り運賃が下がるのは良いけど、遠くなるとどうなのか」と首をかしげます。乗り場には、運賃変更自体を知らない利用客も複数いました。30日当日は、主要駅で協会関係者が運賃変更を知らせるチラシを配布しましたが、運賃変更によって需要を拡大するためには、こうした宣伝活動も含めて、利用客に対して利便性をいかに浸透させるかがポイントと言えそうです。

(取材・文:具志堅浩二)http://blogos.com/article/208103/
 
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
                                            
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 722011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上


再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。

言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。

以 上
再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。

以 上

77%が「韓国を外交、経済活動の相手国として信頼できない」

77%が「韓国を外交、経済活動の相手国として信頼できない」

 
 国内に対韓不信が広がっている。産経新聞社とFNNが28、29両日に実施した合同世論調査では、「韓国を外交や経済活動の相手国として信頼できない」との回答が77・9%に達した。「信頼できる」は17・0%にとどまった。韓国は朴槿恵大統領が弾劾されて政治的な空白に陥っていることに加え、釜山の日本総領事館前の慰安婦像設置や、地方自治体首長の竹島(島根県隠岐の島町)上陸などが重なったためとみられる。
慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」とした一昨年の日韓合意についても、86・4%が「韓国が守らないのではないかと懸念している」と回答。「懸念していない」は9・3%のみだった。慰安婦像設置をめぐっては、日本政府は対抗措置として長嶺安政駐韓大使らを一時帰国させ、像撤去など韓国政府の動きがなければ帰任させない方針だ。そうした厳しい日本政府の対応にも国内世論の8割超が理解を示している。
支持政党別にみても、自民党86・8%▽民進党79・0%▽公明党81・0%▽共産党69・8%▽日本維新の会83・3%-と、各党支持層で「政府の対応を支持する」との回答が圧倒的に多かった。http://www.sankei.com/politics/news/170130/plt1701300029-n1.html

再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間

公理系、公準とは数学の述語で 数学を展開する最も基礎をなす、仮定系のことである。
数学ではそれらを基礎に論理的に、厳格に数学が展開されると考えられている。すなわち、数学の基礎である。 2千年以前に考えられた、ユークリッドの平行線の公理、すなわち、 任意の直線に対して、直線外の一点を通ってその直線と交わらない直線がただ一つ(平行線)存在する が有名である。約2千年経って、そうではない幾何学(非ユークリッド幾何学)が現れて、平行線が存在しない幾何学と、無数の平行線が存在する2つの型の幾何学が現れて、現在それらの幾何学も日常の研究で どんどん使われている。
公理系が異なる数学では、世界が違っているので、一応は別数学、別世界と考えられる。そこで、違いは論じられても、相互の直接的な関係は、ほとんど考えられていないと言える。別公理系では、議論できない。
人間が交流できたり、議論できるのは共通の前提、基礎が存在するから、それらの基礎の上にできるということである。 確かに人間は 動物として存在する基礎として、動物の本能や、基本的な基礎が広範に共通するものとして存在している。 これらは、確認するまでもない。 それらは もちろん、本能に基づく面は 共通の基礎として、人間社会の公理系のように基礎になるだろう。衣、食、住を整え、良い市民社会に住みたい、まともな生活を送りたいなどは 誰でも願う共通の基礎と言えるだろう。
本声明の意図は、より上位の、いろいろな判断の基礎をなす、前提となる基礎について言及することである。我々は、何を基礎に物事の判断を行うであろうか?
我々は、その様な基礎を、生い立ちにおける教育、文化、習慣、伝統、あるいは影響を受けた、共感、共鳴する思想、などに見出すことができるだろう。 それは、テレビや新聞、環境の影響を強く受けていると考えられる。すなわち、環境の影響である。
我々が交流をどんどん深めていくと、結局、人生観、世界観、宗教観まで行き着き、最後には、それらの点における相違を認める場面に至るは多い。 そこで、相違をしっかりと認識することになる。時として、見解の相違であるとして、議論や討論、交流を打ち切る場合は 世に多い。議論や討論はそのような形相を帯びる事が多い。
ところが、他方、人間界には 好みや感情がもろに出てくる場合も世に多い。8歳で巨大素数の構造が好きだとか、6歳で、無限に興味がある。 冬山が好きで、危険を顧みず、雪の中でテントを張って過ごしてくる。サーフィン、岩登り、冒険など、世にはいろいろな興味に、関心に強い情念を抱くは多い。これらの個性と多様性には議論の余地が無くて、好きだから仕方がないと表現できるかも知れない。
上記で、人間の基礎をなす の背景を考察した。 いずれも基礎が異なれば、理解や共感、共鳴は 難しいということを述べている。
そこで、本声明の要点は、人間関係でお互いの基礎、数学で言う公理系に当たる部分について 相手と自分の基礎を確認して、さらにそれらの公理系のようなものまでも その是非を慎重に検討して行く必要性に思いを至らしめることである。
我々の前提は、大丈夫だろうか。適切であろうか。我々の基礎は適切であろうか。疑い、他の立場は有り得ないであろうか? 基礎の基礎を省察していきたい。それこそが, 真智への愛と言える。
公理系は、変わる可能性がありいろいろな世界が有り得る。いろいろな公理系を超えて、我々はより自由になり、広い大きな世界を観ることができる。
これは、民族や国家には固有の基礎があり、違えば、違う基礎が有る。人種、性別でも基礎が相当に違い、宗教によっても、学歴や能力、貧富の差や、地域でも基礎について相当な違いが有る。 それらの違い超えて、しっかり背景を捉えて、行こうということを述べている。
さらに言えば、予断、独断、偏見、思い込み、決めつけ、習慣、慣習、それらも時として、省察が必要である。
この声明の背景には 最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の発見がある。 長い間確立されていた定説の変更、新発見である。

以 上

再生核研究所声明 270(2016.1.1): アジアの進化を願って

再生核研究所は 世界の平和を願って、いろいろな提案を行っているが、アジアについても具体的に 建設的な提案を行っている。近年、いわゆる慰安婦問題がわき起こり アジアの世相は 賢いEUに比べて、愚かで野蛮な状態にあると言える。 アジアの進化の為に 簡潔に原理を述べたい。 詳しくは、下記の一連の声明に述べられていると言える:

再生核研究所声明 49:  アジアの愚か者、アジアの野蛮性
再生核研究所声明 94(2012.9.18): 日本国よ こんなことで良いのか ― あまりにもおかしな 日本国 ― 中国に大義あり、日本国の侵略は歴然
再生核研究所声明 98(2012.9.23) 矛盾、日中は戦争状態にある、― 日本はそんことをしていて良いのか、 原因を取り除け
再生核研究所声明 101(2012.10.3) 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識
再生核研究所声明 103(2012.10.12)  日・中戦争の経過と状況の分析 ― 賢明な終戦と和平 
再生核研究所声明 108(2012.12.8) 敗戦国日本よ、 情けないぞ ― 自主独立を求め、米・中との友好関係を 日本国憲法の精神で進めよ。 アメリカは、日本の自治を尊重して、政治介入を控えよ。
再生核研究所声明156(2014.5.1) 尖閣諸島、簡単な算数と 愚かで卑劣な日本国

先ず、日韓問題であるが、慰安婦問題で、妥協したかと思いきや、日・韓両国で激しい反対運動が起こり、両国政府とも大きく傷ついているように見える。韓国の慰安婦問題の提起は、声明101のように、道理に叶ったものではなく、元慰安婦等が不満があれば、自国の政府に保証を求めるのが道理である。戦後保証など いちいち求めていては 戦後はいつまで経っても終わらず、平和を享受することはできない。今回の件、両国政府の思惑通りに行っても、両国の国民感情はお互いに悪化して、その国民感情による損失の方が甚
大であることを冷静に判断すべきである。過去の暗い歴史記念碑を、アメリカなどに立てて 自国のだらしなさ を国際社会に さらけ出すのは アジアの野蛮性として世界の嘲笑をかうだろう。― 表向きには アジアを分断するため、そのようなことを囃すようなこともあるかも知れない。もちろん、日本が そのようなことをしていれば、当然、 日本は批判の的になるが、そのようなことを許した 韓国のだらしさも 同時に批判され、韓国の国民は長く、傷つくだろう。日・韓両国にとって、そのようなことは 何も良いことはないだろう。韓国は、戦前のことに拘らず、日・韓友好親善関係を深めるべきである。これこそ、如何なる外交政策より優れた、実りあるものになるだろう。喧嘩両成敗という言葉があるが、それには一理あると考えるべきである。慰安婦問題などは どっちもどっちのアジアの愚か者、野蛮人たちのことと 世界の人々は思うだろう。
日・中関係では、日本が尖閣諸島の領有権を一方的宣言にして、いわば侵略的な行動をとったもので、日本の非は 歴然である。 日本は責任者の断罪を行ない、中国に謝罪し、元に戻し、日・中友好関係を積極的に進めるべきである。上記声明で、いろいろ提案しているように その後の両国の甚大な実際的な損失を冷静に分析し、大いに反省すべきである。友好親善関係が両国にとって 如何に実際的な利益を生むかを冷静に判断すべきである。日・中関係が緊張すれば、アジアの甚大な損失になることは、歴然である。
中国が南海に進出する状況が 中国拡大戦略の一貫として、宣伝される状況があるが、これは誤解を受けるだけで中国の大きな損失であるから、国際的にも懸念されている中国の環境問題の悪化や経済問題など内政の充実に向かい、軍拡の機運を縮小されることを期待する。もちろん、日・韓もそうである。
上記一連の声明は、帰するところ アジアに乱を起こさず、EUのように賢く 友好関係を深めて、欧米のアジア介入を阻止したいということである。 日・中・韓は 漢字圏として、偉大な中国の文化の影響を深く受けており、民族としても兄弟文化的にも兄弟であるから、漢字圏国家として特別な友好関係を築いていきたい。 過去に拘らず、未来志向で、アジアの進化を期待したい。ここで、日本だけが、調子が良いとは言えない。日本国は原爆を2個も落とされ、都市を破壊され、厳しい戦争で傷ついてきたことを軽く考えるべきではない。大谷杉郎元群馬大学教授は、第二次世界大戦の本質は、世界列強の世界侵略に対する日本の切ない反逆です、と言明されている(第二次世界大戦と日本の良心 ー 大谷杉郎(2007/4/12)夜明け前―よっちゃんの想い(文芸社2009))。結果として、大戦後アジアの国々が独立出来たという事実は 大事ではないだろうか。

以 上

再生核研究所声明 1012012.10.3)  
慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識

戦後60年を過ぎても 韓国は 第2次世界大戦以前の問題、 慰安婦問題や日本の植民地支配を批判したり、さらに謝罪を求めたり、賠償を求めたり、繰り返しているように見える。
これらは、そもそもおかしいのではないだろうか。日本に侵略されたり、 虐待されたりしたとすれば、それは そもそも、自らの国家が、侵略を受けたり、乱暴をゆるしたのであるから、国家としての最も基本的な在りようを疎かにした、自分の国のだらしなさであって、 恥ずべきことではないだろうか。
そもそも 第2次世界大戦以前は 強い国が弱い国を侵略し、滅ぼしたり、虐殺するなど、世界の常識であり、力が世界を支配していたと言える。古くは、平和に暮らしていた国を滅ぼしたり、略奪したりしてきた歴史は幾らでもある。大和はアイヌ人を騙して、侵略を続け、アメリカでもアメリカインディアンを同じように追い詰め、 第2次世界大戦中ですら、愚かにも戦争を仕掛けた、日本国など、原爆を2つも落とされ、何十万という非戦闘員の命を落とされている。大和もアメリカも ご免なさいと謝ったり、賠償をしているだろうか。日本の韓国における非道など、世界史や、第2次世界大戦中でも無視できるほどのことではないだろうか。ドイツはユダヤ人の根絶さえ狙っていたように見える。どうして、 自分の国のだらしなさを 世界に繰り返し、宣伝し、侵略を受けたことへの反省がないのだろうか。 日本は原爆など落とされ、あるいは非戦闘員を多数失ったが、それは戦争であり、自分の国の無力さ、愚かさを反省して、アメリカを批判したり、賠償を求めたり、せず、 友好関係を進め、世界の歴史を進化させようとしている。
弱い、だらしのない国は 侵略を受け、滅ぼされるのも止むを得ないと考えるのが世界史の原理ではないだろうか。 2500年も前、古代中国では、国はどのように軍を備えるべきか、議論しており、孔子も隣国を侵略するように進言している。
再生核研究所は 世界は未だ、野蛮性を有しているから、世界史を進化させ、より良い世界を具体的に示し、世界平和の問題や、人類の在るべき姿について 提案している。未来志向である。世界史を進化させようではないかと訴えている。
韓国の慰安婦問題や植民地時代の問題のぶり返しは、再生核研究所声明 49:  アジアの愚か者、アジアの野蛮性 そのものであり、そのような見識では、同じ民族も、国家も統一できないのではないかと 憂慮している。
日本の大陸侵略の 時代背景、日本人の存念は 大谷杉郎 元群馬大学名誉教授が 心をこめて残された手記 (第二次世界大戦と日本の良心: 夜明け前 よっちゃんの想い (文芸社、84-86ページ) ― 第二次世界大戦の本質は、 世界列強の世界侵略に対する日本の切ない反逆です。― )を参照されたい。より良い対応は有ったと考えるが、日本は 欧米のアジア侵略に正面から反逆して、 結果として、敗れはしたが、アジアの独立を導いた面 も 正当に評価されるべきであると考える。
元慰安婦などとの、日本政府との個別の問題対応などは、韓国への内政干渉であり、そのようなことは 韓国政府を侮辱するものである。そのような対応をとるべきではなく、元慰安婦などが 歴史的事実に不満が有れば、 それは、自分の国家の責任者に対して行うのが道理である。また、いろいろな国際舞台で 韓国は慰安婦問題や植民地時代の政策を批判などしているが、それらは、上記のように、自らの国の 自分達の無能力さを世界に表明しているものであり、いちいち反論したり、議論をすべきではない。無視すべきである。そのようなことで、言い争っていると、 外からみれば、どっちもどっちのアジアの愚か者の仲間と見えるだろう。

以 上


アメリカの原爆投下をカムフラージュするため

そしてアジアを分断させる。

アジアの恥を世界に晒して、再び植民地支配を受けたいのでしょうか・・・・

欧米が、野蛮なアジアを嘲笑した形で褒めるのは当然では・

日本と韓国の関係が悪いとアメリカは困るのですか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14154122804 … #知恵袋_ 困ります。 家来同士の喧嘩、子分同士の喧嘩 対北 対中 にやりづらくなります。

再生核研究所声明 5 (2007/04/08): 靖国神社問題に対する提案:

戦後、60年以上も経た現在においても、機会あるごとに靖国神社問題が取り上げられ、多くの議論が繰り返えされているのは、極めて残念なことである。これでは日本が論理的な思考能力が足りないと言われても仕方がないと考える。声明1の 「公正の原則」 に従ってあるべき姿を提案したい。

1)     先ず、近代に確立した, また確立されなければならない 「政治と宗教の分離の原則」 に 厳格に従うべきであり、よって公人としての参拝は厳格に禁止されるべきである。また同時に 靖国神社に対する国の政策による活動及び補助も当然禁止されるべきである。
2)     しかし、国や社会を良くしようと考える公人たる者が 国の為に殉じた人達に敬意を表わしたいと考えるのは極めて自然であるから、私人としての参拝はこれを禁じるべきではなく、参拝に当たっては個人の立場である事を明確にすること。さらに、戦争で傷ついた諸外国の人たちの心情を察し、これらは慎ましく行い、マスコミなどは双方の気持ちを汲んで 報道に当たっては慎重に扱うように期待したい。
3)     靖国神社の宗教法人としての自主性を重んじ、神社は法人としての責任で運営されるが、法人としての神社は 戦死者を祭っている事に鑑み、常に祭られている人やそのご遺族の方々の心情と国民の意思を最大限に尊重していく事が望まれる。しかし、法人は一法人であり、その法人が運営する宗教に対する個人の対応は 全く個人の自由であり、靖国問題は一法人と個人の自由な関係と捉えよう。
4)     3)の観点で、特に所謂戦犯についての合祀については これを疑問視する考えが諸外国ばかりではなく、日本人の間でも起きることは 日本人の心情と日本の歴史に基づいても理解される。戦いを指揮した者は敗戦に至った場合には責任を果して来ていると考えられる。さもなければ、その指揮下で亡くなった者の立場はどのようになるでしょうか。従って、この点については神社の検討の余地があると考える。-- しかし、戦犯とよばれる人たちも同じ犠牲者であるという立場にも正当性があると考えるが、この点については、国民と被害を受けた諸外国の人々の心情に よく配慮する必要があると考える。
5)     第2次世界大戦について、十分な反省と謝罪の気持ちを表明していき、もろもろの各論的な問題についての無用な繰り返しやぶりかえしをせず、明るい未来の友好親善の視点を強めていくように努力していくことが望まれる。特に 多くの戦争はどちらが悪いかの問題ではなく、戦争そのものが悪であり、双方に悲惨な状況を生み出していくものと考えて行きたい。
6)     戦死者のご遺族の方々は 上記第1―2項についてご不満の念を抱かれるのではないかと考えます。 そこで、日本国の首相は新年に当たって伊勢神宮を参拝するという美しい伝統を持っているのに鑑み、同じように靖国神社を参拝するような伝統を自然な形で作られたら如何でしょうか。ご提案致します。

以上
2.7 第二次世界大戦と日本の良心(2007/4/12):

この感想は、私と同じ年代の人たちには、圧倒的に支持される自信があります。
 「声明」は、軽い現代の常識的立場の整理だと思いました。この程度の見解が「第2次世界大戦について、十分な反省」をした結果だかどうか、頼りないようにおもいました。この声明案の基本的な問題は、「第二次世界大戦をどう考えるか」「いわゆる戦犯をどう考えるか」の二つに絞られると思います。 小学校入学が満州事変、中学入学の時が日中戦争、4年の時に第二次大戦、高専卒業の時に終戦。正に戦争とともに大きくなりました。戦中派として「第二次世界大戦をどう考えるか」という問題についての回答は、「声明」が考えている現代の一般的常識とはかなり違います。
話を進めるために、是非「世界史」を勉強してください。といっても、私の勉強の中心は、
次の資料を折に触れ、繰り返し見て、私の若き日の記憶と照らし合わせるだけです。「総合世界史図表(第一学習社)1987」「総合日本史図表」「コンサイス世界史年表」「世界年表(河出書房)」それに高校の教科書です。今日もこの返事を書くために世界史図表をめくりなおしました。
世界史はまさに戦争の歴史です。とったりとられたり、栄枯衰盛、食うか食われるかの争いです。この図表(全240頁)の半分ほどの120頁以降、欧米各国の世界侵略のすさまじさが記録されています。スペイン、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ、それにロシアなどいわゆる当時の先進諸国が、インド、アフリカ、カナダ、アメリカ、南米、中央アジア、シベリア、にむけた目に余る身勝手な侵略戦争の歴史です。中国だってその渦のなかで、周辺諸国を侵し、欧米からは侵される、不思議なお混乱のなかにありました。これらの大国は、17世紀から20世紀にわたって、世界各地を恐るべき勢いで、傍若無人に侵略しまくって、植民地にしてしまいました。
 20世紀に入った頃、スペインはフィリッピンを、オランダはインドネシアを、イギリスはインド、ビルマ、マレー半島、それにオーストラリアを、フランスはベトナム、カンボジャ、ラオスを、つまり東南アジアの全域を侵略しつくしていました。アメリカも遅ればせながら、スペインからフィリッピンを奪っています。太平洋の島々もイギリス、フランス、アメリカの領地にくみこまれてしまいました。その上、勢いをつけたイギリス、ドイツ、フランス、ロシアなどが、競って中国侵略を着々と実行していました。日本に対しても、中国に対する侵略と同じ手法で、治外法権の外人居留地をもうけたり、不平等条約を押しつけたり、で明治維新以来、侵略の初期段階にあったと思っています。ロシアと中国の清朝も、中国東北地区から韓国へと勢力を拡大すべく圧力を強めていました。
このような欧米諸外国からの侵略に対する危機感や対抗意識が、私の若い頃の日本の底流にあったと思っています。諸外国はみんなお行儀がよいのに、日本だけが侵略者でした、などとはどのようにひっくり返っても言えません。第二次世界大戦の本質は、世界列強の世界侵略に対する日本の切ない反逆です。
 次に「いわゆる戦犯をどう考えるか」です。第二次大戦を前述のように考えているから、戦争裁判がまともなものであったとはとても考えられません。国際紛争には常に二つの正義が存在します。
どちらがより悪い侵略者だったかを考えるべきです。非は明らかに諸外国にあると私は思っています。 どちらがより悪い侵略者だったかを純客観的に考えられる人はいません。非はいつも相手側にあるものです。しかも勝敗がつけば、必ず敗者側に押しつけられるものです。それが正しいなどというわけにはいきません。たった1回の東京大空襲で非戦闘員の一般市民を徹底的に殺戮して10万人の死者を出し、同じ非人道的な殺戮をあちこちの都市でおこないました。その上、1発の原爆で広島20万人の非戦闘員を殺戮したことも許せません。このような桁外れの悪逆非道を犯した犯人を裁かないで、戦争裁判の正当性を主張することなどはとても承伏できません。戦犯問題は茶番です。
戦中派の私の第二次世界大戦と戦犯についての基本的な考え方です。靖国問題などは、わたくしにとって、どうでもいいことです。うまく処理してくれることを願うだけです。

第二次世界大戦と日本の良心の返事
どうも歴史的事実とズレているようです。
第一次大戦終了以降の国際社会は日本も締結した不戦条約に見られるような自衛以外の戦争の違法化に進んでいました。
そもそも1920・30年代の日本は、すでに世界有数の軍事力を持った国家であり、1932年の脱退まで国際連盟の常任理事国でした。
欧米の侵略におびえた幕末期と同じ危機感で国際情勢を語るのは明らかにおかしいと思います。
中国に対する主権侵害を禁じた九カ国条約も締結されており、帝国主義の時代は終焉していました。
このような時代に第一次大戦以前の感覚で中国への侵略を行った日本は残念ながら時代錯誤であったとしか言いようがありません。
また、太平洋戦争の主な発端は中国への侵略によって経済制裁を受けた日本が、戦争継続のため資源を南方に求めたことです。
「ABCD包囲網」というのは日本の自業自得です。
1943年の大東亜政略指導大綱では占領地の「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を帝国領土に編入することが
決定されるなど「アジア解放」の大義名分とはまったく異なる実態を見ることができます。
要するに太平洋戦争は、東南アジアの欧米植民地を日本の統治下に置き、重要資源産出地にいたっては日本領土とするための侵略戦争であり、
そうした意味での「大東亜の新秩序」の樹立です。

再生核研究所声明 139 (2013.10.22):   
正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める

(2013.10.10.16:35 休んでいるとき、構想を練る。これは声明に関心を擁く人からの 要望による。)

まず、用語を確認して置こう:
正義(せいぎ、: δικαιοσύνη、: jūstitia、: justice、: justice、: Gerechtigkeit)とは、倫理合理性法律自然法宗教、公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。東洋のそれについてはのページを参照。
定義[編集]

正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義才能主義身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9より)

また、

義 
義 「己の威儀なり。我+羊の会意」 ・・・ 「羊+我声」 と改めたほうがよい。
 「羊」 を含むのは、 にを含むのと同じく、ヒツジを神に捧げるギセイに常用した習慣に基づく。
 もともと と同じく神への供物が くっきりとかどばって美しく揃っていること。
 <書経、文侯之命> の「父義和」の鄭注に、「義とは匹(そろう)なり」とあるのは、なお原義に近い。
 <礼記、中庸> に「義とは宜なり」とある。また<礼記、祭義> に「義とはこれに宜(よろ)しきなり」ともある。
 転じてすべてかどあるさまを という。(美しい女) とも同系。※ 『漢字語源辞典』(学燈社) p.592
また、
ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEie93AhG2_UN5kSVANI-Di_U03XoIfTY_e_G8CxF5zAJcdyIsHY1gN_3QOpV9yDfiTjhHfs189nZZdotnX4Y2BNPatTciiMUVqCFlAIAuVCe6h-BhKH9KM2meCqUwHeFWu01RhkHMbpSV28/s1600/%25E7%2594%25B2%25E9%25AA%25A8_%25E7%25BE%25A9s.gif.jpg
甲骨文字「義」

https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg-60-QwUq41-Wgrxpxl2Kf1hDNDGhoqnDOhs13Xio8fx80Ar_8dO1Vf3vqllyX_KuCXzjWYTSCKhnamaX11ciYKkjkLuv00MXt7HiSicttZz6jyfUimq_kj2N5pUXYt9ureLrwU8gLQSHX/s1600/%25E9%2587%2591%25E6%2596%2587_%25E7%25BE%25A9s.gif.jpg
金文「義」
「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。
 このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。
 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。
また、
「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。【『一日一書』石川九楊二玄社、2002年)】

上記のように “正義” は 実に曖昧な言葉であることが分る。 義の語源から、戦闘を大義名分にするときに掲げる言語で、重い意味を有する言語ではないだろうか。そこで、正義の意味をきちんとさせたい。 きちんとした解釈を与えたい。
まず、世の道徳や、法や慣習が確立している範囲ならば正義は 次の 公正の原則 で定められるのではないだろうか:
再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは:
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。(公正の原則

1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。

ところが、合戦や戦争では いわゆる約束ごと、ルールを越えて 行われるので、世の一切の法やルール、慣習を越えている。それで、その戦いを正当化する言語、正義は、極めて難しい言語であると言える。ルールは何も無く、ただ戦争の勝利者が正義を定められる と考えるべきである。これは既に 定着している 勝てば官軍 の諺に表現される。合戦には 不意打ち、だまし討ち、陰謀などは常識であり、侵略どころか、虐殺、皆殺しなども世界史には存在する。第二次世界大戦でも 戦闘力のない 敗戦真近かの国に 非戦闘員、民間人の大量虐殺を始めから意図した原爆投下などが 存在するが、戦争だから仕方がないと 世界では受け止められている。 非戦闘員は 巻添えにはしない などの慣習や道義など、一切のルールは 機能していないのが 世界史である。 ― (いわゆる戦時における 慰安婦問題などが 問題にされているが、原爆投下などの 大きな非道に目をつぶって、そのような問題を論じているのは、誠におかしいのでは?(再生核研究所声明 101 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識))。
そこで、勝てば官軍 の現実を受け止め、勝利者が正義を定める としたい。戦争、合戦は 無条件の戦いであり、生きるか死ぬかの 究極の選択と考える。これは生物界に厳然と存在する、食うか食われるかの戦いであり、究極の局面である。(そのような戦争は したくはない。戦争は ゲームのようなものではない、兵士は 権力者の消耗品ではないと言うことである。)。大和朝廷の平定、アレキサンダー大王の遠征、南アメリカへの侵略、北米の支配などなども いろいろ批判されるべき点が有っても、いわば自然法に基づいた 強い者が正義を定める を述べている。
その原理は、今でも同じで、戦いには法は無く、総合的な力が世界を動かしている現実がある。イラク進攻を見れば、歴然であり、法も無く、国連安保理事会も 未だに機能していない。若いアメリカ合衆国は 力の信仰、自由競争による自然法的発想が、もっとも強い国であるように見える。
これで、正義 は 確定し、正確に定義された。
それで、戦争に 正義を掲げるのは、この意味で意味を失うことになる。― もちろん、対立する双方が大義を掲げるのは、当然である。―
世界史は 勝利者によって書かれ、作られて来たと言えるが、その勝利者は、その時代における総合戦による勝利者であって、単に軍事だけで世界が動いたのではないと言える。植民地支配をしたり、侵略して来たのは、勝者として、それだけの力を有していたと、評価できる面が有ることを 認めざるを得ない。自然の生物界の現実が そうであると考えられる。自己防衛は あらゆる生物に与えられた、本能であり、当然の義務、基本的な義務であると考えられる。国防の戦略や災害に対する対策が無い国などは、国家の基本を疎かにしていると批判されるだろう。
再生核研究所は それでは 軍備拡張で富国強兵を考えているのかと言えば、逆である。現在の世界の状況を総合的に理解して、世界史を進化させて、和によって、夜明け前の暗い時代を 終わらせ明るい時代を築こうと いろいろ世界の平和の問題についても 具体的に 提案を行っている:

再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について
再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に
再生核研究所声明 25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて
再生核研究所声明 53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に
再生核研究所声明 111: 日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな

また、戦いに勝利しても、永い歴史のうちでは、文化力で敗北して、結局は 事実上、逆に支配されてしまったような現象は 世に多いのではないのだろうか。幾ら戦争だからと言っても 何をやっても良いでは、戦争には、戦いには勝てず、人間存在の原理や文化、慣習の尊重などは、官軍になるためには 時代に受け入れられる、それなりの大義名分が必要ではないだろうか、全体的な評価は、世界史が 判断するだろう(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
これからの戦争では 完全な勝利を得るものは無く、共倒れの可能性が高いのではないだろうか。大きな本格的な戦争に至れば、人類絶滅の可能性が高いのではないだろうか(再生核研究所声明 137: 世界の危機と 権力者の選出)。

以 上

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。
正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。


Albert Einstein amüsierte sich über Straßenumbenennung der Nazis

Albert Einstein amüsierte sich über Straßenumbenennung der Nazis 

 
Ulm - Die Stadt Ulm hat einen Brief von Albert Einstein erworben, in dem sich der Physik-Nobelpreisträger zur Umbenennung der Ulmer Einsteinstraße äußerte. Er war äußerst amüsiert.
Das Schreiben werde im Februar für kurze Zeit im Haus der Stadtgeschichte ausgestellt, gab Stadtarchivdirektor Michael Wettengel am Montag bekannt. In dem Brief an einen Ulmer Verwandten in den USA bezeichnete der Wissenschaftler die Umbenennung der Einstein- in Fichtestraße durch die Nazis im Jahr 1933 und die Rückbenennung wenige Wochen nach Kriegsende als „drollige Geschichte“, sie habe ihn „nicht wenig amüsiert“.
Der aus Privatbesitz stammende Brief wurde bei einer New Yorker Autographenhandlung für 7.500 Dollar (7.000 Euro) erworben. Das Stadtarchiv erweitert damit seine Sammlung von Originalschriftstücken Einsteins, die einen Bezug zu seiner Geburtsstadt haben. Im Zusammenhang mit der Briefpräsentation sagte Wettengel der Deutschen Presse-Agentur, für eine oft zitierte angebliche Äußerung Einsteins, wonach man die Straße in Anlehnung an das politische Wesen der Deutschen „Windfahnenstraße“ nennen sollte, gebe es keinen Beweis. Auch in dem jetzt angekauften Brief steht davon nichts.https://www.op-online.de/deutschland/ulm-erwirbt-brief-von-albert-einstein-zr-7338983.html

興味深く読みました:

\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics\\
}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
Kawauchi-cho, 5-1648-16,\\
Kiryu 376-0041, Japan\\
\date{\today}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall introduce the zero division $z/0=0$. The result is a definite one and it is fundamental in mathematics.
\bigskip
\section{Introduction}
%\label{sect1}
By a natural extension of the fractions
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, we, recently, found the surprising result, for any complex number $b$
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0,
\end{equation}
incidentally in \cite{s} by the Tikhonov regularization for the Hadamard product inversions for matrices, and we discussed their properties and gave several physical interpretations on the general fractions in \cite{kmsy} for the case of real numbers. The result is a very special case for general fractional functions in \cite{cs}. 
The division by zero has a long and mysterious story over the world (see, for example, google site with division by zero) with its physical viewpoints since the document of zero in India on AD 628, however,
Sin-Ei, Takahasi (\cite{taka}) (see also \cite{kmsy}) established a simple and decisive interpretation (1.2) by analyzing some full extensions of fractions and by showing the complete characterization for the property (1.2). His result will show that our mathematics says that the result (1.2) should be accepted as a natural one:
\bigskip
{\bf Proposition. }{\it Let F be a function from ${\bf C }\times {\bf C }$ to ${\bf C }$ such that
$$
F (b, a)F (c, d)= F (bc, ad)
$$
for all
$$
a, b, c, d \in {\bf C }
$$
and
$$
F (b, a) = \frac {b}{a }, \quad a, b \in {\bf C }, a \ne 0.
$$
Then, we obtain, for any $b \in {\bf C } $
$$
F (b, 0) = 0.
$$
}
\medskip
\section{What are the fractions $ b/a$?}
For many mathematicians, the division $b/a$ will be considered as the inverse of product;
that is, the fraction
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
is defined as the solution of the equation
\begin{equation}
a\cdot x= b.
\end{equation}
The idea and the equation (2.2) show that the division by zero is impossible, with a strong conclusion. Meanwhile, the problem has been a long and old question:
As a typical example of the division by zero, we shall recall the fundamental law by Newton:
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{r^2}
\end{equation}
for two masses $m_1, m_2$ with a distance $r$ and for a constant $G$. Of course,
\begin{equation}
\lim_{r \to +0} F =\infty,
\end{equation}
however, in our fraction
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{0} = 0.
\end{equation}
\medskip


Now, we shall introduce an another approach. The division $b/a$ may be defined {\bf independently of the product}. Indeed, in Japan, the division $b/a$ ; $b$ {\bf raru} $a$ ({\bf jozan}) is defined as how many $a$ exists in $b$, this idea comes from subtraction $a$ repeatedly. (Meanwhile, product comes from addition).
In Japanese language for "division", there exists such a concept independently of product.
H. Michiwaki and his 6 years old girl said for the result $ 100/0=0$ that the result is clear, from the meaning of the fractions independently the concept of product and they said:
$100/0=0$ does not mean that $100= 0 \times 0$. Meanwhile, many mathematicians had a confusion for the result.
Her understanding is reasonable and may be acceptable:
$100/2=50 \quad$ will mean that we divide 100 by 2, then each will have 50.
$100/10=10 \quad$ will mean that we divide 100 by10, then each will have 10.
$100/0=0 \quad$ will mean that we do not divide 100, and then nobody will have at all and so 0.
Furthermore, she said then the rest is 100; that is, mathematically;
$$
100 = 0\cdot 0 + 100.
$$
Now, all the mathematicians may accept the division by zero $100/0=0$ with natural feelings as a trivial one?
\medskip
For simplicity, we shall consider the numbers on non-negative real numbers. We wish to define the division (or fraction) $b/a$ following the usual procedure for its calculation, however, we have to take care for the division by zero:
The first principle, for example, for $100/2 $ we shall consider it as follows:
$$
100-2-2-2-,...,-2.
$$
How may times can we subtract $2$? At this case, it is 50 times and so, the fraction is $50$.
The second case, for example, for $3/2$ we shall consider it as follows:
$$
3 - 2 = 1
$$
and the rest (remainder) is $1$, and for the rest $1$, we multiple $10$,
then we consider similarly as follows:
$$
10-2-2-2-2-2=0.
$$
Therefore $10/2=5$ and so we define as follows:
$$
\frac{3}{2} =1 + 0.5 = 1.5.
$$
By these procedures, for $a \ne 0$ we can define the fraction $b/a$, usually. Here we do not need the concept of product. Except the zero division, all the results for fractions are valid and accepted.
Now, we shall consider the zero division, for example, $100/0$. Since
$$
100 - 0 = 100,
$$
that is, by the subtraction $100 - 0$, 100 does not decrease, so we can not say we subtract any from $100$. Therefore, the subtract number should be understood as zero; that is,
$$
\frac{100}{0} = 0.
$$
We can understand this: the division by $0$ means that it does not divide $100$ and so, the result is $0$.
Similarly, we can see that
$$
\frac{0}{0} =0.
$$
As a conclusion, we should define the zero divison as, for any $b$
$$
\frac{b}{0} =0.
$$
See \cite{kmsy} for the details.
\medskip

\section{In complex analysis}
We thus should consider, for any complex number $b$, as (1.2);
that is, for the mapping
\begin{equation}
w = \frac{1}{z},
\end{equation}
the image of $z=0$ is $w=0$. This fact seems to be a curious one in connection with our well-established popular image for the point at infinity on the Riemann sphere.
However, we shall recall the elementary function
\begin{equation}
W(z) = \exp \frac{1}{z}
\end{equation}
$$
= 1 + \frac{1}{1! z} + \frac{1}{2! z^2} + \frac{1}{3! z^3} + \cdot \cdot \cdot .
$$
The function has an essential singularity around the origin. When we consider (1.2), meanwhile, surprisingly enough, we have:
\begin{equation}
W(0) = 1.
\end{equation}
{\bf The point at infinity is not a number} and so we will not be able to consider the function (3.2) at the zero point $z = 0$, meanwhile, we can consider the value $1$ as in (3.3) at the zero point $z = 0$. How do we consider these situations?
In the famous standard textbook on Complex Analysis, L. V. Ahlfors (\cite{ahlfors}) introduced the point at infinity as a number and the Riemann sphere model as well known, however, our interpretation will be suitable as a number. We will not be able to accept the point at infinity as a number.
As a typical result, we can derive the surprising result: {\it At an isolated singular point of an analytic function, it takes a definite value }{\bf with a natural meaning.} As the important applications for this result, the extension formula of functions with analytic parameters may be obtained and singular integrals may be interpretated with the division by zero, naturally (\cite{msty}).
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\section{Conclusion}
The division by zero $b/0=0$ is possible and the result is naturally determined, uniquely.
The result does not contradict with the present mathematics - however, in complex analysis, we need only to change a little presentation for the pole; not essentially, because we did not consider the division by zero, essentially.
The common understanding that the division by zero is impossible should be changed with many text books and mathematical science books. The definition of the fractions may be introduced by {\it the method of Michiwaki} in the elementary school, even.
Should we teach the beautiful fact, widely?:
For the elementary graph of the fundamental function
$$
y = f(x) = \frac{1}{x},
$$
$$
f(0) = 0.
$$
The result is applicable widely and will give a new understanding for the universe ({\bf Announcement 166}).
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If the division by zero $b/0=0$ is not introduced, then it seems that mathematics is incomplete in a sense, and by the intoduction of the division by zero, mathematics will become complete in a sense and perfectly beautiful.
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section{Remarks}
For the procedure of the developing of the division by zero and for some general ideas on the division by zero, we presented the following announcements in Japanese:
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{\bf Announcement 148} (2014.2.12):  $100/0=0, 0/0=0$  --  by a natural extension of fractions -- A wish of the God
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{\bf Announcement 154} (2014.4.22): A new world: division by zero, a curious world, a new idea
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{\bf Announcement 157} (2014.5.8): We wish to know the idea of the God for the division by zero; why the infinity and zero point are coincident?
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{\bf Announcement 161} (2014.5.30): Learning from the division by zero, sprits of mathematics and of looking for the truth
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{\bf Announcement 163} (2014.6.17): The division by zero, an extremely pleasant mathematics - shall we look for the pleasant division by zero: a proposal for a fun club looking for the division by zero.
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{\bf Announcement 166} (2014.6.29): New general ideas for the universe from the viewpoint of the division by zero
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{\bf Announcement 171} (2014.7.30): The meanings of product and division -- The division by zero is trivial from the own sense of the division independently of the concept of product
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{\bf Announcement 176} (2014.8.9):  Should be changed the education of the division by zero
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\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{ahlfors}
L. V. Ahlfors, Complex Analysis, McGraw-Hill Book Company, 1966.
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
S. Koshiba, H. Michiwaki, S. Saitoh and M. Yamane,
An interpretation of the division by zero z/0=0 without the concept of product
(note).
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{msty}
H. Michiwaki, S. Saitoh, M. Takagi and M. Yamada,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{taka}
S.-E. Takahasi,
{On the identities $100/0=0$ and $ 0/0=0$}
(note).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields. (submitted)
\end{thebibliography}
\end{document}
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
私は数学を信じない。 アルバート・アインシュタイン / I don't believe in mathematics. Albert Einstein→ゼロ除算ができなかったからではないでしょうか。
1423793753.460.341866474681

Einstein's Only Mistake: Division by Zero