2015年2月28日土曜日

定規とコンパスによる作図 (角の三等分問題から転送)

定規とコンパスによる作図
(角の三等分問題から転送)
定規とコンパスによる正六角形の作図
正五角形の作図
定規とコンパスによる作図(じょうぎとコンパスによるさくず)とは、定規とコンパスだけを有限回使って図形を描くことを指す。ここで、定規は2点を通る直線を引くための道具であり、目盛りがついていても長さを測るのには使わないものとし、コンパスは与えられた中心と半径の円を描くことができる道具である。この文脈における「定規」はしばしば「定木」と表記される[1]。定規とコンパスによる作図可能性(作図不可能性)の問題として有名なものにギリシアの三大作図問題がある。
数学的には、定規とコンパスによる作図で表せるのは二次方程式を繰り返し解いて得られる範囲の数であることが知られている。つまり、いくつかの二次方程式や一次方程式に帰着出来る問題は定規とコンパスのみで作図可能であり、反対に帰着できない問題は作図不可能である。「作図可能な線分の長さ」の集合は一つの体をなしている。
目次 [非表示]
1 定規とコンパスでできる作業
2 作図可能数
3 不可能な作図
4 作図可能な正多角形
5 道具の変更と作図可能性
5.1 定規のみ、コンパスのみでの作図
5.2 目盛り付き定規の使用
5.3 折り紙を利用した作図
5.4 拡張された作図問題と作図可能数
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
定規とコンパスでできる作業[編集]
この問題に言う「定規」「コンパス」は現実世界にある実物のそれではなく(参考にはしているけれども)、可能な作業が決まっている仮想的な存在である。そのため、思考実験の一種としてサイズに関しては現実的にありえない無茶なことも想定できる代わりに、実物にできることのいくつかははっきりと禁止される。
「コンパス」はいくらでも小さく、またはどこまでも大きく半径を取ることのできる、仮想的なもので、広げて任意の長さを測り取ることもできる。ただし、測り取れるのは既に作図されている二点間の長さとしてだけである。なお、「コンパス」本体に角度を表示する目的などで目盛りなどの印を打つことはできない。また、作図の作業においては軸は既に作図された点に固定されるものとし、定規や線の上を引きずって線を引くような用途には使用できない。
「定規」はいくらでも長くまっすぐな線を引くことができる。ただし、「定規」に目盛りを打つことは許されない(目盛りがあっても長さを測るのには使わない)。また「定規」だけで引けるのは同時に一本だけであり、複数の平行線を同時に引くようなことはできない。「定規」でできるのは既知の任意の二点を線分で結ぶこと、およびそれを延長して直線にすることである。
仮に目測や近似を使って何らかの作図ができたと主張しても、それは作図問題に答えたことにはならない。間違いなく確実に決まっていることが必要なのである。もちろん(いくらきちんと点や線が作図できたとしても)、目盛りのある定規を使ったり、変形コンパスや分度器その他の道具、手段を利用してはならない。そのようにして得たものは定規とコンパスを用いた作図問題の解決とは無関係な存在だからである。
作図の基本となる作業
これらの条件から、定規とコンパスによる作図でできることは原理的には次に挙げるような作業のみであり、既知の点、直線、円たちからはじめて、それらの作業を有限回組み合わせて繰り返すだけで必要な点や長さを得ることができるならば目的の作図が可能、できなければ目的の作図は不可能であるということになる。
既知の二点に対し、それらを通る直線を引く。
既知の一点を中心とし、それ以外の既知の点を通るような円を描く。
互いに平行でない既知の二直線から、その交点を得る。
既知の円と直線から、その高々二個の交点を得る。
既知の二つの円から、その高々二個の交点を得る。
たとえば、相異なる二点が与えられているだけの最低限の仮定からはじめれば、まずひとつ直線と半径の等しい二つの円を描くことができる。交わる二つの円が得られているのでそれらの交点として新たに二つの点を得ることができる。この新たな二点のうちのいずれかと最初の二点とをそれぞれ結べば正三角形の作図が完成する。
これはつまり、作図という幾何学的な問題は、どのような記号(点や直線、円など)を初めに与えて (initial set)、どのような方法で (algorithm)、どのような結果が得られるか (result) という点に係っているということである。このような側面から言えば、作図問題というのは元が点や直線になっただけの公理的な代数学と等価な存在であるといえる。それを現実のものとし、それによっていくつかの作図問題の不可能性を証明したはじめての人はおそらくガウスであろう[2]。後の時代になってヒルベルトが、著書『幾何学基礎論』においてユークリッド幾何学の公理を完全に厳密な形で与えている[3]。
作図可能数[編集]
平面内に原点 O ともう一つの基準となる点 P が与えられると、O の座標を (0, 0)、P の座標を (1, 0)とするような xy-座標系を平面上で考えることができる。この二つの点を元に定規とコンパスを使った有限回の操作で点 Q (座標を (q, r) とする)が指定されたとすると、体の二次拡大の塔
Q = K0 ⊂ K1 ⊂ … ⊂ Kj ⊂ … ⊂ Kn ([Kj+1 : Kj] = 2 for any j)
が存在して q, r ∈ Kn となっていなければならない。
実際、座標 (a, b) の点を中心として座標 (c, d) の点が円周上にあるような円は
(x - a)2 + (y - b)2 = (c - a)2 + (d - b)2
という方程式によって表され、座標 (a′, b′)の点と座標 (c′, d′)の点を通る直線は
(d′ - b′)(x - a′) + (c′ - a′)(y - b′) = 0
という方程式によって表されている。従って、作図できている点を元にして描いた円や直線の交点として新しい点を求めるという操作はこれら高々二次の方程式を連立させてその解を求めるという問題に帰着される。
とくに Kn の Q 上の拡大次数は 2n であり、Kn の部分体である Q(q) や Q(r) も同様の構造を持っていなければならないことがわかる。したがって Q(p) の次元が 2 の冪にならないような代数的数 p やそもそも代数方程式の根として表せないような超越数 p を座標に持つ点は作図できない。
不可能な作図[編集]
ギリシアの三大作図問題:ギリシア時代の数学者たちによって次の3つの作図が定規とコンパスによって可能か、という問いが立てられた
与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること(円積問題)
与えられた立方体の体積の 2 倍に等しい体積をもつ立方体を作ること(立方体倍積問題,「デロス島の災難」の問題)
与えられた角を三等分すること(角の三等分問題)
現在ではこれらは全て定規とコンパスのみでは作図できないことが証明されている。1837年にヴァンツェルは、角の三等分問題と立方体倍積問題は三次方程式を解かなくてはならないことを示した。非自明な三次方程式の根によって生成される体は拡大次数が 3 になってしまい、そのような数を座標にする点は作図できない。円積問題は、方程式 x2 = πr2 の解を求めることと同値である(π は円周率)。1882年に、リンデマンにより π が超越数であることが証明され、作図が不可能であることが示された。
なお、不可能であることが示されているにもかかわらず、いまだに角の三等分が作図可能であることを示そうとする人々がおり、角の三等分家 (Trisector) と呼ばれている。定規やコンパス以外の道具を使用したり、定規やコンパスを本来とは異なる使い方で使用することで角の三等分を作図(あるいは工作等)することは可能であるが、当然ながら、これらは元々の「角の三等分問題」に対する解答ではない。また、「任意の角を三等分する」という問題であるのに、これを「少なくとも一つの角を三等分する」問題であると勘違いし、直角などが三等分できたのでこの問題を解けたと早とちりする人もいる(角度によっては定規とコンパスで、その角度の1/3の角度を作図できる)。
作図可能な正多角形[編集]
正三角形と正五角形、この2つの正多角形の頂点の数の最小公倍数の値と同じ数の頂点を持つ正十五角形、正方形、およびこれらの頂点の数に2の冪を乗じた数の頂点を持つ正多角形が作図可能である事は古代ギリシアの数学者エウクレイデス(ユークリッド)が著した『原論』に記されており、よく知られていた。長い間それ以上のことは判明しなかったが、ガウスが1796年3月30日に、正十七角形が作図可能であることを発見した[4][5]。同時に正五十一角形、正八十五角形、正二百五十五角形、及び17もしくはこれらの頂点の数に2の冪を乗じた数の頂点を持つ正多角形が作図可能であることも発見されたことになる。ガウスはさらに1801年に出版した『整数論の研究』において、正 n 角形が作図可能であるための必要十分条件が、n が2の冪と相異なるフェルマー素数の積、すなわち
n = 2mFaFb…Fc(Fa , Fb , … ,Fc は全て異なるフェルマー素数、m は非負整数)
の形であることを示した[6]。これは 1 の原始 n 乗根 ζn のガロア群の構造が 2 次拡大の繰り返しによって得られることの特徴付けとして得られる。このような n は、小さい順に(300以下のものを)並べると、
2, 3, 4, 5, 6, 8, 10, 12, 15, 16, 17, 20, 24, 30, 32, 34, 40, 48, 51, 60, 64, 68, 80, 85, 96, 102, 120, 128, 136, 160, 170, 192, 204, 240, 255, 256, 257, 272,…(オンライン整数列大辞典の数列 A3401)
である[7]。
道具の変更と作図可能性[編集]
定規のみ、コンパスのみでの作図[編集]
円や直線についての情報を含まない、相異なる点だけの情報からなるデータから定規とコンパスのみで作図できるようなものは、実はコンパスのみで作図可能であるというモール-マスケローニの定理が知られている。たとえば定規のみを使って平方根を得ることは不可能であり、同様に定規のみで作図できないものがコンパスを使って作図されるということになるが、ポンスレー-スタイナーの定理によれば、(最初のデータの中に)一つの円とその中心が与えられていれば実は作図できる。
目盛り付き定規の使用[編集]
アルキメデスとアポロニウスは目盛りを打つことができる定規を作図問題に取り入れている。これを使えば、線分を写す、二つの直線(または円)を書く、点をとるといったようなことができるので、与えられた点を通りその点で互いに交わるいくつかの直線を描いて、それらに交わる別の直線から、与えられた線分と同じ長さのところにある点をとるといったようなこともできる。これをギリシャ人は直線が点に向かっていくように見えることから「傾向」という意味の neusis(en) と呼んだ[8]。
この作図はエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』が扱っている幾何学の範囲を超えるものであり、エウクレイデスの幾何学では neusis に関する公理も定理もそもそもその存在さえも扱われておらず、したがってそれをつかった作図もすることはできない。この広い意味の幾何学では、既知の長さから三次または四次方程式の解として得られる比を持つ長さならば作図できる。これは目盛りの打てる定規と neusis を使えば角の三等分[9]および立方倍積ができるということである(一方、円積問題についてはやはり不可能なままではあるが)。これによって、正七角形などいくつかの正多角形が作図可能となり、ジョン・コンウェイはそのようなもののいくつかについて作図法を与えている[10]。それでも正十一角形など無数に作図不可能なものが存在するのである。
角の三等分のみを許すときの(上で述べた正七角形や正十三角形、正十九角形というようなものを含む)全ての作図可能な正多角形についての完全な記述は既に知られている[11]。無限に多くの素数 p に対する正 p-角形が定規とコンパスと角の三等分器を使って作図可能であるかどうかは知られていない。
折り紙を利用した作図[編集]
同様に、鋏や糊のような道具を使わずに紙をただ折るだけの折り紙を数学的に扱った理論では、いくつかの理由から定規とコンパスを使った作図よりも強力なことができる(折紙の数学、折り紙公理)。この方法で、三次または四次の方程式を解くことができて、それによりギリシャの三大不可能作図題のうち二つを解決することができるのである。
作図可能な点については、折り紙による作図でもコンパスと目盛りつき定規による作図でも同じだけの能力がある。
拡張された作図問題と作図可能数[編集]
抽象的な言葉で言えば、折り紙や目盛りつき定規といった便利な道具を使った作図というのは、複素数体の部分体としての作図可能数(可設数)の体をより大きな部分体へ拡大するもので、そこには(定規とコンパスで作図できる)平方根をとる操作に加えて任意の元の立方根をとる操作もあわせて得られるようなものも全て含まれる。作図可能な点についての算術的な話は、この大きな体に関しても三乗根を含めて類似の結果を述べることができる。この新たに作図可能となった点によって生成される体の拡大は、拡大次数が2の冪と3の冪の積となるものであり、これは二次拡大と三次拡大からなる拡大の塔に分解することができる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E8%A6%8F%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E4%BD%9C%E5%9B%B3

Announcement 214: Surprising mathematical feelings of a 7 years old girl
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 214: Surprising mathematical feelings of a 7 years old girl
}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
Kawauchi-cho, 5-1648-16,\\
Kiryu 376-0041, Japan\\
E-mail: kbdmm360@yahoo.co.jp\\
}
\date{}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall give the two surprising mathematical feelings of 7 years old girl Eko Michiwaki who stated the division by 3 of any angle and the division by zero $100/0=0$ as clear and trivial ones. As well-known, these famous problems are historical, and her results will be quite original.
\bigskip
\section{ Introduction}
We had met, 7 years old girl, Eko Michiwaki on November 23, 2014 at Tokyo Institute of Technology and August 23, 2014 at Kusatu Seminor House, with our colleagues. She, surprisingly enough, stated there repeatedly the division by 3 of any angle and the division by zero $100/0=0$ as clear and trivial ones. As well-known, these famous problems are historical and her results will be quite original.
\section{The division of any angle by 3}
\medskip
Eko Michiwaki said:
divide a given angle with 4 equal angles; this is simly done. Next, we divide one divided angle
with 4 equal angles similarly and the three angles add to other 3 angles. By continuing this procedure, we will be able to obtain the division by 3 of any angle. Her idea may be stated mathematically as follows:
$$
\frac{1}{4} + \frac{1}{4^2} + \frac{1}{4^3} + ... ...= \frac{1}{3}.
$$
However, her idea seems to be more clear than the above mathematical formula. For this sentence, see \cite{ann3} for the sense of the limit.
\bigskip
\section{The division by zero $100/0=0$}
\medskip
As we stated in \cite{ann1}, she stated that division by zero $100/0=0$ is clear and trivial for our recent results \cite{cs,kmsy,s,ttk}. The basic important viewpoint is that division and product are different concepts and the division by zero $100/0=0$ is clear and trivial from the own sense of the division, independently of product \cite{ann1}. From the viewpoint, our colleagues stated as follows:
\medskip
On July 11, 2014, Seiichi Koshiba and Masami Yamane said at
Gunma University:
The idea for the division of Hiroshi Michiwaki and Eko Michiwaki (6 years
old daughter) is that division and product are different concepts and they
were calculated independently for long old years, by repeated addition and
subtraction, respectively. Mathematicians made the serious mistake for very
long years that the division by zero is impossible by considering that division
is the inverse operation of product. The division by zero was, however, clear
and trivial, as z/0=0, from the own nature of division.
\medskip
On February 21, 2015, Seiichi Koshiba and Masami Yamane visited our Institute and we confirmed this meaning of these sentences and the basic idea on the division by zero.
\medskip
(2015.2.27)
\bigskip
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances inLinear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operations on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics (in press).
\bibitem{ann1}
Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics,
Institute of Reproducing Kernels, 2014.10.22.
\bibitem{ann2}
Announcement 185: The importance of the division by zero $z/0=0$, Institute of Reproducing Kernels, 2014.11.28.
\bibitem{ann3}
Announcement 213: An interpretation of the identity $ 0.999999...... =1$, Institute of Reproducing Kernels, 2015.2.26.
\end{thebibliography}
\end{document}

客観的と感情的・・日韓の領有権主張広報を比較、すべて日本がリード・・韓国ネット「あえて“ずさん”に?」「決定的な証拠がないから…

客観的と感情的・・日韓の領有権主張広報を比較、すべて日本がリード・・韓国ネット「あえて“ずさん”に?」「決定的な証拠がないから…
」韓国メディア・YTNは26日、日本が22日に「竹島(韓国名:独島)の日」の行事を行うなど、“日本の露骨な独島挑発”が続く中、日韓両国の竹島の広報サイトなどを比較、韓国側は「ずさん」だと報じた。
報道は、日本の外務省が解説しているサイトについて「簡潔なうえ、イラストを適切に使用して理解しやすい」「地図や各種資料で日本の立場を細かく説明している」と紹介。一方で、韓国外交部のサイトは「よく整理されてはいるが、内容が固くて難しく、一般人が理解するのは難しい」とした。また、プロモーションビデオについても、日本のビデオが「客観的事実を示している印象を与える」のに対し、韓国のビデオは「感情に訴える印象」と紹介。嶺南大独島研究所も「メッセージ性、分かりやすさ、魅力のすべてで日本がリードしている」と評価した。
日本は最近、首相官邸ホームページにも竹島広報サイトを載せるなど攻勢を強めていることから、韓国の専門家からは「効率的な独島広報システムを急いで準備しなければならない」との指摘が出ているという。
このニュースに対し、韓国ネットユーザーからは様々な声が寄せられている。
「日本政府が求めるなら、独島などいくらでも差出しそうな雰囲気。日本の顔色ばかりうかがっている」「この国の政府が問題。強制労働をさせられた人に199円という屈辱的な金額が送られてきたのに、政府は抗議する、遺憾であると言う以外は何もできない。口先だけの親日派」
「政権には親日派が多いから、あえて“ずさん”に徹しているのかもしれない。朴大統領の任期中、日本に渡らないことを願う」「コメントを付ける時は、建設的な意見を書いてほしい。独島に関する知識などを書いてくれたほうが、いろんな人の役に立つ」
「政府は独島に気を使う余裕はない。血税で贅沢する以外は何も考えていない」
「独島は統一後、韓国が核保有をする場合は、奪われるだろう。日本は非核化を主張し、韓国は否定。金正恩も当然否定。日本はこれを危機だと騒ぎ、独島を奪う機会を得る」「独島を奪われないと目が覚めないかも」
「独島が韓国領という決定的な証拠がないから、感情に訴える言葉しか出ないのかも。昔も日本の人がやってきて魚を取っていたり、木も持っていたけれど、当時の政府は何も言わなかった。俺にはこういう態度が理解できない」
「韓国の年老いた保守は日本にぺったり」
「独島に海兵隊を投入しろ。すると、日本は国際裁判所に行こうと主張する。その時は応じない。朴大統領は私たちに選ばれたのだから、しっかりして、こういう時は国民をスカッとさせてほしい」「ニュースで独島の日本名をわざわざ言うのは、日本の広告になるからやめたほうがいい」「サイトは作ることも重要だが、運営がもっと重要」
「独島挑発、もう厭きた」
「そろそろ賭けに出る時期かもしれない。東海の表記は日本海というので譲るから、独島の領有権は韓国に・・・そういうのはどうかな」
(編集 MJ)
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間

公理系、公準とは数学の述語で 数学を展開する最も基礎をなす、仮定系のことである。
数学ではそれらを基礎に論理的に、厳格に数学が展開されると考えられている。すなわち、数学の基礎である。 2千年以前に考えられた、ユークリッドの平行線の公理、すなわち、 任意の直線に対して、直線外の一点を通ってその直線と交わらない直線がただ一つ(平行線)存在する が有名である。約2千年経って、そうではない幾何学(非ユークリッド幾何学)が現れて、平行線が存在しない幾何学と、無数の平行線が存在する2つの型の幾何学が現れて、現在それらの幾何学も日常の研究で どんどん使われている。
公理系が異なる数学では、世界が違っているので、一応は別数学、別世界と考えられる。そこで、違いは論じられても、相互の直接的な関係は、ほとんど考えられていないと言える。別公理系では、議論できない。
人間が交流できたり、議論できるのは共通の前提、基礎が存在するから、それらの基礎の上にできるということである。 確かに人間は 動物として存在する基礎として、動物の本能や、基本的な基礎が広範に共通するものとして存在している。 これらは、確認するまでもない。 それらは もちろん、本能に基づく面は 共通の基礎として、人間社会の公理系のように基礎になるだろう。衣、食、住を整え、良い市民社会に住みたい、まともな生活を送りたいなどは 誰でも願う共通の基礎と言えるだろう。
本声明の意図は、より上位の、いろいろな判断の基礎をなす、前提となる基礎について言及することである。我々は、何を基礎に物事の判断を行うであろうか?
我々は、その様な基礎を、生い立ちにおける教育、文化、習慣、伝統、あるいは影響を受けた、共感、共鳴する思想、などに見出すことができるだろう。 それは、テレビや新聞、環境の影響を強く受けていると考えられる。すなわち、環境の影響である。
我々が交流をどんどん深めていくと、結局、人生観、世界観、宗教観まで行き着き、最後には、それらの点における相違を認める場面に至るは多い。 そこで、相違をしっかりと認識することになる。時として、見解の相違であるとして、議論や討論、交流を打ち切る場合は 世に多い。議論や討論はそのような形相を帯びる事が多い。
ところが、他方、人間界には 好みや感情がもろに出てくる場合も世に多い。8歳で巨大素数の構造が好きだとか、6歳で、無限に興味がある。 冬山が好きで、危険を顧みず、雪の中でテントを張って過ごしてくる。サーフィン、岩登り、冒険など、世にはいろいろな興味に、関心に強い情念を抱くは多い。これらの個性と多様性には議論の余地が無くて、好きだから仕方がないと表現できるかも知れない。
上記で、人間の基礎をなす 知と情の背景を考察した。 いずれも基礎が異なれば、理解や共感、共鳴は 難しいということを述べている。
そこで、本声明の要点は、人間関係でお互いの基礎、数学で言う公理系に当たる部分について 相手と自分の基礎を確認して、さらにそれらの公理系のようなものまでも その是非を慎重に検討して行く必要性に思いを至らしめることである。
我々の前提は、大丈夫だろうか。適切であろうか。我々の基礎は適切であろうか。疑い、他の立場は有り得ないであろうか? 基礎の基礎を省察していきたい。それこそが, 真智への愛と言える。
公理系は、変わる可能性があり、いろいろな世界が有り得る。いろいろな公理系を超えて、我々はより自由になり、広い大きな世界を観ることができる。
これは、民族や国家には固有の基礎があり、違えば、違う基礎が有る。人種、性別でも基礎が相当に違い、宗教によっても、学歴や能力、貧富の差や、地域でも基礎について相当な違いが有る。 それらの違い超えて、しっかり背景を捉えて、行こうということを述べている。
さらに言えば、予断、独断、偏見、思い込み、決めつけ、習慣、慣習、それらも時として、省察が必要である。
この声明の背景には 最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の発見がある。 長い間確立されていた定説の変更、新発見である。
以 上
再生核研究所声明 49(2011.2.16):  アジアの愚か者、アジアの野蛮性

ヨーロッパから、アジアをみると、アジアは愚かで、野蛮地域にみえてくるので、それらの実相について考察し、アジアの民の自覚と進化を期待したい。背景には、EUでは 通貨を統一して、往来を自由にし、ドイツを統一、ヨーロッパ全体が一つの国のようになる方向で進んでいるのに対して、アジアでは未だに朝鮮の統一もできず、同じ民族が対立する愚かさである。 日本国は アジアの大国、中国に対峙させられ、外国軍の基地さえ用意して、小さな国で 世界第二、第三位の軍事費をかけて、平和憲法を有しているなどと勝手に名のっている。 美しい文化を有する日本は、政治においては、EUから見れば、アメリカの属国のようで、自主性も、自立性もなく、やっと政権交代して まともな国を目指すかと期待されたら、逆に、検察、マスコミの大騒ぎで、政権交代の大義がぼけて、政局の混乱を招く有り様である。 財政、経済厳しい折りにも拘らず、国会は党派争い、法も道理も大義も社会正義すら主張できる政治家も少ない。 日本国は アジアではまともな国と評価されるが、それでも マスコミ、検察の 本分を弁えない低落は、アジアの後進性の象徴とも言える。EUでは考えられない後進性、野蛮性である。多くの国民は政治に不満や不信を感じているが、有効な手段が分からず、日常生活に埋没している。 日本国は全体として政治的には衆愚の状態にあると言える。
大局からアジアを見てみよう。 まず、なぜ、同じ民族、かつては同じ国家だった朝鮮が 統一できないのであろうか。アジアの民の愚かさの典型的な特徴は、過去のことばかり問題にして、絶えず、過去の事件にかえり、 未来志向ができないという点にあるのではないであろうか。繰り返し過去の問題を掘り起こしては、お互いに行き詰っている。大局的に歴史を見ることができず、視野が狭いのも特徴である。アジア全域がほぼ植民地支配を受けていた、自分たちの反省すらできない有り様である。 植民地支配を受けていた歴史的な事実は、自分たちの国を守れなかったという観点で、大いに反省すべきである。侵略されたのは恥ずべきことである。 敗戦は さらに恥ずべきことで、愚かさゆえに戦争に突入させられ、敗戦しているのである。 日本などは政治的には、いわば今なお敗戦を続けているようであり、戦前以下の見識しかない。 同じ民族が争う愚かさに目覚め、朝鮮の統一を進めるべきである。 再生核研究所はその統一の進め方について、声明37で具体的に提案している。 アジアは一致して、朝鮮の統一を支持して、働きかけるべきである。 賢明なドイツの統一のように。
アジアには 領土問題、島の問題があるが、これもアジアの愚か者、アジアの野蛮性の特徴である。 中国の偉大な指導者 鄧小平氏は、領土問題は未解決の問題として棚上げして友好関係を進めよう と述べていた。 強欲な人間たちが島に立ち入らなければ、豊かな自然が より豊かな幸を周辺国にもたらすのが理解できないように見える。 いや、領土問題で緊張させたり、 紛争する愚かさに気付かない人はいないはずだから、 結局は アジアに紛争を起こして 漁夫の利を得ようとする人たちの 意図に そそのかされている、それこそ アジア植民地時代のように アジアの愚か者 の特徴ではないだろうか。EUやアメリカから見れば、アジアに紛争が起きて、自滅すればよい、かえって都合がよいと考えられる観点に気付くべきである。
アジアには、族意識、村意識、国意識、民族意識の野蛮性が強く残っていて、ことあるごとに噴出している。 さらに、アジアでは 個が 確立しておらず、個人の尊厳と生命さえも おろそかにしている。 これは民族、国家が入り混じり、深い交流のあるヨーロッパでは 理解できない、野蛮な感覚ということになるのではないだろうか。人種が違う、国籍が違う、そのような感覚が EUには存在しないように見える。 内面的には分からないが、アジアとは違って、表面に出すことは 恥ずべきことで できないような状況を 文化が支えているように見える。自由、平等、博愛の精神、そして、キリスト教の文化的な伝統が背後にあるのではないかと感じられる。 人種問題、国籍問題、個人の尊厳などは ヨーロッパから見ると偏狭な、変な見方、アジアの野蛮性とみえるであろう。
EUが 一つの国の方向に着実に進んでいるのに、どうして、アジアでは内紛と抗争が続いているのだろうか。 アジアの相当な領域に 仏教と儒教の文化と伝統があり、漢字圏としても共通の文化基盤がある訳であるから、より統一的な友好圏を作るのは 極めて自然であり、歴史をそのような方向で 進めるべきである。 紛争と対立からは何も得ることはなく、逆に友好関係が相互に大きな利益をアジアにもたらすであろう。その骨格の方向を次のように志向したい:
1) 朝鮮の統一に協力、配慮する。 当面、南北朝鮮の友好関係に配慮する。(再生核研究所声明 37 : 金正日氏を世界史の英雄に ― 朝鮮問題に関心を寄せる世界の人々に を参照)
2) 日本は、アメリカに対して徐々に より自立する姿勢を確立して、日中友好関係に格別の配慮をする。(再生核研究所声明 25:日本の対米、対中国姿勢の在りようについて、再生核研究所声明 46:日本国の1つの国家像、あるべき姿について 参照)
3) 偉大な中国は アジアの指導国として、伝統ある儒教の精神で 友好関係のうちにアジア全域の繁栄のために努力すること。アジアに脅威を与えないように 大人の外交を行うこと。
反対側に存在する 超大国アメリカについて 簡単に 上記文脈で触れておきたい。
アメリカは 第二次世界大戦後の世界を指導してきた偉大なる超大国であるが、軍事大国の色彩を強くして、軍事でなければやっていけないような国家の佇まいを 今やなしている。 誠に残念である。 あたかも紛争を 世界に輸出していかなければ やっていけないような状況に見える。 自由と民主主義の大国として、軍事を抑え、民生を豊かにする方向で、世界を指導して頂きたい。アメリカは世界史を直接進化させる能力が有るのだから、世界史の進化のために努力して頂きたいと 強い期待を表明しておきたい。(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判 参照)
世界の財政、経済が厳しくなる折り、外国のアジア介入を阻止して、耐えながら、苦しい世界状況に耐えていく必要があると考える。アジアは 共生の精神で絶えず、世界とともに友好関係に配慮していくべきである。
以 上

 
どこかに愚かな地域はないか。
過去に拘る国や領土問題など利用できる。

アジアの愚か者
逆問題:逆に考えてみよう。 アジアに内紛を起こさせて、アジアをアジア植民地時代に戻したい。 沢山兵器を輸出して、アジア人同士が血を流し、アジアの人口を減少させたい。 
さらに検察庁とマスコミを弱体化させて、衆愚政治に導き、国家意思が働かないようにしたい。
アジアを内紛で衰退させる、アジアの愚か者を沢山養成したい。
それには、教育を画一型にして、考えない人間・考えられない人間を養成する必要がある。 
考える余裕がないようにするには、雑知識やゲームのような学力に熱中させれば良いのでは???
全てアメリカの思惑通り
慰安婦問題でまず韓国寄りで日韓の対立を煽り
韓国を中国と近づけ日本が狙ってた米中の間でパイプ役として
上手い事やろうとしてたのを拒み米中韓の距離感を演出し
日本の孤立感と危機感を煽った
結果何が起きたかと言うとTPPでも軍事面でも日本はアメリカに更に近づくしか なくなった
軍事面でここまでアメリカの為に動かざるおえない状況を作ったのも
お見事だよ
やはりアメリカは1枚も2枚も日本の上を行ってる
対北では韓国軍で十分だが対中国では日本にその役割を押し付けたいからね
ここまでアメリカの思惑通りでお見事としか言いようがない

アメリカは、シリアがダメならイラン攻撃ですか?
イランもダメなら何処?
SNSでキューバ政府の転覆狙った? 米政府は否定
アメリカ自身は、中国と正面きって戦争をしたくないので、属国である日本を使って日中戦争を起こさせ、双方共倒れさせる事を企んでいるんじゃないんですか。
米海軍、新兵器の開発続々 ペルシャ湾でレーザー砲実験も
ttp://www.cnn.co.jp/usa/35046496.html?tag=top;subStory
イラク空爆も選択肢=地上軍の派遣なし-米
米陸軍を大幅削減、1940年以来の水準に 国防長官が方針
一国を支配したい、 先ず、マスコミ、 政治家、 高官を 手なずけなくては。 
できれば 検察を支配して、 不都合な者を逮捕などしたい 
これ、常識では。 逆に考えて、 賢くならなければ。
奴隷・下層民同士を争わせ憎しみ合わせ支配層に憎しみが行かないようにすることは支配の基本といえる?
「中国軍侵入」国境地帯、インドが空軍基地計画
その時は日本の古来の美しい文化に反して、醜いアジアの狐の役割を演じさせられるだろう。
安倍首相や櫻井よしこ さんが、何故欧米で歓迎されないのかと質問されました。― 欧米の進んだ世界観からすると、偏狭な愛国者は野蛮な嫌な人たちと見えて、幾ら近づきたいと思っても、嫌らしい感じを持つのでは。石原氏などもそうですね。
どこかに、愚かな地域はないか。危機を煽って、兵器を売りたい、軍事費を増やしたい。島問題で、騒いでいるような地域は 都合が良い。できれば、マスコミに圧力を掛けて、煽りたい。
「新聞を信頼」86% 読売新聞調査
無人偵察機検討、サイバー対応強化…防衛大綱
防衛省 自衛隊に水陸両用部隊の機能http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130708/k10015876181000.html
日本と中国、韓国が敵対して得するのは誰ですか?
結局日本と中国、韓国が敵対して得するのは国民では無い気がするのですが。
アメリカは日中に戦争して欲しいと思っていますか?
アメリカと中国は 裏で 手を握っていると 思われる。
韓国は 昔から 属国の国 つまり 飼い犬
いまは アメリカと 中国の 飼い犬
アメリカと中国は 裏で 手を握っていると 思われる。
それを 嗅ぎ取った 韓国は 日本相手に
わめき散らしている という構図ですわ


ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。

3.30 美しい国、日本(2008/2/11):
今日は、建国記念日です。日本には、世界に誇るべき美しい文化と人類を導く良い考え方があると思います。 多額の借金と少子化及び教育の荒廃によって、このままいくと日本国は、衰退の道を辿る事にならないでしょうか。 何とか、日本国の再生を期したいと思います。 もちろん、日本国の神話は大事にすべきではないでしょうか。
美しい国、日本
日本は美しい島国です。
豊かな水で多くの川が流れています。
日本には山が多く、山々は緑に覆われ、また雪に覆われたりしています。
日本の空と海は美しく、多くの詩と夢を育んできました。
日本は大きなひとつの家族のようで、みんな一緒に助け合ってきました。
言葉がなくてもお互いに理解でき、細長い国のため、四季とともに多様性にとんでいます。
日本には天皇陛下がおられて、家々の氏神様の頂点におります。 
天皇陛下のおられる皇居は 日本の美しいものの、心の源になっています。
ですから先の大戦では 天皇のお言葉一つで 完全なる終戦を迎えることができたのです。
京都は千年をこえる日本の都でしたので、日本人の故郷です。
多くの人は京都を訪れて、故郷に帰ったような不思議な郷愁を感じるのです。
伊勢は古代からより古い日本人の故郷です。ですから日本の首相は新年にまず伊勢神宮を参拝するのです。
日本の文化には 自然とともにある繊細さがあります。俳句や和歌を多くの人々が愛でて、人に優しく気遣いができるのです。遠くのインドのお釈迦様の教えや中国の孔子様の教えが、美しい風土からうまれた神道と共に溶け込んでいるのです。
これが世界に唯一つしかない 美しい日本国です。

国の借金、943兆円=最高額を更新-6月末
国の借金、3月末に過去最大の1024兆円に
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
日本の債務は2015年度に1000兆円(内閣府)
日本の財政を考える  より


再生核研究所声明 11 (2007/09/14): 国の構成について
まず 国家の意味について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しておこう http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6:
法学・政治学においては、以下の「国家の三要素」を持つものを「国家」とする。これは、ドイツの法学者・国家学者であるゲオルク・イェリネックの学説に基づくものであるが、今日では、一般に国際法上の「国家」の承認要件として認められている。国家の三要素:
領域(Staatsgebiet:領土、領海、領空)- 一定に区画されている。
人民(Staatsvolk:国民、住民)- 恒久的に属し、一時の好悪で脱したり復したりはしない。
権力(Staatsgewalt)ないし主権 - 正統な物理的実力のことである。この実力は、対外的・対内的に排他的に行使できなければ、つまり、主権的で(souverän)なければならない。
このモデルにおいては、国家とは、権力が領域と人民を内外の干渉を許さず統治する存在であると捉えられているのである。領域に対する権力を領土高権(Gebietshoheit)、人民に対する権力を対人高権(Personalhoheit)という。国際法上、これらの三要素を有するものは国家として認められるが、満たさないものは国家として認められない。この場合、認めるか認めないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第四の要素に挙げる場合もある。
声明10において、絶対的な世界の平和が実現したとき、いわば世界が全体として1つの国のような存在になるから、そのときには国の構成はそれほど重要な意味を為さない時代を迎えることになる。そのときの国とは、その構成員たる人民の自由な意志によって、国が構成され、如何なる国といえども、その力によって強制されるべきではなく、また強制すべきではない。これを保証することは地球防衛軍の基本的な任務であり、目的である。すなわち国家とは、全ての人民のために存在するのであって、如何なる人民も犠牲にしたり、強制したりしてはならないのであって、人民は国家に対して不満を有するときには自由に望む国家を構成できるものと考えよう。歴史上武力によって成し遂げられた所謂独立戦争は、平和な民主的な自由な意志によって、今後は自由に独立を認めていくべきである。国際機関が このように自由な国家を構成する権利を 全ての人間に基本的な人権として生存権ともに保障することを求めます。みなさん、これは決して難しいことではなくて、世界全体が日本国のようになり、国々が日本国の都道府県のようになればよいのです。このような世界を実現させ、暴力のない世界をつくり、世界の愚かな軍事費を 美しい世界の営みにまわそうではありませんか。
以 上

2015年2月27日金曜日

記事 猪野 亨2015年02月17日 11:55裁判員制度の意義が揺らぐ? だったら死刑にすべきなのか 岡田成司氏の見解

記事
猪野 亨2015年02月17日 11:55裁判員制度の意義が揺らぐ? だったら死刑にすべきなのか 岡田成司氏の見解
毎日新聞に以下のような見解が掲載されました。
岡田成司氏という文筆業の方のご意見ですが、あまりにその内容に問題があるので、これを題材にして裁判員制度について検討してみたいと思います。全文そのものが批判の対象となりますので、そのまま掲載します。
「みんなの広場:薄れる裁判員制度の意義=文筆家・岡田成司・40」
(毎日新聞 2015年02月16日 東京朝刊) (北九州市小倉北区)
裁判員裁判で言い渡された死刑が破棄されたり、懲役22年の判決が差し戻されたりと、市民裁判の存在意義が薄らいでいることに歯がゆさをおぼえる。
裁判員制度が導入された背景には、社会の常識と良識を司法に反映させるため、判決にいたるまでの迅速な処理、被害者の尊厳回復や遺族の救済を実現させる目的があったはずだ。
裁判員に選ばれた市民は、被告人を再び私たちの住む社会に迎え入れることができるか、被害者と遺族の立場に立って熟考し、社会正義の遂行を願っているのだ。それを、職業裁判官たちが六法全書や判例を盾にして覆す有り様である。彼らが見ているのは、紙の上の手続きと出来事なのだ。
市民が持つ、被害者と遺族に寄り添う「思いやり」の精神が欠落しているのならば、裁判員裁判など絵に描いた餅でしかない。裁判官たちには、プロ意識よりも謙虚さを求めたい。
最高裁が裁判員裁判による死刑判決を破棄した東京高裁の判決を支持し、検察側の上告を棄却しました。
マスコミなどはこぞって先例重視などという言われ方もしていますが、実質的には法の下の平等の要請です。
同じような事案で、この被告人は裁判員が死刑にしたのだから死刑、方や無期懲役としたなら無期懲役、というのでは特に死刑事案では、明らかに不合理です。
岡田氏の思考には、この視点が一切、抜け落ちてしまっているのです。
それを「職業裁判官たちが六法全書や判例を盾にして覆す有り様」などと主張するのですが、全くもって見当外れの批判でしかありません。
岡田氏が主張するこの部分も明らかに間違っている部分です。
「裁判員制度が導入された背景には、社会の常識と良識を司法に反映させるため、判決にいたるまでの迅速な処理、被害者の尊厳回復や遺族の救済を実現させる目的があったはずだ。」
「被害者の尊厳回復や遺族の救済を実現」とはどのような意味で用いているのでしょうか。裁判員制度の導入目的は、司法審意見書(2001年6月)には次のように書かれています。
「国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が、自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される。」
要は、国民に対し、今までの国家依存体質を改めて統治に責任を持てということなのですが、それだけのことです。ここに裁判員制度の意義があるということなのですから、岡田氏の主張する裁判員制度は独自の見解でしかありません。
もとより、いずれの裁判員制度の意義も有害無益でしかなく、さっさと廃止されるべきものであることに変わりありません。
岡田氏のこの部分は刑事手続きが全く分かっていないということを示しています。
「市民が持つ、被害者と遺族に寄り添う「思いやり」の精神が欠落しているのならば、裁判員裁判など絵に描いた餅でしかない。」
岡田氏の見解では、裁く側が公正中立な判断者とはほど遠く、もろに被害者に対して感情移入をしてしまっていることを肯定しています。これでは公正な裁判ができようはずもありません。
仮に被告人の有罪が認定した後であっても同じことです。量刑判断において、感情移入したままで判断することが公平と言えるはずもないのです。
刑事訴訟手続は憲法31条以下で規定されているように、本来的に罪を犯したと疑われた被告人を刑事手続きに則り、有罪であるかどうかを認定し、有罪である場合には刑罰を科す手続きです。
要は、刑罰によって本来的に自由であることに対し制約を課すということです。死刑判決は生命を奪う手続きであって、刑事訴訟手続きは、被告人の人権を制約する手続き、即ち、国家 対 被告人の構図になる手続きです。
岡田氏は、この基本原則がまるで理解できていないのです。
そして言うに事欠いて、「裁判官たちには、プロ意識よりも謙虚さを求めたい。」だそうですが、刑事手続きの正義が何たるやを全く理解できないことを露呈しているだけなのです。
この岡田氏の根底にあるのは、裁判官非常識論ですが、マスコミなどが流した俗説をそのまま無批判に受け入れ、垂れ流しているだけのものです。http://blogos.com/article/105815/

再生核研究所声明 16 (2008/05/27): 裁判員制度の修正を求める
素人の意見を広く求めることは、古来から行われてきた重要な考え方である。しかしながら、それらを型にはめて、一律に行う制度は、制度として無理があり、社会の混乱と大きな時間的、財政的、行政的な無駄を生み、更に良い結果を生むどころか、大きなマイナスの結果を生むだろう。 幾つかの問題点を具体的に指摘すると
(1) 制度を実行し、進めるには大きな行政的な手間と時間が掛かる。特に財政厳しい状況で大きな無駄を生む。
(2) 一般の人が裁判に関与することは、はなはだ問題である。その様なことで、時間を費やす事を好まない人や、ふさわしくない人、また希望しない人が相当数現れることが考えられる。多くの人は、そのようなことで時間をとられたり、関与することに、耐え難い苦痛を感じるだろう。
(3) 選ばれた少数の人による判断が、全国的なレベルで公正さを維持するのは難しく、また公正な裁判を要求し、期待することには無理があると考えられる。それを要求するには 大きな負担を一般の人たちにかけ過ぎる。
(4) 大きな社会で、裁判において、一律一様の考えには、無理があり、ある程度の専門性を取りいれないと、運用上も、無理が生じると考えられる。
(5) 戦後60年以上も経っていながら、裁判が遅れることに対する批判はあっても、裁判制度や裁判結果に対する批判が殆どないのは異例であり、この観点からも日本の裁判制度自身は高く評価されるべきであって、改めるべき本質的な問題は生じていないと考えられる。
上記のような状況に鑑み、例えば一律の考えを改め、裁判に参加を希望する者を公募して登録しておき、その中から選んで参加して頂く等の修正を速やかに行うべきであると考える。少なくても、裁判に強制的に参加させるべきではなく、参加しない権利を明確に認めるべきであると考える。また裁判制度の問題は別にして、一般の裁判についても、従来は、密室で判決が検討されてきているが、広く意見を聞くことは必要であり、また逆に人々が意見を述べることができるようにしておくのが良いのではないかと考える。ご検討を期待したい。 以上。

「子無し税」議論 様々な意見噴出

「子無し税」議論 様々な意見噴出
2015年2月26日 11時3分 web R25
2013年の日本の合計特殊出生率(ひとりの女性が一生で産む子どもの数を表す)は1.43
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女性限定の匿名掲示板「GIRL’S TALK」で、「子無し税を作るべきだと思います」と主張する人がトピックを立て、議論が白熱している。
【もっと大きな画像や図表を見る】
トピックを立てた女性は、「子有りの方々は子無しの方々より社会に貢献しているからです。次世代につなぐ、子孫を残すというある種生物として当然の義務を子無しの方々は果たしていないわけですから」と持論を展開。そのため、「具体的には30歳以上65歳以下の子無し男女に、毎月月収の2%を納めさせるというのはどうでしょうか?(例:月収30万円なら毎月6000円)」という提案をしているのだ。
この女性自身は、独身で子供もいないとのこと。自分も「子無し税」を払うことを前提としたうえでの意見だ。これに対し、1万以上の「共感する」ボタンが押されるなど、反応した人は多数。意見としては
「少なくとも今のバラマキ政策よりは理にかなっているし、社会的な収入にもなり、少子化抑制につながる一歩ではないかと思いました」
「良いと思う
子供出来ずに治療中ですが、このまま授からない場合は主様の意見に大賛成!
子供を産めず申し訳ないって気持ちから、少しは解放されそう」
などと賛成する声がやや目立つ。ただ、
「扶養控除あるんだし、こどもの医療費の補助、手当など既に子どもがいるお家は優遇されてます。
…と言う事で、子供のいない人は既に負担してると言えなくないです。
子どもがいる私でさえ、それは納得できません。
子どもがいない人に負担させる前に、今きちんと税金を支払って無い人の方が問題じゃないでしょうか」
など、子供がいる人が優遇される制度がすでにあることから、反対する意見もあった。
デリケートかつ、立場によって意見が大きく変わるであろうこの話題は、ネット上で広く取り上げられ、ツイッターでも拡散。
「子無し税ってLGBTはどうなるんだろ。
子供欲しくてもできない場合どうするの。
全員が全員異性愛者ばっかりじゃないと思うんだけどさ」
など、同性愛者などの多様性を考慮に入れるべき、という意見や、さらには、
「モテないだけでも悲惨なのに、モテるやつを支えろとまで言うのか…」
「クリスマスとバレンタイン廃止と引き換えならば子無し税払ったろ」
など、“非モテ”の立場からの投稿も登場した。
これだけ議論になるのも、少子高齢化がすすむ社会について、問題意識が広がっていることのあらわれなのかもしれない。

これは 扶養手当 育児手当の逆の発想ですね。
子無し税の発想の方が良くないのでは?
再生核研究所声明 15 (2008/05/24): 空虚な日本の社会
バブル崩壊後の日本の社会とは、いたるところに現れた借金財政、無責任な責任者の態度とそれを許している社会、経済の停滞、精神の空白と無気力、教育の空洞化などである。これらは空虚な社会と表現されよう。もし日本国の再生がならず、このまま衰退を続ければ、世界の歴史には、かつてアジアに栄えた、ユニークな文化を持った日本国が存在したが、戦後の教育を誤ったために衰退して、かつての日本国をしのぶような国は いまや世界のどこにも無い と記録される時代を迎えるだろう。
何と、国、地方合わせて1000兆円を越える借金を抱えても、政治家もマスコミも危機感が足りないと言えよう。国防の最高責任者が接待漬けで、大臣がどこの国の国防大臣か分からないような発言をしていたのである。町まちはシャッター通りと称されて、衰退を続け、農村も荒廃を続け、若者は派遣社員として不安定な状況に追い込まれている。教育はただ勉強して良い大学に入る事を考えればよいという 受験勉強に退化したり、無気力に陥ったりしていて、本来の教育の理念さえ失っている時代とも言える。これらは氷山の一角で、象徴的な状況と言えよう。そこに現れた社会とは、中身の薄い空虚な社会である。評価といって評価を考えようとすれば、よくやっているように見せかける為の書類作りや講演会などのセレモニーである。パンフレットや報告書が 社会にあふれた時代とも言えるだろう。評価されるべき元のもの、本務に取り組む時間と資金をそのために浪費しているような状況がいたるところに現れた、奇妙な時代を迎えていると言える。公務員はいわゆる親方日の丸で 税金がひとりでに入ってくるように感じている風潮で、貴重な税金といった考えが足りないと言えるだろう。
これでは、約5兆円もの防衛費をかけていても、日本国は外国軍の侵略を受ける前に、自滅、衰退してしまう状況ではないでしょうか。橋本大阪府知事のように、地方を、国を立て直す気迫ある若者達の立ち上がりと国民的な奮起を期待したい。
それには先ず大きなマイナスの仕事を減らし、公務員の財政意識を高め、綱紀を引き締め、公僕たる精神を初心として、国、地方の建て直しに取り掛かるように要請したい。危機意識を国民が共有して立ち上がる必要があると考えます。国、地方の豊かさはすべての基礎になるものであるから、おのおのの立場で、地域ごと経済再建にも努力して行きたい。教育問題にも抜本的な取り組みと検討が加えられなければならない。教育界も無気力、無責任な状態と言えよう。教育にも何か魂を入れる必要があるのと考える。江戸時代の幕末や明治政府には しっかりしないと外国の侵略を受けてしまうという危機感と連帯感があったと考える。今しっかりしないと 国が衰退してしまうという危機感と連帯感をもって国民が立ち上がるべき時である。
それらを展開する基本は 有能な人材を要所に配して、各級の人事を大幅に刷新することである。活力ある人材によって沈滞した社会を再生させる必要があると考えます。
国家は 大戦や地震など災害によって滅ぶことがあるが、多くの場合には、戦後50年を越えて内部から衰退するものである、という世界の歴史を想起したい。 以上。
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
国の借金、3月末に過去最大の1024兆円に
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん

日本の財政を考える  より
日本の借金時計
財部 誠一  財部 誠一ジャーナルより
全国都道府県の借金時計 より
日本の借金時計   (数字はうそをつかない)より
新政策機構「チームニッポン」 より http://www.team-nippon.com/
日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタより
リアルタイム財政赤字カウンターより
日本経済復活の会 http://www.tek.co.jp/p/debt_time.html
U.S. National Debt Clock : Real Time http://www.usdebtclock.org/
社会保障給付、100兆円に迫る 09年度、失業手当急増http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011102801000608.html
65歳以上、総人口の23.3%=過去最高を更新―高齢社会白書http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120615-00000026-jij-pol

国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。

欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 
I AM NOT MOVING - Short Film - Occupy Wall Street
次のような侮辱されたレポートに対して、石破氏はどの様にして、国の財政を建直すのかを国民に説明し、内部から崩壊しかねない日本国を建直す為、国家の安全の基本を説明していただきたいと思います。
国の財政が破綻すれば、援助や防衛、安全どころではありません。
これは2001年9月にIMF(国際通貨基金)に近い筋のアメリカの専門家により作成されたというレポートで、その内容は国家財政の破綻をきたした国(レポートでは特に特定はされていないが想定しているのは日本)を如何にIMFが管理するかを記したアクションプログラムです。仮に、日本の国家財政が破綻し、IMF管理国になり「ネバダレポート」が実施されるとどのようになるかと言えば、下記に記した要点の内容が実施されると書かれています。
(ネバダレポートの要旨)
1. 公務員の総数および給料の30%カット。ボーナスは全てカット。
2. 公務員の退職金は100%カット。
3. 年金は一律30%カット。
4. 国債の利払いは5~10年間停止。
5. 消費税は15%引き上げて20%へ。
6. 課税最低額を年収100万円まで引き下げ。
7. 資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の5%を課税。債券/社債につい
   ては、5~15%の課税。株式は取得金額の1%課税。
8. 預金は一律ペイオフを実施するとともに、第2段階として預金額を30~40%カットする。
まさかこんな事態は来ないと考えているのは日本の国民だけなのかもしれません。今や日本国債の価値はG7国の中で最低、さらに言えば人口170万人ながらも多くのダイヤモンド鉱脈を持つというアフリカのボツワナ共和国の国債よりも低い格付けになっています。そんな価値の日本国債を所有するのは、その40.3%を公的機関が所有し、33.7%を民間の金融機関が所有しています。つまり全体の74%が国民の個人資産を預けたお金で所有されていることになります。
更には、日本円の発券銀行である日本銀行が15%も所有している事をご存知でしょうか?
日銀は法律により国債を直接購入(政府=財務省よりの購入)する事は禁じられているので、市場で国債を購入しています。つまり、自分でお金を刷ってそのお金を基にせっせと国の借金の肩代わりをしている訳です。ここまでで、既に日本の国債発行残高の内89%は内国で消化されている事になります。
では、内国以外の外国人による所有の率はと見てみれば全体の3.3%しかない事が判ります。
つまり残り7.7%は、今度は個人向け国債と称される国民個人による国債購入によりカバーされている訳です。簡単に言ってしまえば、日本国の借金の内、約97%は国民が国にお金を貸している状態ということになります。ここで、この率を他の国と比較すると日本の特殊性が見えてきます。アメリカ国債は、その39.9%が海外所有者で、ドイツ国債は40.3%が海外所有です。
借金の殆どを国民からしているのだから、仮に国家が倒産したとしてもIMF管理国になる事はないであろうと思うのは早計です。日本の現在の状況を貸借対照表においてみれば、資産765.31兆円、負債992.71兆円、差引き227.4兆円の赤字となります。要は、日本株式会社は、その所有する国内の土地、有価証券、機械設備等を全て売却してもなお227.4兆円の借金が残る事になります。
一方、昨今の日本では景気上昇により明るい未来が来ているように思われていますが、景気が良くなれば当然税収増は期待できます。しかし一方で金利も上昇、金利が上がれば国債の利払いも増加します。更に、低金利で発行された国債の価値は下がり、これは国債の大量売りに繋がり国債価格の暴落という事態を引き起こします。このような状況の後にくるのは結果的に財政破綻です。仮に、政府が国民の個人資産を全て巻き上げて借金を棒引きにしたところで、先の貸借対照表で見るとおり明らかなように、それでも227.4兆円の赤字が残る訳です。この赤字を解消する為には外国(国際通貨基金=IMF=アメリカの管理下にある)からお金を借りざるを得ない訳です。そしてIMF管理下国になれば、前記したレポートが実施されるという筋書きになります。仮にこのレポートが実施されれば、経済的に日本はアメリカの植民地にならざるを得なくなります。以下略

ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。
日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります - マザー・テレサ


再生核研究所声明45(2010/07/23):第2次世界大戦と第3次世界混乱
この課題は重いので、まず ( … みんなで考えていこうというのが声明の精神です。
みんなで、社会を良くするにはどうしたら良いか、自由に意見を交換して、より良い社会を作るために貢献したいと思っています。政治は大事ですから、それを避けず、より良い政治が行われるようにするのは、大事な要素になります。戦争、平和、経済、教育の基本に関わりますから。私は教育もおかしいと思っているので、いろいろ考察して、意見を述べていきたいと思っています。しかし、何よりも大事なことは、個々の意見ではなくて、このようにいろいろ考え、いろいろな意見をまとめ、多くの人の意見を交換していくことと思っています。私は、そのきっかけを与えようとしているに過ぎません。──哲学は教えられない、ただ哲学することが教えられるだけだ──という言葉が想い出されます。私は、専門家や知識をもっている人だけが良識や見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。ですから、いろいろな広い人たちからのご意見やご提案を期待しているのです。2009 年7月23 日にて: 夜明け前 よっちゃんの想い(以下YYと略す) 序文 最後)を想起したい。さらに、最近繰り返し注意しているように、イラク問題(YY. 101-102)やロッキード事件におけるもみ消し事件などに見られる(欧米では時間を越えて 真理、真実を追求しようとする文化がある (これは神の前に出るときには 清い心で望みたい という宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には 誤魔かしたり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに 深く根ざしているとも言える。 声明38)というように 日本では、歴史を直視できず、したがって、きちんと反省できず、同じような過ちを繰り返しているという、日本の本質的な弱点を重く受け止めるべきである(過去のことは過去のこと、と片付けるならば、我々は、未来まで片付けてしまうことになる - ウインストン・チャ-チル)というのが、この声明を考えた原点である。 なぜならば、日本は また第2次世界大戦と同じような誤りを繰り返す危険性が極めて高いと考えるからである。
さて、第2次世界大戦とはそもそも日本にとって何であったか、その本質は尊敬する大谷杉郎 群馬大学名誉教授が精魂を込めて書かれた文章の 次の文に簡潔に表現されていると考える: ( 第二次世界大戦と日本の良心 靖国神社問題に対する提案に対して/大谷杉郎(2007/4/12) … 。第二次世界大戦の本質は、世界列強の世界侵略に対する日本の切ない反逆です。… YY. 84-85)。 実際、当時の厳しい時代背景が述べられ、戦争に巻き込まれていった様が良く表現されている。 時代背景を顧ない表面的な事実の羅列は空しく、アジアの人々と共に時代背景を 反省を込めながら、共有したいと考える。 反省とは なぜ西欧列強にアジアが侵略され尽くされて来たかという重い事実である。日本国がアジアの弱小国家であったら、果たしてアジア諸国の独立が実現していたであろうかと考えざるを得ない時代背景である。さらに、当時の世界情勢を考えると 日本が戦端を切らずとも いずれいろいろな理由をつけて、戦争に突入させられていたのではないかと考えさせられる。
さて、現在の世界に目を移したいと考える。 日本国の防衛のためには、核武装が必要であるとか、軍備の重要性を主張する人たちがいる。これに対して、二元論の立場から、第3次世界大戦は起らない、起こせないと主張して、30年を越えている(YY. 217-218)。核兵器は戦艦大和のように もはや使えない無用の長物である。 国防の責任者たちは、また興味ある日本国民は 世界の核兵器使用の危険性について、またハードな戦争に巻き込まれる危険性について 冷静に、正確に、世界の状況を分析すべきである。 第2次世界大戦前にも、冷静に世界の状況を分析できれば、戦端を切るような愚かな役回りをするはずはなかったのではないだろうか。小学生や中学生に地球儀を見せて、世界を相手に戦った様を説明すれば、愚かな選択をしたと子供たちは判断するのではないだろうか。社会体制の在りようを評価しても、世界史における大義ある(声明41)戦争とは言えないと断定せざるを得ない。
第3次世界大戦は起きないと考えるが、世界混乱は起きる可能性が高いのではないだろうか。 その形相は金融不安、経済不振に絡んで、世界的な規模になるのではないだろうか。先ず、アメリカと日本の膨大な債務はいずれ、破綻を迎える危険性が大であり、いずれの破綻も世界を直撃し、世界混乱の発端になると危惧される。そのとき、ちょうど第2世界大戦の戦端を切らされた悪周りを 日本が再び背負わせられる危険性が高いと、ちょうど当時の世界状況と最近の国内状況を考えながら、危惧している。この声明の趣旨は、ちょうど第2次世界大戦の戦端を切ったと同じような悪周りを、日本が世界混乱をひき起こす原因にならないように警戒すること、及び世界混乱に陥った場合の対策を国家として講じるように 注意を喚起することにある。
民主主義は本質的に衆愚政治になる危険性が高く、国民が賢明になる必要があり、全ての責任は 第2次世界大戦の苦しみと同じように、結局自分たちの上にのしかかることを国民が自戒するのは当然である。ここで、マスコミの果たす役割の重要性を指摘する必要がある。 戦前、戦中、日本のマスコミは何ら有効に機能せず、敗戦において、大きな反省をしたはずであるが、現状は如何であろうか。ただ雑な情報を流したり、偏っていたりして、国家と国民を導く、重要な役割を果たしてはいないと評価せざるを得ない。マスコミは賢明になり、きちんと的確に情報を掌握し、適切に国民に提供するように期待する。また、国を導く建設的な提案を積極的に行って頂きたい。日本の言論界の在りようとレベルも同じようなものであると言える。
ところで、上記、世界混乱を避けることができたとしても、永く苦しい時代を 日本は世界と共に 耐えることになるだろう。そのような時代への準備も 多面的に講じる必要があるのではないだろうか。 要の心得は 国際社会そのものである アメリカ、中国、EUとの友好親善関係を大事にして、徹底的に耐えることではないだろうか。日本の文化力は戦前以下であり、欧米のレベルに いまだ達していないと考える。

再生核研究所声明 102(2012.10.10):  成果主義の弊害について
特に アメリカからの影響と考えられるが、成果主義という 概念と言葉 が世に氾濫して、のんびりとしてはいられない世相 になって来ている。これは 優雅な感じであった ポルトガルでも 年年ひしひしと感じられる状況である。主に大学で暮らしてきた者なので、大学を主に想定しながら、その弊害を考察して置きたい。
背景であるが、アメリカでは、 多様な人種、民族が共生し、自由と平等、正義と公正 を建国の精神としており、そもそも客観的な評価を行なうは それらの基礎であり、そのために、評価システムについては 良くも悪しくも、世界で最も発展していると考えられる。それゆえに、評価、成果主義の背景には 普遍的な要素があると考えられる。正当な評価の客観化である。それらに加えて現れた要素として、財政状況が厳しくなり、 資金配分の効率化の観点から、重点配分や競争的な資金の配分である。こうなると、良い成果が挙げられる計画、貢献できるところに重点的に配分するという考え方から、成果主義の観点が強まって来る。
これらは、資金や待遇の配分に関する考え方であるが、人物評価と研究資金や予算の配分に分けて考えよう。
人物評価についてであるが、これは給与や昇任における評価で、当然、多様であり、複雑で、日本には伝統的に いわゆる 年功序列の基本的な考え が有ったが、何らかの客観的な指標によって人物を評価して、それらの指標によって処遇しようということである。
典型的なのは、大学では、研究業績、教育実績、社会貢献、学内行政貢献度などで 評価が数値化され、それによって 給与に反映されるような状況が現れている。いろいろな組織・社会でもそのような傾向が現れているのではないだろうか。
人物評価ばかりではなく、予算配分でも、期待される貢献度に応じて、資金を重点的に配分していくことは 貴重な予算を使う立場からは当然である。
上記のように考察すると、評価、成果主義には当然の背景があり、基本的に諒であると考えられる。しかし、特に 成果主義 には 何か嫌な語感が するのではないだろうか。そのような暗い面について 考察して置きたい。
そこで始めに ウィキペディア から、状況を押さえておこう:
労働意欲の向上 [編集]
成果主義により、向上心がある人は、より自分を高めようと努力する。
残した「成果」の高い人が、「成果」の低い人よりも多くの仕事をしている(成果をあげている)にもかかわらず、給与面での差が小さい場合、不満につながり、結果として商品の生産性や品質が落ちる可能性があるが、「成果」で給与を査定することにより、高い生産性を維持できる(と期待される)。しかし、成果主義による目立った成功例がなく、合理的でないとの指摘もある。また、従業員の会社への信頼感が低下して社員の能力の弱体化に繋がるとの発表もある(企業活力研究所[1])。
成果主義の欠点 [編集]
客観性のない基準 [編集]
成果は、売り上げ以外だと「品質向上の度合い」や「社員の技術力」など数値で表すことができず、客観性を見い出せないものも多い。査定者が人間である以上、査定者の基準次第で貢献量に対して成果が食い違うといったことになりがちである。査定者が社員に近いと、無意識に評価にバイアスがかかってしまう可能性もある。
また、査定基準の設定次第では「貢献したのに評価が下がった」「がんばっても評価が上がらない」という事態にもつながる。また、経営者側が単に「人件費抑制」のために成果主義を導入し、査定者が(個人的に)気に入らない従業員に対し、主観的・恣意的に悪い評価をつけ、従業員全体の人件費を抑えるケースも間々ある。
挑戦意欲の低下 [編集]
売り上げや品質が下がれば「成果が下がった」と見なされやすい。そのため、「売れるかわからない=査定が下がる」リスクが大きくなる新規の商品や意欲的な商品、そして冒険的な商品には誰も担当したがらなくなり、「安定して高い売り上げが期待できる=査定が上がりやすい」人気商品や定番商品だけにしか人材が集まらなくなる。さらに、それでも挑戦したい者がいても、巻き添えで査定を下げられたくない雰囲気になるため反対意見が続出し、失敗するリスクが高いと考えられる商品は企画が通りにくくなる。そのため、製品ラインナップには人気・定番商品のみが並ぶようになり革新的な商品・技術が生まれにくくなってしまう。
短期的な目線・結果だけの追求 [編集]
将来性といった長期的な貢献や、意欲や途中の過程(プロセス)はほとんど評価されない。そのため、後につながる商品や技術を開発したとしても目標が達成できなかったり、売り上げが低かった場合は評価が上がりにくい。そのため自主目標を設定できても短期的なものかつ達成しやすい内容になってしまう(目標を達成しても、それに対する手当や報酬が支給されるとは限らない)。
横のつながりの希薄化 [編集]
他人あるいは他部署に技術を教えるということは、すなわち相手に成果を上げさせ、自分が蹴落とされることになる可能性がある。そのため部署間はもちろん、制度によっては先輩・後輩間でも技術の継承が希薄になってしまう。また他部署が優秀な技術を持っているのにそれが使えない・使いたくないという事態につながり、効率や品質が悪化してしまう。
導入したものの頓挫した例 [編集]
いちいち容易に想像されることがよく纏められている。 要点は次のように纏められるのではないだろうか。
1) 適切な評価ができるかの 評価の問題。 特に、本来の業務や職務とは 無関係な指標で 評価している状況は 世に多いと言える。
2) 評価をあからさまに行うことの 人間関係への悪影響、競争的な感情が人間関係を悪化させる要素、評価される側も、する方も 嫌な感情を重く持つ。
3) 評価し、実行するための要務の増大。
何でも行き過ぎは良くなく、 評価は簡単な方法で、あまりぎすぎすさせないように、あまり成果、成果といった雰囲気にならないように配慮するのが 良いのではないだろうか。 
余裕を持った柔軟性のあるやりよう、扱いが大事ではないだろうか。その方向での基本的な考えは、年功序列の考え方の良い背景、生活権、基本的な生存権における対する優しい配慮ではないだろうか。世に多く現れた現象は ぎすぎすした世相、成果が上がった、努力したようにみせかける 様々な見せかけの書類作りや演出 ではないだろうか:
そこに現れた社会とは、中身の薄い空虚な社会である。評価といって評価を考えようとすれば、よくやっているように見せかける為の書類作りや講演会などのセレモニーである。パンフレットや報告書が 社会にあふれた時代とも言えるだろう。評価されるべき元のもの、本務に取り組む時間と資金をそのために浪費しているような状況がいたるところに現れた、奇妙な時代を迎えていると言える(再生核研究所声明 15: 空虚な日本の社会)。
評価なども 本来は成果や、業績を評価すべきことが、逆転して、見掛け上の評価を良く飾るために 意や努力を重ね、本来期待された業績の展開を阻害している状況さえ多い(再生核研究所声明 70: 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。
以 上
あく‐びょうどう 〔‐ビヤウドウ〕 【悪平等】
[名・形動]何もかも一律に平等に扱うこと。形の上だけ平等にして、かえって不公平になっていること。また、そのさま。「頭割りでは―な仕事だ」
近年いろいろな計画や政策が、場当たり式で、もともと見方が甘いずさんな計画である事が、到る所に見出されるのではないでしょうか。
全てが場当たり式、短絡的な計画が多くなされていると思います。
その原因は、深いのですが、一つの観点として、成果主義の導入 風潮があるのではないでしょうか。
最近話題になったAIGの役員のボーナスが巨額で、しかも破産寸前に追い込まれています。
成果主義をとると、関係者は、自分の在任中に見かけ上最大の成果が上がる様に、考えがちです。
するとその後は、どうでもよいという考え方になってしまいますから、極めて危険な経営のあり方になってしまいます。
これと同じようではないでしょうか。
関係者は、自分の在職中に、成果を上げたいと思い、後の事は、十分な配慮がなされなくなってしまうのではないでしょうか。
これでは世の中上手くいくはずはないのではないでしょうか