2014年10月30日木曜日

「神は生物を進化するよう造った」 現ローマ法王も肯定

「神は生物を進化するよう造った」 現ローマ法王も肯定
宇宙が誕生したビッグバン進化論も、神の教えと矛盾しない――。ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は28日、天地創造に関する科学の理論を肯定した。
世界の高名な科学者が集うバチカン科学アカデミーでの会合で語った。法王は「世界の始まりは混乱の産物ではない。創造主の手がビッグバンを必要とした」「神は、自然の法則に従って進化するよう生物を造られた」などと述べた。旧約聖書は、神が6日間で天地を創造したと記す。地動説を唱えたガリレオへの17世紀の異端裁判などで非科学的と思われがちなバチカンだが、1950年から進化論を認めてきた。ただ保守派の前法王ベネディクト16世は「神の創造を信仰で理解することと科学による証明は対立しない」と述べる一方で、「進化論はすべての問いに答えてはいない」と発言した。生命の誕生や進化に何らかの「知的計画」が働いたと主張し、米国で支持を集めるキリスト教右派への追い風と受け止められていた。(ローマ=石田博士)http://www.asahi.com/articles/ASGBY51F2GBYUHBI00W.html
そうると人間が進化するとどうなるか、が気になります。
再生核研究所声明 144 (2013.12.12) 
人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である

(2013.12.6.3時45分 夢の中で新しい原理を 情景を交えながら発見し、目を覚ましました。グローバリゼーションの危険性と、人類滅亡の原理です。 声明の案にできそうです。適切か検討します。 ― その夢は 農村地帯で、1軒の農家の畑だけが緑の野菜で覆われ、 広い農地は 灰色になって広がり、異様であったが、一人の青年が、グローバリゼーションの影響で他の農家がやって行けず、 農家では お金が入らないと言っていました。人類滅亡の概念は哲学的、根本的な大事な原理を述べているが、それは その後 夢、うつつ に考察したものである。 成文化を試みたい。)
上記の中で、閃めいた 原理は 端的に述べれば、 いわゆる進歩は 末期への進歩であって 原理的に終末に近づいている ということである。 そして 進歩には 必然的な、エントロピー増大の法則のように 必然性が有るのではないだろうか。 良く生きるということは 必然的に 終末を上手く受け入れるように 精神構造が 本能的に作られているのではないだろうか。
さらに、 人は 人間存在の原理で、いろいろ知りたい、 いろいろ原因を知りたいと 真理を追究するが、その先には、生命の空しさと 自分の無智を知らされ、結局 生命と人生の否定に繋がり、 安らかな悟りに至るという、人間観、人生観である。
人は 先に、先に進もうとしているが、それは、自滅への道であり、 夢中で生きているのが 生命の実相ではないだろうか。 ちょうど子供たちが、夢中で はしゃいでいるように。
知ることも、真理を追究するのも 危険である。 しかしながら、エントロピー増大の原理のように 追及しないではいられないのが人間で、 それは 人間の 定めであると考えられる。
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、あわてず、 自分の心の状態を尊重する ということである。
人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
しかしながら、結局、人生では 始めも、終わりも分からず、夢中で、踊っているようなものであるとすれば、 やはり空しく、 寂しいものだ と考えるだろう。
この空虚を満たすには、健全な精神の 健全な進化による、悟りと神への帰依が望まれる(再生核研究所声明 132: 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか)。
以 上
追記 参考資料(ウィキペディア):
定義[編集]
進化とは、生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である[2][1]。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある[3][4]。この定義により、成長や変態のような個体の発生上の変化は進化に含まれない[1][2]。
また狭義に、種以上のレベルでの変化のみを進化とみなすこともあるが、一般的ではない[3]。逆に、文化的伝達による累積的変化や生物群集の変化をも広く進化と呼ぶこともある[3]。日常表現としては単なる「変化」の同義語として使われることも多く、恒星や政治体制が「進化」するということもあるが、これは生物学でいう進化とは異なる[4]。
進化過程である器官が単純化したり、縮小したりすることを退化というが[3]、これもあくまで進化の一つである。退化は進化の対義語ではない。

独楽(こま)

独楽
日本の独楽
独楽(こま)は何らかの塊を軸を中心として回転させて遊ぶ伝統的な玩具の一種。軸の先は細くなっており、周りにバランスをとるための重りがついている。
目次 [非表示]
1 独楽の分布
2 歴史
2.1 日本における歴史
3 独楽の型
3.1 一般の独楽
3.1.1 回し方
3.2 複雑な構造の独楽
3.3 空中の独楽
4 独楽の運動
4.1 一般的な独楽の運動
4.2 空中の独楽の運動
4.3 特殊な運動
4.4 機械的にあり得ない運動
5 遊び方
5.1 回す
5.2 競う
5.3 曲芸
5.4 賭ける
6 主なプロの曲独楽師
7 関連
7.1 独楽の種類
7.1.1 特殊なコマ
7.1.2 特定企業が開発したコマ
7.2 地域の独楽
7.3 応用
7.4 その他
8 参考文献
9 外部リンク
独楽の分布[編集]
木製の独楽(スロヴェニア)
Spinning tops
独楽は世界各地でみられ、それぞれ独自に発生したものと思われる。各地に独特なものが見られる。
一般には子供の遊びと考えられているが、マレーシアのガシンのように、地域によっては大人も巻き込んだ楽しみになっている場合もある。賭ゴマは大人の遊びである。また、日本の曲ゴマや中国の空中ゴマなど、芸能として認められている。
日本では、独楽作りは各地の民芸品、木地玩具としても作り続けられている。現在では淘汰が進んでしまったが、地域の名を冠する各地に固有の独楽はまだまだあちこちに残っている。特に九州には多くの独楽が知られている。
歴史[編集]
『L’enfant au toton』Jean-Baptiste-Siméon Chardin (1735年)
独楽は極めて古い歴史を持つ。ひねりゴマが最も簡単なこまで、これが初めであると考えられるが、実質的な証拠としてはぶちゴマが古くから存在したことが確認されている。エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見されているが、これは木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマと考えられる。古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られる。
ぶちゴマは、胴を横から鞭で叩いて回す独楽であるが、回し始めの時には先ず紐を巻いてそれを引くことで回すものがある。どうやらこれが紐で回す投げゴマの起源となったらしい。ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになる。そこで見られる独楽は投げゴマとぶちゴマが半々程度である。19世紀末からは、工業の機械化や加工技術の進歩によって、より複雑な独楽が工夫されるようになった。また、コマの性質を工学的に応用したジャイロスコープもこの頃実用化された。
日本における歴史[編集]
日本では6世紀ころにぶちゴマのような木製の出土品があるが、確実にぶちゴマだとは言い切れない。また、平城京跡や奈良県藤原宮跡などからも7~10世紀ごろのものと思われる独楽、または独楽型の木製品が出土している。平安時代ごろにはすでに大陸から伝わっており、独楽を使って遊んでいたと言う記録がある。これもぶちゴマであったらしい。また、宮廷の儀式などにも使用されていた。14世紀、『太平記』にはこまという言葉が出てくるが、これはこまつくり(古末都玖利)を略したものである。また、東北地方では、すぐりなどと、最初の2文字を略していた。
18~19世紀にかけてヨーロッパでは独楽が流行したが、日本でも江戸時代には独楽が大進歩を遂げた。博多ではそれまでよりはるかに精密で長く良く回る独楽が作られた。これは博多ゴマと呼ばれ、この独楽を使って曲芸を見せるのが現在まで伝わる曲ゴマの始まりとなった。元禄年間にその記録がある。しばしば禁令も出されたようである。
江戸の子どもたちは巻貝を加工した小さな独楽の回しっこをしていたことが伝えられており、これが明治中期に金属となって現在のベーゴマになった。ベーゴマも当初はぶちゴマであったらしいが、次第により強く回せる投げゴマに変化したらしい。ぶちゴマは江戸中期に次第に投げゴマに取って代わられたようで、明治以降には日本国内ではあまり見かけられなくなり、昭和後期には商品としては皆無といってよい存在となった。それに代わって投げゴマが日本では独楽の標準の位置についた。子どもの遊びにもこれが使われ、天保年間には喧嘩ゴマとしてより強くなるように胴の外側に鉄輪をはめた鉄胴ゴマが作られるようになった。この形の独楽は永く残り、昭和末まではどこの駄菓子屋にも置いてあったものである。今治市の生産業者は、最盛期には年間200万個も生産したと言う。
しかし、昭和末より次第に投げゴマはすたれ始める。恐らく、子供が外で遊ばなくなり、また、戸外で独楽を回す環境が成立しなくなったためと思われる。駄菓子屋で独楽が山をなした風景は現在では見ることができない。代わって室内で機械式の回転装置をもつ独楽がよく見掛けられるが、室内遊戯である。1999年にベイブレードが出て子供の間でブームになったが、やはり投げゴマではなく回しやすい機構を備えている。
2011年から全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦うコマ大戦が行われ、2012年2月2日には、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2012」にて、第一回全国大会G1が開催された。第一回全国大会G1にて優勝したコマは、株式会社由紀精密のコマで、レプリカモデルが販売されている。 コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20mm以下、一円玉より小さいコマで、その小さなコマを製造業が本気で設計し、プロの機械を使用して自社の持てる技術を全て注ぎ込み作成したものである。
当時、心技隊という団体が運営していたが、現在は全日本製造業コマ大戦協会が運営している。
2013年2月7日に、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2013」にて、第二回全国大会G1が開催された。第二回全国大会G1にて優勝したコマは、有限会社シオンのコマで、ミニレプリカモデルが販売されている。
独楽の型[編集]
一般の独楽[編集]
佐世保独楽
独楽と呼ばれるものには実にさまざまなものがあり、ドングリや巻き貝をそのまま回すもの、木の幹を切り落とし、先をややとがらせただけのものから、内部に複雑な構造を持つものまである。いずれにせよ、地面や固い基盤の上で本体を回転させて遊ぶもので、その回転軸が変わらないように、とがった先端を持つ。胴体の中心に軸を突き通した姿が日本では一般的であるが、必ずしも世界中に通じるわけではない。
回し方[編集]
指でひねる
最も簡単な独楽は、指でひねって回すものである。胴体は比較的小さく、軸も短い。回転速度もさほど上げられないので、ごく簡単なもの、単純なものが多い。このような独楽は、ひねりゴマと呼ばれる。
手のひらで回す
細くて長い軸を持ち、これを両手で挟んで、手のひらをすりあわせることで回転させるものである。回転が足りなければ繰り返してすりあわせる。手よりゴマと呼ばれ、日本の曲ゴマはこの型である。
紐を使う
大きくは2つの方法がある。
軸に巻き付ける
いわゆるいと巻きゴマと言われるもの。独楽本体から上に伸びた軸に、細い紐を巻き付ける。軸の一部には、管がかぶせてあるなどの工夫がしてあり、この管を持って紐を引けば保体が回り出すしくみである。
胴体に巻き付ける
いわゆる投げゴマである。胴体の底面の逆円錐の部分に下から紐を巻き付け、紐の片方を持って胴体を投げ出して、紐を引くことで回転をつける。
鞭を使う
ぶちゴマといわれる。普通は軸を持たず、円筒形の胴体の下が逆円錐に削られた姿で、立てておいて、簡単な鞭のようなもので胴体を叩いて回転させる。別名を無精ごまとも言う。叩かないと動かないとの意である。
専用の道具を使う
最近増えてきた型で、独楽上面にかみ合わせがあり、ここに専用の回転を与える装置をつける。装置の中にはバネなどが仕込んであり、ここに力を蓄え、上の面のボタンを押してはじき出すなどの方法を採る。
複雑な構造の独楽[編集]
いわゆる地球ゴマと同等の独楽
一般の独楽は円盤形か円錐形の胴に軸があるもので、胴は固くて中が詰まっているものだが、ここに特別な仕掛けを持つものがある。
音の鳴る独楽
胴が内部に空洞を持ち、胴の側面に穴が開いていれば、独楽を回転させたときに音が出るようにすることができる。ビンの口を吹くのと同じである。
形が変わる独楽
胴の側面に溝があり、そこに羽根が折りたたまれているもので、回転させると遠心力で羽根が伸び、独楽が大きくなったように見える。独楽を急に止めると勢いで羽が畳まれる。ゴムが仕掛けてあって、回転が遅くなると畳まれるものもある。
軸受により枠に保持されたもの
地球ゴマのように、コマ本体が軸受により枠に保持されたものは、回転している間でも外枠をさわっていられる。外枠が中の弾み車を完全に覆っていれば、更に簡単である。一般に独楽は回した途端に手を放さなければならず、子供にとってはここが難しい。それを楽にするための工夫でもある。
空中の独楽[編集]
上述のような基盤の上で回すのではない独楽も存在する。日本では九州を中心として愛知県以西に伝承があるちょんかけ、またはちょんがけ、あるいは掛けゴマというのがそうで、円盤状の胴体の中心の片方に、先が太くなった釘が打ち込んである。回す場合には、胴体が垂直になる方向、回転軸が水平になる方向で回転させ、細長い紐を釘の根本にかけて、空中で紐を引き、独楽を紐に乗せたままで回転させる。また、中国の雑技団の芸にもある空竹は、円盤形の胴体二枚を鼓の胴のような軸でつないだもので、紐を軸の中央にかけ、やはり空中で紐を引き、紐の上で回転させる。同様のものが、ヨーロッパではディアボロと呼ばれる。これらは、独楽とヨーヨーの中間のようなものである。
他に、平らな円盤形で、底面の中央のくぼんだ部分にとがった棒に乗せ、その棒の先端で回転させる、皿ゴマというのもある。
独楽の運動[編集]
一般的な独楽の運動[編集]
まず、最初に与えられた回転が持続するのは、フライホイールとしての働きである。
続いて、一般的な、軸を持って基盤上で回転する独楽の運動には、一定の型がある[1](ここでは基盤が水平な平面の場合のみとする)。
回転を与えられ、基盤の上に置かれると、一般に完全に垂直に置くことはできないので、独楽はやや傾いて回転を始めるが、直後より回転軸の傾きの方向が次第に変わってゆく。これはジャイロ効果#ジャイロモーメントによるものである。あわせて、軸の先は台の上で円を描いて、下端から回転軸方向の上方に伸ばした線のどこかに静止する点があるような運動をする。後者はジャイロ効果とはされない。両者をあわせてみそすり運動というが、前者のみを指すこともある。前者は地球の歳差運動と力学的に同様のものである。
多くの場合、回転軸が鉛直方向を取るように、次第に立ち上がる[2]。それにつれて、軸先端の描く円は次第に小さくなり、やがて完全に鉛直となる。独楽は、自転運動と軸の先の摩擦により位置を微動する他は静止したようになる。静止した独楽が安定するのはジャイロ効果#回転軸保存性による。
やがて回転が遅くなるにつれて、その回転軸が傾き、再びみそすりを始める。やがて軸が傾いて胴体が土台に触れた途端、独楽はこれまでのみそすりと反対方向へ回ってその動きを止める。
なお、正確に作られていない独楽は、回転が収まらず、軸の先ががりがり音を立てたり、軸がぶれたりする。これを独楽が暴れるという。これは、摩擦の影響と、軸がそもそも慣性主軸からズレているために起こるもので、回転の中心と床との接触点のズレのために、自由歳差運動が止まらなかったり、コマが丸ごとブレるためである。よくできた独楽では、直立する姿勢を取ると、一見回っているようには見えないほどになり、これを「独楽が眠る」と表現することもある。
意図的に(自由歳差運動ではない)みそすりが継続するよう作られた独楽[3]や、回転軸がどんどんズレて逆立ちするような独楽もある(後述)。
空中の独楽の運動[編集]
一般的な独楽がみそすりをするのと同じで、独楽を紐に乗せて空中に持ち上げれば、独楽全体がゆっくりと回転する。同じように、皿形の胴の片面から軸が出た構造のちょんかけゴマは、紐の上で回転させると全体が向きを変える。そのままでは紐がねじれてしまうので、一回りする前に紐を掛け替えてやらねばならない。
ディアボロや空竹は軸の両端に同等の胴が着いているため、ねじれることなく、回転の方向を維持する。
特殊な運動[編集]
逆立ちゴマ
逆立ちゴマでは、回転するにつれて独楽の回転軸がずれ、次第に底面が上を向き、最後には軸先端を下にして回り始める。回転が止まると再び底を下に向けて安定する。
機械的にあり得ない運動[編集]
機械力学の範囲ではあり得ない運動をする独楽もある。あり得ない運動とは、絶対に止まらない独楽や、空中浮遊する独楽などである。もちろん魔法などではなく、電気仕掛けや磁石を利用している。空中浮遊する独楽は市販されている。ただし、実際に浮遊させるのは難しい。
遊び方[編集]
回す[編集]
単に回すだけでも面白いものである。恐らく、独楽の発生はそこに動機があると思われる。ひねりゴマを回すことは力加減の調整が効きづらい初心者にとってはなかなかの関門である。投げゴマはひねりゴマより難しいとされる。掛けゴマとなれば、回すだけでその難易度は更に高い。
多くの場合、独楽には模様があって、回転する様子を見ているだけでも、その色の変化など、見飽きないものがある。
また、単に回すのではなく、回し方に凝る場合もある。たとえば投げゴマでは、投げたものを自分の手のひらにのせて回すとか、両手の間に紐を渡し、その上に乗せて回すなどの芸が伝えられている。空中で回す独楽では、非常に多彩な芸が知られる。
競う[編集]
回転する時間を競う
同時に回して、速く倒れた方が負け、といったものである。手軽にできるため、よく行われている。これの上級版で、マレーシアにガシンという独楽がある。この独楽のルールは、胴に分厚く金属を巻き付け、これを太い紐を巻き付けて投げるように回し、更に専用の台に移して回転させ、回転時間を競うというものである。回転維持時間は軽く五時間を超える。
ぶつけ合う
土俵を決めてそこで回転させ、互いの独楽をぶつけてはじかれたら負け、といったもの。ひねりゴマでは相撲取りの模様をつけ、小さな土俵型の円盤で遊ぶ相撲ゴマ、投げゴマやベーゴマがそれである。佐世保独楽は木の塊の胴体に金属の釘を突き刺しただけの構造で、これを互いにたたきつけ合い、相手の独楽をかち割る。
技を競う
さまざまな回し方を互いにやってみせる。
投げゴマの技
特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡りなど。
空中ゴマの技
投げ上げる、他人との間で投げ合う、綱渡り、紐昇りなど。
曲芸[編集]
日本の曲独楽は演芸として独楽を専門に使う点で世界に他に例がない。一般に心棒が細い鉄芯の手より独楽を使う。
以下は寄席芸として演じられた曲独楽、三増流 三世 三増 紋也の寄席演目の一例である。
1手より独楽を使用する演目
末広
扇を広げた状態で地紙の中央に乗せて回す。 他の流派では、地紙止めと称することがある。
刃渡り
日本刀の刃の上から切っ先で回す。 三増流は、まっすぐ構えるが、他の流派は横に構える。
綱渡り
開始地点から終点までの距離3Mから5Mほど、釣り糸程度の細い糸の上を渡らせる。 他の流派では、糸渡りと言うこともある。
小手調べ。
10cm程度の独楽から始まって、30cmの大きな独楽を片手でひねって回転させる。 やなぎ女楽は、独楽しらべと言っていた。
2投げ独楽の演目 投げ独楽直径15cmほどの胴体、鉄の心棒17cm程度の独楽を、長さ3M位の紐を巻き、投げて回す。 投げ回した独楽を手で受け止め、演技に入る。
要止め
独楽を長さ1Mの煙管の火皿に乗せ、扇を開いて要の部分に投げ移す。
行灯
吊るし行灯から垂らした紐に掛ける。独楽は行灯の仕掛けを開き、垂れ幕が出る。
衣紋流し
独楽を長さ1Mの煙管の火皿に乗せ、曲独楽師の着ている羽織が小道具になる。 始点は左袖、首の後から右袖、終点の煙管の先端まで一気に通らせる。 袖がらみといって、最後まで回転が落ちていない時には、左の袖口で回す。 やなぎ女楽は、晩年、衣紋の独楽と言って、投げずにもみ独楽で回して左袖に乗せ、衣紋流し とは違う演じ方をしていた。
江戸時代後半から明治にかけて、足芸やバランス芸、水芸と共に曲独楽として、多くの興行があった。 今後の歴史研究に期待する。
欧米ではディアボロがジャグリングの中で使われ、中国の空中ゴマも雑伎団の演目に含まれる。
賭ける[編集]
賭けゴマ
賭博の対象を独楽にするものである。先に挙げたような競う場合はこの対象になり得る。他に、賭けのために作られた独楽もある。
大きく2つの型がある。一つはひねりゴマの側面が多角形、たとえば六角柱型の胴の独楽で、それぞれの側面に数字や絵柄があるものである。回転が止まったときに倒れれば、どれかの面を上にするから、それを当てるものである。もう一つは丸い台の中心に柱を立て、その先端で独楽を回すもので、先端には独楽の軸のはいる孔があり、独楽の軸は先が膨らんで、胴との間に切れ込みが入っている。独楽が回転を止めると横に倒れるが、このとき台の先端の縁と軸とがかみ合って、独楽が柱から落ちずにある方向を指すようになっている。台の方には方向ごとに数字を書いてあって、独楽の先端の指す方向を巡ってルーレットのごとくに賭博を行うものである。
主なプロの曲独楽師[編集]
†印は物故者。
三増紋也※以下三増紋也一門
三増小紋
三増紋子
三増紋之助
三増巳也
三増れ紋
マサヒロ水野
柳家三亀司
松井源水†(初代から17代目まで)※以下松井流曲独楽
松井小源水†
松井源朝†
柳家小志ん†
柳家とし松
中村小市†
筑紫珠楽※博多独楽
筑紫こま鶴※現在はアメリカで活動中
但馬源水※以下弟子
伏見紫水※以下弟子
帰天斎正紅
桂米八
池田たかし(伏見龍水)
藤田由仁(日本独楽博物館館長)
独楽太郎
関連[編集]
独楽の種類[編集]
ひねりゴマ
手よりゴマ
糸巻きゴマ
投げゴマ
ぶちゴマ
特殊なコマ[編集]
逆立ちゴマ
地球ゴマ
ベーゴマ
ベンハムの独楽
特定企業が開発したコマ[編集]
1983年 ベーロボ(トミー)
1992年 キャラコバッチ[1](バンダイ)
1995年 すげゴマ(タカラ)
ぷよぷよバトルトップ(タカラ)
1999年7月 ベイブレード(タカラ)
2007年 スピンセイバー(カバヤ)
地域の独楽[編集]
ずぐり独楽(青森)
江戸ゴマ(東京)
京こま(京都)
伊予独楽(愛媛)
佐世保独楽(長崎)
応用[編集]
ジャイロスコープ
その他[編集]
曲独楽
参考文献[編集]
^ 「ウルトラアイ」1984年1月9日放送「独楽 コマ まわれ」http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200998401090130061/
^ 「次第に立ち上がる」理由は、軸の先端が点ではなく半球状をしており、それが床と小さいが点ではなく面積を持って接触して滑っていることなどによる。定性的な説明は戸田盛和『コマの科学』(岩波新書 pp.93-96)にある。定量的な扱いはなかなかにやっかいだが、報告のひとつがロゲルギスト『新 物理の散歩道 第3集』収録のロゲルギストI(磯部孝)による「コマはなぜ起き上がる」(ちくま学芸文庫版 pp.188-230 )にある。
^ ロゲルギスト『新 物理の散歩道 第2集』収録、ロゲルギストC「こまの不思議」(ちくま学芸文庫版 pp.181-191)
「独楽あそび 回転の秘密」八木田誼子・山口豊;1979;平凡社カラー新書;平凡社





Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics\\
}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
Kawauchi-cho, 5-1648-16,\\
Kiryu 376-0041, Japan\\
E-mail: kbdmm360@yahoo.co.jp\\
}
\date{\today}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall introduce the zero division $z/0=0$. The result is a definite one and it is fundamental in mathematics.
\bigskip
\section{Introduction}
%\label{sect1}
By a natural extension of the fractions
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, we, recently, found the surprising result, for any complex number $b$
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0,
\end{equation}
incidentally in \cite{s} by the Tikhonov regularization for the Hadamard product inversions for matrices, and we discussed their properties and gave several physical interpretations on the general fractions in \cite{kmsy} for the case of real numbers. The result is a very special case for general fractional functions in \cite{cs}. 
The division by zero has a long and mysterious story over the world (see, for example, google site with division by zero) with its physical viewpoints since the document of zero in India on AD 628, however,
Sin-Ei, Takahasi (\cite{taka}) (see also \cite{kmsy}) established a simple and decisive interpretation (1.2) by analyzing some full extensions of fractions and by showing the complete characterization for the property (1.2). His result will show that our mathematics says that the result (1.2) should be accepted as a natural one:
\bigskip
{\bf Proposition. }{\it Let F be a function from ${\bf C }\times {\bf C }$ to ${\bf C }$ such that
$$
F (b, a)F (c, d)= F (bc, ad)
$$
for all
$$
a, b, c, d \in {\bf C }
$$
and
$$
F (b, a) = \frac {b}{a }, \quad a, b \in {\bf C }, a \ne 0.
$$
Then, we obtain, for any $b \in {\bf C } $
$$
F (b, 0) = 0.
$$
}
\medskip
\section{What are the fractions $ b/a$?}
For many mathematicians, the division $b/a$ will be considered as the inverse of product;
that is, the fraction
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
is defined as the solution of the equation
\begin{equation}
a\cdot x= b.
\end{equation}
The idea and the equation (2.2) show that the division by zero is impossible, with a strong conclusion. Meanwhile, the problem has been a long and old question:
As a typical example of the division by zero, we shall recall the fundamental law by Newton:
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{r^2}
\end{equation}
for two masses $m_1, m_2$ with a distance $r$ and for a constant $G$. Of course,
\begin{equation}
\lim_{r \to +0} F =\infty,
\end{equation}
however, in our fraction
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{0} = 0.
\end{equation}
\medskip

Now, we shall introduce an another approach. The division $b/a$ may be defined {\bf independently of the product}. Indeed, in Japan, the division $b/a$ ; $b$ {\bf raru} $a$ ({\bf jozan}) is defined as how many $a$ exists in $b$, this idea comes from subtraction $a$ repeatedly. (Meanwhile, product comes from addition).
In Japanese language for "division", there exists such a concept independently of product.
H. Michiwaki and his 6 years old girl said for the result $ 100/0=0$ that the result is clear, from the meaning of the fractions independently the concept of product and they said:
$100/0=0$ does not mean that $100= 0 \times 0$. Meanwhile, many mathematicians had a confusion for the result.
Her understanding is reasonable and may be acceptable:
$100/2=50 \quad$ will mean that we divide 100 by 2, then each will have 50.
$100/10=10 \quad$ will mean that we divide 100 by10, then each will have 10.
$100/0=0 \quad$ will mean that we do not divide 100, and then nobody will have at all and so 0.
Furthermore, she said then the rest is 100; that is, mathematically;
$$
100 = 0\cdot 0 + 100.
$$
Now, all the mathematicians may accept the division by zero $100/0=0$ with natural feelings as a trivial one?
\medskip
For simplicity, we shall consider the numbers on non-negative real numbers. We wish to define the division (or fraction) $b/a$ following the usual procedure for its calculation, however, we have to take care for the division by zero:
The first principle, for example, for $100/2 $ we shall consider it as follows:
$$
100-2-2-2-,...,-2.
$$
How may times can we subtract $2$? At this case, it is 50 times and so, the fraction is $50$.
The second case, for example, for $3/2$ we shall consider it as follows:
$$
3 - 2 = 1
$$
and the rest (remainder) is $1$, and for the rest $1$, we multiple $10$,
then we consider similarly as follows:
$$
10-2-2-2-2-2=0.
$$
Therefore $10/2=5$ and so we define as follows:
$$
\frac{3}{2} =1 + 0.5 = 1.5.
$$
By these procedures, for $a \ne 0$ we can define the fraction $b/a$, usually. Here we do not need the concept of product. Except the zero division, all the results for fractions are valid and accepted.
Now, we shall consider the zero division, for example, $100/0$. Since
$$
100 - 0 = 100,
$$
that is, by the subtraction $100 - 0$, 100 does not decrease, so we can not say we subtract any from $100$. Therefore, the subtract number should be understood as zero; that is,
$$
\frac{100}{0} = 0.
$$
We can understand this: the division by $0$ means that it does not divide $100$ and so, the result is $0$.
Similarly, we can see that
$$
\frac{0}{0} =0.
$$
As a conclusion, we should define the zero divison as, for any $b$
$$
\frac{b}{0} =0.
$$
See \cite{kmsy} for the details.
\medskip
\section{In complex analysis}
We thus should consider, for any complex number $b$, as (1.2);
that is, for the mapping
\begin{equation}
w = \frac{1}{z},
\end{equation}
the image of $z=0$ is $w=0$. This fact seems to be a curious one in connection with our well-established popular image for the point at infinity on the Riemann sphere.
However, we shall recall the elementary function
\begin{equation}
W(z) = \exp \frac{1}{z}
\end{equation}
$$
= 1 + \frac{1}{1! z} + \frac{1}{2! z^2} + \frac{1}{3! z^3} + \cdot \cdot \cdot .
$$
The function has an essential singularity around the origin. When we consider (1.2), meanwhile, surprisingly enough, we have:
\begin{equation}
W(0) = 1.
\end{equation}
{\bf The point at infinity is not a number} and so we will not be able to consider the function (3.2) at the zero point $z = 0$, meanwhile, we can consider the value $1$ as in (3.3) at the zero point $z = 0$. How do we consider these situations?
In the famous standard textbook on Complex Analysis, L. V. Ahlfors (\cite{ahlfors}) introduced the point at infinity as a number and the Riemann sphere model as well known, however, our interpretation will be suitable as a number. We will not be able to accept the point at infinity as a number.
As a typical result, we can derive the surprising result: {\it At an isolated singular point of an analytic function, it takes a definite value }{\bf with a natural meaning.} As the important applications for this result, the extension formula of functions with analytic parameters may be obtained and singular integrals may be interpretated with the division by zero, naturally (\cite{msty}).
\bigskip
\section{Conclusion}
The division by zero $b/0=0$ is possible and the result is naturally determined, uniquely.
The result does not contradict with the present mathematics - however, in complex analysis, we need only to change a little presentation for the pole; not essentially, because we did not consider the division by zero, essentially.
The common understanding that the division by zero is impossible should be changed with many text books and mathematical science books. The definition of the fractions may be introduced by {\it the method of Michiwaki} in the elementary school, even.
Should we teach the beautiful fact, widely?:
For the elementary graph of the fundamental function
$$
y = f(x) = \frac{1}{x},
$$
$$
f(0) = 0.
$$
The result is applicable widely and will give a new understanding for the universe ({\bf Announcement 166}).
\medskip
If the division by zero $b/0=0$ is not introduced, then it seems that mathematics is incomplete in a sense, and by the intoduction of the division by zero, mathematics will become complete in a sense and perfectly beautiful.
\bigskip

section{Remarks}
For the procedure of the developing of the division by zero and for some general ideas on the division by zero, we presented the following announcements in Japanese:
\medskip
{\bf Announcement 148} (2014.2.12):  $100/0=0, 0/0=0$  --  by a natural extension of fractions -- A wish of the God
\medskip
{\bf Announcement 154} (2014.4.22): A new world: division by zero, a curious world, a new idea
\medskip
{\bf Announcement 157} (2014.5.8): We wish to know the idea of the God for the division by zero; why the infinity and zero point are coincident?
\medskip
{\bf Announcement 161} (2014.5.30): Learning from the division by zero, sprits of mathematics and of looking for the truth
\medskip
{\bf Announcement 163} (2014.6.17): The division by zero, an extremely pleasant mathematics - shall we look for the pleasant division by zero: a proposal for a fun club looking for the division by zero.
\medskip
{\bf Announcement 166} (2014.6.29): New general ideas for the universe from the viewpoint of the division by zero
\medskip
{\bf Announcement 171} (2014.7.30): The meanings of product and division -- The division by zero is trivial from the own sense of the division independently of the concept of product
\medskip
{\bf Announcement 176} (2014.8.9):  Should be changed the education of the division by zero
\bigskip
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{ahlfors}
L. V. Ahlfors, Complex Analysis, McGraw-Hill Book Company, 1966.
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
S. Koshiba, H. Michiwaki, S. Saitoh and M. Yamane,
An interpretation of the division by zero z/0=0 without the concept of product
(note).
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{msty}
H. Michiwaki, S. Saitoh, M. Takagi and M. Yamada,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{taka}
S.-E. Takahasi,
{On the identities $100/0=0$ and $ 0/0=0$}
(note).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields. (submitted)
\end{thebibliography}
\end{document}
アインシュタインも解決できなかった「ゼロで割る」問題

不利益を与えると損害賠償を請求されるのに、利益を与えても対価を請求できないのはなぜか?

不利益を与えると損害賠償を請求されるのに、利益を与えても対価を請求できないのはなぜか?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14137511984
逆はかならずしも真ならず、一方向の流れやすく、逆は難しいは 世の常くらいに多いのでは。
お金を使うのはやすいが得るのは難しいなど。
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)
お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。
以 上

再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい:
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。
言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。
以 上

韓国人の4人に1人、1億円のためなら法犯す

韓国人の4人に1人、1億円のためなら法犯す
ソウルの現代経済研究院が最近行った調査で、対象となった802人のうち23.3%が、10億ウォン(約1億円)を手に入れるためなら
法を犯すと答えた。
違法行為に対する抵抗が最も低かったのは20代。多額の金銭的リターンを得るためなら法を犯してもいいとの回答が30%に上った。
一部韓国人の間で順法精神が曖昧なのは、軍事政権時代の権力者に対する恨みがくすぶっていることが原因のケースがある。
これまでに行われた別の調査から、この時代以降に金持ちになった人が、不正な手段でそうなったとみられていることがうかがえる。
韓国では、汚職が長らく経済の足を引っ張り、社会的摩擦の元になってきた。今回の調査では汚職の状況が変わるかどうかを問う
質問もあった。最も悲観的だったのは20代で、汚職は増えるとの回答が36.6%だったのに対し、減るとの予想は10.9%にとどまった。
最も楽観的だったのは50代以上だ。汚職が悪化するとの答えは約30%、改善するとの回答は35%だった。
1から10の数字で実業家、公務員、政治家の汚職度を示す現代経済研究院の指数で、韓国は4.7だ。この指数は1が最も極端な汚職
を示し、経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均は7.0だという。
現代経済研究院の研究員は、韓国の汚職水準がOECDの平均まで改善されれば、経済成長率の0.65ポイント押し上げにつながる
かもしれないと述べた。
ソース:ウォール・ストリート・ジャーナル 2014 年 10 月 29 日 16:38

3.10 悲しいニュース、心中(2007/7/21): 
4歳の子を道連れに 夫婦と3人で 川の字になって 練炭で心中したというニュースが流れました。 親族や友達に祝福されて、6,7年で人生を閉じた事になります。 悲しいニュースです。 実は心情として理解できる事があり、少し私の考えはおかしいのではないかと家族にも、友達にも言われているのですが、それは今夜は触れない事にして、一般的なことを触れておきたいと思います。先ずご夫婦の追い込まれた心情、そのご両親、ご親族の嘆きは如何程かと思うと心が痛みます。- 祖父の長兄は 母が生きているうちは 悲しませないように病気になるな、頑張れと叔父、叔母達によく言っているということです。- 現実に上手くいかなかったとき、助けを求めてはといっても、人間には誇りも名誉もあるので、素直になれないことがあるのではないでしょうか。 よって具体的には、事業などで失敗した場合に何か上手く、援助できるような在り様を考える必要があるのではないでしょうか。憲法25条の精神を如何にして、実現させ、失敗しても立ち上がれる機会を如何に作っていくかです。昔の話ですが、祖父の友人が実業家で、 何度も失敗を繰り返して、実業は面白いといっていたというのを思い出します。燕の生涯について思いをしていますが、人生苦労が多く、休憩している時が幸せな時とも言えます。 ー 楽することだけが人生ならば、早く閉じた方が幸せとも言えるのではと昔から、疑問に考えてきました。 しかし、人生はそうではなくて、人生とは何かを人生の基本定理で述べてきました。ー 人生には失敗はつきものですから、今回は失敗として、気分をかえ、素直に援助を求め、再挑戦して頂きたく思います。 失敗は恥ずかしい事ではないという風潮を、文化を広めたいと思います。


再生核研究所声明 15 (2008/05/24): 空虚な日本の社会
バブル崩壊後の日本の社会とは、いたるところに現れた借金財政、無責任な責任者の態度とそれを許している社会、経済の停滞、精神の空白と無気力、教育の空洞化などである。これらは空虚な社会と表現されよう。もし日本国の再生がならず、このまま衰退を続ければ、世界の歴史には、かつてアジアに栄えた、ユニークな文化を持った日本国が存在したが、戦後の教育を誤ったために衰退して、かつての日本国をしのぶような国は いまや世界のどこにも無い と記録される時代を迎えるだろう。
何と、国、地方合わせて1000兆円を越える借金を抱えても、政治家もマスコミも危機感が足りないと言えよう。国防の最高責任者が接待漬けで、大臣がどこの国の国防大臣か分からないような発言をしていたのである。町まちはシャッター通りと称されて、衰退を続け、農村も荒廃を続け、若者は派遣社員として不安定な状況に追い込まれている。教育はただ勉強して良い大学に入る事を考えればよいという 受験勉強に退化したり、無気力に陥ったりしていて、本来の教育の理念さえ失っている時代とも言える。これらは氷山の一角で、象徴的な状況と言えよう。そこに現れた社会とは、中身の薄い空虚な社会である。評価といって評価を考えようとすれば、よくやっているように見せかける為の書類作りや講演会などのセレモニーである。パンフレットや報告書が 社会にあふれた時代とも言えるだろう。評価されるべき元のもの、本務に取り組む時間と資金をそのために浪費しているような状況がいたるところに現れた、奇妙な時代を迎えていると言える。公務員はいわゆる親方日の丸で 税金がひとりでに入ってくるように感じている風潮で、貴重な税金といった考えが足りないと言えるだろう。
これでは、約5兆円もの防衛費をかけていても、日本国は外国軍の侵略を受ける前に、自滅、衰退してしまう状況ではないでしょうか。橋本大阪府知事のように、地方を、国を立て直す気迫ある若者達の立ち上がりと国民的な奮起を期待したい。
それには先ず大きなマイナスの仕事を減らし、公務員の財政意識を高め、綱紀を引き締め、公僕たる精神を初心として、国、地方の建て直しに取り掛かるように要請したい。危機意識を国民が共有して立ち上がる必要があると考えます。国、地方の豊かさはすべての基礎になるものであるから、おのおのの立場で、地域ごと経済再建にも努力して行きたい。教育問題にも抜本的な取り組みと検討が加えられなければならない。教育界も無気力、無責任な状態と言えよう。教育にも何か魂を入れる必要があるのと考える。江戸時代の幕末や明治政府には しっかりしないと外国の侵略を受けてしまうという危機感と連帯感があったと考える。今しっかりしないと 国が衰退してしまうという危機感と連帯感をもって国民が立ち上がるべき時である。
それらを展開する基本は 有能な人材を要所に配して、各級の人事を大幅に刷新することである。活力ある人材によって沈滞した社会を再生させる必要があると考えます。
国家は 大戦や地震など災害によって滅ぶことがあるが、多くの場合には、戦後50年を越えて内部から衰退するものである、という世界の歴史を想起したい。 以上。
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
国の借金、3月末に過去最大の1024兆円に
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん

日本の財政を考える  より
日本の借金時計
財部 誠一  財部 誠一ジャーナルより
全国都道府県の借金時計 より
日本の借金時計   (数字はうそをつかない)より
新政策機構「チームニッポン」 より http://www.team-nippon.com/
日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタより
リアルタイム財政赤字カウンターより
日本経済復活の会 http://www.tek.co.jp/p/debt_time.html
U.S. National Debt Clock : Real Time http://www.usdebtclock.org/
社会保障給付、100兆円に迫る 09年度、失業手当急増http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011102801000608.html
65歳以上、総人口の23.3%=過去最高を更新―高齢社会白書http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120615-00000026-jij-pol

国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。

欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 
I AM NOT MOVING - Short Film - Occupy Wall Street
次のような侮辱されたレポートに対して、石破氏はどの様にして、国の財政を建直すのかを国民に説明し、内部から崩壊しかねない日本国を建直す為、国家の安全の基本を説明していただきたいと思います。
国の財政が破綻すれば、援助や防衛、安全どころではありません。
これは2001年9月にIMF(国際通貨基金)に近い筋のアメリカの専門家により作成されたというレポートで、その内容は国家財政の破綻をきたした国(レポートでは特に特定はされていないが想定しているのは日本)を如何にIMFが管理するかを記したアクションプログラムです。仮に、日本の国家財政が破綻し、IMF管理国になり「ネバダレポート」が実施されるとどのようになるかと言えば、下記に記した要点の内容が実施されると書かれています。
(ネバダレポートの要旨)
1. 公務員の総数および給料の30%カット。ボーナスは全てカット。
2. 公務員の退職金は100%カット。
3. 年金は一律30%カット。
4. 国債の利払いは5~10年間停止。
5. 消費税は15%引き上げて20%へ。
6. 課税最低額を年収100万円まで引き下げ。
7. 資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の5%を課税。債券/社債につい
   ては、5~15%の課税。株式は取得金額の1%課税。
8. 預金は一律ペイオフを実施するとともに、第2段階として預金額を30~40%カットする。
まさかこんな事態は来ないと考えているのは日本の国民だけなのかもしれません。今や日本国債の価値はG7国の中で最低、さらに言えば人口170万人ながらも多くのダイヤモンド鉱脈を持つというアフリカのボツワナ共和国の国債よりも低い格付けになっています。そんな価値の日本国債を所有するのは、その40.3%を公的機関が所有し、33.7%を民間の金融機関が所有しています。つまり全体の74%が国民の個人資産を預けたお金で所有されていることになります。
更には、日本円の発券銀行である日本銀行が15%も所有している事をご存知でしょうか?
日銀は法律により国債を直接購入(政府=財務省よりの購入)する事は禁じられているので、市場で国債を購入しています。つまり、自分でお金を刷ってそのお金を基にせっせと国の借金の肩代わりをしている訳です。ここまでで、既に日本の国債発行残高の内89%は内国で消化されている事になります。
では、内国以外の外国人による所有の率はと見てみれば全体の3.3%しかない事が判ります。
つまり残り7.7%は、今度は個人向け国債と称される国民個人による国債購入によりカバーされている訳です。簡単に言ってしまえば、日本国の借金の内、約97%は国民が国にお金を貸している状態ということになります。ここで、この率を他の国と比較すると日本の特殊性が見えてきます。アメリカ国債は、その39.9%が海外所有者で、ドイツ国債は40.3%が海外所有です。
借金の殆どを国民からしているのだから、仮に国家が倒産したとしてもIMF管理国になる事はないであろうと思うのは早計です。日本の現在の状況を貸借対照表においてみれば、資産765.31兆円、負債992.71兆円、差引き227.4兆円の赤字となります。要は、日本株式会社は、その所有する国内の土地、有価証券、機械設備等を全て売却してもなお227.4兆円の借金が残る事になります。
一方、昨今の日本では景気上昇により明るい未来が来ているように思われていますが、景気が良くなれば当然税収増は期待できます。しかし一方で金利も上昇、金利が上がれば国債の利払いも増加します。更に、低金利で発行された国債の価値は下がり、これは国債の大量売りに繋がり国債価格の暴落という事態を引き起こします。このような状況の後にくるのは結果的に財政破綻です。仮に、政府が国民の個人資産を全て巻き上げて借金を棒引きにしたところで、先の貸借対照表で見るとおり明らかなように、それでも227.4兆円の赤字が残る訳です。この赤字を解消する為には外国(国際通貨基金=IMF=アメリカの管理下にある)からお金を借りざるを得ない訳です。そしてIMF管理下国になれば、前記したレポートが実施されるという筋書きになります。仮にこのレポートが実施されれば、経済的に日本はアメリカの植民地にならざるを得なくなります。以下略

ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。

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